ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第7章】 VS 良移心当流・桧垣源之助《前編》

2017年04月16日 | 日記
姿三四郎と宿敵桧垣源之助との出会いは、慢心した三四郎が暴力事件を起こし、稽古を差し止められていた時に遡ります。

まだ下谷の隆昌寺にあった紘道館は、その日ほとんどの門人たちが外出していて、残っているのは新関虎之助と三四郎だけでした。それに、矢野正五郎の起倒流の師であり、紘道館を開いた後も正五郎のよき理解者として、しばしば指導に訪れていた飯沼恒民<こうみん>(嘉納治五郎の師、飯久保恒年<つねとし>がモデル)が虎之助に稽古をつけていました。
そこへ突然、源之助が訪れたのです。師の村井半助に代わって警視庁武術世話係の職に就き、やがては柔術界を統合しようと目論む源之助にとって、紘道館はその前に立ちはだかる障害物にほかなりませんでした。その実力を確かめることが、彼の目的だったのです。

「一本、稽古を願おう」
そう言う源之助に、まだ17歳の少年である虎之助が立ち合うことになりました。稽古とは言っても、その実質は他流試合です。経験のない虎之助は、源之助の誘いに乗って安易に組みに行き、担ぎ上げられて道場の羽目板に叩きつけられ、気絶してしまいます。
次いで三四郎が源之助に挑もうとしましたが、恒民は稽古止めの身である彼が闘うことを許しませんでした。無念の思いを噛みしめながら玄関まで送り出した三四郎に、源之助は警視庁武術大会で試合をしようと約束し、紘道館を後にします。

しかし、この約束は結局果たされませんでした。先に書いたように、警視庁武術大会で三四郎と相見えたのは打倒紘道館の闘志に燃え、半病人の暮らしから立ち直った村井半助でした。
源之助は自分が代りに出場することを半助に申し出ましたが、拒まれて非常手段に訴えます。
試合前日、手の者に三四郎を襲撃させ、彼が試合に出られないようにしようと画策したのです。

ところが三四郎はその時、鹿鳴館の舞踏会に行っていました。暴走する馬車を身を挺して止め、南小路光康子爵の娘高子(村井乙美の腹違いの姉)の命を救ったことが縁で、招待されたのです。
三四郎は気乗りがしませんでしたが、明日の試合に囚われるなとの訓戒を込めて正五郎が強く勧めたので、渋々出かけました。
そこで彼は、高子に言い寄るスペイン領事館の書記官を投げ飛ばしてしまいます。巡査らに追われていた彼を救ったのは、当時第1次伊藤博文内閣(明治18<1885>年12月22日~21年4月30日)で農商務大臣を務めていた谷干城<たてき>でした。谷の馬車で無事鹿鳴館を脱出した三四郎は、奇しくも源之助の命を受けて鹿鳴館を張っていた襲撃者たちからも逃れることができたのです。
自分が狙われているなどとは、つゆ知らぬまま・・・・・・。


諸外国との間に結ばれた不平等条約改正のため、日本が文明国であることを示そうと建てられた社交場、鹿鳴館跡(東京都千代田区内幸町1-1)。煉瓦造り2階建ての洋館で、英国人コンドルが設計しました

思惑がことごとくはずれてしまった源之助は、ついに半助よりも実力が上の自分が三四郎と闘うべきだと三島通庸警視総監に直訴します。しかし、あくまで試合を譲ろうとしない半助を「先生はある意味で裏切り者ですぞ」と罵るに及び、ついに三島の怒りを買ってしまいます。それは、源之助の警視庁武術世話係への望みが絶たれた瞬間でもありました。

源之助が危惧した通り、半助は善戦むなしく三四郎の山嵐の前に敗れ去ります。
勝利を収めた紘道館は、当然のごとく警視庁に進出し、源之助が就けなかった武術世話係には、四天王の壇義麿や津崎公平(モデルは講道館四天王の横山作次郎と山下義韶)が採用されました。さらに、古流に対する柔道の優位が明らかになると、柔術諸流派を修行していた若者たちが、次々と紘道館に転向し始めました。
こうして、源之助の柔術界統合の野望はもろくも潰え、そればかりか、妻にと望んでいた乙美の心もまた三四郎に奪われてしまったのです。

世間の注目が最も集まる時と場所を選んで、三四郎を、紘道館を叩きのめそうと考えていた源之助は、ここに来て、ルールもなく、何の邪魔も入らない野試合で、三四郎の息の根を完全に止めてしまう決意を固めます。

村井半助の葬儀後間もなく、姿三四郎の許に桧垣源之助からの果し状が送り届けられたのです。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
嘉納治五郎著『私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
黒坂判造著『千代田区の今と昔 人と生活』黒坂判造、2003年
鳥海靖編『歴代内閣・首相事典』吉川弘文館、2009年

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