ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (8) ─ 決戦直前、忍び寄る不吉な影

2014年11月09日 | 日記
ここで、第6回「鬼の怒り爆発、プロレス日本一は俺だ!!」で疑問となった、木村発言の真相について、少しわかったことを書いておきましょう。

昭和29(1954)年11月1日付けの朝日新聞朝刊社会面に載ったという記事について確認できなかったのは、僕だけではありません。
『力道山 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』の著者岡村正史も、「私は当時の『朝日新聞』を調べたが、いまだにこの記事を確認できていない。『力道山がいた』を書いた村松友視も同じことを書いていた」と言っています。『力道山がいた』を見てみると、確かに「これは、何人かのプロレス関係者によって証言されていることなのだが、実は『朝日新聞』のファイルで探してみても、その記事はいっさい見当たらない」とありました。
ただ、岡村も紹介していましたが、毎日新聞の11月4日付け朝刊スポーツ面に、「木村、力道山に挑戦」という小さな記事が載っています。そこにはこうありました。
「三日から岐阜市民センターで行われる国際試合に出場するプロレスラー柔道七段木村政彦選手(三六)は、このほど力道山に挑戦したいと声明、これに対し力道山も二日夜挑戦に応ずると語り、ここに相撲出身と柔道出身のプロレスラーが日本最初の全日本選手権を争うことになった」


 岡村正史著『力道山 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』(左)と、村松友視著『力道山がいた』(右)

木村が岐阜の巡業先で、力道山に対して挑発するような発言をしたということだけは、どうやら事実のようです。そして、あるいはその発言を引き出したのは確かに朝日新聞の記者だったのかもしれません。そして、話を面白くして、宣伝効果を高めるために、第6回で紹介したようなストーリーが、木村・力道山両陣営了解のもとに、創り出されたのではないでしょうか。
木村は自伝で、「プロレスの試合というのは、お客をよろこばせて、それで利益をあげるものである。だから、この試合はお互いの利益のためにやろうではないか」と試合前年の昭和28年から、すでに力道山側と話し合ったていたと書いています(『鬼の柔道』)。


 昭和29年11月4日付けの毎日新聞朝刊スポーツ面に掲載された記事「木村、力道山に挑戦」

木村は当時、力道山の日本プロレスリング協会とは別に、国際プロレスリング団を立ち上げていました。プロ柔道の二の舞を踏みたくない彼は、なんとしてもこの団体を成功させたかったでしょう。そのためにも、この木村VS力道山戦は、話題沸騰間違いなしの強力なカードです。こう考えてくると、木村の挑戦すら、あるいはあらかじめ決められた筋書きにのっとって行われたのだという可能性すら出てきます。
もしそれが事実であるなら、木村が格闘家としてのプライドを賭けて挑んだ真剣勝負と信じ、彼のために精魂込めて空手を教えた大山倍達の心情が、哀れに感じられてなりません。

さまざまな思惑が渦巻く中、ついに運命の12月22日がやって来ます。
朝から冷え込んでいたこの日、木村が東京都文京区関口台町にある牛島辰熊邸に、挨拶にやって来たのは昼過ぎのことでした。
居間で師匠の牛島と談笑していた木村に、幼い頃から牛島塾の塾生たちに可愛がられ、中でも木村のことを兄のように慕っていた牛島の長女孝子は、幾度も「今日の試合は、大丈夫ですか?」と声をかけます。木村はその度に、「心配するな」と優しく答えました。

やがて、木村は2階に上がってスーツに着替え、下りてきてまた家族と雑談を始めましたが、その間もずっと孝子はついて回って、同じやり取りが繰り返されました。
そして、いよいよ木村が牛島邸を後にする時、玄関口まで小走りで送りに出た孝子がもう一度、「木村さん、本当に大丈夫ですか?」とすがるように聞くと、木村は、
「孝ちゃん、心配するな。結果はもう、決まっている」
と言い残して玄関を出て行きました(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)。

そう、勝負は引き分けと決まっていたはずでした。
ところが、見方によっては余裕しゃくしゃくとも取れる泥酔状態でトレーニング先の九州から東京に帰って来た木村の姿に、倍達が言いようのない不安にとらわれたのと同様、孝子もまた、不吉な胸騒ぎを抑えることができませんでした。ともに木村を兄とも思う2人は、同じ未来を予見していたのかもしれません。
それが現実のものとなる時は、もうすぐそこまで迫っていました。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
村松友視著『力道山がいた』朝日新聞社、2000年
岡村正史著『力道山 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』ミネルヴァ書房、2008年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)』新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (7) ─ “世紀の一戦”の背後で交わされた密約

2014年11月03日 | 日記
かつては力道山と木村政彦、大山倍達の3人が、よい関係を築いていた時期もありました。
彼らはよく一緒にトレーニングをし、酒を飲み、格闘技論を交し合ったといいます。しかし、プロレスでのスターの座と金に対する執着が、力道山を変えてしまったのでしょう。
彼らの間に亀裂が生まれ、それは徐々に深まっていきました。そしてついに、力道山と木村が全面対決し、倍達も木村陣営に加わって力道山に敵対するという、最悪の結末となりました。

決戦の日時は昭和29(1954)年12月22日夜、場所は蔵前国技館、プロレス実力日本一の座を争う選手権試合として行われることが決まりました。賞金150万円を勝者7分、敗者3分に配分するというものでした。つまり、勝者は105万円、敗者は45万円を手にするというわけです。

力道山とマット上で雌雄を決すると木村から聞いた倍達は、
「私はなにもいいません。しかし、兄貴、力道山はあなどりがたい相手ですよ。これは、よほど真剣になってかからなければいけませんよ」
と、くどいほど念を押しました(『大山倍達、世界制覇の道』)。
木村にもそれはわかっていたのでしょう、倍達に空手のコーチを依頼します。

これは倍達自身が語っているだけで傍証はないのですが、力道山はハワイでの修行時代に、空手チョップを強化するために倍達の教えを受けたとされています。
木村は学生時代から松濤館流の船越義珍に師事したり、義方会で剛柔流を学ぶなど、空手を経験してはいましたが、倍達直伝の空手チョップに対抗するためにも、実戦的な大山空手を身につけておく必要があると感じたのかもしれません。
一方、力道山の方では、“鬼の木村”育ての親である牛島辰熊を招いて柔道の指導を受けており、互いに一歩も譲らぬ気構えで、この世紀の一戦に臨んでいたのです。

              
          文庫『大山倍達、世界制覇の道』の原本『ケンカ空手 世界に勝つ』

倍達は木村に実戦空手を伝授しながら、彼が天賦の才能や腕力に恵まれているばかりでなく、訓練に対する姿勢もまた誠実な武道家であることを、改めて実感したと韓国の息子たちに語っています(『我が父、チェ・ペダル』)。
ところが試合前日、トレーニングのために故郷の九州へ行っていた木村は、信じられない姿で戻って来て、東京駅で出迎えた倍達を愕然とさせます。

なんと、木村は一目で水商売関係とわかる女性を両脇に引き連れ、その上、昼間から酒の匂いをプンプンさせているではありませんか!
何があったのか、と必死で問い詰める倍達に、木村は何も語ろうとはしませんでした。
新聞などでは力道山が好きな酒を断ち、猛特訓に励んでいると報道されており、倍達は勝負の行方に対して暗い予感に襲われます。この時の倍達には知る由もありませんでしたが、木村の醜態の裏には、驚くべき事実が隠されていたのです。

経緯が経緯なだけに、当初、本質的にはショーであるプロレスの例に外れ、この試合は真剣勝負という方向で決まっていました。ところがやはり、業界のしきたりに背くことはできなかったのです。
倍達もかつてアメリカ遠征の際に、プロモーターの意に逆らって本土で試合をすることができなくなり、ハワイに渡って、そこで力道山と出会っています。
力道山VS木村戦でもやはり、途中でさまざまな仲裁が入って、引き分けで収めるという裏約束が交わされました。木村は自伝で、「はじめに引分とし、もう一度引分をくりかえし、そのつぎに相手が勝ち、そしてこっちが勝つという取決をした」(『鬼の柔道』)と、密約の存在を明かしています。

筋書きの決まった猿芝居を演じるのに、猛特訓は必要ありません。
こうしてすっかりやる気を失った木村は、泥酔した姿を倍達の眼前に晒し、失望させます。
しかし、この油断が木村に、地獄を見させることになるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
大山倍達著『ケンカ空手 世界に勝つ』スポーツニッポン新聞社、1972年
大山倍達著『大山空手もし戦わば』池田書店、1979年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
ボム・ス・ファ著、金至子訳『我が父、チェ・ペダル 息子が語る大山倍達の真実』アドニス書房、2006年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年