ひろむしの知りたがり日記

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ブルース・リーもビックリのとんでも映画 「死亡の塔」

2014年02月24日 | 日記
冒頭からいきなりこんなことをいうのもどうかと思いますが、この映画については、あまり語りたくないというのが正直な気持ちです。「燃えよドラゴン」と出会って衝撃を受けて以来、「ドラゴン危機一発」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」「グリーン・ホーネット」「死亡遊戯」と、ブルース・リーが出演する映画が公開される度に欠かさず劇場に足を運んできましたが、「ブルース・リー 死亡の塔」(死亡塔/TOWER OF DEATH。日本公開1981年6月20日)だけは、とうとう劇場で観ることはありませんでした。わずかばかりの未公開映像をツギハギして無理矢理作ったとんでも映画だということはわかっていましたし、一般にブルースの作品とは認められていなかったからです。
しかし、以前にこのブログで「ブルース・リーのドラゴン拳法」を執筆するに当たって入手したブルーレイ・セットの中に入っていたのでやむなく鑑賞してみると(しかもそれが不良品だったので、別のものをもう一度観るハメになるというオマケつき!)、あまりに突っ込みどころ満載なので、取りあえずそれらを洗いざらい吐き出しておかないと、どうも気持ちがスッキリしないので、思い切って書くことにしました。

 
「ブルース・リー生誕70周年記念 ブルーレイコレクション」に収められた「死亡の塔」(左)と、「死亡の塔 エクストリ-ム・エディション[Blu-ray]」(右)。映像内でのタイトルは「GAME OF DEATHⅡ」です

ブルースの急逝から7年後、突如この映画が発表されて世界中のファンを驚愕させました。制作ゴールデン・ハーベスト、総指揮レイモンド・チョウ、監督ン・シーユン、武術指導をユエン・ウーピンが担当しています。「死亡遊戯」の続編として製作され、わたしが観たブルーレイでは英語タイトルが「GAME OF DEATH Ⅱ」となっていました。
1973年の「燃えよドラゴン」劇場公開時にロバート・クローズ版ではカットされた、少林寺の高僧(ロイ・チャオ)と主人公リー(ブルース)が武術の奥義について語り合う場面や、武術大会に出場するためにハンの支配する島に渡ったリーが、あてがわれた個室に入る場面が使われており、これら見たさに劇場に足を運んだ人も多かったのです。また回想シーンでは、子役時代のまだあどけない6歳のブルースや、甘いマスクも瑞々しい15歳の彼の映像も見ることができます。
タイトルに「ブルース・リー」とうたわれていますが、実際の主演はそっくりさんのタン・ロンです。タンは「死亡遊戯」でユン・ピョウらとともにブルースの代役を務めた俳優で、今回も最初は、やはりブルースの代役をしています。彼は1985年の「シンデレラ・ボーイ」でもブルースの亡霊役を演じました。そもそも芸名のタン・ロンというのが、「ドラゴンへの道」の主人公唐龍<タン・ロン>から来ていることは明々白々で、ブルースのそっくりさんとして活動することが前提で登場して来た役者なのでしょう。

それでは、ここからは映画のストーリーを追いながら、この作品の“とんでも”ぶりを見ていくことにしましょう。

ビリー・ロー(ブルース)は、親友の武術家チン・クー(ウォン・チェンリー)が急死したという知らせを聞いて日本に向かいます。そしてまず最初に、チンの養女メイに会うために彼女が歌手をしている銀座のクラブを訪ねるのですが、実際にロケが行われたのは新宿の歌舞伎町です。ご丁寧にも、はっきりと「新宿コマ劇場」のネオン文字が映っています!
なんらかの理由で銀座での撮影ができなかったのか、繁華街の雰囲気を出すには歌舞伎町のほうが適当だったからなのか、事情はよくわかりませんが、もう少しなんとかならなかったものかと、映画製作の雑さにげんなりしてしまいます・・・。
メイがチンから預かったというフィルムを受け取ったビリーは、その後チンの葬儀に参列します。ロケ地は増上寺(東京都港区芝公園4-7-35)です。本尊の木造阿弥陀如来坐像(室町時代製作)までしっかりカメラに収めているので、おそらくはちゃんと許可を取って撮影したのでしょうが、お寺側としてはこんなとんでも映画だと知っていてOKを出したのかどうか、疑問に感じるところです。
大殿(本堂)での葬儀の後、墓地に運ばれたチンの棺は突如現れたヘリコプターに奪われました。それを阻止しようとしたビリーは、ヘリに乗っていた何者かが放った飛矢によって、あっさりと命を落としてしまいます。
壮麗なビリーの葬儀場面には、ブルース自身の葬儀の実写フィルムが使われました。「死亡遊戯」でビリーが犯罪組織と戦うために、死を装って行われた葬儀の際にも同じ時のフィルムが使われています。
このように、何度も彼の葬儀映像を商売に利用するようなやり方は、死者を冒涜しているようで、わたしはあまりいい感じがしませんでした。
何はともあれ、ここに来てようやくタンが、晴れて主役として颯爽と登場します。ブルースの代役としてではなく、自分の顔をはっきりと出して演技ができる喜びは、さぞかし大きなものだったのではないでしょうか。

こうして、復讐を誓う弟のボビー(タン)が日本へやって来ます。ビリーが遺したフィルムに写っていたチンの弟子ルイス(ロイ・ホラン)が怪しいと睨んだボビーは、彼の住む「死の宮殿」を訪ねました。ところが、犯人と疑っていたルイスも、彼が腹心の部下だと思っていた男に惨殺されてしまいました。ボビーは宮殿近くの寺の地下深くにあるとルイスから聞いた「死亡の塔」に潜入します。
主役の座をかち得たとはいえ、タンはブルースの幻影から完全に逃れることはできませんでした。夜間、こっそり宮殿内を探って回るタンの姿は、全身黒ずくめで肩から白い紐がついた黒い袋を下げているという「燃えよドラゴン」でハンの島を探索するブルースがしていた格好の完全なコピーですし、死亡の塔への入口部分は、やはり「燃えよドラゴン」に出てくるハンの地下要塞にそっくりです。
この場面では、タンもブルース同様上着を破られて一旦上半身裸になりますが、それなりによく鍛えられてはいても、胸毛、腋毛処理もせず、ブルースの研ぎ澄まされた刃のような肉体と比べるとさすがに見劣りするためか、すぐに敵の服を奪って身につけます。
地下基地に潜入し、原始人のようなヒョウ柄の服を着た怪力男や、薄紅色の衣を纏った怪僧を倒したボビーの前に、死んだはずのチンが現れました。実は、彼は麻薬密売組織のボスだったのです。警察からも追われる彼は、遺体が調べられることを恐れて、棺を奪わせたのでした。
激闘の末、ボビーは兄が日本へ行く前に置いていった自著のグンフー教本で学んだ截拳道<ジークンドー>(そんなもので、しかも短期間で身につくものなのでしょうか・・・)をも駆使してチンに勝利します。


「ブルース・リー 死亡の塔」劇場公開時のパンフレット。書いてあるのはブルースのことばかり…

ざっと、こんな内容の作品です。エンド・ロールでは、バックにブルースの映画やプライベートの写真や映像を次から次へと映し出して、あくまでこれがブルース・リーの映画であることを主張します。
ブルース人気を骨の髄まで利用し尽くそうとするゴールデン・ハーベストとレイモンド・チョウの商魂逞しさには呆れかえりますが、それだけの商売魂があったからこそ、香港の大手映画会社ショウ・ブラザースが出演料を出し惜しみしたブルースの可能性に賭けて契約を交わし、成功への足がかりを作ることができたのだともいえます。そう考えると、レイモンドの欲深さを一概に否定するわけにもいかず、ファンとしては、なんとも複雑な気持ちになってしまいます。

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
久保田明監修『スクリーン・デラックス カンフー映画大全集』近代映画社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年

雪の世田谷歴史散歩 <後編> 豪徳寺 ─ 大老井伊直弼も眠る招き猫の寺

2014年02月16日 | 日記
松陰神社を後にして、雪中行軍で豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺2-24-7)を目指します。
途中、国士舘大学に立ち寄ってしばし暖を取り、人心地がついたところで再び白銀の世界へ。ようやく目的地にたどり着きました。天候さえよければ快適な散歩コースなのでしょうが、降りしきる雪を衝いて進むとなると、ちょっとした冒険行です。
電車で行くなら、東急世田谷線の宮の坂駅が最寄りです。山号は大谿山<だいけいざん>。もとは文明12年(1480)に世田谷城主吉良政忠が、亡くなった叔母の菩提を弔うために創建した小庵で、彼女の法名「弘徳院殿久栄理椿大姉」にちなみ、弘徳院といいました。開山馬堂昌誉の宗派である臨済宗のお寺でしたが、天正12年(1584)に門菴宗関<もんなんそうかん>が住職となり、彼が属する曹洞宗に改宗されました。
寛永10年(1633)に世田谷領15ヵ村(のちに20ヵ村)が彦根藩に江戸屋敷賄料として与えられると、藩主井伊家の江戸における菩提寺となります。2代藩主直孝<なおたか>の没後、長女の亀姫(掃雲院<そううんいん>)によって伽藍の整備が進められ、大名家の菩提寺にふさわしい大寺に生まれ変わりました。この時、直孝の法名「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなんで、豪徳寺と改称されました。


両脇の木立も真っ白な雪に覆われた豪徳寺の参道


豪徳寺の山門には「碧雲関」と書かれた扁額が掲げられています

山門をくぐってまっすぐ進むと、大きな香炉の背後に延宝5年(1677)建立の仏殿(区指定文化財)が建っています。その前を左に折れた先には井伊家の墓所が広がっており、直孝をはじめ、江戸藩邸で亡くなった藩主やその家族の墓塔が並んでいます。
ここに墓がある人物の中で最も有名なのは、桜田門外の変で命を落とした13代藩主井伊直弼<なおすけ>でしょう。安政5年(1858)4月大老に就任、勅許を待たずに日米修好通商条約など安政5ヵ国条約に調印しました。また、13代将軍徳川家定<いえさだ>の後継者を慶福<よしとみ>(のちの家茂<いえもち>)に決定し、敵対する一橋慶喜<ひとつばしよしのぶ>(のちの15代将軍)を推すグループを一掃します。さらに安政の大獄で、前回取り上げた吉田松陰ら多数の犠牲者を出します。こんなことをやっていては、「井伊、許すまじ!」の声が高まるのは当然の成り行きで、ついに万延元年(1860)3月3日、上巳の祝儀のために登城する途中に、桜田門外の松平大隅守邸前で水戸の脱藩浪士たちの手にかかって暗殺されました。享年は46でした。


井伊直弼の墓。彼が殺害されたのも、本日のような雪の日でした

笠石に井伊家の家紋橘<たちばな>を配し、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と刻まれた墓碑は、昭和47年(1972)4月19日に都史跡に指定されています。
平成21年から22年にかけて井伊直弼ほか3基の墓の改修工事が行われましたが、この工事にともなう調査で、直弼の墓には石室・石槨がないことが判明しました。このことから、豪徳寺の墓には彼の遺骸が埋葬されていないかのような報道もなされましたが、東京工業大学が行った地中レーダーによる探査の結果、深さ2.2メートルあたりに0.8メートル四方ほどの埋葬主体が存在する可能性が高いことがわかっています。
井伊家墓所内には、直弼を守ろうと戦って命を落とした家臣のため、27回忌に際して建てられた「桜田殉難八士之碑」や、鉄砲足軽だった遠城謙道<おんじょうけんどう>の墓などもあります。遠城は慶応元年(1865)に出家し、以来明治34年(1901)に79歳で亡くなるまでの37年間、直弼の墓畔に暮らし、その掃苔に余生を捧げました。藩はその忠義に報いるため2人扶持を給し、直弼遺愛の茶室を住まいとして与えています。

 
白銀の雪に埋もれた境内はまるで別世界。寒さを忘れて見入ってしまいました

仏殿のそばには、猫観音を祀る招福堂があります。豪徳寺といえば招き猫の寺として有名ですが、井伊家との結びつきにまつわる伝説が残されています。
ある夏の昼さがり、井伊直孝は郎党5、6人を引き連れて遠乗りに出かけました。弘徳院の門前にさしかかると、一匹の猫がしきりに招いています。直孝たちが寺内に入ると一天にわかにかき曇って大雨となり、今までいた場所に雷が落ちました。危うく難を逃れた直孝はこれを奇縁とし、そののちも度々訪れて、ついには井伊家の菩提所になったというのです。直孝を寺に招き入れた住職の愛猫タマは、豪徳寺に福を招き、隆盛をもたらしたということで、招福観音として崇められるようになりました。
招福堂の向かって左脇には、大小さまざまな招き猫がびっしりと並べられており(「招福猫児<まねぎねこ>」といいます)、なかなか壮観です。ここで招き猫を買って、願いが叶った人がさらにご利益があるようにと返納したものだそうで、その数の多さに、「猫観音サマ、大活躍ですね!」と思わず喝采を贈りたくなります。
また、堂周辺の絵馬架けには、招き猫が観世音菩薩や干支の動物とともに描かれた絵馬が鈴なりに架けられており、見ているだけで楽しい気持ちになってきます。

 
招福堂脇に溢れかえらんばかりに並べられた招き猫の置物(上)と、開運招福の絵馬(下)

さて、豪徳寺の雪景色を心ゆくまで堪能した後は、彦根藩世田谷領を管理する代官所だった世田谷代官屋敷(郷土資料館を併設)を見学してから三軒茶屋に戻り、熱々のアンコウ鍋をいただくことになっています。それを励みに、もう一ふんばりです!
みなさんとはここでお別れしますが、この周辺には世田谷吉良氏が拠った城の遺構が残る世田谷城阯公園をはじめ、見るべきところがまだまだあります。いずれ機会を改め、ご案内することにいたしましょう。


【参考文献】
竹内秀雄著『東京史跡ガイド⑫ 世田谷区史跡散歩』学生社、1992年
街と暮らし社編『江戸・東京 歴史の散歩道5 渋谷区・世田谷区・中野区・杉並区』街と暮らし社、2003年
世田谷区立郷土資料館編『幕末維新 近代世田谷の夜明け』世田谷区立郷土資料館、2012年

雪の世田谷歴史散歩 <前編> 松陰神社 ─ 神サマになった幕末の風雲児

2014年02月10日 | 日記
なんの因果か、都心の積雪26センチ(2月8日午後10時現在)、東京では20年ぶりという大雪の中、世田谷の歴史散歩をすることになりました。カメラを持つ手が麻痺するほどの寒さでしたが、あまりの美しさに、いつの間にか夢中でシャッターを押していました。史跡や建物の詳細を観察するには、当然晴れた日の方がよいのですが、せっかくなので、世田谷の由緒ある神社やお寺の雪景色を見ていただこうと思います。

三軒茶屋から東急世田谷線に乗って、まず最初に訪れたのは、その名も松陰神社前駅が最寄りの松陰神社(東京都世田谷区若林4-35-1)です。この辺りは江戸時代、大夫山<だいぶやま>、あるいは長州山と呼ばれていました。名前の由来は、長州藩の第2代藩主毛利大膳大夫綱広が在府の折、この若林村に抱屋敷を建てたことによります。
松陰神社の主祭神は吉田寅次郎藤原矩方命<のりかたのみこと>こと吉田松陰(号は二十一回猛士)です。幕末を扱った小説や映画・ドラマには必ず登場するビッグ・ネームの思想家・教育者で、今では学問の神サマとして親しまれ、多くの受験生たちが合格祈願に訪れます。わたしたちが行った当日は、各地で大学の入学試験が行われ、交通機関の遅延で開始時間が変更になるというニュースが飛び交っていましたが、この神社に参拝した人たちは、無事試験を受けることができたでしょうか?


松陰神社の境内入口に立つ鳥居


雪が降り積もる参道の奥に見える拝殿

鳥居をくぐり参道をまっすぐ進むと、正面に昭和3年(1928)に造営された拝殿が鎮座しています。参道途中の右手には、半分雪に埋もれた吉田松陰の坐像がありました。平成24年の松陰神社御鎮座130年の記念事業として造られたもので、翌25年に完成したばかりです。

まだ新しいブロンズ製の吉田松陰坐像

松陰は杉百合之助の二男として天保元年(1830)8月4日、萩城下松本村に生まれ、叔父で山鹿流兵学師範吉田大助賢良の養子となりました。幼い頃から優秀で、なんと11歳で藩校明倫館の師範となり、藩侯の御前で講義を行ったそうです。16歳の頃には長沼流兵学師範山田亦介<またすけ>の教えを受けて世界に目を向けるようになります。その後、長崎や江戸へ遊学し、さらには志を立てて亡命するなど各地を旅して天下の志士や知名の学者と交流を深めます。とりわけ蘭学や砲術に通じ、開国を唱えた佐久間象山には強く感化され、その後の思想と行動に決定的な影響を受けました。

嘉永6年(1853)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航して日本に開港を迫ります。翌安政元年にペリーが再来すると、松陰は弟子の金子重輔と米艦に乗り込んで密航しようと企てますが失敗、国許の牢に入れられました。その後許されて松下村塾を開き、人材の育成と政治への働きかけを続けます。安政3年7月から同5年12月までの短い間でしたが、そこで学んだ多くの若者たちが、幕末から維新期にかけて活躍しています。
しかし、開国を断行した大老井伊直弼<なおすけ>が、自分の政治に反対する者たちを大弾圧した安政の大獄が、松陰の運命に暗い影を落とします。幕府から危険思想者とみなされた彼は、江戸伝馬町の獄に送られ、安政6年10月27日に処刑が決行されました。こうして松陰は、30歳の若さでこの世を去ります。

拝殿の手前右手奥には、松下村塾を模した建物があります。昭和17年に建てられましたが、現在の設置場所は当時とは違っているようです。土日は雨戸が開けられて、屋内を見ることができます。ただしその日は雪のため、枝が折れて落ちてくる危険があるからと、近くに行くことすらできませんでした。


松下村塾のレプリカ。実物は萩にあります

小塚原に晒されていた松陰の首は、初め千住の回向院に葬られましたが、4年後の文久3年(1863)正月に彼の門下だった高杉晋作や伊藤博文らの手によって毛利家抱屋敷内の楓の木の下に改葬されました。ところが元治元年(1864)に禁門の変が起きると、幕府は抱屋敷を没収し、敷地内にあった松陰の墓も破壊してしまいました。その後、明治元年(1868)には藩命を受けた木戸孝允<たかよし>が新たに墓碑を建て、さらに明治15年11月には旧長州藩の世子毛利元徳<もとのり>や松陰の門人、旧知の者たちによって墓の東側にささやかなお堂が建てられました。これが松陰神社の始まりです。

社殿に向かって左手奥にある、松陰墓所に向かう途中に立ち並ぶ石燈籠は、明治41年の松陰50年祭に毛利元徳の長子元昭<もとあきら>をはじめ、門下生の伊藤博文、木戸孝允、山県有朋、乃木希典<のぎまれすけ>などの縁故者より奉献されたものです。
灯籠を右手に見ながら進むと小さな鳥居があり、それをくぐると松陰先生他烈士墓所です。入口の鳥居は、墓所の修復の際に木戸孝允が奉納したものです。一番奥の正面に、松陰のほか頼三樹三郎、来原良蔵、小林民部良典<よしすけ>、福原乙之進<おとのしん>ら非業の最期を遂げた志士たちの墓が並んでいます。とは言え、これまた雪に埋もれてしまっていて、墓碑銘を確かめることすらままなりませんでしたが・・・。

 
伊藤博文らが奉献した石燈籠(左上)と、木戸孝允が奉納した墓所入口の鳥居(右上)。下は松陰先生他烈士墓所。ここには松陰や、彼同様安政の大獄の犠牲になった頼三樹三郎らが葬られています


墓域内にはほかに、維新後に徳川家から謝罪のために寄進された燈籠と水盤や、長州藩邸没収事件関係者慰霊碑、長州第4大隊戦死者招魂碑といった、藩のために亡くなった方々の慰霊碑が立っています。本当なら1つ1つじっくりと眺めたいところですが、もはや寒さにかじかむ指も限界に達し、いそいそと何枚か写真を撮ると、足早に松陰神社を後にしました。

境内を出て右に行くと、まもなく桂太郎が眠る桂家の墓所があります。桂も長州藩出身で、台湾総統、陸相を経て、明治37年には首相として日露戦争開戦を決め、苦しみながらも勝利を収めた人物です。66歳で亡くなり、本人の遺言によって松陰霊域のそばに葬られました。付近には、やはり旧長州藩士で慶応2年(1866)の第2次幕長戦争では休戦交渉に当り、明治になってからは民部大輔、参議を歴任して版籍奉還などを推進した広沢真臣<さねおみ>の墓(都指定旧跡)があります。


松陰神社のすぐそばで眠る桂太郎の墓所

毎年10月27日の例大祭に合わせて、松陰神社と松陰神社通り商店街では、その近辺の週末に「幕末維新祭り」が開催され、幕末の志士や奇兵隊に扮してのパレードなどが賑やかに行われるそうです。今度はその時分にでも訪れて、雪のない松陰神社や桂太郎・広沢真臣の墓をじっくりと見てみたいと思います。
でもそれはまた別の話、とりあえず今は、次の目的地である豪徳寺へと急ぐことにしましょう。

【参考文献】
奈良本辰也著『吉田松陰』岩波書店、1951年
竹内秀雄著『東京史跡ガイド⑫ 世田谷区史跡散歩』学生社、1992年
世田谷区立郷土資料館編『幕末維新 近代世田谷の夜明け』世田谷区立郷土資料館、2012年

ブルース・リーのドラゴン拳法(9) ─ ENTER THE DRAGON

2014年02月02日 | 日記
1973年3月、「死亡遊戯」を中断して撮影に入った「燃えよドラゴン」(龍争虎闘/ENTER THE DRAGON)は、アメリカのメジャー映画会社ワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションがタッグを組んだ、ブルース・リー初のハリウッド主演作でした。監督はロバート・クローズで、ブルースは武術指導も務めました。
物語の舞台は、南シナ海に浮かぶ要塞島です。島を支配するハン(シー・キエン)は、表向きは武術道場の強化に専念していましたが、裏では麻薬を製造して世界に向けて密売していました。イギリス諜報部のブレイスウェイトが少林寺に学ぶ武術の達人リー(ブルース)のところにやって来て、ハンが3年毎に主催する武術トーナメントに出場し、潜入捜査をするよう依頼します。

オープニングでサモ・ハン・キンポー演じる武術家と試合をし、相手の腕関節をきめて勝利したリーがブレイスウェイトと会うまでの間に、劇場公開時にはカットされたシーンがあります。
リーが師である高僧から、お前の技量は肉体のレベルを遥かに超え、精神的なレベルに達していると言われ、これから到達しようとしている境地について問われます。それに答える中で、彼は優れた武術家は気を張りつめていなくとも無心のうちに相手のどのような攻撃にも対処でき、チャンスがあれば、意識せずとも自然に体が相手に技を打ち込んでいるものだと語ります。
これはあの有名な、少年にキックを教える時に言うセリフ「考えるな、感じるんだ」にも通じる大事な内容なので、カットされたことが惜しまれます。この伏線がないと、あのセリフを「理屈なんて関係ない、自分のフィーリングのままに戦えばそれでいいんだ」という意味だと誤解され、そのレベルに達するまでには、それはそれは厳しい修練の積み重ねが必要であることが忘れられがちになってしまうからです。幸い、ワーナーから出ている最近のDVDやブルーレイは、高僧との会話が含まれるバージョンに変更されています。
さて、そうしたやりとりに続いて、高僧はハンが少林寺で学んで得た知識と技を悪用して少林寺の名を汚しているので、名誉を回復してもらいたいと語ります。こうしてリーは、トーナメントへの出場を決意しました。

         
        「燃えよドラゴン」製作40周年記念リマスター版ブルーレイ(ワーナー・ホーム・ビデオ)

トーナメントに招待された者たちの中には、黒人のウィリアムズ(ジム・ケリー。1971年度世界ミドル級空手チャンピオン)や、高利貸しに追われるローパー(ジョン・サクスン)といった凄腕の空手家たちがいました。
いよいよ試合が始まり、リーは初戦でハンの用心棒オハラ(ロバート・ウォール)と対決します。オハラは3年前に、リーの妹スー・リン(アンジェラ・マオ)を襲い、自殺に追い込んだ仇です。卑怯な手口を使うオハラにリーの怒りが爆発、彼の息の根を止めて復讐を果たしました。
一方、前日の夜中に部屋を抜け出し、島の地下に広がる施設に侵入した犯人をウィリアムズだと勘違いしたハンは、彼を惨殺してしまいます。その無残な姿をローパーに見せ、仲間になるよう迫りました。
その夜、再び地下施設に潜り込んだリーは、必殺の突きや蹴りに加えて長棒や両手に持った2本の短棒、ヌンチャクと次々に武器を変えながら、押し寄せる敵を鮮やかになぎ倒していきます。このシーンにはスタントマン時代のジャッキー・チェンも出演しており、リーに首の骨をへし折られます。鬼神のような強さを見せるリーですが、鋼鉄の自動扉に進退を阻まれ、ついに捕らえられてしまいました。
翌日、ハンはローパーにリーを殺させようとしましたが、彼はそれを拒否します。リー、ローパーとハンの手下たちとの闘いが始まったその時、麻薬のテスト台として地下施設の牢に監禁されていた人たちが、女性諜報員メイ・リン(ベティ・チュン)の導きで脱走し、トーナメント会場になだれ込みました。
リーは大乱闘の場から逃げ出すハンの後を追い、彼と1対1の壮絶な死闘を演じます。ハン役のシー・キエンは少年時代から武術を習い、北派少林拳、螳螂拳<とうろうけん>、鷹爪拳<ようそうけん>などいくつもの拳法をマスターしている人物です。それだけに、この対決は迫力溢れるシーンに仕上がっています。
最後ににたどり着いた全面鏡張りの部屋では、鏡に幾重にも映るハンの姿に惑わされて攻めあぐねていたリーは、先に挙げた高僧との会話のシーンで師から言われた「敵は真の姿を覆い隠し、幻惑しようとする。それに惑わされなければ、敵を倒せるのだ」という言葉を思い出し、虚像を映す鏡を叩き割ることによってハンの実体を捉え、打ち勝つことができたのです。

1973年5月、ブルースはゴールデン・ハーベストのダビング室で発作に襲われ、しばらくの間昏睡状態に陥ります。しかしその時には意識を取り戻し、徹底的な検査の結果、どこにも異常はないと診断されました。それどころか、18歳の肉体を持っていると言われています。ところが「燃えよドラゴン」が完成し、「死亡遊戯」の撮影を再開しようとしていた7月20日、誰もが予想し得なかった悲劇が起こります。
出演する予定だった台湾出身の女優ベティ・ティンペイの自宅で頭痛を訴えたブルースは、彼女がかかりつけの医師から処方された薬を飲みます。それから気分が悪いと言って横になりましたが、そのまま2度と目を覚ましませんでした。32歳という若さで迎えた、あまりに突然の最期でした。死因は脳浮腫だといいます。

 
  ベティ・ティンペイが自ら出演した映画「実録ブルース・リーの死」(原題“BRUCE LEE&I”。1975年)

「燃えよドラゴン」はブルースが亡くなってからほぼ1ヵ月後の8月19日にアメリカで、それから2ヵ月後の10月18日には香港で公開されました。彼の鍛え抜かれた肉体が放つ圧倒的なスピードとパワーは、たちまち世界中の人たちを虜にします。わたしたち日本人の多くが、初めてスクリーンを通してブルース・リーの勇姿に接したのは、年も押しつまった12月22日のことでした。
すぐ隣の国に出現したスーパー・スターとの出会いとしては、遅きに失したといえるかもしれません。しかし、この偉大な男との遭遇は、わが国が誇るマンガやアニメ、それに小説といった文化面にも深く影響し、近くて遠かった東アジア諸国に目を向けさせるきっかけとなりました。
このように、彼が世界にもたらした変化は、アクション映画や格闘技ばかりにとどまらず、さまざまな国、階層、年齢、性別の人々や、多方面の分野に及んでおり、その全貌は容易に総括することができません。
彼の存在はまさに、“CHANGE THE WORLD”─ 世界を変えたのです。

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
久保田明監修『スクリーン・デラックス カンフー映画大全集』近代映画社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年