ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(完)─ 全てはこの師弟から始まった

2016年02月22日 | 日記
昭和20(1945)年8月15日、昭和天皇の玉音放送が戦争の終結を告げてから半月あまりが過ぎた頃のことです。木村政彦は同じ年の7月に19歳の斗美<とみ>と結婚していましたが、彼はしがない闇屋稼業の身であり、新妻を養うためにも堅気の仕事に就く必要があると考えたのでしょう、人が大勢集まる場所に行けば何らかのチャンスに巡り合うこともあろうかと、職を求めて熊本駅にやって来ました。
そこで彼は、思わぬ人物と再会します。子どもの頃、泳ぎを覚えさせるため父親の木村又蔵に、川上から流されては政彦の網で掬われていたあの武則が、今度は人波に流されてこちらの方へ向かって来るではありませんか。
戦時中は魚雷艇の艇長を務めていた武則が、ようやく残務整理を終え、故郷に帰って来たのです。海軍土産の缶詰がぎっしり詰まったトランクを担いだ彼は、改札口を出た途端、「昭道館の坊ちゃんじゃないですか?」と声をかけられました。

「憶えておられますか? 川尻の木村政彦です。よう御無事でお帰りになられましたね」
半袖シャツに白ズボン姿で目の前に現れた男は、紛れもなく父がもっとも愛してやまなかった最強の弟子、木村政彦でした。
「憶えております。政彦さんも御無事でしたか!」
「お蔭さまで生きてだけはいます。川尻でお別れして以来、ずっと先生にはお会いしておりません。これから私も御無沙汰のお詫びかたがた、御挨拶にうかがわせていただきます。さあ、一緒に帰りましょう」
そう言うと、政彦は武則が恐縮して遠慮するのも構わず、彼の肩の荷を引き取って提げ、二人して又蔵の家へと向かったのです。懐かしい恩師との再会への期待に、政彦の胸はさぞ踊ったことでしょう。ところが彼を待っていたのは、およそ歓迎とはほど遠い、思いもよらぬ冷たい仕打ちでした。

その頃又蔵は、戦争が終わっても一向に武則からの音沙汰がないので、てっきり死んだものと思い気落ちしてしまいました。終戦間際、夏風邪をひいて寝込んでいるところを警察に逮捕され、拷問まがいの取り調べを受けたこともよくなかったのでしょう、又蔵はすっかり心身を蝕まれ、病床に臥せっていました。
そんな時、あきらめていた息子が突然、帰って来たのです。にわかには信じようとしない父に、政彦を玄関に待たせた武則は、又蔵の枕元に立って、幽霊ではなく、足のあるところを見せました。又蔵は武則の姿を上から下まで念入りに見定めてから、「よう生きて戻った」と涙を流して喜びました。

「お父つぁん、今玄関に川尻の政彦さんのおいでとるけん、上がってもらおうか?」
武則がそう言っても、又蔵の頭は息子のことでいっぱいで、ほかのことが入りこむ余地はありません。
「川尻の政彦ちゃ、誰か?」
「うちの門人だった木村政彦さん」
「ああ、あの政彦か。そん政彦が何しに来たか?」
「何しにって、長らく御無沙汰されたけん、今日は挨拶に来られたつたい」
「御無沙汰は分かっとるが、何で今ごろ挨拶に来たつか?」
「ちょうど熊本駅で会うて、荷物も持ってもろうたけん、ちょっと上がってもらおうか?」
しかし又蔵は、「今日は会わんけん、戻ってもらえ」と取り付く島もありません。

「せっかく親切で来て下さったつだけん、ちょっとだけでん上がってもろうて・・・・・・」
しぶる又蔵を、なおも政彦と会わせようとする武則に、とうとう又蔵が切れます。
「ええい、親切親切せからしゅう言うな! 親切ならありがたく受けとけばそれでええ。今は誰にも会いとうなか。てっきり死んだと思うとった息子が、こうして生きて戻って来た。今の俺は親として、おまえ一人ば迎えたか。こういう時に親切ごかしに、のこのこ付いて来る礼儀知らずば、どこにおるか!」
そんな親子のやり取りを玄関で聞いていた政彦は、いたたまれずに外へ出ました。物音で気づいた武則が、慌てて後を追います。

「政彦さん、ちょっと待って下さい! せっかく訪ねて下さったのに、あいにく父は病気です。どうかこれだけでも」
武則があり合わせの破れ風呂敷に乾パンと缶詰を包んで政彦に持たせようとすると、振り向いた彼は、
「私は先生が思うとられるような気持ちでうかがったわけではありませんと、よろしくお伝え願います」
そう言うと、足も止めずに去って行きました。気のせいか、肩が下がってどこか寂しげに見える政彦の後ろ姿を、武則はただ呆然と見送るよりほかありませんでした。

この経験は、政彦の心を少なからず傷つけたはずです。彼が自伝の中で又蔵について語る時、その表現にどこかトゲがあるのは、愛憎半ばする複雑な感情があるからだと僕には思えてなりません。しかし実際のところ、政彦には又蔵に対して、そんなことでは帳消しにできないほどの深い恩義があったのです。

話は昭和6年、政彦が尋常高等小学校2年の時に遡ります。家が貧しくて、2年制の高等小学校を卒業したら家業に専念することになっていた政彦が柔道を続けることができたのは、旧制鎮西中学の柔道教師小川信雄が、全九州相撲大会での圧倒的な強さを見てスカウトしたからでした。そして、親友だった小川を相撲大会に誘ったのは、政彦の才能を惜しんだ又蔵だったのです。
こうして鎮西中に入学することができた政彦は、やがてもう一人の恩師牛島辰熊と出会い、その指導を受けて見事、全日本柔道選士権大会3連覇を成し遂げました。その時、又蔵と小川は政彦のために祝杯を交わしています。
「あれが使う大外刈りは、儂が教えた通りの技たい」と小川が言えば、「なんの、政彦が決めよるとは大外落としで、先に儂が教えた技たい」と又蔵が返すといった調子で、愛弟子の成長を心底喜んでいました。

もしあの気まずい別れさえなければ、政彦と又蔵はずっとよい師弟関係のままでいられたはずです。
現に一方の牛島とは、戦後もずっと深い付き合いが続きました。ともにプロ柔道の立ち上げに参加し、やがてプロレスに転向した政彦が、あの宿敵力道山と血みどろの決戦を行った際も、牛島は政彦と力道山の双方に関わっています。
それらの話については、この同じブログの中の「木村政彦と大山倍達」「鬼の柔道VSグレイシー柔術」で詳述しているので、そちらを読んでいただきたいと思います。


目黒不動尊こと瀧泉寺(東京都目黒区下目黒3-20-26)。牛島辰熊は毎月決まった日に赤坂台町(現在の港区赤坂7丁目)の牛島塾からここまで木村政彦たち塾生を連れて走って来て、滝行をしていました

武則の著書『柔道一本槍』によれば、小川に見出されたのが又蔵の陰の工作によるものだということを、政彦は知らなかったようです。しかしもし知っていたら、あるいは病んだ又蔵が玄関まで来ていた政彦に投げかけたという次の言葉を実行に移していたかもしれません。
「そぎゃん挨拶に来たければ、選りにも選って、こういう大事な時に来ず、よう考えて出直して来い!」
なぜなら、又蔵の尽力がなければ政彦の栄光に輝く半生はなく、それどころか彼の柔道家としての価値を惜しんだ上官によって死地へ赴くのを救われることもなく、無名の一兵士として海の藻屑と消えていたかもしれないのです。その恩恵の大きさは、政彦も強く感じたはずです。

終戦直後という異常事態の時にではなく、お互いに平穏な気持ちで対面して語り合えば、もともと似た者同士の二人です、きっと昔のように、いや、それぞれに長い辛苦の時を乗り越えて来た師弟は、かつて以上に心を通わせることができたに違いありません。それを思うと、実に残念です。

師弟の和解がなされないまま、木村又蔵が紆余曲折こそ多かったけれど、義だけは貫き通した62年の生涯を閉じたのは、昭和32年6月15日のことでした。


【参考文献】
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

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1 コメント

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Unknown (anonymous)
2018-03-15 06:16:05
遅れながらも一連の記事拝読させていただきました。

「政彦と又蔵」の記事は、増田氏著の木村政彦本で掘り下げられなかった木村又蔵氏の救済が果たされる名記事だったのではないだろうか、と少なくとも私は思っている。
特にこの最終話のエピソードなどはもっと広く知られるべきである。
木村又蔵という人物が木村政彦その生涯に(意図がなくとも)与えた大きな影響、そしてその心に与えた傷、どちらも増田氏著の本で拾い上げるべき内容であった。

そんなことを思いながら「なぜ殺さなかったのか」巻末の主要参考文献の一覧に目を通す。
しかし、そこに「柔道一本鎗」は無いのである。これではほとんどの者は木村又蔵は本が出るほどの男と気づかぬままではないか!
1000点を超える資料に当たった増田氏がこの本を見落とすことは考え難いが…見落としていないならば木村又蔵についてもう少し取り上げただろうし、主要参考文献にも載せていたことだろう。

憤りともなんとも言えない感情まで湧き上がって胸中で渦巻いているが、支配的なのはひろむしさんへの感謝の気持ちである。
間に合って良かった…ひろむしという男がいなければ俺は生涯、木村又蔵を ”あの木村政彦の最初の師匠で、けっこうやんちゃだった柔道家……” との認識しか持てなかった。
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