ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(7)─ “剛道”、まかり通る!

2015年08月02日 | 日記
小学5年生の木村政彦が、初陣を飾った中山道場との対抗試合(第2回参照)を皮切りに、昭道館は各地の道場に試合を挑んでは勝ち続けてゆきます。
試合場の借料、宣伝料、来賓や記者たちの接待費から、政彦がもらって喜んでいた出場記念の饅頭や鉛筆代に至るまで、すべてを又蔵が一人で負担していました。それは、その頃すでスポーツ化しつつあった当時の柔道ではなく、もっと武道らしい柔道を広めたいという又蔵の志に共感し、支援してくれた頭山満の恩義に何が何でも応えようという、又蔵なりの心意気の表れでした。
そんな又蔵は、自分の考える柔道について、頭山に次のように語ったといいます。

「柔道では、相手を前面から押さえ込めば30秒で『一本』となります。これは30秒あれば、相手の首を取ることができるという、合戦に際しての組打ちを想定して決められたものだと聞きました。それなら相手を腹這わせ、その背面から組み伏せれば、相手は少しも抵抗できないから、前面からよりも簡単に首を切り取ることができます。だから、背面からは15秒で『一本』としてもよくはないか、と先達諸氏に訊ねてみました。すると彼らは、そうすれば誰もが有利な背面を狙って、稽古も試合もしにくくなるから背面押さえは無効にしてある、と言うのです。
しかし自分は、誰もが背後を狙うとなれば、それに対する逆技もできて、より緻密な柔道になると思います。今のままでは背中に馬乗りになられると、亀が首を引っ込めたように道衣の中に潜り込んで、審判の助けを待っているだけです。これが武道とは、とても自分には思えません」(『柔道一本槍』より要約)

また、立ち技で又蔵が教えるものの多くは、大外刈り、首投げ、裏投げ、すくい投げ、抱え投げ、諸手刈り、足取り投げ、一本背負いなど、衿や袖を取らずに投げることのできる組み付き技でした。それは服装が和式から洋式に移行しつつあった昭和初期、衿袖取らねば投げられぬ技は、詰衿、詰袖の洋服が主流となる時代においては不向きであると考えていたからです。
このように実戦を念頭に置いた、独自のやり方で柔道を教える又蔵の活躍が頭山の耳にも届いていたのか、彼の支援は後々まで続きました。

 
  昭和19年、90歳で没した頭山満の墓(青山霊園。東京都港区青山2-32-2、第8号1種ロ1-14側38番)

僕がこれまで延々と又蔵の半生を語ってきたのは、彼が人格的には多少(いや、かなり!)問題はあったかもしれませんが、こと柔道(柔術)へ取り組む姿勢は至って真摯であり、また後には破門された古巣の矢野道場からも認められて、竹内三統流兵法免許皆伝を与えられていることからもわかるように、それなりの実力もあったということを知ってほしかったからです。

にも拘らず、愛弟子政彦の、又蔵に対する評価は不当に低いものでした。曰く、「この先生の柔道は、いわゆるごまかしの柔道だった」「柔道にあらず剛道である」(『鬼の柔道』)、曰く、「(又蔵が教えるのは)どうにも嘘ばかりの技で、突拍子もないものだった」(『わが柔道』)といった調子です。
木村政彦と言えば、誰もが認める史上最強、空前絶後の天才柔道家です。そうした超特上級の人間から見れば、又蔵の柔道スタイルが低レベルに見えたのも、やむをえない面はあるかもしれません。
しかし、実は政彦が又蔵に対してこのようなマイナス感情を持つに至ったのには、別な理由があったと、ひろむしは考えています。それについては、最終回で改めて語るつもりですので、ここでは、又蔵が決して政彦が言うような三流の武道家ではなったということだけ、頭に入れておいてください。

6年制の小学校を卒業した政彦は、尋常高等小学校に進みます。当時は5年制の旧制中学のほかに、2年制の高等小学校に進む道がありました。その頃、旧制中学への進学率は2割を切っており、とても極貧だった砂利採り人夫の3男坊が行けるような場所ではありませんでした。
そして、政彦の柔道修行も、高等小学校を卒業するとともに、終わるはずでした。ところが2年の時、政彦に転機が訪れました。昭和6(1931)年のことです。

熊本で開かれた九州日日新聞社主催の全九州相撲大会で、政彦は圧倒的な強さを見せて勝ち上がり、決勝でも他県代表を得意の大外刈りで見事に投げ倒しました。ところが、政彦の足が土俵の外に出てしまったということで相手に軍配が上がり、残念ながら準優勝に終わります。
そして同じ年の秋、旧制鎮西中学(現在の鎮西高校)が主催した熊本県児童相撲大会でも、政彦は優勝を勝ち取ります。この2つの大会を見ていた大日本武徳会武道専門学校(武専)出身で、鎮西中学柔道教師の小川信雄が、政彦の家へスカウトにやって来ました。
師匠の又蔵も相撲がきっかけで矢野道場に推薦されたことによって、武道家として生きていくことになりましたが、弟子の政彦もまた、相撲大会での活躍が認められて、柔道家への道が開けたのです。これには偶然ばかりではない裏事情があるのですが、それについても、最終回で詳しく触れることにします。

柔道をもっと本格的にやってみたいと考えていた政彦が、進学したかったのは言うまでもありません。
しかし最大の問題は、入学しても学費を払う金がないということでした。小学校時代に成績のよかった兄の清人<きよと>は、働きながら定時制に通っていました。政彦も働きながらであれば可能性もありましたが、それでは肝心な柔道をする時間がなくなってしまいます。そうした状況に対して兄は、
「よし、俺が新聞配達をして学費を稼いでやろう」
と言ってくれました。何ともよくできたお兄さんではありませんか!

もう1つの問題は、中学1年生に入ったのでは、人よりも2年遅れてしまうということです。政彦がそれを嫌がったので、2年編入ということで話が決まりました。
こうして政彦は鎮西中学に進学して柔道部に入り、その頭角を現していくことになるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年