東條英機首相の退陣によって、牛島辰熊たちが最終手段に訴えることは回避されましたが、彼らが内閣打倒を画策していたことは、やがて憲兵隊の知るところとなります。
それは、当局からマークされていた石原莞爾と関係して何か企んでいるのではないかと疑われた三笠宮崇仁<みかさのみやたかひと>親王が、母である貞明皇后の意見もあって、津野田知重から受け取った一件に関する書類を、憲兵の手に渡してしまったことから発覚したものでした。そして昭和19(1944)年9月2日に津野田が、翌3日には牛島も逮捕されてしまったのです。
牛島たちの軍法会議の公判は、翌年2月28日に開かれる予定でしたが、空襲で収監されていた代々木の陸軍刑務所が焼け、関連書類がことごとく灰燼に帰してしまい、1ヵ月後に延期されました。
3月10日未明には東京大空襲があり、その後も名古屋、大阪、神戸と大都市への空襲が相次ぎ、日本は日に日に追い詰められていきました。しかし皮肉にも我が国のこの大危難が、死刑を覚悟して子供たちに遺書まで書いていた牛島の命を救ったのです。
3月24日の軍法会議の判決は、「被告らの考えは、国事を憂うる真心に発したもので、今日現に被告らの憂えたような状態になりつつある」と、津野田は免官、位階勲等剥奪の上、国政紊乱、殺人陰謀の罪名で禁錮2年、執行猶予2年、牛島も同じ罪名で禁錮1年6ヵ月、執行猶予2年を言い渡されました。
牛島本人はもちろん、家族や木村政彦ら弟子たちも、誰もが予想しなかった軽い判決でした。こうして出獄した牛島は、あらゆる公職を辞任して郷里熊本に引き籠ります。
終戦後、東條英機ら極東国際軍事裁判(東京裁判)などで裁かれたA級戦犯7名、BC級戦犯53名が絞首刑となったスガモ・プリズン処刑場跡にある豊島区立東池袋中央公園(東京都豊島区東池袋3-1-6)
サンシャイン60に隣接する東池袋中央公園内に昭和55(1980)年6月建立された「永久平和を願って」碑
以上が表向きの東條英機暗殺計画事件の経緯です。
ところが、平成24(2012)年に大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した増田俊也氏の大著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には、驚きの裏話が記されています。
牛島と政彦の両者を知る拓殖大学OBが、増田氏に次のように証言したというのです。
「東條英機暗殺ですか? あれは牛島先生が決行しようとしていたという話になっていますけど、違いますよ。牛島先生は木村先生にやらせようとしていたんです」(前掲書)
弟子が師に逆らうことなど、考えられなかった時代の話です。ましてや相手は、泣く子も黙る鬼の牛島辰熊です。国事になど何の関心もない政彦も、師の命令には問答無用で従うしかありませんでした。しかし牛島は、政彦を身代わりにして、自分だけが助かろうと考えていたわけではないと増田氏は言います。
「もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。(中略)全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ」(前掲書)
この増田氏の見解に、僕もまったくの同意見です。牛島が津野田に対して「決行は俺が一人でやる」言った時、彼は間違いなくその覚悟だったでしょう。ところがそこに、己のすべてを注ぎ込んで、精魂込めて鍛え上げた人間兵器ともいうべき木村政彦が除隊してきたのです。
国の命運を賭けて、絶対に失敗の許されない一大事に、牛島は自分より若く身体能力、精神力ともに充実した政彦の起用を選びました。それは、牛島にとって苦渋の決断だったはずです。
本当は愛弟子を巻き添えにしたくなかった証拠に、牛島は逮捕された時も、それどころか釈放された後でさえ、政彦の関与については一切触れませんでした。おそらく盟友の津野田にすら打ち明けていなかったと思われます。それは、牛島自身が序文を寄せている『志士牛島辰熊伝』や、津野田の兄忠重が書いた『わが東条英機暗殺計画』ですら、そのことにまったく触れていないことからも明らかです。
恩師牛島辰熊の命で東條英機と心中するという危機を免れた政彦は、郷里で終戦の時を迎えます。
そんな彼が、もう一人の恩師である木村又蔵との間に決定的な深い溝を作ってしまう出来事が起きたのは、それから間もなくのことでした。
【参考文献】
牛島辰熊先生古稀記念会編『志士牛島辰熊伝』牛島辰熊先生古稀記念会、1974年
森川哲郎著『東条英機暗殺計画』現代史出版会、1982年
吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』新潮社、1984年
津野田忠重著『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』徳間書店、1985年
歴史教育者協議会編『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』高文研、2007年
太田尚樹著『東条英機 阿片の闇 満州の夢』角川学芸出版、2009年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年
それは、当局からマークされていた石原莞爾と関係して何か企んでいるのではないかと疑われた三笠宮崇仁<みかさのみやたかひと>親王が、母である貞明皇后の意見もあって、津野田知重から受け取った一件に関する書類を、憲兵の手に渡してしまったことから発覚したものでした。そして昭和19(1944)年9月2日に津野田が、翌3日には牛島も逮捕されてしまったのです。
牛島たちの軍法会議の公判は、翌年2月28日に開かれる予定でしたが、空襲で収監されていた代々木の陸軍刑務所が焼け、関連書類がことごとく灰燼に帰してしまい、1ヵ月後に延期されました。
3月10日未明には東京大空襲があり、その後も名古屋、大阪、神戸と大都市への空襲が相次ぎ、日本は日に日に追い詰められていきました。しかし皮肉にも我が国のこの大危難が、死刑を覚悟して子供たちに遺書まで書いていた牛島の命を救ったのです。
3月24日の軍法会議の判決は、「被告らの考えは、国事を憂うる真心に発したもので、今日現に被告らの憂えたような状態になりつつある」と、津野田は免官、位階勲等剥奪の上、国政紊乱、殺人陰謀の罪名で禁錮2年、執行猶予2年、牛島も同じ罪名で禁錮1年6ヵ月、執行猶予2年を言い渡されました。
牛島本人はもちろん、家族や木村政彦ら弟子たちも、誰もが予想しなかった軽い判決でした。こうして出獄した牛島は、あらゆる公職を辞任して郷里熊本に引き籠ります。
終戦後、東條英機ら極東国際軍事裁判(東京裁判)などで裁かれたA級戦犯7名、BC級戦犯53名が絞首刑となったスガモ・プリズン処刑場跡にある豊島区立東池袋中央公園(東京都豊島区東池袋3-1-6)
サンシャイン60に隣接する東池袋中央公園内に昭和55(1980)年6月建立された「永久平和を願って」碑
以上が表向きの東條英機暗殺計画事件の経緯です。
ところが、平成24(2012)年に大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した増田俊也氏の大著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には、驚きの裏話が記されています。
牛島と政彦の両者を知る拓殖大学OBが、増田氏に次のように証言したというのです。
「東條英機暗殺ですか? あれは牛島先生が決行しようとしていたという話になっていますけど、違いますよ。牛島先生は木村先生にやらせようとしていたんです」(前掲書)
弟子が師に逆らうことなど、考えられなかった時代の話です。ましてや相手は、泣く子も黙る鬼の牛島辰熊です。国事になど何の関心もない政彦も、師の命令には問答無用で従うしかありませんでした。しかし牛島は、政彦を身代わりにして、自分だけが助かろうと考えていたわけではないと増田氏は言います。
「もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。(中略)全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ」(前掲書)
この増田氏の見解に、僕もまったくの同意見です。牛島が津野田に対して「決行は俺が一人でやる」言った時、彼は間違いなくその覚悟だったでしょう。ところがそこに、己のすべてを注ぎ込んで、精魂込めて鍛え上げた人間兵器ともいうべき木村政彦が除隊してきたのです。
国の命運を賭けて、絶対に失敗の許されない一大事に、牛島は自分より若く身体能力、精神力ともに充実した政彦の起用を選びました。それは、牛島にとって苦渋の決断だったはずです。
本当は愛弟子を巻き添えにしたくなかった証拠に、牛島は逮捕された時も、それどころか釈放された後でさえ、政彦の関与については一切触れませんでした。おそらく盟友の津野田にすら打ち明けていなかったと思われます。それは、牛島自身が序文を寄せている『志士牛島辰熊伝』や、津野田の兄忠重が書いた『わが東条英機暗殺計画』ですら、そのことにまったく触れていないことからも明らかです。
恩師牛島辰熊の命で東條英機と心中するという危機を免れた政彦は、郷里で終戦の時を迎えます。
そんな彼が、もう一人の恩師である木村又蔵との間に決定的な深い溝を作ってしまう出来事が起きたのは、それから間もなくのことでした。
【参考文献】
牛島辰熊先生古稀記念会編『志士牛島辰熊伝』牛島辰熊先生古稀記念会、1974年
森川哲郎著『東条英機暗殺計画』現代史出版会、1982年
吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』新潮社、1984年
津野田忠重著『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』徳間書店、1985年
歴史教育者協議会編『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』高文研、2007年
太田尚樹著『東条英機 阿片の闇 満州の夢』角川学芸出版、2009年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年