ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(9)─ “剛道”粉砕! “柔”の天才、阿部謙四郎

2015年09月27日 | 日記
昭和11(1936)年5月、宮内省主催の五段選抜試合(宮内省皇宮警察部武道大会)でのことです。
全国の若手五段から優秀な者ばかりを10名選んで毎年行われるこの大会で、木村政彦は武専助教の阿部謙四郎と対戦しました。

小説家・美術評論家の白崎秀雄は書いています。
「俗に、柔道の世界では木村の前に木村なく、木村の後に木村なしという。昭和十年代に活躍した木村政彦の強豪振りを形容する語で、彼を知る者は誰しも誇張とは思わない。(中略)その木村を、完膚なきまでに投げ伏せた、ただ一人の男が阿部謙四郎である」(『当世畸人伝』)

では、政彦を「完膚なきまでに投げ伏せ」た阿部謙四郎とは、どのような男だったのでしょうか?

阿部は大正3(1914)年に徳島県で生まれました。旧制麻植<おえ>中学(現在の川島高校)から京都の武徳会附属武道専門学校(武専)に進み、卒業後はそのまま助教として迎えられます。
身長169センチ、体重86キロの政彦に対して175センチ75キロと、身長は6センチ高いのに、体重は逆に11キロも少ない、どちらかといえばスラリとした細身の体型です。その上色白で、豪傑タイプとはほど遠い印象ですが、仲間も呆れるくらい研究熱心、寝ても覚めても頭の中は柔道のことばかり、それも力学的に考究するという学者肌の人物で、その成果として多彩な得意技を使いこなす、外見からは想像もつかない実力者となりました。

試合当日、皇居内の済寧館<さいねいかん>道場で阿部と組み合った政彦は、まず、ふんわりとしか感じられない組み手の力と、身体の柔軟さに驚かされます。試合ともなれば、普通は誰しも両手や肩、足腰に力が入るものだからです。
掴みどころのない感触に、どんな技でもいとも簡単に吹っ飛びそうな気がした政彦は、大内刈り、大外刈り、一本背負いと次々に得意技を繰り出します。ところが、まるで真綿に技をかけたように、阿部はそれらをことごとく軽やかに受け流しました。
焦る政彦に、阿部は反撃を開始します。政彦の技がいともたやすく受けられてしまったのに対し、阿部が矢継ぎ早に放つ跳ね腰、大外刈り、内股などに、政彦は腹這いになったり、半身になったりして辛うじて逃れるのが精一杯でした。
こうして防戦一方に追い込まれた政彦は、なす術もなく判定負けを喫します。まさに完敗でした。

政彦は阿部のほかに、警視庁の大澤貫一郎にも大外刈りから大外落としに移ろうとするところを返されて畳に叩きつけられ、頭を打って脳震盪を起こすという醜態をさらして敗れ、結局3位に終わります。
優勝したのは、他の試合でも圧倒的な強さを見せつけた阿部謙四郎です。

 
木村政彦が、天才阿部謙四郎に痛恨の敗北を喫した「済寧館」(皇居東御苑。東京都千代田区千代田)

「強い、強い」ともてはやされて気をよくし、天狗になっていた政彦は、この2つの敗北に大きな衝撃を受けます。一時は柔道をやめて郷里に帰ろうとまで思いつめた彼は、敗れた原因について徹底的に考え抜きました。そして、次のような結論に達したのです。

「引くと見せて押す、右技をかけると思わせて左技をかける、そうやって相手をだまして技をかけるというやり方ではだめなのだ。それでは、本当に強い相手、日本一を狙ってしのぎを削るトップクラスの選手たちには通用しない」と。
こうした“だます柔道”、“ごまかしの柔道”をやっていては、相手がこちらの仕掛けに対して思う通りに反応してくれなければ、投げることができません。それどころか、逆に体勢を崩されて返り討ちにあってしまうことになります。
政彦が負けたのは、“だます柔道”に則った彼の動きに対し、阿部が思うように動いてくれなかったためにバランスを崩され、いいようにあしらわれてしまったのだと考えました。

はて、どこかで聞いたことがあるような論理だと思いませんか?
そう、これは政彦が最初の師匠、木村又蔵を批判したのと全く同じ理屈です(第2回参照)。
さまざまな駆け引きによって相手の身体を崩して投げることは、「精力最善活用」を標榜する柔道の基本的な技術の1つだという気もしますが、政彦はそうした術策を弄さずとも、どのような体勢からでも、自分が投げたい時に投げられるような柔道を求めました。
そのために必要だと考えたのは、強く柔らかい腰です。相手のパワーに崩されない強さと、どんな動きをしてきてもバランスを失わない柔らかさを兼ね備えた腰、それを身に着けるために、政彦は2種類の異なった打ち込み稽古を始めます。

1つは、牛島塾にあった高さ10メートルを超えるモミジの巨木への打ち込みです。
木に太い麻のロープを巻きつけ、一本背負いを千回、釣り込み腰を千回、合わせて二千回の打ち込みを毎日行いました。これは相手を投げるためだけではなく、自分自身の腰を、大地に根を張る樹木のように強靭なものにするためにやったことでした。
もう1つは塾の裏にあった竹林での、若竹への打ち込みです。
細くてしなる若竹に大外刈りを打ち込むのですが、それにはよほど柔軟に動かないと、逆にこちらがひっくり返ってしまいます。
こうした練習によって技を練り上げながら、政彦は打倒阿部への執念を燃やし続けました。

済寧館での試合から1年ほど経ったある日、政彦は満を持して、講道館へ稽古に来た阿部謙四郎に乱取りを申し込みます。
鷹揚に頷いた阿部ですが、その余裕は瞬く間にけし飛ばされました。
機を見て政彦が思いきり放った大外刈りを、阿部は後ろに下って外そうとします。しかし、柔らかくなった政彦の技はそれを許さず、しっかりと阿部の動きについていきます。そして阿部は、腰から崩れるように羽目板に背中をぶつけてしまいました。

そこからは政彦が一方的に攻めまくります。20分ほどして、阿部の方から「もうやめよう」と言ってきました。雪辱を果たした政彦は自伝で、
「羽目板に十一回、畳に六回、イヤというほど叩きつけてやった」(『わが柔道』)
と自慢げに述べています。
こうして又蔵譲りの“剛道”を完全否定した政彦は、まず技術面で旧師と訣別します。
そしてやがては、心の面でも師弟の間の溝は、深まっていくことになるのです・・・。

強敵阿部謙四郎を降した政彦は、五段選抜試合でもう1人敗れた大澤をも、警視庁での練習で存分に投げてリベンジを果たします。
「木村はですね、私もよう怒りつけたし、本人も発奮して、後はもうだれにも負けなんだとです」(『当世畸人伝』)
後年、牛島が白崎に語った言葉の通り、それからの政彦は不敗街道をまっしぐらに突き進みます。

昭和12(1937)年、13年の全日本柔道選士権大会専門選士壮年前期の部で連続優勝、そして日本柔道選士権大会と改称された翌14年には専門選士の部で優勝しました。
ちなみにこれらの大会では、指導者や指導者になるために修行中の者を専門選士、趣味として修行する者を一般選士とし、さらに20歳以上30歳未満の選士を壮年前期、30歳以上38歳未満を同後期、38歳以上44歳未満を成年前期、44歳以上を同後期と区分していました。
それらの中で、政彦の参加した専門壮年前期の優勝者が、実質上の全日本選士権者だと言われていたのです。ただし日本選士権改称後には、年齢区分はなくなっています。

 
水道橋駅前交差点から東京ドームシティ方面を望む。政彦が連続優勝を飾った全日本選士権、日本選士権が開催された講道館は、東京ドームホテル(中央の高いビル)東側の水道橋際にありました。

3年連続の日本一に輝いた政彦は、明くる昭和15年6月、因縁の済寧館で開かれた皇紀二千六百年奉祝天覧武道大会で、宮内省から委嘱された選考委員によって専門家の中から選出された柔道指定選士の部で優勝し、ついに天覧試合を制するという師弟積年の悲願を達成しました。

しかし、快進撃を続ける政彦の足元に、軍靴の響きが近づいてきました。
我が国がアメリカ・イギリス・オランダ・中国など連合国を相手に戦った、太平洋戦争が勃発したのです。拓殖大学を卒業した昭和16年の12月8日に真珠湾攻撃が起こり、それから1ヵ月ほどして、政彦にも召集令状が届きました。
木村政彦24歳、それはまさに、彼の全盛期真っ只中での出来事でした。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
白崎秀雄著『当世畸人伝』新潮社、1987年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

政彦と又蔵(8)─ もう一人の“鬼”、牛島辰熊

2015年09月21日 | 日記
鎮西中学2年に編入後すぐに、木村政彦は熊本武徳殿の紅白戦に出場しました。
その試合は、勝った者がそのまま残って相手側の次の選手と戦う抜き勝負方式でした。当時まだ一級だった政彦ですが、5人を抜いて即日昇段で初段となりました。
紅白試合には「抜群」という制度があり、飛び抜けて優秀な成績を収めると、即日昇段が許されます(『柔道大事典』によると、講道館では6人以上抜いた場合とあります)。
ちなみに、この時政彦が取ったのは講道館の初段ではなく、武徳会の初段でした。
かつて、半官半民の武道奨励団体として大日本武徳会がありました。戦後、武道を危険視するGHQによって解体されましたが、それまでは柔道においても帝国大学柔道連盟が主催し、旧制高校や専門学校を中心に行われた高専柔道とともに講道館に比肩する力を持っており、独自に段位を授与していました。

3年生の4月には、政彦はやはり熊本武徳殿の紅白戦に出て紅組大将となり、白組の残りメンバー4人を全員一本勝ちで抜き去って、二段に昇段しました。さらにその翌月には三段となり、4年生の6月には佐賀武徳殿の紅白戦で、なんと10人を抜いて即日四段になるといった具合に、目覚ましいスピードで昇段していきました。

政彦は鎮西中の練習だけでは飽き足らず、武徳殿や旧制五高(現在の熊本大学)、警察に出稽古に行くとともに、町道場も木村又蔵の昭道館から、より大人の修行者が多い川北仁一の道場に移ります。
政彦は川北道場のことを、「木村道場よりは柔道らしい柔道を教えてくれた」(『わが柔道』)と、又蔵にはちょっと気の毒なことを言っています。
これだけの強さを誇った政彦です。柔道部においても、3年生からは大将を務めました。当時の試合はほとんどが勝ち抜き戦だったのですが、鎮西中は他のメンバーも強豪ぞろいで、政彦に出番が回ってくることは滅多にありませんでした。

昭和9(1934)年の初夏、鎮西中の先輩でもある拓殖大学柔道部師範の牛島辰熊が、政彦をスカウトしに訪れます。
後の政彦同様“鬼”と称された牛島は、これまた政彦が最初は竹内三統流の道場に入門したのと同じく、やはり古流柔術の汲心流江口道場でその柔道人生をスタートしました。
想像上の生物である龍も含めて3種類の獣が含まれるといういかにも獰猛そうな名前にふさわしく、闘志の塊のような男だった牛島は、試合の前夜にはスッポンの肉を食べて血をすすり、当日は口に含んだマムシの粉の匂いをプンプンさせながら、相手に襲いかかったといいます。
まだ全日本選手権のなかった大正14(1925)年、事実上の日本一を決める明治神宮大会で初優勝したのを皮切りに同大会を3連覇し、全日本柔道選士権(当時は選手権ではなく選士権といいました)が始まると、昭和6(1931)年の第2回、翌年の第3回と専門壮年前期の部(次回説明します)で連続優勝しました。


牛島辰熊が柔道部師範を務めて、木村政彦を入学させた拓殖大学(東京都文京区小日向3-4-14)

常勝牛島が、唯一制することができなかったのが天覧試合です。
昭和4年に昭和天皇の即位を記念して行われた第1回武道天覧試合(御大礼記念天覧武道大会)では、指定選士の部(これも次回説明します)決勝で、武徳会附属武道専門学校(武専)教授の栗原民雄と互いに一歩も譲らぬ激闘の末、惜しくも判定で敗れます。
雪辱を期して、猛練習を重ねて待った第2回(皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会)。ところが、その過激すぎる稽古がたたって、昭和9年と決まった試合の半年前に、肝臓ジストマと胆石、それに肋膜炎を併発してしまいました。

出場を危ぶまれた牛島ですが、皇居で催された新年会でたまたま牛島の病気のことが話題となり、心配した天皇が「胆石なら京都の松尾内科がよいではないか」とおっしゃいました。牛島が師範を務める皇宮警察の白井部長がさっそくその言葉を伝えると、牛島は病床にガバッと身を起こし、感激にうち震えながら皇居の方を伏し拝みました。
彼は天皇のアドバイスに従って松尾内科を受診しますが病気はなかなかよくならず、最後は身体が思うようにならないのを精神力でカバーしようと、洞窟に籠って1ヵ月間、自炊しながら筵<むしろ>の上で座禅を組み、宮本武蔵の『五輪書』を朗誦して試合に備えました。

そうまでして臨んだ天覧試合でしたが、回復しきらぬ身で選りすぐりの猛者たちを相手に勝てるはずもなく、予選で敗退してしまいました。肉体の限界を痛感した牛島は、自らの悲願を託すことのできる弟子を捜し求めます。そして、そのお眼鏡にかなったのが、木村政彦だったのです。

政彦は昭和10年に上京し、拓大商学部予科へ進学しました。
予科とは今でいう付属高校です。牛島が自宅に設けた塾に起居しながら柔道修行を始めた政彦は、拓大予科入学早々、先輩たちと講道館の紅白試合に出かけます。そこで彼は四段8名を倒しますが、9人目で力尽きて敗れてしまいました。
それでも五段に抜群昇段し、拓大の先輩たちと祝杯をあげ、ほろ酔い気分で牛島塾に戻ります。当然、牛島も褒めてくれるものと思いきや、報告を聞いた彼は激怒し、政彦を殴りつけて、
「試合に負けるというのは、相手に殺されるということだ。お前は8人殺して、9人目に殺されたのだ」
と勝負の厳しさを教えたのです。

そんな牛島の指導は苛烈を極めました。
力を使い果たして動けなくなっても一切容赦はしません。極限まで稽古すると、隠されていた潜在能力が湧き出してきて、再び立ち上がることができると考える牛島は、「生の極限は死」「死の極限は生」との信念で、徹底的に政彦をしごき抜きます。
鬼の牛島に鍛え上げられ、政彦はその強さにさらに磨きをかけていきました。ところが、なんとそんな彼を子ども扱いし、昭道館時代以来の柔道スタイルを、根底から変えてしまう男が現れたのです!


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
原 康史著『実録 柔道三国志・続』東京スポーツ新聞社、1977年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年