ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(12)─ 東條英機暗殺計画 《前編》

2015年12月21日 | 日記
除隊して郷里の熊本へ帰っていた木村政彦は、ある日、驚天動地の知らせを受けます。なんと恩師の牛島辰熊が、時の首相東條英機の暗殺を企てたとして、昭和19(1944)年9月3日、憲兵隊に逮捕されたというではありませんか。
政彦が急ぎ上京すると、東京はほとんど焼け野原と化していましたが、赤坂台町の牛島塾は運よく焼け残り、栄養失調で痩せこけた塾生数名が、師匠の安否を気づかいながら留守を守っていました。
政彦が彼らと話していると、そこに塾を張り込んでいた憲兵たちが踏み込んで来ました。牛島の一番弟子である政彦は一味ではないかと疑われ、連行されてしまいます。彼は午後2時から7時まで、5時間余にわたり顔の形が変わるほどの拷問を受け、取り調べられましたが、「知らぬ、存ぜぬ」と押し通し、最後は調べに当たった憲兵少佐も根負けし、「ウロウロせず、まっすぐ田舎へ帰れ!」と追い払われました。

こうして政彦は、東條首相暗殺計画への関与はなかったと判断されて釈放されたのですが、実は必ずしもそうではなかった可能性があるのです。その点については後述するとして、まずは牛島がなぜこのような大それた事件を起こすことになったのか、その経緯について見ていくことにしましょう。

牛島には柔道家としての顔のほかに、思想家としての一面がありました。彼は石原莞爾<かんじ>の東亜連盟(正式名称は東亜連盟協会)に関与していました。
石原は昭和6年、満州に駐屯していた大日本帝国の陸軍部である関東軍の作戦主任参謀(当時中佐)として満州事変を計画、実行した人物です。彼には「世界最終戦論」という独自の戦争理論がありました。これは、戦争技術が発達した結果、ついにはその破壊力が極限に達し、短期間の戦闘で大勢の人々が死ぬだろう、そして地球上の人口は半減し、もう戦争はできなくなるというものです。それを契機に世界は専制主義でも自由主義でもなく、資本主義でも共産主義でもない王道主義のもとに一つとなり、人類の悲願である永久平和が実現するのだと石原は主張しました。

日中戦争が勃発した昭和12年、理想家で天才肌の石原は、行政処理能力に優れ、陸軍に多かった無難な秀才タイプの参謀長東條とそりが合わず、参謀本部作戦部長から関東軍副参謀長に左遷され、翌年には舞鶴要塞司令官、さらにその翌年には京都第16師団長へと飛ばされ、昭和14年に東條内閣が成立すると、戦争に反対していた彼は、ついに退役となりました(当時中将)。
しかし、野に下ってもなお憂国の情止みがたい石原は、同年、東亜連盟を結成しました。彼の世界最終戦論に基づき、将来日本が盟主となって世界統一のための決戦を、太平洋を挟んだアメリカを相手に行うには、日本、満州、中国などアジア各国が、1.政治の独立、2.軍事の共同、3.経済の一本化、4.文化の交流の4原則によって一丸とならなければなりません。そのための活動が、東亜連盟運動でした。

昭和13年春、牛島は剣道家でもあり、義兄弟の契りを結んでいた陸軍の今田新太郎少佐(後に少将)の紹介で、麹町下六番町の満州国協和会東京事務所で石原と出会います。その時石原は異民族統治について、
「軍事力にも限度があり、長くなると弱ってくるから、徳をもって民心を収攬せねばならん」
と語りました。牛島はこの一言に、ハッと胸を打たれました。
かつて昭和9年の第2回天覧試合に敗れた後、己の肉体が衰えつつあることを悟った牛島は、天覧試合制覇の悲願を達成するために木村政彦をスカウトして育て上げたのですが、その一方で、柔道以外の生き甲斐を見出すことができずに煩悶としていました。
「柔道も弱って来たら徳をみがかなければ、人を教える何ものもない。個人の武も、国家の軍事も窮極には一致し、武の極意は徳だ」(『志士牛島辰熊伝』)
長い間、胸につかえていたわだかまりが一度に晴れた牛島は、以後、石原を導師と呼び、彼に傾倒していきます。そして、かねてよりの持論である「武道とは建国精神の発揮である。国を離れて武道は無い。国難に当って匹夫にも責あり」(前掲書)という信条に従い、国事に奔走することに情熱を燃やしました。

昭和16年の真珠湾奇襲を皮切りに太平洋戦争に突入して以来、攻勢を続けていた日本軍ですが、翌年6月のミッドウェー海戦の惨敗で、情勢は一変しました。18年、19年と次第に劣勢に追い込まれていったにもかかわらず、大本営発表は真実を伝えることなく、日本が置かれた危機的状況を知る国民はほとんどいませんでした。東條は反対勢力をみな遠ざけ、強引に拡大方針を貫きました。「陸軍の豹」とあだ名され、反東條をもって鳴った硬骨漢の今田新太郎も、ニューギニア戦線に飛ばされてしまいます。

 
牛島辰熊が暗殺しようとした東條英機の墓(雑司ヶ谷霊園。東京都豊島区南池袋4-25-1、1種1号12側)

昭和19年正月、牛島は家族を沼津に疎開させ、自分だけは赤坂台町に留まっていましたが、塾生たちもすでに学徒動員で次々に出征していき、ガランとした家で、戦況の前途を憂いて居ても立ってもいられない気持ちに苛まれていました。
そんな彼のもとへ6月に入ってすぐ、同志の津野田知重陸軍少佐が訪ねて来ました。大本営参謀部3課に配属された彼は、そこに保存されている秘密文書を見て、日本軍の予想していた以上の惨状に驚愕したというのです。
「極秘文書を整理して、一通り目を通した結果は、間違いなく日本は敗れるということだ。だが東条は今もって国民を偽瞞し、勝った勝ったと出鱈目の発表をしているが、全く天を怖れざるも甚しい。一歩ゆずって彼にいささかの私心がなく、善意に出発しているとしても、それは善意の悪政であることに変りはない。今や勝利はおろか、どうしてこの戦争を終局にみちびくか・・・ということが焦眉の問題になってしまった」(『志士牛島辰熊伝』)

現状を転換するためには、どうしても東條を退陣させる必要があると考えた二人は、話し合った結果『大東亜戦争現局に対する観察』という献策書を作り、三笠宮、高松宮、秩父宮ら皇族を通じて天皇陛下に直接渡してもらうことにしました。そして、書き上がった献策書を石原莞爾に見せるため、彼が隠棲する山形を訪ねます。
石原は牛島たちを奥の間に通し、正座してそれを読み終えると、顔を上げてじっと彼らを見つめました。献策書の欄外に、「非常手段──万止むを得ざる時には、東條を斬る」という一文があったからです。
石原は「一晩考えさせてくれ」と言って彼らを家に泊まらせました。翌朝、二人が起きてくるのを座敷で待っていた石原は、献策書の末尾に赤鉛筆で、「斬るに賛成」と書き添えました。

こうして石原莞爾から東條を葬る承認を得た牛島と津野田は、東京に戻るとすぐ、勇んで暗殺計画を練り始めたのです。


【参考文献】
川原衛門著『近代武道龍虎伝』巻1 柔道日本一 しなの出版、1969年
牛島辰熊先生古稀記念会編『志士牛島辰熊伝』牛島辰熊先生古稀記念会、1974年
工藤雷介著『改訂普及版 秘録日本柔道』東京スポーツ新聞社、1975年
大杉一雄著『日中戦争十五年史 なぜ戦争は長期化したか』中央公論社、1996年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

政彦と又蔵(11)─ 木村政彦、除隊の真相

2015年12月13日 | 日記
昭和19(1944)年3月、二等兵から一等兵に昇進した木村政彦は、千葉防空隊へ転属になりました。
それから3ヵ月後、殺しても死なないくらい頑健そのものだった政彦が、入院したあげく、なんと除隊になってしまうのです。

その原因については、自伝『鬼の柔道』には「左肘骨折の機能障害」、工藤雷介著『秘録日本柔道』や川原衛門著『近代武道龍虎伝』では中学時代に上級生と喧嘩して、ナイフで刺された右股の古傷が悪化、化膿したためと書かれています。
本来なら、自伝に書かれている方が正しいと考えるのが普通なのでしょうが、そう単純に言えないところが、木村政彦という人間の厄介なところです。
それは、増田俊也氏も指摘しているように、政彦が唯一自分のすべてを賭けて取り組んだ柔道のこと以外は、「自伝を書いたゴーストライターや『近代武道龍虎伝』の著者川原衛門に対して、よみがえるままの適当な記憶を適当に語っている」(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)からです。
そうした政彦自身のいい加減さもありますが、症状の記録が不明確なのはそればかりでなく、いかなる理由でもかまわないから、彼を軍隊から離脱させようと画策した人間がいたからではないでしょうか。
僕がそう考えるのは、『わが柔道』に書かれた次のようなエピソードが根拠です。

一等兵昇進の直後、「戦地に行きたい者は速やかに申し出るように」という掲示が出されました。いよいよ来るべき時が来たと覚悟を決め、政彦を含めた初年兵全員がこの出陣に志願しました。志願者たちに与えられた5日間の特別休暇で帰省し、今生の別れとなるやもしれぬ両親の顔と、故郷の山河をしっかりと目蓋に焼きつけた政彦が隊に戻った翌日、大隊長から呼び出しがかかりました。

何事だろうといぶかりながら出かけると、大隊長は部屋に入って来た政彦にウイスキーを勧め、自分も柔道が好きで、政彦の強さには及ぶべくもないが、四段まで行ったのだと話し始めました。それから、政彦が銃剣術の名人を思いもよらぬ手で倒してしまった試合のことを賞賛し、対戦した相手も「さすがは天下一の柔道の名人だ」としきりに感心していたと告げました。

ここまで話してきて、大隊長は少し考え込むように視線を落とし、
「これは極秘中の極秘だから、決して他言しないように」
と前置きしてから、声を落として訊ねました。
「今度の戦地行きに、君の名前も出ているが、本心から行きたいのかね?」
政彦が、「ええ、是非行きたいのであります」と答えると、大隊長は「そうか、それは困った、困ったな」と、困ったを連発しました。何が困るのかと、政彦が大隊長の真意を測りかねていると、
「今回の戦場はね、ソロモン群島なんだ。そこへ高射砲などいろんな機材を積んだ輸送船に、大勢の兵隊が分乗して行くという任務だ。当然、敵のB29が待ち構えていて、我々を阻止するだろう。これは、まったく無謀な作戦だ。まず全員が海の藻屑と消えることになるだろう」


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を漫画化した作品『KIMURA』(原田久仁信・画。双葉社)

なんとも恐ろしいことを言い出すではありませんか。行けば必ず死ぬというのですから、確かに他人に言えるような話ではありません。大隊長はさらに続けます。
「どうだ、同じ日本のために尽くすつもりなら、戦場で無駄に散るより、柔道の才能を生かして国のために働くのが本当だとは思わんかね。少なくとも僕はそう思う。さあ、それでも行きたいと言い張るのかね?」

たいへんありがたい心遣いではありますが、今さら生死をともにすることを誓い合った仲間たちを裏切るわけにもいきません。
政彦は頑なに「はい、行きたいであります」と答えました。すると、大隊長は急に口調を変えて、
「上官の命令は、これ天皇陛下の命令であるぞ。行くことはならん!」
と厳しく命じました。こうなっては、もう従うよりほかありません。
政彦はついに、出陣希望を取り下げたのです。

後に政彦が聞いた話では、彼が乗り込むはずだった輸送船団は大隊長の予想通り、ソロモン群島へ到着する直前にB29の大編隊に発見され、船上に油を湯水のごとくばらまかれた上、無数の爆弾を浴びて炎上し、500人以上の兵士が亡くなったということでした。生き残ったのはわずかに1名で、全身に火傷を負いながらもなんとか島へ泳ぎ着いたのだそうです。

危うく海の藻屑となるところを辛くも命拾いした政彦は、前述のように右肘、あるいは右股の故障を理由に入院し、伊東温泉で湯治した後、九州の小倉陸軍病院に回されて、そのまま昭和20年2月(『近代武道龍虎伝』『秘録日本柔道』。『鬼の柔道』では昭和19年)に除隊となりました。

僕は、この政彦の入院、除隊の経緯は、件の大隊長あたりの差し金ではなかったかと睨んでいます。
長年にわたる過酷な柔道人生で、政彦の肉体には至る所に古傷や、小さな不具合があったことでしょう。実際にはそれらが入院治療を必要とするほど深刻なものではなかったとしても、大隊長の力をもってすれば、政彦を病院送りにすることくらい可能だったはずです。

こうして晴れて(?)、軍隊を去ることができた政彦ですが、今度はシャバ(娑婆。軍隊では外の世界のことをこう呼んだそうです)で、命の危険に晒されることになります。
それもあろうことか、恩師牛島辰熊の手によってでした。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
川原衛門著『近代武道龍虎伝』巻1 柔道日本一 しなの出版、1969年
工藤雷介著『改訂普及版 秘録日本柔道』東京スポーツ新聞社、1975年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年