ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(14)─ 東條英機暗殺計画 《後編》

2016年01月24日 | 日記
東條英機首相の退陣によって、牛島辰熊たちが最終手段に訴えることは回避されましたが、彼らが内閣打倒を画策していたことは、やがて憲兵隊の知るところとなります。
それは、当局からマークされていた石原莞爾と関係して何か企んでいるのではないかと疑われた三笠宮崇仁<みかさのみやたかひと>親王が、母である貞明皇后の意見もあって、津野田知重から受け取った一件に関する書類を、憲兵の手に渡してしまったことから発覚したものでした。そして昭和19(1944)年9月2日に津野田が、翌3日には牛島も逮捕されてしまったのです。

牛島たちの軍法会議の公判は、翌年2月28日に開かれる予定でしたが、空襲で収監されていた代々木の陸軍刑務所が焼け、関連書類がことごとく灰燼に帰してしまい、1ヵ月後に延期されました。
3月10日未明には東京大空襲があり、その後も名古屋、大阪、神戸と大都市への空襲が相次ぎ、日本は日に日に追い詰められていきました。しかし皮肉にも我が国のこの大危難が、死刑を覚悟して子供たちに遺書まで書いていた牛島の命を救ったのです。

3月24日の軍法会議の判決は、「被告らの考えは、国事を憂うる真心に発したもので、今日現に被告らの憂えたような状態になりつつある」と、津野田は免官、位階勲等剥奪の上、国政紊乱、殺人陰謀の罪名で禁錮2年、執行猶予2年、牛島も同じ罪名で禁錮1年6ヵ月、執行猶予2年を言い渡されました。
牛島本人はもちろん、家族や木村政彦ら弟子たちも、誰もが予想しなかった軽い判決でした。こうして出獄した牛島は、あらゆる公職を辞任して郷里熊本に引き籠ります。

 
終戦後、東條英機ら極東国際軍事裁判(東京裁判)などで裁かれたA級戦犯7名、BC級戦犯53名が絞首刑となったスガモ・プリズン処刑場跡にある豊島区立東池袋中央公園(東京都豊島区東池袋3-1-6)

 
サンシャイン60に隣接する東池袋中央公園内に昭和55(1980)年6月建立された「永久平和を願って」碑

以上が表向きの東條英機暗殺計画事件の経緯です。
ところが、平成24(2012)年に大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞した増田俊也氏の大著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には、驚きの裏話が記されています。
牛島と政彦の両者を知る拓殖大学OBが、増田氏に次のように証言したというのです。

「東條英機暗殺ですか? あれは牛島先生が決行しようとしていたという話になっていますけど、違いますよ。牛島先生は木村先生にやらせようとしていたんです」(前掲書)
弟子が師に逆らうことなど、考えられなかった時代の話です。ましてや相手は、泣く子も黙る鬼の牛島辰熊です。国事になど何の関心もない政彦も、師の命令には問答無用で従うしかありませんでした。しかし牛島は、政彦を身代わりにして、自分だけが助かろうと考えていたわけではないと増田氏は言います。

「もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。(中略)全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ」(前掲書)

この増田氏の見解に、僕もまったくの同意見です。牛島が津野田に対して「決行は俺が一人でやる」言った時、彼は間違いなくその覚悟だったでしょう。ところがそこに、己のすべてを注ぎ込んで、精魂込めて鍛え上げた人間兵器ともいうべき木村政彦が除隊してきたのです。
国の命運を賭けて、絶対に失敗の許されない一大事に、牛島は自分より若く身体能力、精神力ともに充実した政彦の起用を選びました。それは、牛島にとって苦渋の決断だったはずです。

本当は愛弟子を巻き添えにしたくなかった証拠に、牛島は逮捕された時も、それどころか釈放された後でさえ、政彦の関与については一切触れませんでした。おそらく盟友の津野田にすら打ち明けていなかったと思われます。それは、牛島自身が序文を寄せている『志士牛島辰熊伝』や、津野田の兄忠重が書いた『わが東条英機暗殺計画』ですら、そのことにまったく触れていないことからも明らかです。

恩師牛島辰熊の命で東條英機と心中するという危機を免れた政彦は、郷里で終戦の時を迎えます。
そんな彼が、もう一人の恩師である木村又蔵との間に決定的な深い溝を作ってしまう出来事が起きたのは、それから間もなくのことでした。


【参考文献】
牛島辰熊先生古稀記念会編『志士牛島辰熊伝』牛島辰熊先生古稀記念会、1974年
森川哲郎著『東条英機暗殺計画』現代史出版会、1982年
吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』新潮社、1984年
津野田忠重著『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』徳間書店、1985年
歴史教育者協議会編『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』高文研、2007年
太田尚樹著『東条英機 阿片の闇 満州の夢』角川学芸出版、2009年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

政彦と又蔵(13)─ 東條英機暗殺計画 《中編》

2016年01月17日 | 日記
牛島辰熊と津野田知重陸軍少佐が石原莞爾の許に持参した献策書『大東亜戦争現局に対する観察』は、次の5点が骨子を成していました。

1.現在の日本の戦争に対する急務は、いかに早くこれを終結させるかである。
2.このまま泥沼の戦争を続ければ、必ずソ連が参戦してくるであろうから、ソ連を仲介として対英工作をする。そのために満州を中ソ協議の末、処置することを認める。
3.国民政府主席の蒋介石と直接交渉し、まず無条件で大陸の兵を引き払う。さらに重慶(国民政府首都)を通じて対米和平工作を講ずる。
4.国民を前記の方向に指導しうる強力な内閣の構築、すなわち皇族たちを通じて天皇の聖断を仰ぎ、東久邇宮稔彦<ひがしくにのみやなるひこ>内閣による政局担当が必要である。
5.国民の世論および良識ある進言を阻害している東條英機を速やかに退陣させ、軍の粛正を期する。

これを読んだ石原莞爾は、即答を避けて一晩熟慮した末、
「内容は結構だ。しかし、これは実現不可能だろうと思う。今の状態では万事が手遅れだ」
そう言って、アメリカ軍がサイパンに上陸したことを伝える号外を、牛島たちの方へ突き出しました。そして、その理由を次のように語ります。
「一縷の望みをつないでいたサイパンがこれだ。こうなるとB29の基地になって、日本は間断ない爆撃を受けることになるだろう。そうなると、わが国の生産はガタ落ちになって、戦争を続けるどころじゃない。蒋介石を通じてアメリカとの和平工作を講じることには賛成だ。ソ連が仲介の労をとるかどうかは疑問に思う。今のうち早急に大陸から全兵力を撤退し本土の防衛をすれば、これは一つの方法ではあるが・・・。
何にしても打開策は、まず東條を退陣させ、異民族に信をつなぐ統率者を立てることが必要だが、東條は退かないだろう。あいつは自分自身を反省するような性根は持ち合わせていない牛か馬のようなもので、場に連れて行かれるまでは、いや殺されなければ所詮わからない男だ。
皇族を通じて聖断を仰ぐというのは一案だが、おそらくこれも成り立つまい。上奏するといっても、お上は木戸内府(内大臣木戸幸一)を通じたものでなければ、お取り上げにならんし、第一、木戸が取り次がないだろう。それに皇族の立場というものは、第三者が考えているほど簡単ではない。また皇族の従来の教育方針というものは、決して何かを積極的にやる気魂が植えつけられるようなものではない」
そして最後に、非常手段としての東條暗殺の箇所に、赤鉛筆で「斬るに賛成」と書き添えたのです。

石原邸を辞して東京に戻った牛島たちは、今度はその足で小畑敏四郎陸軍中将を訪ね、献策書を見せて意見を求めました。小畑は、牛島の義兄弟今田新太郎が最も推奨してやまなかった名将軍で、牛島たちが東條打倒後の陸軍と国を託すべき人物と目していた相手です。
小畑もまた即答は避け、二日後にソ連を仲介としてイギリスと和平交渉をするという部分以外は「おおむね賛成」と述べました。ただし彼もまた、「時期いまやすでに遅し」と付け足します。東條暗殺に関しては、「これは読んでいないことにしよう」と意見を避けました。

石原・小畑両氏の考えを聴取し、自分たちのやろうとしていることに間違いはないと確信を深めた牛島たちは、いよいよ津野田と士官学校の2期先輩だった三笠宮崇仁親王(大本営参謀で少佐)を通じて高松宮に働きかけるなど、皇族たちを介して天皇の聖断を仰ぎ、東條退陣を促すという平和的工作を進める一方で、暗殺決行の具体的方法について検討を開始しました。

短刀や日本刀、ピストル、手榴弾といった手段を用いたのでは失敗する可能性もあります。考え抜いた結果、習志野のガス学校で極秘裏に開発が進められていた爆弾「茶瓶」を使うことにしました。津野田が必殺の武器として選んだ茶瓶とは、どのような爆弾なのでしょうか?

それは、玉ねぎのような形をしたガラス製の容器の中に、青酸液と銅粉が詰まったもので、割れると青酸ガスが周囲一帯に撒き散らされ、50メートル四方の生物がたちまち死滅するという、対戦車用に考案された恐るべき化学兵器です。ただし当然のことながら、投げた者も命を落とすことになります。

「それをぜひ手に入れてくれ。決行は俺が一人でやる」
牛島は、死を覚悟してそう津野田に言いました。それから毎日歩き回って、なるべく人通りが少なく、茶瓶を投げるのに最適な地勢の場所を入念に探したのです。そして、東條が宮城内で開かれる閣議の往復に使う道路の祝田橋付近で、カーブのため彼の乗るオープンカーが徐行する場所が選ばれました。道沿いには幅、深さともに1メートルほどの側溝があり、その中に身を潜めることにしたのです。

決行日は昭和19(1944)年7月25日と定められ、牛島は準備万端整えてその時を待っていました。
ところが、いよいよ間近に迫った7月18日午後4時頃のことです。牛島が柔道師範を務める皇宮警察本部に所用で顔を出し、部長室で重村警察部長と雑談しているところに田畑特高課長がやって来て、驚くべきことを告げました。
「今日の閣議は特別長引きそうです。内閣総辞職になるらしいとのことです」
牛島は、瞬間自分の顔色が変わったのをはっきり感じましたが、内心の動揺を押し隠してなおも雑談を続けながら、事の真偽を伝える第二の報告を待っていました。
すると、田畑が再び慌ただしく飛んできて、
「部長殿、東條内閣は総辞職です!」
と報告したのです。重村に「えっ、総辞職?」とオウム返しに問われた田畑は、
「首相はお上からサイパン失陥の責任をとがめられて、顔面蒼白となって引き下がったということです」
とその時の状況を伝えました。

なんということでしょう。暗殺決行直前に、石原や小畑ですら望みなしとしていた聖断による東條退陣が実現したのです。
東條の命とともに、それを奪わんとした牛島辰熊の命をも救われた瞬間でした。

 
皇居内にある皇宮警察本部。皇室守護を目的とする国家機関です。牛島辰熊はここで、東條内閣総辞職の知らせを聞きました(東京都千代田区千代田1-3。左側の緑の屋根の建物は武道場の済寧館)


【参考文献】
牛島辰熊先生古稀記念会編『志士牛島辰熊伝』牛島辰熊先生古稀記念会、1974年
吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』新潮社、1984年
津野田忠重著『わが東条英機暗殺計画 元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」』徳間書店、1985年
太田尚樹著『東条英機 阿片の闇 満州の夢』角川学芸出版、2009年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年