ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

谷中に牧野富太郎を訪ねて

2012年02月26日 | 日記
生き物好きのひろむしが、ファーブルと同じくらいリスペクトしてやまない人物が、「日本植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎です。

小学校中退という低学歴でありながら独学で研究を重ね、その生涯で採集した標本は60万点とも70万点ともいわれ、新種1,000種、新変種1,500種以上の植物を命名しました。研究の集大成『牧野日本植物図鑑』ほか著作も多数あります。

そうした業績を讃えて、亡くなった年に文化勲章が贈られました。また、彼が生まれた5月22日(他説あり)は、「植物学の日」に指定されています。

ひろむしと富太郎との出会いは、小学生の時に今はなき学研の学習雑誌『○年の科学』(学年は覚えていません)で読んだ、彼の伝記マンガでした。
たちまち興味をひかれ、他の伝記本も読んですっかり夢中になり、わが心の師の1人となりました(^^♪

その富太郎の墓が、谷中の天王寺墓地にあります。

護国山天王寺(東京都台東区谷中7-14-8)は、鎌倉あるいは室町時代創建という古刹で、江戸時代には現代の宝くじのルーツである「富くじ」興行が開催され、庶民に人気でした。

 天王寺墓地にある牧野富太郎の墓

富太郎の墓碑はたいそう立派で、正面には「結網学人 牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862−JAN 18.1957 墓」、右側面に「昭和三十二年一月十八日歿 浄華院殿富嶽穎秀大居士 行年九十六歳」、裏面には年譜が刻まれています。
冒頭で書いたように、誕生日は5月22日(旧暦だと4月24日)とあるのに、ここには26日と彫られています。本人の墓なんだからこちらが本当だと思いたいところですが、はてさてどちらが正しいのやら・・・・・。

富太郎の墓碑の左には、妻スエ子の小さな墓があります。安月給のくせに研究のための金は一切惜しまなかったので、牧野家の家計はいつも火の車でしたが、彼女はたいへんな苦労をして夫を支え続けました。
そこで富太郎は、昭和3(1928)年にスエ子が56歳で病死する前の年に仙台で発見した新種の笹を、「スエコザサ」と名づけました。そして彼女の墓碑の左側面にも、「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」という句が彫られています。

本当に、心の底から奥さんに感謝していたんですね!


天王寺墓地を囲むように広がるのが、かつては同寺と寛永寺の寺領だったところに公営墓地として開設された谷中霊園(管理所:台東区谷中7-5-24 TELL03-3821-4456)です。
その中央には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなり、昭和32(1957)年に放火心中事件で焼失した天王寺の五重塔跡があり、今も礎石が残っています。

 礎石のみを残す天王寺五重塔跡

102,770平方メートルもの広さを誇る谷中霊園は、俳優の長谷川一夫や日本画家の横山大観、明治初期に稀代の悪女といわれた高橋お伝など、ビッグネームの墓を多数擁しています。
また霊園の内側に、徳川15代将軍慶喜らが埋葬された寛永寺の徳川家墓地もあります。


この谷中霊園に、実は富太郎とたいへん縁の深い人物が眠っています。
それは彼と同じ植物学者の矢田部良吉(1851-1899)です。

明治17(1884)年、富太郎は東京大学理学部植物学科へ出入りし、書物や標本を自由に見ることを許されました。その時の植物学教室の教授が矢田部良吉です。
富太郎はそこで、水を得た魚のように研究に没頭するのですが、彼が『日本植物志図篇』第1巻第1集を自費出版すると、矢田部は自分も同様の植物誌を計画しているからと、富太郎の大学への出入りを禁止してしまいました。

矢田部にしてみれば、大学の役割だと考えていた植物誌の編纂を、外部から来た素人が大学の資料を利用してやり始めたのですからおもしろくなかったのでしょうが、富太郎の落胆は大きく、当時文通して指導を受けていたロシアのマクシモヴィッチを頼って亡命することを企てたほどでした。
幸いこの計画は、マクシモヴィッチの急死によって実現しませんでしたが・・・。

 谷中霊園にある矢田部良吉の墓

矢田部良吉の墓は、天王寺墓地を挟んだ北側の、谷中霊園の飛び地にあります。霊園の区画で言えば、甲11号1側になります。墓碑には「理学博士矢田部良吉之墓」と刻まれており、植物学の大家らしくその前には椎の巨木が立ち、矢田部家の墓所を見下ろしているのが印象的でした。

明治26(1893)年に矢田部は罷免され、代わりに松村任三が教授となったため、富太郎は助手として雇われました。以来、昭和14(1939)年に77歳で講師の職を辞するまで、46年間も富太郎は東大で研究を続けることになるのです。


牧野富太郎については、まだまだ語りたいことがたくさんあります。

ということで、次回は彼の終の住処となった大泉の家、「牧野記念庭園」を訪ねたいと思います。



■参考文献■
朝日新聞社編『[現代日本]朝日人物事典』朝日新聞社,1990年
俵浩三著『牧野植物図鑑の謎』平凡社,1999年

古代エジプト美術館でスカラベ・サクレ発見!

2012年02月19日 | 日記
古代エジプトにおいてなぜ、フンコロガシとも呼ばれるこの厳ついコガネムシの仲間に、“聖なる甲虫”などというありがたい名前が冠されたかについて、『ファーブル昆虫記』などをもとに、もう少し触れておきましょう。

糞球を転がす姿が、太陽を運ぶ神に見立てられたことはすでに書きましたが、それ以外にもスカラベ・サクレの次のような習性が、エジプト人の目には神聖な行為と映ったのです。

アフリカの強烈な日ざしを身体いっぱいに浴びて、元気よく丸めた団子を転がしていたスカラベは、ある時期になるといったん土の中に潜って地上から姿を消します。そして、ナイル河の氾濫の後に、再び現れるのです。それを見て古代エジプト人は、この虫には1度死んでも、また生き返る力があると信じました。ですから彼らは石にその姿を彫って、ミイラの心臓の上に置いて死者の復活を願ったのです。あの有名なツタンカーメン王の胸飾りにも、なんと羽ならぬ翼を持ったスカラベが付いていました。

まことしやかに、次のようなストーリーも語られています。

スカラベは月の公転周期と考えられていた28日間、糞球を地下に埋めておきます。そして、太陽と月が出合う日とされる29日目─その日に世界が新しく生まれ変わるのだそうです─に球を掘り出して切り開き、ナイル河に投げ込みます。すると、球の中から新しいスカラベが生まれ出てくるというのです。

太陽神の化身にして、月の公転周期とも関わっているなど、文字通り宇宙スケールの壮大な伝説を持つスカラベ・サクレには、本当に興味が尽きません。
しかしいくらおもしろい虫だからと言って、なにも2回にわたって取り上げるほどのものではないだろうと思われる向きもいらっしゃるでしょう。

これには理由があります。

実は昨日、東京の渋谷区神南にある古代エジプト美術館に行って来ました。
ビルの1フロア(それも1部)を占めるだけの小さな美術館です。それにも関わらず入館料は大人1,500円とやや高めですが、全ての見学者にガイドが付いて丁寧に解説してくれるので、この人たちの人件費と思えば、まあ、納得はできます。

入館するとまず5分で大まかな古代エジプトの歴史がわかるVTRを見せられた後、ガイドさんが発掘小屋や神殿などをイメージした展示室を案内してくれます。その大部分が企画展示ですが、2月末までは“土器”がテーマです。広く交易を行なっていた古代エジプトらしく、いろいろな国の影響をしのばせる土器類が並べられ、特徴や使い方についてクイズを交えながら楽しく教えてくれます。
なぜか同じ土器というだけで、日本の縄文土器や弥生土器まであるのにはちょっと驚きましたが・・・。

一番奥の部屋は古代人の墓という設定になっていて、ここだけは見学者のみで入ります。玄室を模した暗い室内で、人型木棺や木棺の板に描かれた「死者の書」の1シーン、仮面を被ったミイラの頭部などを手に持ったライトで照らしながら見て回るのは、ちょっぴりドキドキします。

全部で4部屋ほどしかないので、1時間もあれば余裕で見学を終えることができます。最後に美術館の出入口脇にあるこぢんまりとしたミュージアムショップをのぞいた時・・・、見つけてしまったのです!

それは、恋してやまない(?)スカラベ・サクレを象ったチャームでした。



ほかにもスフィンクスや女神イシスなど数種類のチャームがありました。値段は1個300円。
ぼくはスカラベのほかに2つ購入しました。それが上の写真です。
中央がスカラベ、その右隣が新王国時代第18王朝(紀元前1500年~1300年頃)の王アクエンアテンの妻で、美女として名高いネフェルティティ、左端が全てを見通すとされるホルス(ウジャト)の目です。

スカラベのチャームは長さ17ミリ、幅12ミリほどのミニチュア・サイズです。
腹側には下の写真のように、なにやら象形文字が刻まれていますが、残念ながらヒエログリフの知識がないので意味は全くわかりません。でもいつか、調べてみたいと思います。



なかなか凝った造りになってはいますが、ただのおみやげ品ですから聖なる甲虫の神秘的な力は宿っていそうにありません。でも、ストラップとして携帯にでも付けておけば、いつかアルマスやエジプト行きを実現したいという願いを、忘れてしまわないための助けぐらいにはなるでしょう^^

愛しの聖たまこがね

2012年02月12日 | 日記
『ファーブル昆虫記』の中で最も強く印象に残った虫は、ベタではありますが、やっぱり聖たまこがねでした。「聖タマオシコガネ」ともいいますが、むしろ、こちらの方がよく目にします。その名が示すとおり、コガネムシの仲間の甲虫です。
現在刊行中である奧本大三郎さんの翻訳を読んだ方には、スカラベ・サクレ(Scarabaeus sacer)といったほうがピンと来るかもしれません。同じ『完訳ファーブル昆虫記』というタイトルでも、ぼくが持っている20年も前に出た岩波文庫版では、聖たまこがねの名で書かれています。スカラベ・サクレとは“聖なる甲虫”という意味で、要するにこれを日本語訳したのが聖たまこがね、もしくは聖タマオシコガネということになるのでしょう。

ウシやウマ、ヒツジの糞を丸めて団子にし、落ち着いて食事ができる所まで転がしていくというユニークな習性を持っています。スカラベ・サクレにしろ聖たまこがねにしろ、糞を食らって生きる虫には似つかわしくない名前ですが、古代エジプトでは糞球を太陽に見立て、天空で東から西へ太陽を運ぶ神の化身とされていました。壁画に描かれたり彫刻が造られたりしたほか、印章や護符、アクセサリーなどにも用いられた人気キャラで、生命、再生、復活、創造、変身のシンボルといいますから、なんともありがたい糞虫です。
全身真っ黒で、土を掘ったり糞を切り分けるのに便利なように、頭の先の平べったい部分(頭楯といいます)の縁や、前肢に鋸歯状のギザギザが付いています。この頭のギザギザを、古代エジプトでは太陽の光を表わすものと考えていたそうです。

もっともファーブルが研究したものは、後にエジプトやアラビア半島にいるスカラベ・サクレとは少し違っていることがわかり、新種としてティフォンタマオシコガネ(Scarabaeus typhon)と呼ばれるようになりました。
ティフォンとはギリシア神話に出てくる怪物の名です。上半身は人間で下半身はヘビ、空の星に頭が届くほどの巨体で目から火を放ち、全身に羽が生えているという、なんともオドロオドロしい姿をしています。聖なる甲虫スカラベ・サクレと間違われるほど似ていながら、なぜここまで扱いに差があるのかと首をひねりたくなるような命名です・・・。

この2種を比べると、サクレは体長28~39ミリ、ティフォンが20~28ミリとティフォンの方が少し小さく、頭のギザギザの形も違います。また夜行性のサクレよりも昼行性のティフォンの方がやや眼が大きいそうです。
サクレもティフォンも、糞を団子にして運んで行くという習性は一緒です。

では、どんなふうに運んでゆくのでしょうか?
ファーブルは次のように描写しています。

「彼は2本の長い後肢で団子を抱え、末端の爪を塊りに突き刺し、回転の軸にしている。彼は中肢に身をもたせ、前肢の歯のついた腕を梃子(てこ)に使って、交互に地面を押している。彼は頭を下にし、尻をおっ立て逆立ちしながら、荷物と一緒に後退りに進むのだ*1」



昆虫写真家の海野和男さんが撮影した動画を見ましたが、ちょこまかちょこまかとしたその動きは、なんともいえずユーモラスです*2。
こうして適当な場所まで団子を運ぶと地面に穴を掘り、そこに籠ってご馳走をたいらげ終わるまで昼も夜も休むことなく食べ続けます。そして食卓に着くやいなや、自らも排泄活動を開始し、長い長いひも状の糞を、これまた途切れることなく出し続けるのです。

ティフォンタマオシコガネは(おそらくスカラベ・サクレも)、子どもを育てるために特別な糞球を作ります。ファーブルが梨球と名づけたそれは、その名のとおり洋梨にそっくりの形をしています。大きさは彼が見つけたものでは長さ35~45ミリ、幅28~35ミリでした。卵は先端の細くなった部分に産みつけられます。そこは糞中の繊維質の部分をまとめて作られており、卵が呼吸できるようになっているというからたいしたものです。
卵からかえった幼虫は、梨球内部の母虫が愛情を込めて選りすぐった極上の餌(ファーブルの観察では、そのことごとくが軟らかいヒツジの糞でした)を食べてすくすく育って蛹となり、やがて成虫となって外界へと巣立っていくのです。



興味をそそられる習性には事欠かない虫ですが、残念ながら日本には糞球を転がすやつは住んでおりません。ですからぼくも、映像やら写真やら、せいぜい標本でしか見たことがありません。
ちなみに本稿に掲載した写真は、かつてセブン-イレブンの限定企画として販売された海洋堂製のフィギュアで、秋葉原をさんざん探し回ってようやく見つけたものです。上が糞球を運ぶティフォンタマオシコガネ、下が梨球を抱きかかえるティフォンの母虫の姿です。

なかなかよくできたフィギュアですが、やっぱりリアルで見たいというのが本音です。アルマス巡礼が実現したあかつきには、なんとか生きたティフォンの勇姿を拝みたいものです。そしてできることならエジプトにも赴き、本家スカラベ・サクレも見てみたい!

夢は限りなく広がりますが、金と暇のないひろむしには難しい相談です。
この際、日本でも買えるスカラベのお守りを手に入れ、望みが叶うよう、願をかけてみるとしましょうか。




*1『完訳ファーブル昆虫記 (1)』山田吉彦・林達夫訳 岩波書店 1993年
*2 タマオシコガネ(Scarabaeus sacer) http://www.youtube.com/watch?v=QP6GPu0ef0A
[その他参考文献・サイト]
『ファーブル昆虫記─1 ふしぎなスカラベ』奧本大三郎著 集英社 1991年
『完訳ファーブル昆虫記 第1巻上』奧本大三郎訳 集英社 2005年
『完訳ファーブル昆虫記 第5巻上』奧本大三郎訳 集英社 2007年
『フンころがしの生物多様性 自然学の風景』塚本珪一著 青土社 2010年
Yahoo!百科事典 http://100.yahoo.co.jp/

ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」

2012年02月04日 | 日記
アルマスには簡単には行けませんが、日本にもファーブルの業績を偲べる場所があります。
それは、東京都文京区千駄木にあるファーブル昆虫館「虫の詩人の館」です。



ファーブルをお手本に、子どもなどの自然に対する健全な感覚を養い育てることを目的とするNPO日本アンリ・ファーブル会が運営しており、館長はあの大作『完訳ファーブル昆虫記』(集英社)に取り組んでいらっしゃるフランス文学者の奧本大三郎先生です。

1階の展示室にはファーブルが『昆虫記』の原稿を書いた愛用の机や帽子の複製のほか、科学啓蒙書の直筆原稿、作詞作曲した歌の譜面など、彼にまつわるさまざまな資料を展示しています。



もちろん、昆虫も!

有名なスカラベなど『昆虫記』に登場するものをはじめ、世界中の珍しい昆虫の標本、それに生きているやつも見られます(もっとも今は冬なので、ヒラタクワガタほか数種、しかも蛹含む!でしたが・・・)。

地下には南フランス、ルーエルグ地方の小さな村サン・レオンにあるファーブルが生まれた家の内部が再現されています。
解説にも「一種の民俗博物館としてご覧下さい」とあるように、貧しかった彼の家には不釣合に多くの家具や什器が置かれていますが、19世紀中頃の田舎の家のようすがよくわかります。



虫のことでわからないことがあったらカードに質問を書き込めば、スタッフが答えを書き込んで貼り出してくれるコーナーもありました。
見てみると、「カメは、どういうふうに育てればいいんですか?」なんてのも。
「おい、カメは虫じゃないだろう!」とつっ込みを入れたくなりますが、優しいスタッフさんは、どんな質問にもていねいに答えてくれます。
質問コーナーの近くに展示されている、大小さまざまなスズメバチの巣も見ものです。

見学できるのは1階と地下だけですが、小さいながらも内容の充実した博物館です。
それなのに、入館はなんと無料!
開館時間は、本来は金土日の1時から5時ですが、震災以降金曜日もお休みとなっています。

なにはともあれ、こんな素敵な場所を作ってくれた、奧本先生と日本アンリ・ファーブル会に大感謝です!!


■ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」ホームページ http://www.fabre.jp/