ひろむしの知りたがり日記

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一刀正伝無刀流 山岡鉄舟 ─ 全生庵

2012年10月25日 | 日記
慶應4(1868)年2月24日に起きた鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に勝利した新政府軍は、勢いに乗って江戸へと進撃して来ました。その際に徳川慶喜の新政府に対する恭順の意を伝える使者として、西郷隆盛と会うために駿府の大総督府へ乗り込んだのが、当時慶喜を警固する精鋭隊頭に任じられていた山岡鉄舟です。彼の決死の覚悟と至誠の心情は西郷に感銘を与え、勝海舟との会談、江戸無血開城へと繋がります。西郷に、「命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらぬという人は始末に困る」と言わしめた鉄舟の人間としての器量を育んだのは、彼が生涯怠ることのなかった剣と禅の修行でした。

鉄舟は天保7(1836)年6月10日、江戸本所<ほんじょ>(東京都墨田区)に600石の旗本、小野朝右衛門高福<あさうえもんたかよし>の5男として生まれました。9歳の時に本所大川端<おおかわばた>で道場を開く久須美閑適斎<くすみかんてきさい>について神陰(真影)流を学んだのが、鉄舟の剣術修行の始まりです。
その翌年、一家は父高福が郡代となった飛彈高山へ移り住みました。高福は千葉周作門下の井上清虎<きよとら>を高山に招き、鉄舟は彼について北辰一刀流を学びます。しかし嘉永4(1851)年に母の磯が、次の年には高福が病死したため、17歳の鉄舟は江戸へ戻りました。江戸では周作の道場玄武館に入門し、主として周作の二男栄次郎の教えを受けます。
稽古の荒さから「鬼鉄」の異名を取った鉄舟は、玄武館だけでなく他流派の道場を訪ねては試合を挑んでいました。そうした中、彼は山岡静山<せいざん>について忍心<にんしん>流槍術を学びます。静山は後に、西郷への使者として鉄舟を推薦することになる槍術家高橋泥舟<でいしゅう>の実兄でした。「江戸一番の槍の使い手」といわれた名人であるばかりでなく高邁な人格者としても知られていましたが、27歳という若さで急死してしまいます。母方である高橋家の養子になっていたため跡目を継げない泥舟に頼まれ、義侠の人鉄舟は静山の妹英子<ふさこ>の婿となり、禄高・格式ともに小野家より低い貧乏旗本の山岡家を継ぎます。安政2(1855)年、20歳の時のことでした。

文久3(1863)年、28歳の時に鉄舟は、生涯の師にして宿命のライバル浅利又七郎義明<あさりまたしちろうよしあき>と出会います。当時、北辰一刀流に満たされないものを感じていた鉄舟に、師の井上は同流の源流の一つである小野派一刀流中西派の浅利に会うことを勧めました。浅利と試合をした鉄舟は、身長6尺2寸(約188センチ)、体重28貫(約105キロ)という巨体を活かして何度も体当たりを試みますが、浅利の老練な竹刀捌<さば>きによって右へ左へとかわされてしまいます。勝負がつかないまま半日近くが過ぎ、ようやく足をからめて浅利を転倒させますが、その瞬間に胴を打たれて敗北を喫しました。
一念発起した鉄舟は浅利に弟子入りし、日夜血のにじむような修行を重ねますが、道場での稽古ではまるで子どものようにあしらわれて手も足も出ません。一人浅利との対決を思う時も、たちまち彼の幻影が現れ、山のようなその姿を前になす術もありませんでした。浅利を乗り越えるための鉄舟の苦闘は、明治維新をまたいで17年にも及ぶ長く険しいものとなりました。

彼は精神面を鍛錬するため何人もの師について参禅しています。禅の修行も剣術同様真剣勝負さながらで師の一人である京都天龍寺の滴水<たくすい>が、「一回一回が命がけであった」と告白しているほどです。
鉄舟が自ら開基となって建立した禅寺があります。それが明治16(1883)年、幕末維新の動乱の中で国事に殉じた人々の菩提を弔うため建てられた全生庵(東京都台東区谷中5-4-7)です。JR・京成電鉄日暮里駅から徒歩10分、地下鉄千代田線千駄木駅から5分のところにあり、通りを挟んで建つ蘭方医伊東玄朴<いとうげんぼく>の墓がある天龍院をはじめ、周辺にはたくさんのお寺が点在しています。


山岡鉄舟が開いた全生庵の本堂

全身全霊を注ぎ込んだ修行の結果、明治13年3月30日払暁、鉄舟は忽然と剣禅一致、無敵の境地に達します。もはや彼の眼前から浅利の幻影は消え去っていました。鉄舟の剣が自分を超えたことを認めた浅利から「無想剣」の極意を伝授され、新たに無刀流を創始します。鉄舟45歳の快挙でした。
彼は無刀流を開いた後もなお怠りなく剣理を追究し、中西派の伝書による組太刀が流租伊藤一刀斎以来の真伝とは少し異なっていることに気づきました。そこで、一刀斎から一刀流を継いだ小野忠明<ただあき>より9代目にあたる小野業雄<なりお>を上総国(千葉県)から招き、明治17年に家伝の組太刀を伝授されたのです。翌年3月、業雄より一刀斎の愛刀瓶割刀<かめわりとう>と伝書のことごとくを授けられ、これ以後鉄舟は自流を「一刀正伝<いっとうしょうでん>無刀流」と称するようになりました。

鍛え抜かれた肉体を持つ鉄舟でしたが、無類の酒好きがたたって胃を悪くし、明治20年の夏、胃がんと診断されました。そして明くる年の7月18日、がんが胃壁を破って胃穿孔を起こし、重体となってしまいます。翌朝、いよいよ死期が迫ったことを覚った鉄舟は、浴室で身を清め、白衣に着替えて皇居の方角に向かって座禅を組み、その姿勢のまま午前9時15分に永眠しました。享年53。剣と禅の達人らしい見事な最期でした。
遺体は自ら開いた谷中の全生庵に葬られました。ここには彼の墓のほか、交流のあった実業家平沼専蔵が明治23年に建てた顕彰碑「山岡鐵舟居士之賛」があります。
上部に彫られた篆書<てんしょ>体の文字は、戊辰戦争で東征大総督として新政府軍を率い、江戸入りした有栖川宮熾仁親王<ありすがわのみやたるひとしんのう>によるもので、その下の碑文は、浄土宗初代管長鵜飼徹定<うかいてつじょう>の詩文を勝海舟の書によって刻んだものです。国を愛する心深く、友とは篤実に交わり、危難にあっても動じることのなかった人柄について記し、剣と禅、そして書をもよくした鉄舟の、才質優れたることが讃えられています。

「山岡鐵舟居士之賛」碑(左)と墓(下)



【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第14巻、吉川弘文館、1993年
間島勲著『全国諸藩 剣豪人名事典』新人物往来社、1996年
岬龍一郎著『新・武士道』講談社、2001年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
篠田達明著『日本史有名人の臨終図鑑』新人物往来社、2002年
牧秀彦著『剣豪 その流派と名刀』光文社、2002年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年
渡辺誠著『禅と武士道』KKベストセラーズ、2004年
黒澤雄太著『真剣』光文社、2008年
山村竜也監修『「幕末の志士」がよくわかる本』PHP研究所、2008年

益満休之助、彰義隊との戦いに散る ─ 大円寺(2)

2012年10月14日 | 日記
大円寺(東京都杉並区和泉3-52-18)にある、幕末から明治にかけての戦争で亡くなった薩摩藩の犠牲者のために建てられた墓碑「戊辰薩摩藩戦死者墓」の下部には、彼らの名前が記された板が何枚もはめ込まれています。その中には、御用盗を指揮して薩摩藩邸焼打ち事件を誘発し、鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作ったあの益満休之助<ますみつきゅうのすけ>(行武<ゆきたけ>)の名も書かれていました。

休之助は天保12(1841)年、鹿児島城下高麗町で益満行充の二男として生まれました。少年時代から暴れん坊で、動作は機敏、頭の回転も早かったそうです。
尊王攘夷の志を抱き、安政6(1859)年頃に清河八郎がつくった秘密結社虎尾<こび>の会(尊王攘夷党)に加盟します。メンバーには、後に歴史的な事件で関わりを持つことになる同じ薩摩藩士の伊牟田尚平<いむたしょうへい>や、幕臣の山岡鉄舟がいました。文久元(1861)年に、伊牟田らがアメリカ公使館通訳のオランダ人ヒュースケンを襲撃した際にも、益満はその一味に加わっています。

家康開基の大円寺山門には宿敵徳川の葵紋が

この時期に過激な活動家としての素地を培っていったのでしょう、慶應3(1867)年には西郷隆盛の密命を受け、伊牟田や下総国の郷士相楽総三<さがらそうぞう>らと共謀して、薩摩藩江戸藩邸を本拠に浪人500人を集めて江戸市中攪乱作戦を展開しました。
作戦は功を奏し、12月25日に幕府側の出羽庄内藩兵らによる薩摩藩邸焼打ち事件が起こります。多勢に無勢で薩摩側は敗退を余儀なくされ、伊牟田や相楽らは品川沖に停泊中の薩摩藩船祥鳳丸<しょうほうまる>で西へ逃れました。しかし益満は捕らえられ、死罪となるところを勝海舟に庇護されたのです。

翌慶應4年3月9日、新政府軍による江戸城総攻撃を目前に控え、益満は勝の依頼を受けた山岡鉄舟と一緒に、駿府まで来ていた東征軍参謀である西郷隆盛のもとへと向かいました。勝が益満を山岡に同行させたのは、彼に証言させて、山岡を薩摩藩士として駿府への道を通行させるためです。益満は山岡とはかつての同志であり、うってつけの役回りでした。
山岡は豪胆な男で、六郷川<ろくごうがわ>(多摩川下流部)を渡り、最初に新政府軍と接触した際には「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎(鉄舟)、大総督府へ罷り通る」と宣言して、相手がなんのことかわからず呆然としている隙に突破してしまいました。
まるでマンガが映画の1シーンのような胸のすく場面ですが、さすがにそんなことが何度もうまくいくわけがないので、以後は山岡もおとなしく益満の後に従い、薩摩藩士を装ったそうです。益満は箱根で体調を崩し、駿府までは行かなかったという説もあります。それにも関わらず、山岡は果敢に危難を切り抜け、新政府軍本営までたどり着きました。西郷に面会した山岡の命がけの説得により、9月30日の日記で書いた西郷と勝の江戸無血開城をめぐる交渉が実現したのです。

その快挙から2ヵ月後の5月15日、益満は上野に立てこもった彰義隊<しょうぎたい>を攻める戦いの渦中にいました。薩摩藩は最も激烈な戦闘が行われた正面黒門口の攻撃を担当し、50名近い死傷者を出します。
益満もその1人でした。彼は右脚に銃弾を受けました。致命傷ではなかったものの、不運にも傷口から菌が入り、破傷風にかかってしまったのです。西郷は益満を特別扱いで治療するよう指示しますが、その甲斐なく22日夕刻、横浜の軍陣病院で死亡しました。本来なら薩摩藩邸焼打ち事件の時に失くしているはずの命だったとはいえ、それからわずか半年後、まだ28歳という若さでした。

大円寺にある墓碑にはめ込まれた、上野戦争の犠牲者名が並ぶ板には、「隊外 斥候役 益満休之助 廿八歳」と記されています。どの隊にも属さないフリーな立場だったわけですが、この時もやはり益満は、西郷の密命を受けて危険な敵情視察の任に当っていたのでしょうか?




戊辰薩摩藩戦死者墓(上)とそこに記された上野戦争の犠牲者名。右から2人目が益満(下)

幕府と新政府との戦争を引き起こすために江戸の町で辻斬りや放火、強盗を繰り広げ、両者の対立が決定的になると、今度は一転してその同じ江戸が火の海になるのを防ぐのに貢献するという矛盾した役割を演じた益満休之助は、最後はその江戸において行われた唯一の戦いで命を落としたのです。
新しい世を作るためとはいえ、益満は江戸の人々を恐怖に陥れるという罪を犯しました。その短い一生の間に彼は、自らその罪を精算し、あの世へと旅立っていったのかもしれません。


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻他、吉川弘文館、1979年他
家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第7巻、新人物往来社、1989年
新潮社辞典編集部編『新潮日本人名辞典』新潮社、1991年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
小島英熙著『山岡鉄舟』日本経済新聞社、2002年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
[サイト]「さつま人国誌─益満休之助の戦傷死」南日本新聞社、2012年1月9日同紙掲載

江戸の町を震撼させた薩摩御用盗 ─ 泉谷山大円寺

2012年10月08日 | 日記
西郷隆盛の密命を受けて、薩摩の益満休之助<ますみつきゅうのすけ>や伊牟田尚平<いむたしょうへい>、下総郷士の相楽総三<さがらそうぞう>らが三田の薩摩藩上屋敷に入ったのは、慶應3(1867)年10月のことでした(相楽については、それ以前からという説もあります)。彼らは京都で西郷から江戸と関東各地を攪乱するよう指令されていました。15代将軍徳川慶喜が大政奉還したことで、武力倒幕計画の大義名分を失った薩摩は、幕府側を挑発することによって相手から戦端を開かせようと画策していたのです。
関東各地の尊攘派に顔が広かった相楽が檄を飛ばして浪士たちを募ったところ、なんと500人ほども集まりました。中には高い志を持つ者もいましたが、ゴロツキや博奕打ちも混じっており、まさに玉石混交の集団でした。彼らは屋敷内の糾合所と呼ばれる学校の建物を屯所にしていたので、「糾合所屯集隊」とも呼ばれていました。浪士集めの表向きの目的は、薩摩から13代将軍家定<いえさだ>に嫁ぎ、今は未亡人となっている天璋院<てんしょういん>(篤姫<あつひめ>)の護衛のためということでした。

集められた浪士たちの一部は、出流山<いずるさん>(栃木県)など関東各地で挙兵しましたが、これらはたいした成果を上げることもなく鎮圧されてしまいました。もっとも幕府側を刺激して戦う気にさせるのが目的なので、勝ち負けは二の次だったようです。
その一方で、江戸にいる浪士たちが勤皇活動費にするためだと称して豪商の店に押し入り強盗を働き、さらには辻斬り、放火と暴れまわったので、江戸の治安は極度に悪化してしまいました。彼らは薩摩御用盗<ごようとう>と呼ばれて恐れられました。ただし彼らにも一応のルールはあって、襲撃の対象は幕府を助ける御用商人や、浪士の活動を妨害する警察組織、貿易商人などに限られていました。身勝手な理屈ではありますが、彼らには尊攘運動の讐敵<しゅうてき>を誅戮<ちゅうりく>するという大義名分があったのです。

幕府の命により江戸市中の警備にあたっていた庄内藩は、浪士たちの本拠が薩摩藩上屋敷だということに気づいてはいましたが、確たる証拠をつかめずにいました。さらに幕府内でも小栗忠順<ただまさ>が強硬な浪士退治を唱えれば、勝海舟が時期尚早であると反対するといった具合に意見が分かれていました。しかし、浪士たちの挑発はどんどんエスカレートしてゆき、12月23日夜、三田の庄内藩屯所への発砲事件が起こります。その同じ日に江戸城二ノ丸が炎上し、伊牟田の仕業だと噂されました。ついに堪りかねた幕府側は、薩摩藩上屋敷の浪士処分を決しました。討伐を命じられたのは、庄内藩を主力とした上ノ山<かみのやま>・鯖江<さばえ>・岩槻<いわつき>藩の軍勢で、25日未明、薩摩屋敷と隣接する支藩の佐土原<さどわら>藩邸を取り囲んだのです。フランス式の訓練を受けた幕府兵や諸藩の軍勢も協力していました。

庄内藩の安部藤蔵<とうぞう>が薩摩屋敷に出向き、留守居役の篠崎彦十郎に浪士たちを引き渡すよう掛け合いました。しかし薩摩側はそれに応じず交渉は決裂、怒って去ろうとする安部を、篠崎が追いかけました。そして篠崎が通用門から顔を出した途端、胸のあたりを槍で突かれ、殺されてしまいました。これが引き金となり、待機していた庄内藩兵たちは屋敷に激しい砲撃を加えた後、斬り込んだのです。
攻め手の人数が2千名あまりだったのに対して、当時、屋敷にいたのは約200名といわれています。いくら勇猛な薩摩隼人でも、10分の1の戦力では敵うわけもなく、約50名が犠牲となりました。
薩摩側犠牲者の遺骸は、無残にもしばらく放置されていましたが、後に遺骸の多くが屋敷に近い伊皿子<いさらご>(東京都港区三田)にあった大円寺に埋葬されました。


薩摩藩邸焼打ち事件の犠牲者たちの墓がある大円寺山門

泉谷山大円(圓)寺は、江戸における薩摩藩島津家の菩提寺のひとつです。
明治41(1908)年10月に現在地(杉並区和泉3-52-18)に移転して来ました。京王井の頭線永福町駅前から北東にのびる松ノ木通りを10分ほど歩いた右手にあります。
墓地の一角には、薩摩出身で総理大臣も務めた松方正義の書で「戊辰薩摩藩戦死者墓」と刻まれた巨大な墓碑が立っています。裏に「大正四年乙卯十一月合葬」と彫られたその墓碑を中心に、維新前後に亡くなった薩摩藩や佐土原藩関係者の大小さまざまな墓碑が整然と並んでおり、その中には焼打ち事件の犠牲者のものも含まれています。


大円寺の墓地にある戊辰薩摩藩戦死者墓

事件の知らせが慶喜のいる大坂城に届くと、城内では「薩摩討つべし」という主戦論が一気に盛り上がりました。それまで武力闘争だけは回避したいと考えていた慶喜も、もはやそれを抑えることができず、明くる慶應4(1868)年元旦、「討薩の表」を発したのです。その内容は、前年12月9日の王政復古のクーデター以来起こっている事態は朝廷の真意ではなく、全て薩摩の奸臣たちの陰謀によるものであると述べ、その者たちの身柄引き渡しを求め、そしてもしそれが受け入れられない場合には、やむを得ず誅戮を加えるというものでした。それに薩摩の罪状書をそえ、諸藩に対して出兵を命じました。その翌日には、早くも老中格大河内正質<おおこうちまさただ>を総督として、1万5千の幕府軍が京を目指して大坂城から出陣しました。

こうして薩摩の幕府側に対する挑発作戦は見事に成功し、1月3日夕刻、ついに鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切って落とされたのです。



【参考文献】
中村哲著『日本の歴史16 明治維新』集英社、1992年
NHK取材班編『堂々日本史3』KTC中央出版、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
野口武彦著『江戸は燃えているか』文藝春秋、2006年
安藤優一郎著『幕末維新 消された歴史』日本経済新聞出版社、2009年