ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(10)─ 師弟、親子、それぞれの戦争

2015年11月01日 | 日記
木村政彦は昭和17(1942)年1月、福岡の高射砲第4連隊補充隊に入隊、二等兵となります。
彼は軍隊においても、持ち前の負けん気を発揮しました。

銃剣術の稽古でのことです。政彦は隊長に命じられて、東京から来た日本一といわれる名人と立ち合います。「どこからでも突いて来い」と言われても、兵役に就くまで一度も木銃など握ったことがない彼には、一分の隙もない相手に対して攻撃の手立てがありませんでした。
そこで政彦は意表をつく行動に出ます。とっさに木銃を投げつけてタックルをかまし、ひっくり返ったところを馬乗りになって面をはずし、ダメ押しの一撃を加えんとするのを、危うく中隊長に押しとどめられました。

こと勝負に関しては一切の妥協を許さない政彦は、たとえ畑違いの銃剣術であろうと、どのような手を使ってでも、むざむざ敗北を喫するわけにはいかなかったのです。
自伝『鬼の柔道』や『わが柔道』で語られ、夢枕獏の長編格闘小説『東天の獅子』にも取り上げられたこのエピソードをはじめ、彼の軍隊時代の武勇伝はいくつも残されています。

『東天の獅子』第1巻。序章に木村政彦が登場します

同じ頃、木村又蔵の長男もまた、軍隊入りすることになります。かつて、又蔵が泳ぎを覚えさせるために川にほうり込んだのを、政彦が網ですくい上げた、あの武則です。
昭和18年、中学校を卒業した武則は、熊本の東洋語学専門学校へ進学しました。アジア各地で現地住民の宣撫工作に従事する語学のスペシャリストを養成する学校で、マレー語を専攻した武則は、あわよくば派遣地の人々の間に溶け込んで、そのまま日本を脱出してしまおうと夢想し、希望に胸を膨らませて学んでいましたが、10月には大学生や高等・専門学校生の徴兵猶予が停止され、翌年、20歳になった武則も海軍予備学生として出征することになりました。

そう、多くの若者たちが学業半ばで戦地へ送られた「学徒出陣」です。そして、戦局が厳しさを増す中、もはや残された道は勇ましく死ぬよりほかにないと、武則は特別攻撃隊に志願しました。
知らせを受けた父又蔵は、悲しみを堪えて「とうとう武則も軍神になるか」とだけつぶやき、その日から道場の神棚に武則の写真を掲げて祭壇を作り、毎日陰膳を据えるよう家族に言いつけて、自分はそれを掃除することを日課としました。

武則の出征から間もなくの昭和19年10月5日、又蔵が心から崇敬する頭山満が90歳で亡くなります。
又蔵はそれまでに昭道館、武士道館、文武館と三度道場を立ち上げてきましたが、その間物心両面からなにくれとなく支援してくれた頭山の死は、愛するわが子を失おうとしている彼の落胆をいっそう深めました。運命とは残忍なもので、そんな又蔵に、さらなる災難が追い打ちを掛けます。

 
 大陸進出を主張した国家主義者・頭山満の墓(青山霊園。港区青山2-32-2、第8号1種ロ1-14側38番)

近所にある鉄工所の5歳になる娘が、まるまると太った鶏を飼っていました。戦時下の食糧不足で腹を減らしていたという事情もあったのでしょうが、なんと派出所の巡査が娘をだまして、栄養失調で死にかかったヒヨコと交換し、持ち去ってしまうという事件が起こります。軍に命じられた弾丸製造に大わらわの隙をつかれた父親の鉄工所社長は、急ぎ仕事に区切りをつけて巡査の自宅を訪れますが、あわれ鶏はすでに鍋の中で旨そうな匂いをたてていました。
社長の抗議に対して巡査は、娘にせがまれて親切心でしたことで、ヒヨコもその時は元気だったと言い張ります。そして、そのことが噂になって広がると、警察は報復として空襲の警戒警報中に社長宅の庭に忍び込み、雨戸の節穴から家の中を覗き、まだ電灯の暗幕が降りていないのを見つけると、灯火管制不履行の咎<とが>で社長を拘留してしまいました。

あまりに横暴な仕打ちに、正義感の強い又蔵は警察に乗り込みます。そして、
「敵機が民家の縁先まで舞い降りて来て、いちいち雨戸の節穴から覗き回るわけじゃなし、明かりが戸外へ漏れさえしなければ、防御は充分じゃなかか。巡査も幼児と取り引きせず、家長と相談せんか。鶏を食いたけりゃ食いたいと正直に言えば、一億火の玉決戦の時局下、潰す時には気持ちぐらいの裾分けはしてくれよう。それを逆恨みの粗探しばして、無法な懲罰ば加えるとは卑劣ぞ。しかも弾丸製造所が社長不在では、戦力にも支障ば来す」(木村武則著『柔道一本槍』より要約)
とまくし立て、ついに社長を釈放させてしまいました。

しかし、警察が又蔵にやり込められたままで、黙っているはずはありません。彼の身辺を洗い、町内防衛部長の任にあるにもかかわらず、官令に従わなかったり、時には下部への伝達さえ怠っている事実を突き止めました。

熊本が連日の空襲にさらされていたある夏の日のことです。風邪をひいた又蔵は、防空壕を掘れという官令を無視して、家には形ばかりの穴を掘って済ませ、代わりに待避所と決めていた橋の下で寝ていました。すると、そこへ2人の刑事が現れて彼を引っ立て、警察車に押し込んで連行してしまったのです。
熊本南署に留置された又蔵は、スパイ容疑をかけられて厳しい尋問を受けました。長尾司法主任とともに取り調べに当たった太沼刑事部長は、柔道の道場主である又蔵に、
「木村先生、十字絞めのやり方ば教えてはいよ。確か、こぎゃんでしたか?」
と言って、力まかせに絞め上げました。抵抗しても罪が重くなるだけなので、又蔵はじっと我慢するほかありませんでした。

日が経つにつれて、栄養不足のため歯が弱っていくのを感じた又蔵は、それを防ぐために柱や鉄柵をガリガリかじりながら、武則戦死の知らせを受け次第、太沼を噛み殺し、長尾をもやっつけてやろうと心に誓い、文字通り歯を食いしばって耐え抜きました。
風邪の熱にも苦しめられながら、苛酷な留置生活を送っていた又蔵ですが、この非常時にいつまでも偏屈者にかかずらわっている場合ではなくなったのか、戦争終結寸前に釈放されました。

昭和20年8月に迎えた日本の敗戦は、又蔵の息子武則の命をも救います。嵐部隊の魚雷艇長として出撃した武則は、寄港した宮崎の基地で終戦を迎えました。残務整理を済ませて半月後にようやく郷里へ戻った武則は、その帰途に熊本駅で思わぬ人物と再会します。

それは、ある事情から終戦を待たずして一足先に除隊し、職にありつくチャンスを求めて人の集まる場所にやって来た父自慢の愛弟子、木村政彦でした。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年
夢枕獏著『東天の獅子 第1巻 天の巻・嘉納流柔術』双葉社、2012年