ひろむしの知りたがり日記

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鬼の柔道VSグレイシー柔術 ─ 木村政彦とエリオ・グレイシー 【前編】

2014年12月21日 | 日記
平成5(1993)年11月12日、アメリカのコロラド州デンバーで、第1回UFC開かれました。
UFCとはアルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(Ultimate Fighting Championship)の略で、柔道やレスリングで使われる投げ技や寝技、ボクシングや空手の打撃技などがすべて許された、まさに究極の(アルティメット)格闘技大会です。現在、世界中で行われている総合格闘技(MMA=Mixed Martial Arts)の魁<さきがけ>で、噛み付きと目潰し以外すべてOKというバーリトゥード(「何でもあり」を意味するポルトガル語)の衝撃的なノー・ルール大会でした。
ボクサー、プロレスラー、空手家といった並いる強敵を次々と破ってこのトーナメントを制したのは、グレイシー柔術という当時世界的にはほとんど知られていなかったマイナー格闘技の使い手である細身のブラジル青年ホイス・グレイシーでした。ホイスは相手の打撃技を捌<さば>き、組み付いて投げ、寝技で仕留めるという必勝パターンを持っていました。

試合後、グレイシー柔術を生み出したグレイシー一族は、マスコミに対して「マサヒコ・キムラは我々にとって特別な存在です」と語りました。
この発言によって、木村政彦の名が一躍脚光を浴びることになります。
かつては史上最強の柔道家と謳われながら、プロレスに転向して力道山と実力日本一の座を賭けて試合をし、相手の裏切り行為によって無惨な敗北を喫して以来その名誉は地に堕ち、柔道界からもプロレス界からも忘れ去られていた木村が、ホイスの父エリオと闘い、圧勝した男として。
しかしその時、木村はすでにこの世の人ではありませんでした。彼が亡くなったのは、第1回UFCが開かれるわずか7ヵ月前の4月18日のことです。

ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するため参加を見送ったモスクワ五輪からバルセロナ五輪まで、4回連続でレスリングの日本代表になるという偉業を成し遂げ、ロスとソウルでは90キロ級の銀メダルを獲得した太田章<あきら>は、
「あと1年、たった1年長生きしていれば、木村さんはヒーローになっていたと思いますよ。格闘技雑誌に特集が組まれただろうし、格闘技イベントのテレビ解説者として引っ張りだこだったでしょう」
と言います。また木村が柔道師範をしていた母校拓殖大学の教え子たちも、
「もう少し長生きしていれば、木村先生はいい思いをして死んでいけたと思うんですが・・・」
と話していました。(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)

ホイスは翌年の3月11日に行われた第2回UFCを連覇し、さらに兄のホイラーらが、さまざまなジャンルの格闘家やプロレスラーを降していきました。とりわけエリオの3男ヒクソンは400戦無敗と謳われ、一族最強を自他共に認められています。
こうしてグレイシー柔術がその強さを見せつければ見せつけるほど、それを破った木村の偉大さがクローズアップされていったのです。

木村政彦『わが柔道 グレイシー柔術を倒した男』

エリオ・グレイシーは戦前、講道館柔道普及のために世界各地を回った末に、ブラジルへたどり着いた“コンデ・コマ”こと前田光世<みつよ>から柔道を習った兄のカルロスに学び、寝技に特化したグレイシー柔術を創始しました。若い時から柔道家やボクサー、レスラーと何度も公開他流試合を行い、連戦連勝してブラジル格闘技界の英雄となります。
そのエリオが昭和26(1951)年、プロ柔道の遠征でブラジルにやって来た木村政彦7段に、挑戦状を叩きつけたのです。しかし木村は、一緒に連れて来た加藤幸夫5段とやって勝ったら挑戦を受けると答えました。加藤は当時22歳、全日本選手権出場レベルの実力を持ち、20歳で5段にスピード昇段したほどの猛者です。

加藤はエリオと2回闘い、第1戦は引き分けに終わりました。
そして第2戦、試合開始から30分後、加藤は得意の大内刈りでエリオを倒し、すかさず馬乗りになって十字絞めに入ります。しかし下になったエリオも、そのままの体勢で加藤に十字絞めを仕掛けていました。
互いの絞めくらべは3、4分も続きましたが、加藤の顔面が蒼白になってきたので、木村は大声で「ストップ」とレフェリーに声をかけ、試合を止めました。エリオが手を離すと、加藤は顔をマットに突っ込むように崩れ落ちました。彼はすでに、意識を失っていたのです。

この試合を境にして、木村たちの試合の観客数は激減しました。
「あんな無様な負け方をするなんて、あいつらはニセ物じゃないか・・・」
母国からやって来た柔道家たちを応援していた日系人の間にもそんな声が囁かれるようになり、まずいことになったと思っていたところへ、今度はやはり同行していた山口利夫6段への挑戦状が舞い込みました。
しぶる山口を見て木村は、「よし、俺が挑戦を受けよう」と意を決します。
こうして、負け知らずの日本とブラジルの英雄同士が、ついに雌雄を決することになったのです。


【参考文献】
木村政彦著『わが柔道 グレイシー柔術を倒した男』学習研究社、2001年
近藤隆夫著『グレイシー一族の真実 すべては敬愛するエリオのために』文藝春秋、2003年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)(下)』新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (完) ─ “柔道の鬼”と“空手バカ”、永遠の訣別

2014年12月14日 | 日記
木村政彦が、力道山による裏切り行為の前に敗れ去った夜、彼と手を取り合って泣いた大山倍達は、それから数日後、力道山に挑戦する意思を表明します。
鬼の木村が流す涙を見ながら固めたこの決意は、木村がKOされた直後にリング上へ駆け上がろうとした時のような衝動的なものではなく、もっと静かな、しかし強固なものでした。

ところが、この挑戦を力道山は受けようとはしませんでした。関係者に掛け合っても一向に埒があかず、ついに業を煮やした倍達は、ストリート・ファイトでもいいから力道山に目にもの見せてやると決心し、彼が現れそうな酒場、ナイトクラブなどに夜な夜な出向いては網を張っていました。
そんな倍達の動きを察知したのか、力道山はその種の店に現れる時は若手のプロレスラーなどの取り巻きを連れていき、つかまえてケンカを売ろうにも、心ゆくまで闘うことなど、とてもできないような状況でした。
そうこうするうちに2ヵ月、3ヵ月と過ぎましたが、それでも倍達は辛抱強く機会を待ち続けました。

ある夜、倍達は遂に、力道山が一人でいるところをつかまえます。
『大山倍達、世界制覇の道』によれば、そこは赤坂の「ラテン・クォーター」というナイトクラブだったといいます(後に力道山が刺される「ニューラテンクォーター」とは同一、あるいは系列店か?)。
例によって倍達が店で網を張っていると、力道山が珍しく取り巻きも連れずに入って来たのです。
通路のところで早くも倍達の姿を見つけたのか、力道山はそれまでスタスタと足早に歩いていたのが、急に大きく足を引きずり始めました。ケガを装って、対決を避けようとする肚だと読めた倍達は、激しい怒りを覚えて席を立ちます。

「大山だ。ここで、君と立ち合いたい。もちろん、非常識なのは百も承知だ」
呆けたような顔のまま、無言でいた力道山ですが、ふいに踵を返すと、傍らのステージにあった据え置き式のマイクロフォンを引っつかみざまに振りかざしました。
プロレス界の王者として一世を風靡した力道山が見せた、子供のケンカのようなあからさまな醜態は、倍達にとって信じられない光景でした。気持ちが急速に冷めていくのを感じながら、倍達は「やめておこう」とだけいって、力道山に背を向けてゆっくりと自分の席へと戻っていきました。

以上が、『大山倍達、世界制覇の道』を元にした倍達の力道山に対する挑戦事件の顛末です。
この逸話の真偽をめぐっては、さまざまな議論があり、とりわけプロレス側に立場を置く関係者は、「大山のホラ話だ」と断定しています。
また対戦が実現しなかったことについて、一部マスコミで「大山は自分から挑戦しておきながら、いざとなると力道山に恐れをなして逃げたのだ」というまことしやかな憶測が流れましたが、真相は異なっていました。

『大山倍達正伝』によれば、在日韓国人のヤクザで実業家、後に東声会を結成する町田久之や、倍達に空手を教えたソウ・ネイチュウ(第2回「“柔道の鬼”に憧れた“空手バカ”」参照)の説得によるといいます。
あるいは『大山倍達 炎のカラテ人生』には、倍達がアメリカへ行った時に生活の面倒を見てくれ、力道山とも親しかった松村や、建設会社社長の梅田といった、当時赤貧洗うがごとき暮らしをしていた彼が世話になった恩人に止められたことや、その後、力道山と木村が和解を成立させたことが主な理由だったとあります。

ところで、この手打ち式がまた、とんでもない茶番だったのです。
力道山は木村を自分で呼んでおきながら、木村が帰る時には部屋から出ることも、見送ることもしませんでした。和解は、形だけのものに過ぎなかったのです。
木村は「しまった」と思いましたが、もう手遅れでした。木村自身の口からそのことを聞いた倍達は激怒します。力道山に対してではなく、あまりにもお人好しな木村に対してです。

「先輩、バカじゃないか。こちらはね、命を賭けて力道を追っかけてるのに、先輩なあーにやってるんですか」
そうして、「もうあなたとは二度と会わない」といって、木村と袂を分かったのです(『大山倍達 炎のカラテ人生』掲載の倍達の談話より)。
その後、対談の企画が持ち上がったこともありましたが、事前に情報が漏れるなどのトラブルもあって結局実現せず、木村と倍達は遂に再会することはありませんでした。

基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』(講談社)

しかし一度だけ、倍達は木村の姿を見かけています。
ある春の日、散歩の途中らしい木村が、江戸川橋から護国寺方面へ抜ける坂道を、昼下がりの柔らかい陽射しを浴びながら、ゆっくりと歩いていたのです。
所用があって車を運転中だった倍達は、木村に声をかけることもなく、道端を徐行させながらその後ろ姿を見送りました。彼の脳裏には、過ぎ去りし日の木村の栄光の軌跡が、走馬灯のように蘇ったといいます。
倍達は木村の老け込みように驚きましたが、昔と変わらぬ分厚い肩幅が、どこか寂しげであったのを、いつまでも忘れることができませんでした。

倍達は、木村VS力道山戦を振り返ってこう語っています。
「確かに力道山は試合に勝った。あの時試合には勝ったけれども、長い目で見ると木村のほうが勝ったんじゃないかなと、こう思う。片方は若くして死んで、片方は今も元気でいる。これだけを取ってみても、真の勝利者は木村政彦のほうじゃなかったかなと、こう思うんです」(前掲書)
空手の名誉を守るために、命を賭けて闘ってきた倍達です。「恥辱にまみれて生きるよりは、死しても誇りを守るべきだ」というのならともかく、これが本心からの言葉なのか、僕にはわかりません。
あるいは年齢を重ね、そのような心境になったのかもしれませんが、少なくとも木村本人はそう思ってはいなかったでしょう。だからこそ、晩年に至ってなお、力道山は自分が念力で殺したのだと信じようとしたのです。

倍達が命の長さで力道山に勝ったといった木村政彦も、平成5(1993)年4月18日、名誉を回復する機会もないまま、寂しくこの世を去ります。そして倍達もまた、それからわずか1年後の平成6年4月26日、肺ガンのため波瀾に富んだ生涯を閉じました。
大山倍達は今、最後に見かけた木村が向かっていた先にある護国寺で、愛妻の智弥子とともに永遠の眠りについています。


護国寺にある大山倍達の墓(上)と、墓前に据えられた極真会館による碑文(下。東京都文京区大塚)



【参考文献】
基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』講談社、1988年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
基佐江里著『大山倍達外伝』クリピュア、2008年

木村政彦と大山倍達 (10) ─ 木村政彦は力道山を殺したのか

2014年12月09日 | 日記
“プロレス巌流島の決闘”が終わったその夜、木村政彦と大山倍達は、木村の宿舎だった千代田ホテルの部屋で、夜が白々と明け始めるまで、手を取り合って泣きました(『大山倍達、世界制覇の道』)。
全力を尽くして闘った結果であるならまだしも、力道山の突然の裏切りで、わけもわからないまま血の海に沈められた無念さは、木村にとってとてつもなく大きなものでした。
木村は昭和15(1940)年6月に行われた皇紀2600年奉祝天覧武道大会に出場して優勝し、賞品として昭和天皇から短刀を下賜されています。彼はその短刀で、負けたらいつでも腹を切る覚悟で毎回試合に臨んでいました。しかも、みっともない死に方はしたくない、いかにしたらサムライらしく見事に死ねるかと、切腹の練習までしていたといいます。そんな誇り高き柔道王にとって、この恥辱は耐え難いものでした。


池上本門寺の墓前に立つ力道山のブロンズ像。腰にはチャンピオン・ベルトが(東京都大田区池上)

それにしても、なぜ、このような悲劇が起きてしまったのでしょうか?
最初に八百長を持ちかけたのは、木村の方でした。国際プロレス団の旗揚げに失敗し、病気の妻斗美子の薬代にも事欠いていた彼は、引き分けにして、賞金の分け前半分をいただこうと考えたのだといいます。
狡猾な力道山は、木村の申し出に応じるような態度を装いました。木村が書いた念書を「預かっておく」と受け取ったものの、翌日「ハンコをついたものをくれ」と求められると、「忘れた」というではありませんか。
本当なら、木村はこの時に力道山の策謀に気づくべきだったのでしょう。しかし木村は、プロレスに真剣勝負などありえないと舐めきっていました。取引が成立したと信じてリングに上がった木村は、まるで倒してくれといわんばかりに隙だらけでした。

こうして完膚なきまでに叩きのめされた木村は、力道山の背信行為を許すことができず、短刀を懐にして彼を殺すために付け狙います。しかし、結局は思い止まって、力道山からの申し出を受けて和解しました。
ところがそれすらも、世間の批判を免れるために力道山が仕組んだパフォーマンスだったのです。木村がそれに気づいた時には、もう後の祭りでした。
こうしてリベンジする機会もないまま、力道山は9年後の昭和38年12月8日、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」において、暴力団大日本興業の構成員村田勝志と口論になり、登山ナイフで腹部を刺されてしまいます。開腹手術を受けて、病状は快方に向かっていましたが、突然暗転し、腸閉塞を併発して15日に赤坂の山王病院で死亡しました。
自分の肉体を不死身と過信したのか、術後の常識を無視してリンゴを食べたことが原因でした。


池上本門寺の力道山墓地(上)。戒名「大光院力道日源居士」が刻まれた墓碑(左下)と顕彰碑(右下)


「あいつは卑怯な男ですよ」
平成元(1989)年の夏、木村は取材に訪れた作家で前東京都知事の猪瀬直樹に重い口を開きます。
「だから、殺したんだ」
それを聞いて猪瀬は戸惑いました。力道山は木村にではなく、暴力団員に刺されて死んだことは周知の事実です。なおも殺したと繰り返す木村に、猪瀬が「どうやって?」と訊ねると、木村は、
「ここですよ」
と自分の額を指さしました。
「ここに“殺”と書いたんです」
なんと木村は、イメージの中で前頭葉の辺りに字を書き、念力で殺したというのです。
そんなことをしても人は死なないと否定する猪瀬に、
「あんたについても“殺”を書こうか」
と厳しい口調で切り返した木村は、しばらくの沈黙の後、
「柔道の選手権の前夜、座禅を組んだ。何時間も、ずっとだ。すると額のところに“勝”という字が浮かんできて、黄金色に輝き始める」
と話し出しました。そして、浮かんでこない時には刀を腹にあて、切っ先を肌に食い込ませると“勝”が出てきたこともあったという体験を語ったのです(「枯れない『殺意』について」)。
木村はイメージ通り、全日本選士権などで連戦連勝を重ねます。その時と同じ力が、力道山に対しても働いたといいたかったのでしょう。

木村は自伝にも書いています。
「その夜、修行時代によくやった試合の前夜の暗示を試みたら、近いうちに『死』と出た。その死も、神々しく光り輝くものではなく、灰色で陰鬱な色だった」(『わが柔道』)
そして力道山は、実際に悲惨な最期を遂げたのです。
木村は、憎き力道山を殺したのは自分だと信じた、あるいは信じたかったのでしょう。猪瀬はいいます。
「木村は誇り高き勝負師だった。たった一度の過ちが彼の後半生を台無しにしたはずだが、世間が何をどういおうと、力道山を自分で始末したのである」(「枯れない『殺意』について」)

力道山のことを、殺したいほど憎んでいた男が、もう1人いました。
少年時代から憧れ続け、兄とも慕って崇拝していた偶像を、目の前で木っ端微塵に破壊された、大山倍達その人です。彼は力道山に怒りの制裁を加えようと、虎視眈々と機会をうかがっていたのです。


【参考文献】
猪瀬直樹著「ニュースの考古学86 枯れない『殺意』について」
       『週刊文春』5月6・13日号 文藝春秋社、1993年
木村政彦著『わが柔道 グレイシー柔術を倒した男』学習研究社、2001年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年

木村政彦と大山倍達 (9) ─ 血戦! プロレス巌流島

2014年12月01日 | 日記
“プロレス巌流島の決闘”と呼ばれた、初の日本チャンピオンを決める力道山対木村政彦の選手権試合は、当時まだNHKと日本テレビの2局しかなかったテレビ局が両方とも生中継をし、さらにラジオも2局が生中継するという、全国民が注視する世紀の一戦でした。

相撲と柔道の世界で、それぞれ華々しい経歴を持つ2人の対決は、「柔道の木村か、相撲の力道か」と人気を呼び、東京の蔵前国技館は開場の6時半を待たずに定員の1万3千人を突破し、その後も続々とファンがつめかけるという、相撲の本場所でも見られない盛況ぶりとなりました(主催者発表では1万5千人)。
リングサイドを警官が取り巻き、国技館の外でも入場できなかったファンたちの群衆整理のために、機動隊が出動するというものものしさでした。


現在は東京都下水道局の北部下水道事務所などになっている蔵前国技館跡(東京都台東区蔵前)

前座試合の後、酒井忠正プロレス・コミッショナーの挨拶が終わり、満場の拍手と歓声の中を、木村が紫色の、背中にコイの跳ねる模様が入ったガウン、続いて力道山が濃紺地で、裾に富士山と桜をあしらい、背中には「力道山」と大書された和服式の派手なガウンで登場します。

その日大山倍達は、木村側のリングサイドに陣取り、手に汗握って対戦を見守っていました。そして、リングに上がった木村の眼の光が、いつもとまるで違うことに気づいた彼の背中を、改めて嫌な予感が走ります。
そんな倍達の不安をよそに、午後9時19分、ついに61分3本勝負開始のゴングが鳴り響きます。

試合は、その後に起きる惨劇が嘘のように、互いにがっしりと組み合う真っ向勝負で幕を開けました。
翌日の朝日新聞朝刊は、次のように経過を報じています。
「はじめ両選手ともすきをねらって慎重な運び、木村が逆をねらえば、力道は投の大技で応酬、力道のやや押し気味のうち十五分を過ぎるころ、はだしの木村がつま先で急所をけった反則に力道山が激怒したか、空手打、足けりを交互に木村の顔面と腹部に集中、木村はコーナーに追いつめられて見る見るグロッギーとなり、そのままリングにこん倒して起き上れなかった。ただちに医師が木村の顔面の負傷を診断の結果、出血がひどくドクターストップとなりあっけなく力道山の勝利に終った」



日本中が注視した“世紀の一戦”を報じる毎日新聞(上)と朝日新聞(下)の記事(昭和29年12月23日付)

それは、引き分けにするものとばかり思っていた木村にとって、信じられない展開でした。
「私はこのとき、相手が空手チョップを打ちやすいように力をぬいていた。お客が見て、あれは痛いだろうと思ってくれれば成功したことになるからだ。
ところがそこを本気で打ってきたから、たまったものではない。私はうずくまってしまった。しかも、そこを靴で蹴ってきたのである」(『鬼の柔道』)

得意の空手チョップに張り手、蹴りも含めた猛攻に、木村は前歯を数本折り、顔面を血で染めて意識を失い、リングに倒れ伏しました。試合開始後わずか15分49秒で、文字通り蹴りがついてしまったのです。
マットには直径50センチの血溜まりができていたといいます。
この一戦で、国民的スターだった不敗の柔道王木村政彦の名は、地に落ちることになります。
“真剣勝負”はしないはずであった力道山対木村戦が、なぜこのような結果になってしまったのか─その謎については、別な回で詳しく考察することにしましょう。

さて、恐れた通りの結末だったとはいえ、目の前で繰り広げられた耐え難い光景に、倍達の気持には思いもよらなかった変化が起こりました。倍達は自伝に書いています。
「ああ、偶像が壊されていく! 鬼の木村とうたわれたかつての面影ももうそこにはなく、一方的な押し込まれかたをする彼の姿に、自分自身刃物で身を斬りつけられるような痛みを感じながら、無惨なK・Oシーンが展開されたその瞬間、私は席を蹴っていた」(『大山倍達、世界制覇の道』)

怒りに我を忘れた倍達は、「力道、殺してやる!」と叫ぶと、リング上に駆け上がろうとします。それを関係者一同が、必死にすがりついて止めました。もしそうしなければ、「私は多分、いや間違いなく力道山を殺していただろう」(前掲書)と倍達は述懐しています。当時の彼は、力道山を3分でKOする自信がありました。

この時は危うく踏みとどまった倍達ですが、力道山に対する怒りは静まりませんでした。
かつて、力道山を倒した“赤サソリ”タム・ライスに復讐戦を挑んだ彼は、今度は木村のリベンジのために、力道山に挑戦状を叩きつけるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
原康史著『激録 力道山 第1巻─シャープ兄弟、木村政彦との死闘』東京スポーツ新聞社、1994年
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
ボム・ス・ファ著、金至子訳『我が父、チェ・ペダル 息子が語る大山倍達の真実』アドニス書房、2006年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)』新潮社、2014年