ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第5章】 VS 良移心当流・村井半助 《巻之三》

2017年02月05日 | 日記
姿三四郎VS村井半助戦が行われた当時、警視庁は現在の桜田門外ではなく、旧江戸城の外濠に架かっていた鍛冶橋の内側にありました。維新前は津山松平藩の江戸藩邸だった場所で、今では東京駅の敷地内となっています。
明治7(1874)年の警視庁創設とともに建てられた最初の庁舎が老朽化し、同15年12月4日に鍛冶橋第二次庁舎が竣工してから4年半あまりが経過していました。
桜田門から皇居外苑に入った三四郎は、皇居前広場を駆け抜け、おそらくは馬場先門橋辺りで内濠を渡って、鍛冶橋警視庁へと向かったのでしょう。


皇居外苑案内図。上端にある桔梗門の別名が内桜田門(楠公レストハウス。東京都千代田区皇居外苑)

その頃、すでに警視庁の武術大会会場では、さまざまな柔術流派の乱取や形が披露されていました。
実際の警視庁武術大会では、当然、剣術も行われたのでしょうが、『姿三四郎』ではそのことには触れられていません。
不遷流の形に続いて、いよいよ本日のメイン・イベントで、唯一の他流試合である紘道館矢野流と良移心当流との対戦が、満を持して始まろうとしていました。
剣術道場と柔術道場の境の仕切りをはずし、その真ん中に畳を30枚も敷いた試合場がひどく狭く感じられるのは、観戦者があまりに多いためです。
鈴なりの観衆のお目当てもやはりこの試合で、客席は柔術諸流の関係者、紘道館の門人や矢野塾(矢野正五郎の私塾)の塾生、世評を聞いて集まった人々で埋め尽くされていました。

呼出係の巡査が「模範他流試合!」と大声で叫ぶと、古流柔術と新興柔道の存亡を賭けた世紀の一戦への期待と興奮で、凄まじい熱気に包まれた試合場には歓呼の声が上がりました。
やがて東の一隅に、白髪白鬚で品のよい老人が立ちました。検証役の汲心流師範、佐々源一郎です。
「良移心当流、村井半助師範」
係の呼び声に、半助がゆったりした歩調で、四肢の均整が取れ、引き締まった巨体を現しました。
襟元から覗く盛り上がった胸の筋肉と皮膚の照りの良さは、彼が充分に稽古を積んだことを物語り、静かな物腰と、澄んだ眼は心の落ち着きを表していました。
「紘道館矢野流、姿三四郎君」
「師範」ではなく、「さん」とも呼べず、「氏」というのは古臭く、「先生」とするほどの歳でも格でもなし・・・・・と無意識のうちに判断しての「君」づけでしたが、三四郎を応援する側からは「先生と呼べ!」とブーイングが飛びます。そうは言っても呼び直すわけにもいかず、「静粛に願います」という係の言葉に、客席の興奮は一気に高まりました。
「警視庁、公平にやれ」「黙れ、つまみ出すぞ」「横暴、横暴!」
罵声が飛び交い、敵対する両陣営間の緊張が張り詰める中、決戦の舞台に間に合った三四郎が、迷いの吹っ切れた軽快な足取りで登場しました!

騒然としていた会場が、シーンと静まり返ります。三四郎は、三島通庸警視総監の席から5人目の椅子に座っている正五郎に向って頭を下げました。
拍手が起こり、それはすぐに止みます。誰もが、一刻も早い試合の開始を望んでいるかのようでした。
三四郎と半助は相対して座すと、互いの眼を見合ってから、両手をついて丁重に一礼しました。
「勝負、30分」
佐々が凛とした声で宣すると同時に、両者は素速く、弾かれたように立ち上がります。一礼が終われば、すでに戦闘は始まっているのです。
二人はすぐには組まず、3尺(約91cm)の距離を隔ててにらみ合いました。
半助の身長5尺9寸(約179cm)に対して三四郎は5尺2寸(約158cm)。7寸も丈の差があります。
体重も、半助の23貫(約86kg)に対して三四郎15貫(約56kg)と、8貫の開きがありました。
まるで、大人と子どもです。筋肉の発達と、バランスのとれた四肢は決して半助に劣るものではありませんでしたが、重さ、厚み、長さにおいて甚だしい体格差があります。
勝負30分ということは、この試合が審判の判定で勝敗の決するものではないことを意味しました。三本勝負でも、一本勝負でもありません。関節を逆に極めるもよし、絞め落とすもよし、どちらかが降参するか、意識を失って戦闘不能に陥るまで続けられるデスマッチです。

三四郎と半助の距離は、2尺(約61cm)へと縮まっていました。二人は間合いをはかりながら、じりじりと小刻みに右へ右へと移動していきます。
見た目にはなんの攻防も行われてはいませんが、彼らの間では精神力で相手を圧倒せんとする熾烈な心の闘いが展開されており、その気魄が互いに鉄と鉄とがぶつかり合うように、火花を散らして一歩も譲りませんでした。
半助と三四郎の間隔は、ついに1尺(約30cm)弱となりました。ぴたりと静止した瞬間、「参ろう」と低いけれど鋭い声が、半助の唇から発せられます。
二人はどちらからともなく互いの襟と袖先を掴みました。半助はやや右に、三四郎は心持ち左に開いて左自護体(自然体から上体を少し低くして、両足をやや広く開いて左足を一足分ほど真ん前に出した防御姿勢)となって、そのまま動きません。
しかし、それは時間にして10秒とはなかったでしょう。
半助はすぐに三四郎の体勢を崩そうと右に半歩動き、続いて、また半歩引きました。それに対して三四郎の足は、音もなく、動いたとも見えないのに半助の半歩に対してそれよりも5寸(約15cm)多く、次の半歩には1尺(約30cm)近くも大きく先に移っていました。
三四郎の体はまったく崩れません。ただ大きな移動で、腰が伸びて自然体に近い姿勢になっています。半助は右隅になおも引くと見せて、次の瞬間には左足を三四郎の後方に飛ばしていました。
体落としと、大外刈りの中間のような技でした。凄まじい気合が一陣の風を巻き起こし、半助の巨体が小柄な三四郎を舞い上げんばかりの勢いでぶつかります。
しかし、その一瞬、三四郎の右足が半助の食い込んだ右足をふわりと流して、左手を振りほどいてすっくと立っていました。それは、まるで柳の枝が一陣の突風を軽く受け流すかのようでした。

半助は攻撃の手をゆるめず、次いで大外刈りを飛ばします。
三四郎は、今度は両手を払って1間(約182cm)ほど飛び退きました。
追いすがって、再び組む半助。三四郎の両袖を掌の中に巻き込んで、そのまま吊り上げる勢いで左へ、左へと引き回し始めました。三四郎は、一切、半助の力にさからいません。
こちらが引けば、引かれまいとして引き返してきてこそ、初めてその力に乗じて相手の体勢を崩し、技をかけることができるのです。まったく抵抗することなくこちらの動きについて来られては、その機会はいつまでたっても得られません。
すでに試合開始から15分あまりが過ぎて、一方的に攻め続ける半助の胸中にも次第に焦りが生じてきました。彼は一瞬、静止すると腰を引いて、全身の力を両腕に集中して軽く押し込むと、その力を倍加して前に引き戻しました。次に体をすくめ、三四郎の内股を内側から抱き込んだのです。
もはや、相手の力を利用して倒すという柔術の基本セオリーは、半助の頭から吹き飛んでいました。
己の力だけに頼った強引な肩車です。重さ約60kgの米俵を両手に一俵ずつ持って自在に操ったという中村半助をモデルとする、彼の膂力があったればこその荒技でしょう。
彼は三四郎を横ざまに、高々と肩に担ぎ上げました。
「やった!」
観衆の口を、鋭い絶叫が衝いて出ます。
三四郎は、そのまま脳天から試合場の畳の上に叩きつけられて、あえなく悶絶する・・・・・・、誰もが彼の運命を、そう予測した瞬間でした。


JR東京駅。敷地に編入されることになった鍛冶橋第二次庁舎は明治44年3月30日にその役目を終え、警視庁は日比谷赤煉瓦<れんが>庁舎へと移転することになりました(東京都千代田区丸の内1丁目)


【参考文献】
警視庁史編さん委員会編『警視庁史 明治編』警視庁史編さん委員会、1959年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年

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