ひろむしの知りたがり日記

好奇心の赴くまま
なんでも見たい!
知りたい!
考えたい!

ブルース・リーに功夫の魂を伝えた男 ─ イップ・マン <最終章>

2014年03月30日 | 日記
1959年4月29日、ブルース・リーら詠春派の若者は、蔡李仏<チョイリーフット>派の塾生たちから挑戦を受けます。決戦の場所には、難民収容地区のアパートメントの屋上が選ばれました。そこにはバスケットボール・コートのような白線が引かれており、敵を線の向こうに押しやった方が勝ちというルールでした。最初は友好的なスパーリング戦だったのが、蔡李仏派の少年の1人がブルースの目に痣を作ると、逆上した彼はいきなりストレート・パンチを連続的に繰り出しました。顔を数度殴られて線上に倒れた相手に、怒りの収まらないブルースは2、3度痛烈な蹴りを入れ、そのために少年は歯が1本欠けてしまいました。
少年の両親が警察に苦情を言ったため、母親のグレースは警察署にブルースを引き取りに行き、責任をもって息子の行いを改めさせるという誓約書にサインをしなければなりませんでした。彼女は事件のことを家族には一言も話しませんでしたが、わが子の将来を案じて、役者である夫の李海泉<リーハイチュアン>の海外巡業中に生まれたブルースを、生誕の地であるサンフランシスコに行かせて市民権を取らせた方がいいと海泉に提案します。こうしてブルースは単身渡米し、葉問のもとを去ることになります。

やがて時が過ぎ、愛弟子がアメリカのテレビ界で有名になったことをたいへん喜んでいた葉問ですが、1965年にブルースが一時帰国した際に、師弟の間に亀裂が入る出来事が起こります。
ブルースは分譲マンションを購入することを条件に、葉問自身が演武する詠春拳の全ての技を、8ミリカメラに収めたいと申し出ました。以前から腕力と金で物事を解決しようとするブルースの性向に懸念を抱いていた葉問は、その申し出に烈火の如く怒り、すぐさま彼を追い返してしまいました。後日、葉準<イップチュン>が仲介に入って両者は和解しましたが、ブルースは事実上破門された形になり、以降2人は再会しても詠春拳について語り合うことはありませんでした。

ブルースが申し出た撮影は実現しませんでしたが、後に葉問が木人椿<ぼくじんとう>という腕に見立てた横木をはめ込んだ太い柱を相手に1人練習をしている姿などを葉準が映像に収めています。映画監督のウォン・カーウァイは1999年にそれを見て感激し、長い準備期間を経て完成させたのが「グランド・マスター」(トニー・レオン主演。日本公開2013年5月31日)です。また「イップ・マン 最終章」(アンソニー・ウォン主演。日本公開2013年9月28日)のエンディングでも、葉問の練習風景の映像が使われています。
このように、伝説的なグランド・マスターが拳法を披露する姿を現在も見ることができるのはたいへん貴重なことであり、ウォン・カーウァイ監督ならずとも感激ものであることはいうまでもありません。師の怒りを買ったとはいえ、もし自らの技を映像記録に残す必要性を感じるきっかけとなったのがブルースであったとしたら、彼の失敬な申し出も、まんざら無駄ではなかったことになります。

晩年の愛と闘いを描いた「イップ・マン 最終章」

最後に、ブルースがアメリカに去った後の葉問の人生について簡単に触れておきましょう。
1961年頃から彼の直弟子たちが次々と独立し、詠春拳は香港の一大門派となりました。1964年には自身の武館を閉鎖し、それからは九龍・旺角通菜街の一室で個人教授のみ行うようになりした。そして1968年に悲願だった詠春聯誼會(後の詠春體育會)の設立を見届け、4年後の1972年12月1日、数多くの弟子たちに見送られて、旺角の自宅で79年の生涯を閉じます。そしてブルースが師の後を追うように32歳の若さで他界したのは、それからわずか半年後の1973年7月20日でした。

「グランド・マスター」のラストは、ブルースの次の言葉で締め括られています。
“A true martial artist does not live for. He simply lives.(真の武術家は拳法のために生きるのではなく、ただ単に生きるのだ)”
価値観の相違から、袂を分かつことになってしまった葉問とブルースですが、武術の高みを追究することが、すなわち生きることと同義であったという点では、2人とも共通していたはずです。口には出さなくても、お互いにそうした武術家としての魂の純粋さだけは認め合っていたと信じたいものです。
そうであってこそ初めて、「イップ・マン 葉問」の謳い文句である「その心と技は、ブルース・リーに受け継がれた─」が、単なる宣伝用のキャッチ・フレーズではなく、真実の言葉となるのです。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
上野彰郎著『ブルース・リー 駆け抜けた日々 ─急死の謎と疑惑─』愛隆堂、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年
みうらじゅん他著『現代思想』10月臨時増刊号「ブルース・リー 没後40年、蘇るドラゴン」青土社、
 2013年第41巻第13号
東宝ステラ編『グランド・マスター』東宝、2013年
ポール・ボウマン著、高崎拓哉訳『ブルース・リー トレジャーズ』トレジャーパブリッシング、2014年

ブルース・リーに功夫の魂を伝えた男 ─ イップ・マン <第3章>

2014年03月30日 | 日記
内戦後、国民党に属して警察局刑偵隊隊長などを務めていた葉問<イップマン>は、共産党が政権を掌握すると身の危険を感じ、1949年に生まれ育った広東州佛山市に妻子を残して1人香港に亡命しました。そして翌年、生活のために港九飯店職工總會(労働組合)の屋上に間借りして詠春拳の指導を始めたのです。
ブルース・リーの面倒をよく見ていた兄弟子の黄淳梁<ウォンシュンリャン>が入門したのは1951、2年頃で、当時の塾生数は40~50人くらいでした。やがてその中に、ブルース少年も加わります。13歳の時とも14歳ともいわれますが、いずれにしろ1950年代中頃のことです。
彼はごく小さい頃からケンカに明け暮れていました。周囲にはよく、いじめを受けていると漏らしていたそうですが、実は友だちの1人が教えを受けていた葉問に自分も習いたくて、いじめに対抗する力をつけたいからという理由で、レッスン料を両親に払わせるための口実でした。
葉問は外国人には拳法を教えない主義でしたが、なぜかブルースのことは混血児であるにもかかわらずたいへん気に入り、かわいがっていたそうです。黄淳梁は1993年2月、香港にある彼の武館で行われたインタビューで、葉問がブルースの風貌や性質に対して、何か独特なものを感じていたようだったと語っています。(『ブルース・リー 駆け抜けた日々』)

詠春拳には「チーサオ」(黐手)という独特の技術があります。「黐」とは粘りつくという意味で、自分の手を相手の手に絡みつかせながら、攻撃を無心のままに受け止め、その力を阻止したり、流したり、あるいは誘導したりと制御・逆用する技術です。その際に動きを予想したり、急いだりすることなく、ただひたすら流れを継続させ、相手の攻撃に自分の動きを調和させます。ブルースは自ら創始した裁拳道<ジークンドー>にもこの技術を取り入れ、それは今なお重要な練習体系として受け継がれています。(『ブルース・リー ジークンドー公式マニュアル』)
チーサオのように、敵の力を無効にし、自分のエネルギーを最小限に抑える詠春拳の技は、決して躍起になったりせず、穏やかな心で行わなければうまく使うことはできません。しかし、実際に敵と戦う段になると、ブルースの心は完全にかき乱され、どうにかして相手を打ち負かし、勝たねばならないという思いで頭がいっぱいになってしまいます。そんな彼に葉問は、「リラックスして心を落ち着けろ。自分のことは忘れて敵の動きに従うのだ。」とアドバイスしました。ところが「リラックスしなければならない」と思って頑張るのは、「リラックス」という言葉とは矛盾した行為であることは言うまでもありません。にっちもさっちもいかなくなってしまったブルースに、葉問は再び教え諭します。
「物事の自然な曲折に従って自分を保ち、ほかのことに煩わされるな。自然に対して決して自分を主張してはならない。いかなる問題に対しても正面きって抗わず、それにつれて動くことによって制御していくのだ。今週は稽古をしなくてよい。家に帰ってこのことを考えてみなさい」

それからブルースは1週間家にいて、瞑想と稽古に多くの時間を費やしましたが答えは出ず、ついにあきらめて1人でジャンクに乗りに出かけました。そして、海の上でこれまでしてきた修業のことを考え、自分に腹が立って思わず水面を拳で叩いたのです。その瞬間、彼に突然のインスピレーションがひらめきました。
水は攻撃しても傷つかず、掴み取ろうとしても指の間をすり抜けてしまいます。また水はどのような容器にも収まり、一見弱いようで、固い物体をも貫き通します。水こそが、功夫の原理を示しているのではないかと悟ったのです。さらにブルースは、1羽の鳥が飛び去り、水面に影がよぎるのを見て、敵に相対した時に浮かぶ思考や感情は、鳥の影と同じくただ心の中を通り過ぎていくのだと気がつきます。つまり自分を制御するためには、情緒や感情を持たないのではなく、それらに執着したり抑えつけたりしないで、まず己の本質に逆らわず、寄り添っていくことによって自分を受け入れなければならないのだと思い至ります。

荒っぽいケンカ沙汰に明け暮れながら、一方でブルース少年はこんな哲学的なことも考えていたのです。彼の心の目を開かせたのは、疑いもなく師である葉問の存在です。妻のリンダは次のように書いています。
「イップ・マンが人生の具体的な指針になるようなものをブルースに与えたのだとしたら、それは若い弟子に、仏陀や孔子、老子、道教の始祖たち、その他東洋の偉大な思想家や精神的指導者たちの哲学的教えに興味をもたせたことだった。その結果ブルースの心は、こうした教師たちの知恵の粋を集めた宝庫となった。」(『ブルース・リー・ストーリー』)

しかしブルースの心に豊かな彩を添えた知恵の数々も、彼の荒ぶる魂を抑えつけることはできなかったようです。ブルースは18歳の時、その後の運命を大きく変えることになるトラブルに見舞われました。それは、奇しくも師の葉問とも因縁の深い、蔡李仏<チョイリーフット>派との間に起こりました。

いったいブルースの身の上に何が起きたのか─それは次回、最終章で見ていくことにしましょう。

ウォン・カーウァイ監督作品「グランド・マスター」

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
川村祐三著『詠春拳入門【増補改訂版】』BABジャパン、1998年
中村頼永著・監修『ブルース・リー ジークンドー公式マニュアル』ぴいぷる社、2001年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
上野彰郎著『ブルース・リー 駆け抜けた日々 ─急死の謎と疑惑─』愛隆堂、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年
みうらじゅん他著『現代思想』10月臨時増刊号「ブルース・リー 没後40年、蘇るドラゴン」青土社、
 2013年第41巻第13号
ポール・ボウマン著、高崎拓哉訳『ブルース・リー トレジャーズ』トレジャーパブリッシング、2014年

ブルース・リーに功夫の魂を伝えた男 ─ イップ・マン <第2章>

2014年03月21日 | 日記
温厚で人当たりがよく、「頭胸隋和」(心身のバランスが取れた人)と評された葉問<イップマン>とは反対に、弟子のブルース・リーは短気で自己顕示欲が強い少年でした。即効性の高い技の練習には熱心だったものの、長い期間をかけてようやく効果を発揮するような練習には目もくれなかったので、しょっちゅう葉問から注意を受けていたそうです。また組手練習で負けた翌日には、自分で研究した技や他派の技を平気で使っては叱られていました。それでも彼は、暇を見つけては白鶴拳、蔡李仏家拳、北派少林拳、北派蟷螂拳、テコンドー、ボクシング、空手道など実にさまざまな格闘技を研究していました。
これらのうち蔡李仏家拳は、実は詠春拳を目の敵にしている門派でした。両派の対立の源は、日中戦争の時代に遡ります。それまで豊かな家財に頼り、悠々自適の暮らしをしていた葉問は、侵略して来た日本軍に家財道具一切を没収され、何もかも失ってしまいました。彼の生活を心配して日本軍のために働くよう勧める者もいましたが葉問は応じず、隠居のような生活を送っていました。一説には正義感から日本軍兵士を何人か殺したとも言われています。映画「イップ・マン 序章」(ドニー・イェン主演。日本公開2011年2月19日)で空手の達人である日本人将校三浦(池内博之)とイップ・マンが対決するに至るストーリー展開は、この間の経緯が背景となっています。

表立った行動を控えていた葉問のもとに周清泉<チョウチンチュン>という商人がやって来て、2人の息子を門人にするよう依頼しました。家族を養うためにそれを受けた葉問は、詠春拳を教授し始めます。そのことが佛山商会の理事李協虎の耳に入り、当時隆盛を誇っていた蔡李仏家拳の武館である鴻勝館の代表拳士温大牛との興業試合が企画されました。大観衆が見守る中、はじめは猛攻連打を放つ温大牛が優勢に見えましたが、彼の繰り出す技はことごとく葉問にかわされてしまいます。やがて葉問が反撃に転じると、温大牛はジワジワとコーナーの端へと追い詰められていきました。いよいよ危なくなってきたところで鴻勝館側の立会人がストップをかけ、試合は引き分けとなりましたが、誰の目から見ても葉問の優位が明らかだったので観客の大ブーイングが巻き起こり、試合を見ていた両陣営の者たちの間にも遺恨が残る結果となりました。
この出来事をきっかけにいろいろな問題や事件が発生したため、葉問は周清泉の息子たちに詠春拳を教えるのをやめてしまいます。それからしばらくして葉問は佛山を去り、香港へと渡りました。
やがて時が過ぎ、沈静化していた両派の確執は、ブルースの映画が世界的にヒットして詠春拳が彼の学んだ拳法として脚光を浴びることによって再燃します。一時は若い修業者たちが師に黙って頻繁に因縁試合を繰り返していましたが、それもいつの間にかやんでいったようです(川村祐三著『詠春拳入門』)。

葉問の門下生は当然のことながらブルースばかりではありません。葉問が亡くなった後も詠春拳の発展に努め、「世界詠春聯會」の代表を務める長男の葉準<イップチュン>や二男の葉正<チン>、香港ばかりでなく中国本土やアジア各国、ドイツ、オーストラリア、イギリス、スイス、ポーランドなどヨーロッパ各国でも指導を行った黄淳梁<ウォンシュンリャン>、それに張卓慶、梁相、徐尚田、洛耀、古生ら多くの優秀な拳士たちが輩出しました。彼らの中でもブルースを特に可愛がり、指導していたのが黄淳梁と張卓慶で、ブルースがアメリカに渡った後も、3人の交流は続きました。
しかし、師の教えに素直に従わず、外では詠春拳を使ってケンカを繰り返すブルースは、相弟子の誰からも好かれたというわけではありません。師から直接教わる時間ほしさに、他の道場生を「今日は休みだ」と言って追い返したという練習熱心ぶりを示す有名なエピソードも、道場仲間から見れば自己チュー以外の何物でもなかったでしょう。母がドイツ人との混血で、純粋な中国人ではなかったことも、中国武術を外国人に教えることを嫌う当時の風潮にあっては、彼に対する反感を強めるのに拍車をかけました。
自身も詠春拳の使い手で、香港で同門の人たちから話を聞いた川村祐三氏は、ブルースを直接知る兄弟弟子の多くが彼の創造した裁拳道<ジークンドー>を賞賛することはあっても、その人柄や詠春拳の技術に対してはあまりいい顔をしなかったと言っています。映画「イップ・マン 誕生」(デニス・トー主演。日本公開2012年3月17日)に、香港で梁璧<リョンピック>(葉準が演じており、90歳近い老齢ながら見事な拳法技を披露しています)から彼が工夫した新しい技を学んだ葉問が、佛山に戻って呉仲素<ウーツォンソウ>(ユン・ピョウ)からそれらを邪道であると非難されるシーンがあります。伝統を重んじる武術の世界にあっては、改革を目指す者はどうしても茨の道を歩まざるをえないのかもしれません。

ですが、たとえどんなに彼のことが嫌いであっても、32年の短い生涯で遺したものの価値は、認めるしかありません。川村氏は『詠春拳入門』で、「彼の詠春門と中国武術界における功績は多大なものであったことは、誰にも否定できない事実です」と書いています。そのことは、「詠春」の発音が世界的には北京語の「ヨン・チュン」ではなく、ブルースの師葉問の生まれ育った広東語の「ウィン・チュン」が浸透していることからも容易に窺い知ることができるでしょう。

葉問青春の日々を描いた映画「イップ・マン 誕生」

さて次回第3章では、複雑な立場に置かれながらもブルースが葉問から貪欲に学び、吸収していったことを、技術と精神の両面から具体的に見ていくことにしましょう。


【参考文献】
川村祐三著『詠春拳入門【増補改訂版】』BABジャパン、1998年
上野彰郎『ブルース・リー 駆け抜けた日々 ─急死の謎と疑惑─』愛隆堂、2005年
ポール・ボウマン著、高崎拓哉訳『ブルース・リー トレジャーズ』トレジャーパブリッシング、2014年

ブルース・リーに功夫の魂を伝えた男 ─ イップ・マン <第1章>

2014年03月11日 | 日記
アクション映画史上に燦然と輝くスーパー・スターであると同時に、優れた技と思想を持った武術家でもあったブルース・リー。死後40年を経た今なお世界中に熱烈な崇拝者を持つその人気は、彼が初めて本格的に学んだ中国拳法である詠春拳と、師匠葉問<イップマン>の名をも高めることになりました。
近年巻き起こったイップ・マン旋風の火付け役となったドニー・イェン主演の「イップ・マン 序章」「イップ・マン 葉問」、デニス・トーを主演に青春時代を描いた「イップ・マン 誕生」、ウォン・カーウァイが監督し、トニー・レオンが葉問を演じた「グランド・マスター」、アンソニー・ウォンが晩年の彼に扮した「イップ・マン 最終章」など、次々と映画やTVドラマが製作されています。
以前、「ブルース・リーのドラゴン拳法 (1)」において、ブルースの詠春拳修業時代については簡単に述べましたが、葉問とブルースの師弟間には、まだまだ語るべきエピソードがあります。そこで、今回はそれらをいくつか紹介してみたいと思います。
まずはその前に、ブルースと出会う以前の葉問の人生から見ていくことにしましょう。

葉問は1893年10月1日、多数の武館(武術道場)が軒を連ねる広東省佛山<ファトサン>市で製糸工場などを経営する名家の次男として生まれました。1904年、11歳の時に陳華順<チェンワーソン>が葉家の土地を借りて武館を開いた縁で、彼に入門します。陳華順の師は、実戦に強いことで名を馳せ、「詠春拳王」と称された梁賛<リョンザン>です。葉問が弟子入りしたのは、陳華順が早70歳を過ぎた頃でした。最後の弟子であり、類いまれな才能を認められたこともあって、葉問は師のたいへんな寵愛を受けました。しかし、陳華順はすでに高齢であったため、葉問へ直接教授したのは重要な部分だけで、一般的な練習はすべて弟子たちに任せていました。
2年後、陳華順が脳卒中に倒れたので、葉問は兄弟子の中でも最も実力のあった呉仲素<ウーツォンソウ>から指導を受ける一方、呉仲素のはからいで広州派詠春拳の達人である阮奇山<ユインケイサン>からも教えを受けるようになりました。
16歳の時(18歳とも)、聖士提反書院(St.Stephen's College)に入学するために香港に渡った葉問は、翌年、友人の紹介で1人の拳法家と知り合い、試合をします。しかし、葉問は相手の妙技の前にまったく歯が立たず、逃げるようにその場を去りました。
数日後、拳法家から招待を受けた葉問は、恐怖心に駆られて誘いを拒みましたが、友人から彼が同門の人間で、しかも梁賛の息子梁璧<リョンピック>であると聞かされ、大いに喜んで出かけて行きました。そして、自分の拳技を完成させたいと入門を願い出たのです。こうして香港滞在中の数年間、葉問は再び詠春拳の修業に明け暮れることになります。その結果、彼の詠春拳には本流とされる佛山派嫡伝の技術に、広州派の優れた部分が加わりました。その後も研究と経験を重ね、彼は独自の体系を確立するに至ります。

 
ブルース・リーをこよなくリスペクトするドニー・イェンが、温厚篤実にして、闘う時には炎の激しさを発揮する達人を好演した「イップ・マン 葉問」(ウィルソン・イップ監督作品。日本公開2011年1月22日)

葉問は1941年には最初の弟子を取りますが、彼は佛山でも有名な大富豪の出であり、何不自由のない生活を送っていた上に、近郊では兄弟子や同門他派の者たちが詠春拳を教えていたので、当初自分の武館を持つつもりはありませんでした。彼が本格的に人に教授するようになったのは、第2次世界大戦で全財産を失い、1949年に香港に移り住んでからのことです。その実力は瞬く間に香港の拳法家たちの間で評判になり、後には「香港詠春拳宗師」とか「一代宗師」(グランド・マスター)などと称されました。

ストリート・ファイトに勝つために、強くなることしか頭になかったブルース・リー少年が、葉問のもとに入門したのは1955年の夏、14歳の時でした(13歳とも)。その時葉問は、すでに62歳になっていました。
半世紀近くも年齢が離れたこの師弟は、後に詠春拳の運命を大きく変えることになります。そして、出会いから20年を待たずして、わずか半年の間をおいて相次いで波乱に富んだ生涯を閉じることになるのです。
第2章では、そんなブルースと詠春拳の、ちょっと微妙な関係について見ていくことにしましょう。


【参考文献】
川村祐三著『詠春拳入門【増補改訂版】』BABジャパン、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
浦川留著「「イップ・マン 葉問」 ブルース・リーの師匠を演じた後継者ドニー・イェン」
  『キネマ旬報』2月上旬号 No.1574 キネマ旬報社、2012年