ひろむしの知りたがり日記

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「ドラゴン怒りの鉄拳」前史 ─ “黄面虎”霍元甲

2014年04月23日 | 日記
アメリカの連続TVドラマ「グリーン・ホーネット」にレギュラー出演したことで、香港の国民的ヒーローとなったブルース・リーは、新興映画会社ゴールデン・ハーベスト製作の「ドラゴン危機一発」(唐山大兄)に主演し、3週間で300万香港ドルの収益を上げる記録的なヒットを飛ばしました。引き続き製作されたのが「ドラゴン怒りの鉄拳」(精武門)で、1972年に公開されて前作を凌ぐ大ヒットとなり、たちまち400万香港ドルを超す収益を叩き出しました。物語の舞台は20世紀初頭の上海で、映画は次のようなナレーションから始まります。

「霍元甲が死んだ。ロシアや日本の武術家を倒して名を轟かせ、中国の英雄となった伝説の人物だ。彼は何者かに毒殺されたが、その真相は謎に包まれていた」(日本語字幕より。一部改変)

霍元甲は実在の武術家で、ブルースが演じた陳真<チェンチェン>(こちらは架空の人物)の師匠です。名前の読み方は、ぼくが見た広東語版では「ホー・ユンカップ」となっていましたが、ほかにも「フォ・ユァンジア」などと読んだりします。わが国で出版されている中国武術に関する書物では、「かくげんこう」と日本語読みをしているのが普通です。中国語は地域によって同じ漢字でも読み方がさまざまなので、本稿では人物や門派などの名称は、日本語読みで統一させていただきます。

清代末、霍元甲は河北省静海県小河村に生まれました。家伝の燕青拳<えんせいけん>を学び、これを極めました。伝説では、燕青拳は嵩山<すうざん>少林寺に学んだ盧俊義<ろしゅんぎ>が燕青に伝え、彼が大成させたものとされます。両名とも『水滸伝』に登場する英雄ですが、立場としては謀反人だったため、後継者たちが師の名を秘したことから「秘宗拳<ひそうけん>」とも呼ばれるようになりました。また、燕青が雪についた足跡を巧みに隠し、追っ手を道に迷わせて逃れたため、「迷踪拳<めいそうけん>」、「迷蹤拳<めいしょうけん>」ともいいます(「踪」や「蹤」は足跡を意味します)。もっともこのネーミングには、複雑な歩法(フットワーク)を駆使することによって相手を幻惑して倒すところから来ているとの説もあります。
ちなみに霍家の燕青拳は「迷蹤芸」の名で伝わっており、「ドラゴン怒りの鉄拳」でも霍元甲を暗殺した実行犯の1人が、陳真にばれた時に開き直って「迷蹤拳など怖くはない」と彼を挑発するシーンがあります。

「ドラゴン怒りの鉄拳」(精武門)

映画の序盤で、霍元甲の初七日法要の挨拶において「その武勇伝の数々は、あまねく知られている」と語られていますが、これは事実です。その1つとして、「いつでも中国人の挑戦を受ける」と豪語する西洋人レスラーのオブライアンと闘うべく、愛国者たちによって上海に招聘されるという出来事がありました。オブライアンが試合前に逃亡してしまったために実現しませんでしたが、このことで霍元甲は一躍有名になりました。
彼はほかにも、日本人柔道家と試合をして打ち倒しています。敗れた柔道家が日本人医師の秋野某に頼んで毒殺させたと噂されましたが、実際の手合せは互いに相手を傷つけないことを取り決めて行われた、きわめて友好的なものだったようです。一進一退の攻防の末、大外刈りを仕掛けた柔道家が、逆に霍元甲に押し飛ばされます。その際、思いのほか遠くに飛ばされたため、運悪く彼は右手を骨折してしまいましたが、決して遺恨を残すようなものではなかったといいます。

霍元甲には持病がありました。肺を病んでいたそうです。少年の頃にやった気功で、肺に空気が入りすぎて傷つけてしまったせいでした。仁丹を商う日本人に、喀血や肺病に効くと勧められて飲んだところ、かえって悪化したことがあります。これも、日本人による謀殺を疑わせることにつながったのでしょう。死因となった持病は、肝硬変だともいわれます。顔色が黄蝋色をしていたため、「黄面虎<こうめんこ>」と呼ばれました。
1909年、霍元甲は上海で精武体操学校を設立します。ところが急速に病気が悪化し、中国紅十字会医院に入院しましたが、同年の陰暦8月、ついにその生涯を閉じました。43歳とも53歳ともいわれます。亡くなった翌年に、王維藩、陳公哲らによって新たに創立された精武体育会は、象徴として霍元甲の遺影を掲げ、武術・体育界において一大潮流を形成していくことになります。

ゴールデン・ハーベストのレイモンド・チョウが、「ドラゴン怒りの鉄拳」に続いて製作を考えていたのは、霍元甲の若き日を描いた「黄面虎」でした。しかしブルースはそれを蹴り、「ドラゴンへの道」(猛龍過江)を自ら監督、主演します。ブルースの霍元甲は実現しませんでしたが、1994年に「ドラゴン怒りの鉄拳」をリメイクした「フィスト・オブ・レジェンド/怒りの鉄拳」(精武英雄)で陳真を演じたジェット・リーは、2006年には「SPIRIT」(霍元甲)で師の霍元甲役にも挑んでいます。この映画では、史実では行われなかったオブライアン(演じるのは格闘家のネイサン・ジョーンズ)との対戦も描かれています。クライマックスの、サムライ・スピリットを持った空手の達人田中安野(中村獅童)との壮絶な死闘も見ものです。
霍元甲を扱った映画にはほかに、あまり有名ではありませんが、「フィスト・オブ・レジェンド」で重要な役割を果たした倉田保昭が出ている「激突!キング・オブ・カンフー」(霍元甲)というのもあります。1982年に香港で公開されました。日本では劇場未公開ですが、かつて「拳王伝説 燃えよファイター」というタイトルでテレビ放映されたそうです。ビデオは出ているようなので、機会があれば、いつか見てみたいと思います。


【参考文献】
佐藤金兵衛著『中國拳法正傳』講談社、1985年
笠尾恭二著『中國武術史大觀』福昌堂、1994年
小佐野淳著『図解 中国武術』新紀元社、2009年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
学研ムック『完全保存版 中国武術大全』学研パブリッシング編、2013年

桜の江戸城外濠と見附跡を歩く ─ JR飯田橋駅~市ヶ谷駅

2014年04月12日 | 日記
今年の都内の桜は、咲き始めの週末はまだほとんど蕾の状態で、翌週末にはすでに盛りを過ぎてしまっていました。こんな時は、平日でもフラリと立ち寄れる場所で花見をするしかないと、職場からほど近い飯田橋から市ヶ谷の間の外濠沿いの桜を眺めに行くことにしました。写真もいくらか撮りましたので、みなさんにはそれらを楽しんでいただきながら、ついでに歴史案内をしてみたいと思います。


飯田橋駅付近の外濠と桜の風景(東京都千代田区神楽坂)

JR飯田橋駅の西口を出ると、外濠をまたぐように架かる牛込橋に出ます。橋の左手は早稲田通りで、道の両側に見える2つの大きな石垣の山は、かつての牛込見附(牛込御門)の遺構です。江戸府内へ入る諸橋を防御する施設を、橋自体も含めて「見附」といいました。
江戸城建設工事は、徳川家康が江戸に入府した天正18(1590)年以降、太田道灌が作った小さな城を拡張する形で何次にも分けて進められました。慶長8(1603)年に江戸幕府が開かれてからは、全国の大名を動員した天下普請といわれる一大土木事業になりました。寛永13(1636)年には3代将軍徳川家光の命で113家の大名が牛込から市ヶ谷、四谷、溜池におよぶ堅固な深い濠を築き上げました。牛込橋もその時に建造されたものです。その後幾度か架け替えられ、現在は平成8年3月に完成した鋼橋となっています。

見附の一部であった牛込橋

見附の石垣の大半は、明治35(1902)年に撤去されてしまいました。その解体中に発見された安山岩製の角石が、早稲田通り沿いの飯田橋駅側にある石垣前の交番脇に残されています。石垣の修復工事中のため、透明な板壁に覆われていてそれ越しに覗き込むことしかできませんが、側面に刻まれた文字の一部が見えます。「入阿波守内」とあるそうです。けれど、ぼくには「内」ではなく、「門」という字に見えました。阿波守というのは、石垣を築いた阿波徳島藩の蜂須賀忠英<はちすかただてる>のことです。

「入阿波守内」の文字が刻まれている石垣の角石

通りを挟んだ反対側の石垣の方に渡ります。巨大な石が、巧みに組み合わされているさまは、見事としか言いようがありません。橋のたもとには説明板があります。明治初期のまだ壊される前の御門の写真や、江戸時代の見附の建造物や外濠の位置や大きさが現代の地図と重ね合わせて描かれた復原図が載せられており、往時の姿をしのぶことができます。


早稲田通りを挟んで、JR飯田橋駅側にある石垣(左上)と、四ッ谷側の石垣(右上)。そのたもとに立つ説明板には、取り壊される以前に撮影された明治初めの牛込見附の写真が載せられています(下)


石垣の背後には市ヶ谷方面に向かって外濠沿いに土手が続き、千代田区立外濠公園となっています。この土手も、天下普請の際に築かれたものです。外から城内の人間の動きが見えないようにするためのもので、高いところでは数メートルにもなりました。また江戸時代には、防火帯の役割も果たしていました。
牛込御門の周辺にはかつて楓の樹が植えられ、秋には眺めが非常に美しかったため、別称を「楓の御門」とか「紅葉<もみじ>門」と呼ばれました。それに対して市ヶ谷御門(市ヶ谷見附)は、あたりに桜が多かったために「桜の御門」と呼称されました。外濠公園となった今も、お濠沿いの土手には春になるとたくさんの桜が咲き誇り、その下では大勢のサラリーマンや学生たちが花見に興じています。一杯やっていきたいところですが、残念ながら時間のない身、市ヶ谷に向かう約1.2キロの道のりを、先に急ぐことにしましょう。
途中、牛込橋から法政大学前にある新見附橋までの間を牛込濠、新見附橋から市ヶ谷橋の間を新見附濠といいます。新見附橋が作られたのは明治以降で、江戸時代にはありませんでした。


新見附橋から見た牛込橋方面(上)と四ッ谷橋方面の景観(下)


新見附濠の市ヶ谷寄りはずれあたりに、市ヶ谷御門橋台の石垣石の一部が置かれています。それらが使われていた橋本体は、外濠公園を出た先、JR市ヶ谷駅の手前に架かっています。門が築かれたのは寛永13(1636)年です。美作国津山藩主の森長継<ながつぐ>によるものですが、明治4(1871)年に撤去されてしまいました。現在の橋は昭和2(1927)年に架設されたコンクリート製です。


外濠公園の片隅に置かれた市ヶ谷御門橋台の石垣石の一部

市ヶ谷橋を市谷見附交差点の方に渡って、飯田橋側の釣り堀に面した橋台の斜面を見ると、そこには江戸時代のままの石垣が残っています。ところどころに大名家や職人による刻印が見られますので、探してみるのも楽しいでしょう。橋から見て四ッ谷側の外濠を市谷濠といい、そのほとりにも見事に桜が咲いています。


市ヶ谷橋の橋台に今も残る江戸時代の石垣(上)と、市ヶ谷橋から見た市谷濠(下)


最後に東京メトロ南北線の市ヶ谷駅構内にある「江戸歴史散歩コーナー」に立ち寄ってみましょう。
平成元年から7年まで行われた南北線の工事にともなって、地下に埋もれている文化財の調査が行われましたが、ここではその成果を窺い知ることができます。中でも見ものなのは、再現された江戸城外濠の石垣です。九段下そばの雉子橋門跡付近で発見された石垣の石材を使って積み上げられました。地下道の壁面を床から天井まで埋める大きさで、なかなか立派なものです。
このコーナーではまた、小田原藩大久保家が幕府へ献上した石材の切り出しから運搬までの手順を描いた『石曳図』や、徳川家康の命を受けた諸大名による駿府城築城の模様を描いた『築城図屏風』の複製が見られるほか、江戸城外濠の普請、玉川上水と外濠の関係、外濠発掘時の様子などをパネル展示で紹介していて、江戸時代の土木技術について知ることができます。


「江戸歴史散歩コーナー」に再現された江戸城外濠の石垣

市ヶ谷から先も、四ツ谷駅周辺に向かって外濠公園はまだ続きます。でも、スキマ時間を利用しての散策では、このあたりまでがせいぜいです。名残は惜しいですが、今回の歴史案内はこれでおしまいにしましょう。
もし外濠で花見をする機会があったら、桜を愛でるついでに、ぜひ江戸の昔に思いを馳せてみてください。


【参考文献】
豊島寛彰著『江戸城とその付近』虹書房、1960年
今井金吾著『詳説 江戸名所記』社会思想社、1969年
班目文雄著『江戸東京・街の履歴書 番町・九段・麹町あたり』原書房、1989年
地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会編『江戸城外堀跡 牛込御門外橋詰』
  帝都高速度交通営団地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会、1994年
同『江戸城外堀跡 市谷御門外橋詰・御堀端』1996年
河合敦著『東京12ヵ月 歴史散歩』光人社、2001年
鈴木謙一著『江戸城三十六見附を歩く─大江戸散策読本』わらび書房、2003年
野中和夫編『石垣が語る江戸城』同成社、2007年
黒田涼著『江戸を歩く─ヴィジュアル版』祥伝社、2009年
原史彦監修『古写真と古地図で体感する!失われた江戸城』洋泉社、2013年