ひろむしの知りたがり日記

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柳生宗冬のボウフラ剣法─広徳寺(3)

2012年06月23日 | 日記
柳生藩3代藩主の飛彈守宗冬は、遅咲きの人でした。

慶長18(1613)年生まれの宗冬は、兄十兵衛三厳が幼い頃から剣の天才ぶりを発揮したのと違って生来病弱で、武芸より文学を好むような少年でした。

14歳で3代将軍徳川家光の小姓となってからも、相変わらず武術の稽古は怠りがちでしたが、18歳の時に土居能登守の屋敷で喜多十太夫の申楽能<さるがくのう>を観て、入神の芸に深く感じ入り、心機一転、柳生新陰流の修行に励むようになりました。
能を観て剣術に目覚めるというのも突飛な感じはしますが、武術は武芸とも言いますし、芸能とは同じ芸の道同士、なにか相通じるものがあったのでしょう。

正保3(1646)年に父宗矩が亡くなった時、その所領1万2,500石は子どもたちに分与され、誰も1万石を超える者がいなくなったので、柳生家は旗本の地位に落ちてしまいました。3男だった宗冬がもらったのは4,000石でしたが、慶安3(1650)年には十兵衛も死んでしまったので、その遺領8,300石を継承しました。これで合わせて1万2,300石・・・というわけにはいかず、もともと持っていた4,000石は取り上げられてしまいます。
1,700石が加増されて総石高1万石となり、柳生家がようやく大名の地位に返り咲くことができたのは、それから18年後の寛文8(1668)年12月26日のことでした。

剣術家としてのスタートは遅かったものの、精進の甲斐あって宗冬は、明暦2(1656)年、44歳の時に4代将軍家綱の兵法指南役となりました。また寛文元(1661)年には、後に5代将軍となる館林藩主の綱吉にも、柳生新陰流を教えています。
虚弱体質の兵法嫌いがここまでになったのですから、よほど猛稽古を重ねたのでしょう。
野球選手が打撃の際に、食いしばって歯をダメにするのと同じような理由からなのか、あるいは稽古中の事故で顔面を強打して砕けてしまったのか、宗冬は上下全ての歯を失い、入れ歯を使用していました。
広徳寺が下谷から現在地に移る際に掘り返した宗冬の墓からは、台は柘植<つげ>の木、歯は蝋石で作られた、世界初の総入れ歯が見つかっています。


広徳寺勅使門(東京都練馬区桜台)

能を観ていて剣の道に目覚めるようなお方ですから、宗冬は常人とは目のつけどころがちょっと・・・いや、かなり違っていました。
晩年、柳の木のそばにある池の畔をブラブラしていたところ、水の中を浮きつ沈みつして滞ることのないボウフラの動きを見てインスピレーションが湧き、工夫をこらして剣の奥義を覚ったというのです。
ある意味彼は、父宗矩、兄十兵衛に勝るとも劣らない天才だったのかもしれません。

そんな宗冬を耐え難い不幸が襲ったのは、延宝3(1675)年のことです。兵法の才があり、性格も良くて人望があった嫡男宗春が疱瘡<ほうそう>を患い、2月3日に亡くなってしまったのです。まだ27歳の若さでした。

兵法家らしからぬ繊細な感受性の持ち主だった宗冬にとって、このショックは相当に大きかったのでしょう。それからわずか2ヵ月後の4月には自らも重い病にかかり、同じ年の9月29日、我が子の後を追うようにこの世を去ります。享年63歳でした。
病名は膈症<かくしょう>といい、今で言う胃がんや食道がんに当たるそうです。

兄と父が相次いで死亡してしまったため、宗冬の2男宗在<むねあり>が家督を継ぎました。6代将軍家宣<いえのぶ>の兵法指南役を務めましたが、貞享4(1687)年に、やはり36歳の若さで病没してしまいます。

広徳寺の柳生家墓所にある3基の五輪塔は、それぞれ初代宗矩、2代三厳、3代宗冬のものですが、墓の前に立つ案内板には、4代宗在の名も記されています。単独の墓塔がないのは、おそらく五輪塔の横に並んで立っている、「子爵柳生家之墓」と刻まれた墓に合葬されているからでしょう。


柳生家墓所。墓塔は右から宗矩、三厳、宗冬、子爵柳生家之墓。下はそれらの前に立つ案内板


柳生家と同じように徳川幕府の草創期を支え、陰働きも果たしたとされる家に、4月29日から5月13日の日記で取り上げた服部半蔵家がありました。
正就の横暴が原因で旗本の地位を失いましたが、柳生家の場合も、もし梟雄と言われた十兵衛がもっと長生きして、再び将軍家の怒りを買うようなことにでもなれば、取り潰されるという事態もありえたでしょう。
そう考えると、宗冬のように派手さはないけど、心の細やかな人物が早くに家督を継いだことは、柳生家にとって幸いだったのかもしれません。

柳生家は宗在の後も俊方<としかた>・俊平<としひら>・俊峯<としみね>・・・・・と続き、明治維新を迎えるまで、大名としての地位が揺らぐことはありませんでした。



【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第17』続群書類従完成会、1965年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館、1993年
今村嘉雄著『定本 大和柳生一族─新陰流の系譜』新人物往来社、1994年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年
山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2007年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年

柳生一族人気ナンバー1、十兵衛三厳の真実─広徳寺(2)

2012年06月11日 | 日記
東京・練馬の広徳寺境内の西端には、まるで時代劇の中で兵法者が敵に囲まれて斬り合いを演じるシーンに出てきそうな竹林があります。その東に面して大名家墓地が広がっており、その一角に位置しているのが柳生一族の墓所です。
そこには五輪塔が3つ並んで立っていますが、その一番右端のものが、前回の日記で紹介した初代柳生藩主宗矩の墓碑で、隣がその長男十兵衛三厳<みつよし>です。

生まれたのは大和国(奈良県)添上郡柳生、慶長12(1607)年のことです。
柳生家の家史『玉栄拾遺』は十兵衛のことを、「弱冠にして天資甚だ梟雄<きょうゆう>」と記しています。生まれつき苛烈で猛々しい性格の持ち主だったようです。
彼は幼い頃から家伝の新陰流を学び、天稟の才を発揮しました。剣の技量は父を凌駕していたといいます。
十兵衛といえば、隻眼の剣豪というイメージが定着しています。稽古中に誤って右目を傷つけて失明したなどとされますが、実のところ、独眼であったのかどうかは定かではありません。

元和2(1616)年にはじめて2代将軍徳川秀忠に拝謁し、同5年、13歳で3代将軍家光の小姓となりました。剣術の稽古の相手を務めるなど寵遇されましたが、寛永3(1626)年、家光の勘気に触れて致仕します。
家光の怒りはなかなかとけず、同15年9月17日にようやく許され、後に書院番となりました。
勘気をこうむった理由はよくわかっていませんが、柳生家と親交の深かった禅僧の沢庵宗彭<たくあんそうほう>が赦免された年の11月15日付の十兵衛宛書簡で、「酒さえ飲まなければ、万事うまくいく」と諭していることから見て、何かアルコール絡みの失態があったのかもしれません。


許されるまでの12年間、十兵衛はいったい何をしていたのでしょうか?

その大半は郷里の柳生にいて剣の探究に心魂を傾けていたようですが、諸国を巡り歩いたともされます。
『玉栄拾遺』には、父の領地である武蔵国(東京都等)八幡山辺りで山賊を懲らしめたり、山城国(京都府)梅谷で賊を追っ払ったりといった遍歴中の武勇伝が記されています。


広徳寺の竹林。編笠を被った十兵衛が向こうから歩いてきそう・・・。

隠密だったとの説もあります。父の宗矩が諸大名の動向を監視する総目付を務めており、小姓は将軍の警護役という一面もあったので、家光の密命を受けて諸国を探索して歩いたのでは、と妄想が膨らみますが、残念ながら裏付けとなる史料は何も存在しません。
まぁ、痕跡を残すようでは、隠密にならないと言えなくもありませんが・・・。

兵法の研究に勤しんでいたことは確かなようで、「昔飛衛<ひえい>といふ者あり」との書き出しで始まる、柳生新陰流についての処女論文を書き上げたのは失職中の寛永14(1637)年です。十兵衛はその後も研究を重ね、同19年には代表作となる兵法書『月之抄<つきのしょう>』を完成させました。ちなみに飛衛とは、中国の古典『列子』に出てくる弓の名人です。

また十兵衛は、柳生正木坂に道場を開いて剣術を教えていましたが、弟子は13,000余人にも及んだといいます。鍵屋の辻の決闘で有名な荒木又右衛門も彼の弟子だったとされますが、弟子の数も、又右衛門のことも真実であるという確証はありません。


十兵衛の剣の実力を示すエピソードとして、次のような話があります。

さる大名家で、腕自慢の浪人と試合をした時のことです。
はじめ木刀を持って立ち合ったところ、2度にわたって相打ちとなりました。
というか、立ち合った相手にも、見ていた大名やその家臣たちにも相打ちにしか見えなかったのですが、納得のいかない浪人が、今度は真剣での立ち合いを望みました。
その結果、両者は再び同時に斬り込んだように見えましたが、浪人が肩先を深く斬られて倒れ伏したのに対し、十兵衛は着物の小袖を斬られただけで、刃は下着にも届いていなかったそうです。
紙一重の差で勝利を収める、まさに神業といえる剣の冴えです!

正保3(1646)年に宗矩が没したため、十兵衛は家督を継ぎ、遺領のうち8,300石を賜りました。
残りは4,000石が宗冬(宗矩の3男)、そして200石が柳生家の菩提寺芳徳寺の寺領として、初代住職となった義仙(宗矩の4男)に与えられました。

しかし、それからわずか4年後の慶安3(1650)年3月21日、十兵衛は知行地の山城国相楽郡北大河原村の弓ヶ淵において、鷹狩りの最中に、血を吐いて急逝してしまいます。まだ44歳の若さでした。


柳生宗矩(奥)と十兵衛三厳(手前)父子の墓塔

死因は、彼が大酒飲みだったことから、長年の飲酒が祟っての肝硬変だったと分析する人もいます。ほかにも梅毒、水死など諸説ありますが、近くの茶屋で伊賀の女忍者が娘に変装して差し出した毒入りの茶を飲んで死んだなど、暗殺説も根強く唱えられています。

なぜ殺されたかという理由も、これまた珍説奇説さまざまです。
川漁によく来ていた十兵衛と里人の間で喧嘩があり、そのために殺されたというもの、異母弟友矩の急死が、実は自分を上回る知行の内示を受けたことを快く思わない父宗矩の命で、十兵衛によって殺されたものであり、友矩の旧臣たちに復讐されたという説などです。
仮にも大名家の御曹司でありながら、十兵衛には隠密説があったり、謎の死を遂げたりとわからないことだらけです。でもそれだけに、否が応でも時代小説ファンの想像力を掻き立ててやまない人物ではあります。

十兵衛亡き後、家督を継いだのは弟の宗冬でした。
彼の生涯と、柳生一族のそれからについては、次回の日記で語ることにしましょう。



【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第17』続群書類従完成会、1965年
河原芳嗣著『江戸・大名の墓を歩く』六興出版、1991年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第14巻』吉川弘文館、1993年
志村有弘・松本寧至編『日本奇談逸話伝説大事典』勉誠社、1994年
今村嘉雄著『定本 大和柳生一族─新陰流の系譜』新人物往来社、1994年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
加来耕三著『武術 武道家列伝』島津書房、1999年
牧秀彦著『剣豪 その流派と名刀』光文社、2002年

剣豪大名・柳生宗矩が眠る広徳寺

2012年06月03日 | 日記
西武池袋線・都営大江戸線の練馬駅から歩いて15分ほどの円満山広徳寺(東京都練馬区桜台6-20-19)に、小説や映画・ドラマの時代劇にたびたび登場し、剣豪一族として有名な柳生家の墓所があります。

広徳寺は後北条氏の菩提寺である早雲寺の子院として小田原に建立されましたが、天正18(1590)年の小田原落城に際して焼失したと伝えられます。その後、徳川家康が江戸神田に再興し、寛永12(1635)年に下谷に移転、加賀藩前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。「びっくり下谷の広徳寺」といわれるのは、このお寺がかつては下谷にあったからです。
ところが関東大震災で再び焼失し、その後の区画整理のため大正14(1925)年から現在地に墓地を移し、別院としました。さらに昭和46(1971)年には本坊も移ってきました。

墓地には柳生一族のほか、茶人で庭園築造にも才能を発揮した小堀遠州(1579-1647)や、文禄・慶長の役などで活躍した立花宗茂<むねしげ>(1569-1642)など、名だたる大名家らの墓所があります。
そのために寺には高価な品々があるので、泥棒が多く簡単には入れてもらえないそうです。ひろむしが行った時は、たまたまた法事が何件か行われており、それらの人たちに紛れて難なく見学できましたが・・・。


広徳寺山門


小堀遠州(上)と立花宗茂(下)の墓

柳生家墓所には、右から順に初代但馬守宗矩<たじまのかみむねのり>、2代十兵衛三厳<みつよし>、3代飛弾守宗冬<むねふゆ>、それから明治に入って子爵となった柳生家歴代の墓碑が並んでいます。

初代の又右衛門宗矩は元亀2(1571)年、石舟斎宗厳<せきしゅうさいむねよし>の5男として大和国(奈良県)添上<そうのかみ>郡柳生に生まれました。
彼は剣聖と呼ばれた父に、幼い頃から新陰流剣術をたたき込まれます。
文禄3(1594)年、父石舟斎は京都西郊の鷹峰<たかがみね>に滞在していた家康に招かれ、剣術を披露しました。その供をして、石舟斎の打太刀をつとめた宗矩は、旗本として家康に仕えることになります。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、石田三成方の後方牽制の特命を受け、大和地方の豪族工作に当たりました。その功により、豊臣政権の時代に隠し田が見つかって没収された柳生の旧領2,000石を賜ります。翌年9月には、2代将軍秀忠の兵法指南役となり、1,000石を加えられました。 さらに元和7(1621)年3月には3代家光の指南役にも就任し、柳生新陰流が将軍家御流儀として長く繁栄する地歩を固めたのです。

「剣禅一如」を唱え、「活人剣<かつにんけん>」を目指した宗矩は、剣の極意を人間を活かす道、つまり政治に向けました。寛永9(1632)年10月に3,000石を加増の後、同年12月に総目付<そうめつけ>(後の大目付)に任じられて諸大名の監察に当たり、また同13年には江戸城の石垣および堀の普請を指揮するなど、幕政にも参与しました。そして同年8月に4,000石を新たに与えられ、トータルで1万石となって、大名の仲間入りをしたのです。宗矩の加増はまだ止まりません。同17年9月に500石、その後さらに2,000石を加えられ、合わせて1万2,500石に達しました。

宗矩の思慮深さを表わすエピソードがあります。
島原の乱が起った時、板倉重昌(1588-1638)が討手の主将となったことを聞き、信仰で固く結ばれた切支丹<キリシタン>は難敵であり、西国大名たちが幕臣の板倉を軽んじて下知に従わなければ、彼は焦り無謀な攻撃を仕掛けて討ち死にするだろう、西国大名を抑えることができる位階・実力の持ち主を将とすべきだ、と家光に進言します。しかし時すでに遅く、板倉は出発してしまい、宗矩の危惧は現実のものとなりました。

このように政治家としての宗矩の識見・力量は、目覚しい出世ぶりから見ても疑う余地はありませんが、剣士としての腕前はどうだったのでしょうか?

慶長20(1615)年の大坂夏の陣において、宗矩の強さを発揮する場が訪れました。死にものぐるいになった大坂方の木村主計<かずえ>が、武者を率いて秀忠本陣に斬り込んできた時、馬廻りとして秀忠の傍らにいた宗矩は少しも慌てず、突進してくる敵7人(10余人との説もあります)を、それぞれ一刀のもとに斬り捨ててしまいました。剣豪の面目躍如といったところでしょうか。

宗矩は晩年、柳生の地に居所を構えました。正保3(1646)年3月20日、重病の床にあった彼を、家光がわざわざその屋敷を訪れて見舞っています。この時宗矩は、自分が死んだら、家禄は全て公に返すと言ったそうです。見上げた忠誠心ですが、相続人である息子の三厳や宗冬が聞いたら、青くなったかもしれません。

それからわずか数日後の3月26日、宗矩は66歳でこの世を去りました。家光は、宗矩が死してからも「但馬が生きていたら、あれもこれも質問したのに」と折りにふれ嘆息していたといいますから、その信頼ぶりは相当なものだったようです。


柳生宗矩の墓碑。五輪塔には「空風火水地」の文字が刻まれている


柳生藩祖である宗矩の業績は、一族の中でも群を抜いているので、ついつい長々と書いてしまいました。
息子の三厳らの話は、次に回すことにしましょう。



【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第17』続群書類従完成会、1965年
繁田健太郎著『江戸史跡考証事典』新人物往来社、1974年
角川書店編『日本史探訪17 講談・歌舞伎のヒーローたち』角川書店、1990年
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
別冊歴史読本/読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
歴史群像シリーズ特別編集『決定版 図説江戸の人物254』学習研究社、2004年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年