ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (6) ─ 鬼の怒り爆発、プロレス日本一は俺だ !!

2014年10月26日 | 日記
力道山は自伝で、昭和29(1954)年11月1日付けの某大新聞に、木村政彦がプロレス巡業先の岐阜で、
「シャープ兄弟が来日したとき力道山とタッグ・チームを組んだが、あのとき私は力道山の引き立て役にまわされ、私だけがシャープ兄弟に負けた。真剣勝負なら私は力道山に負けない」
と発言したという記事が載ったと書いています(『力道山 空手チョップ世界を行く』)。

某大新聞については、力道山の伝記の中でもとりわけ詳細だとされる『激録 力道山』に朝日新聞朝刊社会面と書かれており、他にも朝日の記者が聞き出したという記述が諸資料に見られますが、私が実際に朝日新聞の同日付け紙面を調べたところ、いくら目の皿のようにして探しても、そのような記事はどこにも見当たりませんでした。
力道山の記憶違いなのか、あるいは創作なのか、さらに調査を続けたいと思います。

何でその記事を見たかはさておき、力道山は木村発言について触れた後、取ってつけたように、木村が記者の誘導でそのように言わされたのだと後日に知ったと書いていますが、たとえそうだったとしても、木村がまったく心にもないことを口にしたわけではなく、これは彼の本音だったと思います。

『空手バカ一代』で木村は、大山倍達にシャープ兄弟は自分に対しては反則ずくめで全力攻撃を仕掛け、力道山には花を持たせているのだとぶちまけました。アメリカで、プロレスラーたちと対決した経験を持つ倍達は、即座に裏の事情を覚ります。
「マットの上では敵味方でも、シャープ兄弟を日本に呼んでやったのは力道山・・・つまりは金もうけさせてくれるボスになるわけだから、どうしても木村先輩への風あたりが強くなる!」(講談社漫画文庫、第5巻)

木村とて、実力ではシャープ兄弟に負けないという自負はありましたが、本気を出して相手を当身(打撃技)で気絶させ、手足をへし折ってしまっては今後の興行ができず、日本のプロレス旗揚げは失敗してしまうと、我慢に我慢を重ねてきた苦衷を吐露しました。

『空手バカ一代』は虚実をないまぜにし、格闘技史を混乱させたとの悪評高い作品ですが、このあたりの経緯は真実に近いのではないかという気がします。
シャープ兄弟側の立場としては、力道山たちにみすみすタイトルを譲るわけにはいきませんが、かといって自分たちを稼がせてくれる力道山に惨めな負け役はさせられません。自然、その役回りは木村にめぐってくることになり、あのような試合経過のシナリオが組まれたのでしょう。

木村戦までの半生記『激録 力道山』第1巻

柔道一筋で、世間知らずの木村にはどこかお人好しなところがあって、そのような立場に不満を抱きつつも、力道山のプロレスに賭ける夢を潰してしまうことはできませんでした。
新聞記者にうまく煽られたとはいえ、そんな木村が堪忍袋の緒を切る結果になったのは、力道山の人間性にも原因があったのかもしれません。

実は彼、めちゃくちゃ性格が悪かったのです!
プロレスを愛する作家の山田智彦は、「猜疑心の強さ、傲慢さ、酒ぐせのわるさ、金銭への執着など」力道山の人格的欠陥を列挙し、そのひどさにファンとしての戸惑いを述懐しています(『ザ・プロレスラー』)。
増田俊也もその言葉を引用しつつ、さらに弟子のアントニオ猪木が動物並みの扱いを受けて暗い怒りを燃やしていたことや、ジャイアント馬場が「人間として何一ついいところのない人でした」と語っていたなどのエピソードを、これでもか、これでもかと紹介しています(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』)。
木村も力道山とタッグを組んでいる間に、試合以外でも一度ならず不快な思いをさせられたであろうことは、容易に想像がつきます。
これらさまざまな要因から積もりに積もった鬱憤が、ついつい口をついて出てしまったのでしょう。

同じ新聞取材で、木村はこうも発言しています。
「力道山のレスリングはゼスチャーの多いショーだ。ショーでないレスリングで力道山とプロ・レスラーの実力日本一を決したい」

木村の言葉に、血の気の多い力道山は当然のことながらカチンときました。
こうなってしまっては、もう黙ってはいられません。
「よし、やってやる。プロ・レスリングはショーや八百長じゃあない。プロ・レスリングは真剣勝負なのを、大衆にも知らせてやる」(『力道山 空手チョップ世界を行く』)

こうして、“昭和巌流島の決闘”と呼ばれた力道山・木村政彦戦の幕が、切って落とされるのです。


【参考文献】
山田智彦著『ザ・プロレスラー』講談社、1982年
原康史著『激録 力道山』(第1巻 シャープ兄弟、木村政彦との死闘)東京スポーツ新聞社、1994年
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版第5巻)講談社、1999年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(下巻)新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (5) ─ シャープ兄弟 VS 木村・力道山チーム

2014年10月21日 | 日記
“日本プロレス界の父”と呼ばれる力道山ですが、実はプロレス・デビューをしたのは、木村政彦の方がわずかに早いのです。
昭和25(1950)年4月に旗揚げしたプロ柔道(国際柔道協会)が思うように振るわず、病気の妻斗美<とみ>と2人の子どもを抱え、さらに母親の面倒も見ていた木村は、のどから手が出るほどお金が欲しい状況でした。そこで彼は松尾興行師の誘いに乗って、プロ柔道の仲間だった山口利夫や坂部保幸<さかべやすゆき>とともに、翌年1月27日に巡業のため船でハワイへと渡りました(体調を崩した山口のみ次便)。
ハワイ巡業は大成功で、木村も当時日本では手に入りにくかったストレプトマイシンやパス(いずれも結核の薬)を買い、妻に送ってあげることができました。

ハワイでの契約は3ヵ月でしたが、木村たちは1ヵ月延ばしてプロレスを習得しました。
木村がプロレスに関心を持ったのは、柔道よりも楽で、金儲けができると考えたからです。ただプロレスはショー・ビジネスなので、とにかくリングの上で絵になるように闘い、観客を満足させなければならないのが難しいと思ったそうです。
試合も行い、それを撮影して日本に持ち帰った8ミリ・フィルムが、「肉弾」という映画になって大当たりしたと自伝に書いています。(『鬼の柔道』)

昭和26年5月31日、一旦日本に帰った木村は7月25日にはブラジル遠征に出かけました。つまり、木村がハワイでプロレスをやったのは同年5月頃のことであり、10月28日に力道山が両国メモリアルホール(旧両国国技館)で初めてボビー・ブランズとエキシビション・マッチをやるのよりも5ヵ月も早いのです。


木村と力道山、不世出の両雄をめぐる真実を追った『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

プロレスラーとしてはやや出遅れた形となった力道山ですが、アメリカで約260試合をこなし、うち敗戦5と好成績を残して実力と自信をつけ、昭和27年7月に「日本プロレス協会」を設立しました。
そして翌年2月、ワールド・タッグ・チーム・チャンピオンのシャープ兄弟とボビー・ブランズを日本に招き、国際試合を行います。その際、木村と山口利夫を呼び込むことに成功しました。彼らは海外遠征ですでにシャープ兄弟と3度対戦しており(結果は1勝2敗)、相手の手の内がわかっているので心強い味方でした。

興行の皮切りとして、蔵前国技館で3日間行われた東京大会では、初日の19日、力道山は木村とタッグを組み、シャープ兄弟に挑みます。
61分3本勝負のうち、1本目は力道山が弟のマイクを体固めで破り(14分15秒)、2本目では木村がマイクに反則負けを喫します(8分20秒)。3本目は時間切れとなり、勝負は1―1の引き分けに終わりました。
力道山はこの試合で放送が始まって間もないテレビとのタイアップを実現させます。以来、テレビとプロレスは密接に結びつきながら、発展していくことになるのです。

翌20日には、力道山が兄のベン・シャープとシングル・マッチを闘い、2―1で勝利します。同じ日、マイクは山口とやって2―1で下しています。
3日目の21日、再びシャープ兄弟と力道山・木村組が対戦します。今度は世界タッグ・チーム選手権を賭けたタイトル・マッチでした。
最初の1本はベンが体固めで木村を破り(24分27秒)、2本目は力道山が体固めで瞬殺します(55秒)。3本目はベンが負傷したためレフェリー・ストップとなり、またもや1―1の引き分けという結果でした。

その後も一行は、熊本、小倉、大阪、神戸、岐阜、名古屋、静岡、宇都宮、そして再び東京、横浜と各都市を転戦し、17日間で14試合をやるというハード・スケジュールを消化します。
その間、大阪大会の2日目(2月27日)と東京(3月6日)で、力道山はやはり木村と組んで2回のタイトル・マッチを行いました。大阪では木村が33分17秒でベンに足取り固めで敗れて1―0、東京でもやはり木村が33分33秒でベンに体固めを極められ1―0と、とうとうシャープ兄弟からチャンピオン・トロフィーを奪うことはできませんでした。

このように、木村は対シャープ兄弟戦ではとんといいところがありませんでした。
しかし、前述したようにプロレスはショーであり、試合は前もって決められたシナリオに沿って進められます。
それなのに、なぜ木村ばかりが一方的にやられなければならなかったのでしょうか?
次回は、そのあたりの謎に迫ってみたいと思います。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上・下)』新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (4) ─ カラテ・デビル、力道山の仇を討つ

2014年10月13日 | 日記
力道山は大山倍達同様、戦前は日本に支配されていた朝鮮半島の出身です。
現在は朝鮮民主主義人民共和国に属する咸鏡南道洪原郡龍源面新豊里参拾七番地で生まれました。プロレスラーになってから公表した生年月日は1924年11月14日ですが、相撲協会の記録では1923年7月14日となっています。本名は金信洛<キム・シムナク>、日本に帰化してからの戸籍名は百田光浩<ももたみつひろ>といいます。昭和15(1940)年2月に二所ノ関部屋へ入門、5月場所で初土俵を踏みました。21年11月場所で入幕、24年5月場所では関脇にまで昇進します。
その頃の彼は身長177センチ、体重109キロで、腕力には相当の自信があったそうです。ちなみに力道山というしこ名は、「相撲は力の道なり」という親方の持論からつけられたものです。
しかし、彼の相撲人生は、入門から10年で終わりを迎えます。人に裏切られたことや、相撲協会に対する不満などから、昭和25年8月、自宅において菜切り包丁で髷を落として廃業してしまいます。時に力道山26ないし27歳、通算成績は135勝82敗15休、幕内在位11場所でした。

力道山の自伝『力道山 空手チョップ世界を行く』

プロレスラーに転向した力道山は、昭和26年10月28日、両国メモリアル・ホール(旧国技館)で初試合を行います。そして、翌年2月3日に単身ハワイへ渡り、力士時代の得意技だった上突っ張りと張り手を応用した空手チョップを振るい、破竹の勢いで勝ち続けます。
その当時、日系アメリカ人レスラーのグレート東郷や柔道家の遠藤幸吉とハワイ遠征にやって来た倍達に、すでに現地ではスターだった力道山がいろいろと世話をやいてくれました。倍達は著書『大山空手もし戦わば』で次のように書いています。
「力道山は実際上私の兄貴分であり、私たちは仲もよく、力道山はいつも世渡り下手の私になにくれとなく忠告を与えてくれ、ご馳走もしてくれるのであった」
明るく豪快で、日の出の勢いの力道山は、倍達にとって愛すべき先輩であると同時に、闘技者としては決して負けたくない、しかし、もしかしたら「勝てないのじゃないか」という思いが拭い去れない、最も手強いライバルでもあったのです。倍達はこうも書いています。
「力道山の相撲で鍛え、プロレスラーになるために鍛えた身体に、自分の突手や蹴りがどのくらい効くかも見当がつかなかったし、力道山のパワーや体力も恐ろしかった」

ところが、そんな力道山を打ち破る男が現れます。ボクサー上がりで“赤サソリ”のニックネームを持つ太平洋岸チャンピオン、タム・ライスです。『空手バカ一代』では冒頭近く、早くもその衝撃的なエピソードが登場します(講談社漫画文庫版、第1巻)。
昭和34年、スポーツ・ライターをしていた原作者の梶原一騎は、雑誌の取材で力道山を訪ねました。そこで梶原は、次のような話を聞かされます。

ハワイに渡って以来、連勝街道を突き進んでいた力道山は、太平洋岸チャンピオンのタム・ライスに初黒星を喫します。空手チョップが売りの力道山を下したというので、調子に乗って“空手殺しの赤サソリ”と称したタム・ライスは、本物の空手家から手痛い報復を受けることになりました。
“カラテ・デビル”と名乗るその空手家は、決戦のリングに空手着を身につけて現れます。タム・ライスは空手殺しに箔が付くと、内心ほくそ笑みました。試合は時間無制限一本勝負でした。ところが開始後間もなく、たった一発の蹴りでカラテ・デビルは赤サソリをマットに沈めてしまったのです。
実はカラテ・デビルの正体こそ、米本土でプロモーター(興行主)の意に逆らって八百長試合を拒否したために、業界から睨まれて本名ではリングに立てない倍達の、仮の姿でした。

タム・ライスVS大山倍達戦の詳細は、漫画文庫版では第4巻で描かれることになります。
倍達は空手の名誉を守るため、ハワイを後にしたタム・ライスを追って、アメリカ本土に乗り込みました。しかし、力道山との闘いでボクサーとしても一流だったタム・ライスの凄まじいパンチ力を目の当たりにしており、試合開始前にリング上で跪き、神の加護を祈るほどの恐怖心に襲われます。
そのような時、半分パニック状態に陥っている倍達に、生死を賭けた実戦の修羅場をくぐり抜けてきた経験が、ある作戦を思いつかせました。
それは、力道山の空手チョップ敗北へのリベンジのため、手刀で勝負に行くと相手に思い込ませておいて、秘技“三角跳び(三角蹴り)”をお見舞いするというものでした。作戦は見事に成功し、前述のように倍達は、タム・ライスを一撃でノックアウトします。

講談社漫画文庫『空手バカ一代』第4巻

さて、この対タム・ライス戦のことは、『大山空手もし戦わば』の中にも記されています。
それによれば、タム・ライスは身長2メートル、体重130キロの巨漢で、ボクサー時代にヨーロッパのヘビー級チャンピオンをKOしたのですが反則負けとなり、次の試合で今度は前回と一緒だったレフェリーをKOしてしまい、ボクシングをやめる破目になったといいます。
得意技にはパンチ攻撃のほか、のど絞め、ネックブリーカー・ドロップ(首折り落とし)、ボストンクラブ(逆えび固め)などがありました。“赤サソリ”という異名はボストンクラブに入った時、白い身体が力を込めるごとに真っ赤に紅潮し、サソリの毒尾のように見えるからだろうと倍達は書いています。

『空手バカ一代』に描かれていたように、対決前に倍達が押し潰されそうな恐怖心に苦しめらたことは、『大山空手もし戦わば』にも記されています。しかし、いざ闘いが始まれば、それは消えてしまいました。
「恐怖は確かにあるが、恐怖を考える暇はなく、相手に応じて反射的に行動しなければならないからである」
ただ、最初から三角蹴りをやるつもりだったわけではないようです。右へ左へと回って相手のパンチをかいくぐりながら、倍達はふと気づきます。
「私は瞬間、それが何度も練習した三角蹴りのステップに似ていることを思い出した。ある一点から、別の地点(なるべく高いところ)へ飛び、そこから相手に対して飛び蹴りを決めるというワザを、山ごもりで岩や木の幹を第二の支点として、何千回、何万回と練習した。道場でも、道場の横壁を蹴って、そこを踏み切り点として、別方向を蹴る練習をした」
倍達はコーナー・マットの向こうにある鉄柱の上を第2の支点と定め、そこからタムのアゴに横蹴りを放ったのです。地響きをたてて倒れたタムは、そのまま起き上がってきませんでした。アゴの骨にひびが入っており、3ヵ月の重症だったそうです。試合時間はわずか2分10数秒でした。


TVアニメ「空手バカ一代」ブルーレイ・ボックスのDisc5。表側(左)の中央が力道山で、左端が“赤サソリ”

残念ながら、この対タム・ライス戦も他の“大山倍達伝説”と同様、虚構性の高いエピソードであると考えられており、試合自体が存在しなかった可能性もあります。しかし、『大山倍達正伝』には昭和31年7月13日に力道山と再戦して敗れたタム・ライスの、「おれの敗因は数年前、ジャパン・カラテのマス・オオヤマ(大山倍達)とのデスマッチに敗れて以来、オリエント(東洋)のサムライが怖しくなった」からだという証言が、元東京スポーツ新聞社運動部部長の門<かど>茂男が『ゴング』昭50年3月号(日本スポーツ出版社)に書いた記事からの引用として紹介されています。
また、同じく『大山倍達正伝』によれば、元東京スポーツ取締役でプロレス・ライターの桜井康雄は、倍達自身から「サンフランシスコでレッド・スコルピンというレスラーと戦った」と聞いたといいます。
倍達はタム・ライスの名前を覚えていませんでしたが、レッド・スコルピン、正確にはレッド・スコーピオン(赤サソリ)という異名、ボクサー上がりで毛むくじゃらだったという倍達の言葉から、桜井はそれがタム・ライスのことであると悟ります。門がタム・ライスから倍達とのことを直接聞き出したのも、梶原一騎が『空手バカ一代』で取り上げたのも、この桜井の話がキッカケでした。

ここでは、対タム・ライス戦が事実であったと仮定して話を進めましょう。
圧倒的な勝利でしたが、それは相手が空手というものを知らなかったために奇襲攻撃が成功しただけであって、空手とボクシング(+プロレス)が真正面からぶつかり合った結果ではないと、内心忸怩たる思いを抱えていた倍達は、力道山を破ったタム・ライスに勝っても、自分が力道山より強いという確信は持てませんでした。依然として倍達にとって力道山は、アメリカ遠征中に出会った最大の強敵だったのです。
力道山と親しい間柄だった頃から、倍達は何度も頭の中で彼との勝負をシミュレーションしていました。それは結局、実現することはありませんでしたが、後に兄と慕う木村政彦と力道山が対戦し、力道山の裏切り行為によって木村が無惨な敗北を喫した時、一触即発の事態を迎えることになります。


【参考文献】
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版第1・4巻)講談社、1999年
大山倍達著『大山空手もし戦わば』池田書店、1979年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
岡村正史著『力道山 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』ミネルヴァ書房、2008年
力道山光浩著『力道山 空手チョップ世界を行く』日本図書センター、2012年