ひろむしの知りたがり日記

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八雲、講道館流柔術との遭遇 《第2部》 武器を使わないサムライの武術

2016年05月29日 | 日記
ラフカディオ・ハーンの手になるエッセイ「柔術」は、本文に入る前に『老子道徳経』の一節を掲載しています。『老子道徳経』(『老子』『道徳経』ともいいます)は中国、春秋戦国時代の人老子が著したとされる思想書で、そこから引用された短い文章は、次のような言葉で締めくくられています。

「強くてかたいものは、死のともがらであり、しなやかで弱いものは、生のともがらである。したがって、自分の力にたよるものは、勝つことができないだろう」

英語で書かれた原書の読者である西欧諸国の人々は、まずこの意味深な一文で、今から語られる柔術という日本古来の武術が、彼らが知っているような、単に力で相手をねじ伏せる格闘技ではないのを知ることになるのです。

それでは、いよいよその具体的な内容に踏み込んでいきたいと思います。
ちなみに、記事中に出てくる同書の引用文は、すべて昭和50(1975)年に平凡社から出版された『世界教養選集9』に収められた、上田保による訳文を用いています。

ハーンはまず、嘉納治五郎が第五高等中学校(五高)の学生たちを指導していた道場、「瑞邦館」の描写から筆を起こします。
ほかの校舎と比べて並はずれ大きな一階建ての建物は、百畳敷きの広間があるきりで、屋内には会津藩白虎隊の絵と、同藩出身で戊辰戦争の折には副軍事奉行として新政府軍と戦ったという経歴を持つ漢文教師、秋月胤永<かずひさ>の肖像、それに治五郎の父次郎作の友人で、治五郎の人生にさまざまな教唆を与えた勝海舟の書が飾られていました。そこで、「からだのしなやかな十人か十二人の若い学生」が稽古していたのが柔術(実は講道館柔道)でした。

ハーンはあらかじめ、その実際については何も知らないと断った上で、「柔術とは何か」について筆を進めていきます。

「柔術は、昔のサムライが、武器を持たないで戦う技術であります。しろうとには、レスリングのように見えます。(中略)
ところで、本職のレスリング選手が見たら、(中略)力を使うときに、非常に用心ぶかいことや、つかんだり、押えたり、投げたりする仕かたが、いっぷう変わって、きわどいところがあるのが、わかるでしょう。十分、注意がはらわれているとはいえ、全体として、危険な演技でありますから、おそらく、西洋の『科学的な』規則を採用するように忠告したいような気持になるでしょう」

競技スポーツとして発達してきたレスリングには、安全に配慮してさまざまな制約が課されています。
柔術も、当然のことながら何でもかんでもやりたい放題というわけではありませんが、西欧の人々の目には、かなり危険なものに映ります。
それは柔術の技法が、本質的に実戦を念頭に置いて作り出されているからに他なりません。

「稽古でなくて、真剣な勝負となると、西洋のレスリング選手が、ひと目見て考えるより、はるかに危険なものです。道場の師範は、ほっそりと軽いように見えますが、普通のレスリング選手なら、おそらく、二分間で、片輪にされるでしょう」

ここでいう「道場の師範」とは、嘉納治五郎のことでしょうか?
治五郎の身長は158センチと、明治時代の日本人男性としては平均並みです。156センチ説、152センチ説もあるそうですから、そうなると、むしろ小柄な部類に入ります。体重も49キロで、確かに「ほっそりと軽い」体格の持ち主だったといえるでしょう。ところが、その貧弱ではないにしても、決して恵まれているとはいえない身体から、信じられないような凄技が飛び出してくるのです。


嘉納治五郎(左)と、彼が講道館創設当時に着用していた稽古着(レプリカ。ともに平成27年8/11~9/3開催「文京区スポーツミュージアム紹介展示」会場にて。東京区政会館、東京都千代田区飯田橋3-5-1)

「柔術は、(中略)もっとも厳格な意味において、自己防衛のわざであり、戦いの技術であります。このわざを修得すれば、わざの心得のない相手の戦闘力を、完全に打ちひしぐことができます」

事実、治五郎は「わざの心得のない」外国人を手玉に取って、周囲の人々を驚かせたことがあります。
五高校長に就任する前、欧州視察から帰国する途次の船上で、力自慢のロシア人海軍士官をいとも簡単に投げ飛ばしたばかりか、相手が頭から落ちないように手で支えてやる余裕を見せて、船客の大喝采を浴びたのでした。

「彼(=柔術の達人。筆者注)はまた、いきなり、恐るべき早わざを使って、こともなげに、相手の肩を脱臼させたり、関節をはずしたり、すじを切ったり、骨を折ったりすることができます。彼は、かみなりのように、さわっただけで、相手が殺せる術を心得ています」

こうなると、柔術家というのはまるで生きた凶器で、なんとも危険極まりない存在であります。それだけに秘伝の技を伝授するに当たっては、厳格なルールが定められていました。

「このいのちとりの秘伝は、濫用のおそれが、まったくないという条件が、そなわっていないかぎり、人に伝えないという誓いをたてています。完全な自制心があって、非難の余地がない、りっぱな人格者でなければ、けっして伝授しないという、昔からのとりきめができています」

少しばかりオーバーに過ぎ、ハーンが書き記す技の必殺ぶりを、そのまま鵜呑みにするわけにはいきませんが、古流の柔術がかなり危険な技を多く含んでいたことは確かで、それを誰もが安全に行い、健康増進や体育・知育・徳育にも資する近代的な武道に再編したのが、治五郎の講道館柔道です。
ハーンが瑞邦館で目にしたのは、むろんこの講道館柔道ですが、その根底に流れるのは同じ原理です。古流を土台としつつ、より理にかなった形に体系づけられた柔道の技の数々は、初めて目にするハーンにとって、十分に超人的で、驚愕に値するものだったはずです。

話を「柔術」の記述に戻しましょう。
古流であれ講道館流であれ、その根本原理は冒頭に紹介した『老子道徳経』の一文にたどり着きます。

「私が特に注意をうながしたい点は、柔術の達人が、決して自分の力にたよらないという事実であります」

では、何に頼るのかというと、それはほかでもない、相手の力です。「敵の暴力を使って、敵に勝つという方法」が柔術(柔道)だからです。
ハーンがそのことをまだよくわかっていなかった頃のことです。いかにも腕っぷしの強そうな生徒がいて、ハーンは彼がクラスで一番ではないかと想像していました。ところが治五郎は、その生徒に教えるのが非常に難しいと言うのです。なぜかと訊ねると、
「彼は自分の法外な腕力にたよって、それを使いすぎるからです」
と答えたのでした。ハーンはそれを聞いて、「すくなからず、驚いた」と述懐しています。

それから、ハーンはボクシングのカウンター・パンチを例に挙げ、それが相手の攻撃に対してこちらも全力で迎え撃つのと比較して、柔術の達人の場合はあくまで自分の力に頼ることなく、敵の攻撃してくる力に対してまったく逆らおうとせずに身を委ねるのだといいます。そして、「相手の攻撃を利用して、おそるべき早わざで、相手の肩をはずしたり、相手の腕をくじいたり、ひどいときには、相手の首や背骨を折ってしまうことさえあります」と、再びその恐るべき威力に言及します。

ところで、ハーンがこのいささか大仰な柔術論を書くに当たって、タネ本にしたであろう英語の論文があります。明治22(1889)年に治五郎とトマス・リンゼーの共同名義で公刊された「Jiujutsu:The Old Samurai Art of Fighting Without Weapons(柔術:武器を使わないさむらいの武術)」で、それには柔術の概要や歴史がわかりやすく語られています。
この論文を読めば、ハーンの説明だけではどうしても抽象的で漠然とした柔術のイメージがより明確になると思いますし、ハーンの「柔術」には触れられていない、実在の柔術家に関する興味深いエピソードも紹介されています。

少し本題からずれるかもしれませんが、いったいどのようなことが書かれているのか、治五郎とリンゼーの論文に目を通してみることにしましょう。


【参考文献】
L・ハーン著、上田保訳「東の国から 新しい日本の幻想と研究」『世界教養選集9』平凡社、1975年
小泉八雲著、平井呈一訳『東の国から・心』恒文社、1975年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
芦原伸著『へるん先生の汽車旅行 小泉八雲、旅に暮らす』集英社インターナショナル、2014年


八雲、講道館流柔術との遭遇 《第1部》 嘉納治五郎とラフカディオ・ハーン

2016年05月08日 | 日記
九州の中央に位置する肥後国(現在の熊本県)は、かつて「肥後の熊本やわらどころ」といわれた柔術王国で、江戸時代には肥後藩が扱心流江口家、竹内三統流矢野家、四天流星野家の3師範家(「肥後のやわら三流」と称されました)を300石から400石で召し抱えて藩士の鍛錬に努めていました。
古流柔術から講道館柔道に「やわら」の主流が移ってからも、鬼と呼ばれた牛島辰熊・木村政彦師弟(牛島は扱心流、木村は竹内三統流と、ともに元々は古流出身です)や、昭和59(1984)年に開かれたロサンゼルス五輪無差別級金メダリストの山下泰裕ら、綺羅星のごとく強豪を輩出しています。
19世紀の終わり頃、その熊本に1人の西洋人がやって来ました。柔道・柔術の歴史か、彼自身について詳しい方でなければ、両者を結びつけて考えることは難しいかもしれません。
その西洋人とは、『怪談』の作者としてよく知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンです。

ハーンは1850(嘉永3)年6月27日、ギリシャ西部のイオニア海に浮かぶレフカダ島で、アイルランド出身の英国人で陸軍軍医だった父と、キティラ島生まれのギリシャ人である母ローザの間に誕生しました。
その生い立ちは決して幸福であったとは言えない、苦難に満ちたものでした。幼い時に両親が離婚して金持ちの大叔母サラ・ブレナンに引き取られ、イギリスのダラム市にある名門神学校聖カスパート校に入学しますが、ここにいる間に、友だちと遊んでいて左眼にロープが当たり、失明するという悲劇に見舞われました。さらに追い打ちをかけるように、17歳の時に大叔母が破産し、退学を余儀なくされます。
1869(明治2)年、19歳を迎える直前にアメリカへ渡り新聞記者となって頭角を現し、やがて文筆家として身を立てることを志します。1887(明治20)年には西インド諸島のマルチニーク島(フランス領)に1年7ヵ月にわたって長期滞在し、異文化に対する理解を深めました。


晩年を過ごした新宿にあるラフカディオ・ハーンの胸像(小泉八雲記念公園。東京都新宿区大久保1-7)

こうした経験を経たハーンは、すべての準備が整ったかのように明治23(1890)年4月4日、出版社のハーパー社に原稿を買い取ってもらう約束で、いよいよ神秘に包まれた東洋の国、日本を訪れたのです。
程なく誠意のないハーパー社と縁を切った彼は、島根県松江にあった尋常師範学校と尋常中学校(松江中学)の英語教師となります。そして小泉セツ(節子)と結婚し、翌24年には熊本の第五高等中学校(五高。熊本大学の前身)に英語・英文学の講師として転任しました。

11月19日、着任するハーンを春日駅(現在の熊本駅)に出迎えたのが、五高校長の嘉納治五郎でした。治五郎の案内で宿に着くなり、ハーンは「日本料理を食べたい」と言って、治五郎を驚かせます。
そればかりでなくハーンは、五高の敷地内に洋式建築の外国人官舎があるにもかかわらず、「日本の家に住みたい」と言って治五郎を戸惑わせました。結局ハーンは自分で旧士族の持ち家だった武家屋敷を見つけてそこに落ち着くことになりますが、この時まだ30歳の若さだった治五郎は、自分より10歳年上の風変わりな外国人に、強烈な印象を抱いたことでしょう。
そんな治五郎のハーン評が、講道館の機関誌である『作興』の、昭和4(1929)年1月号~翌年6月号にかけて断続的に掲載された「教育家としての私の生涯」に語られています。
ハーンの愛妻セツについても触れられているなど、たいへん興味深い内容です。

「ラフカディオ・ハーンを島根県中学校の教師からぬいてこれを招聘したことは特筆すべき一事である。ハーンは何人も知る珍しき人物で、当時英米を通じてもたぐい少なき文豪であり、すこぶる変わった非凡の人であった。自分は親しくしていたが、彼の夫人は島根県の士族で、正しき家庭に育った婦人であった。日常のハーンの生活は日本服を着、日本の煙管で煙草をのみいろいろの点で日本趣味を味わい得た人であった。英語並び英文学の教師として価値の豊かな人であったことは論ずるまでもないが、人間としてまたいろいろの奇行をのこした」

そう述べてから治五郎は、ハーンが見せた奇行の例を挙げています。
ある時、熊本の第六師団で祝賀行事があり、知事・学校長・裁判所長といった錚々たるVIPが一堂に顔を揃えました。当日、武官は制服、文官はフロックコートといずれも洋装に身を包んでいた中で、唯1人、和装の紋服姿で出席した紳士がいました。それこそが、言わずと知れたハーンだったのです。

このように治五郎を驚嘆させたハーンですが、一方でハーンの方は、会うなり瞬く間に治五郎の人柄に魅せられてしまいました。松江時代の同僚で親しい友人でもあった西田千太郎に宛てた11月30日付けの手紙の中で、ハーンはその思いを次のように書いています。

「貴方は嘉納氏が大好きになると確信します。同氏は、私が会ったことのある日本の教師とは大変違っています。彼の性格は大変同情的で、また非常に率直であり、──意志強固な個性にほとんど特有のものであります。一度彼に会いますと、貴方は何年も前から彼と知己であったかのように思います」

嘉納治五郎(講道館。東京都文京区春日1-16-30)

講道館柔道の創始者として知られる治五郎は、教育家でもありました(むしろこちらの方が本業だと言うべきかもしれません)。彼は明治24年1月に欧州教育事情の視察から帰国した後、8月13日に五高校長兼文部省参事官に任ぜられ、9月に熊本へ赴任しました。すると着任早々、校長官舎の物置に床を造り、そこに畳を入れて道場とし、古流柔術の心得がある学生を集めて彼らと稽古を始めました。
さらに校内の生徒控所の土間の上に畳を敷き、「瑞邦館<ずいほうかん>」と名づけて治五郎自ら柔道を教えたのです。東京から連れて来た肝付宗次も助手を務めました。五高は学習院、東京高等師範と並んで治五郎直接の指導を受けた、由緒ある学校なのです。明治25年9月には熊本講道館もできています。

ハーンはしばしば道場での稽古を見学し、治五郎からもいろいろと話を聞いて感銘を受け、自らの思索を加えて「柔術」と題するエッセイを書き上げました。
その中でハーンは、まず瑞邦館とそこでの稽古の情景を描出します。ついで、柔術の原理について詳しく語り、敵の力を利用して絶大な効果を発揮するその原理を、日本人がその本質的な部分を変えることなく欧米の知識や技術を巧みに取り入れ、驚異的な発展を遂げた事実と無縁ではないと論じるのです。
こうして、ハーンの筆は日欧の文化比較にまで言及していきます。

ハーンが記す柔の技は、まるで魔法か妖術のような、実際以上に神秘化されたものに感じられます。
しかしそれは、治五郎が理想とした柔道の姿を端的に示しているとも言えます。
また、ここまで読んでいただければわかるように、ハーンが題材として取り上げたのは古流柔術ではなく、治五郎の講道館柔道であることは明らかです。
にもかかわらず、なぜそのタイトルが「柔道」ではなく「柔術」なのでしょうか?

東京帝国大学を出た当代一流のインテリでありながら、時代遅れと見なされ、忘れ去られようとしていた柔術に教育的価値を見出し、新しい世に合う近代武道として生まれ変わらせた嘉納治五郎と、西洋人であるにもかかわらず、古き良き日本の文化・伝統に魅了されて、その素晴らしさを世界に発信したラフカディオ・ハーン。2人の奇才が出会って生まれた稀有なる作品「柔術」──次回はその具体的な内容に、迫っていくことにしましょう。


【参考文献】
小泉八雲著、平井呈一訳『東の国から・心』恒文社、1975年
L・ハーン著、上田保訳「東の国から 新しい日本の幻想と研究」『世界教養選集9』平凡社、1975年
ラフカディオ・ハーン著、斎藤正二他訳『ラフカディオ・ハーン著作集』第14巻 恒文社、1983年
熊本大学小泉八雲研究会編『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』恒文社、1993年
工藤美代子著『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯[日本編]』集英社、2003年
芦原伸著『へるん先生の汽車旅行 小泉八雲、旅に暮らす』集英社インターナショナル、2014年
老松信一著『改訂新版 柔道百年』時事通信社、1976年
嘉納治五郎著『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年