ひろむしの知りたがり日記

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幕末最強の戦闘集団 新選組隊士たちの武術歴

2013年01月28日 | 日記
新選組は、幕末の京で倒幕派の志士たちを震え上がらせた猛者ぞろいの剣客集団です。
彼らの剣の流儀として代表的なのは、やはり局長近藤勇が江戸市ヶ谷(東京都新宿区)にあった道場試衛館で教授していた天然理心流でしょう。流租は遠江(静岡県)出身の近藤内蔵之助<くらのすけ>です。彼ははじめ、鹿島神道流の流れを汲む天真正伝神道流<てんしんしょうでんしんとうりゅう>を学びましたが、諸流の長所を取り入れて、寛政年間(1789-1801)に天然理心流を創案しました。
当初は剣術だけでなく、柔術・棒術・気合術などを含む総合武術でした。4代目である勇の頃にはその全ては伝わっていなかったようですが、彼に柔術の心得があったことをうかがわせるエピソードが残っています。
剣聖と謳われた直心影流<じきしんかげりゅう>男谷精一郎<おだにせいいちろう>の道場へ他流試合に出かけた時のことです。師範代の本梅縫之助<ほんめぬいのすけ>と立ち合った勇は、上段から打ち下ろすと見せかけて、横に払ってきた縫之助の攻撃に竹刀を飛ばされてしまいます。勝負がついたかと思いきや、勇はとっさに後ろへ飛び退くと、腰をかがめて両腕を相手に向ける柔術の構えを取りました。竹刀を持っていないにもかかわらず、寸分の隙もない勇の姿に縫之助は、やがて竹刀を捨てて一礼して引き下がったのです。それに対して勇も構えをとき、丁寧に挨拶を返して試合は終了しました。勇が帰った後、精一郎は彼の臨機応変な戦いぶりを、死中に活を求める剣の極意を実践したものと、弟子たちの前で絶賛したといいます。


平成13年に建てられた近藤勇の銅像(西光寺。東京都調布市上石原1-28-3)

剣術の稽古の主流は竹刀を使ったものに変わっていきましたが、古武術の伝統を受け継ぐ天然理心流は木刀を用いることを好んでいました。それもただの木刀ではありません。通常の3倍ほどの太さと重さがあるものです。その柄の部分は、大人が握っても親指と他の4本の指とがつかないほど太かったそうです。
そんな握りにくい木刀を振っていれば、嫌でも腕力や握力が強くなります。いざ真剣で戦う段になっても、そう簡単に鉄の重さで腕が動かなくなってしまうようなことはありません。そして、軽い竹刀で当て逃げするような練習に慣れた連中の刀がこちらの皮膚に浅傷を負わせている間に、重く太い木刀で鍛えた腕が振るう刀は相手の頭蓋を打ち割り、胴を両断してしまうでしょう。天然理心流は、そんな実戦剣法だったのです。

勇に弟子入りして天然理心流を学んだのが、副長土方歳三です。彼は生計を立てるために家伝の「石田散薬」や姉のぶの嫁ぎ先である佐藤家の「虚労散薬」の行商をしなければならなかったので、剣術ばかりやっているわけにはいきませんでした。そこで彼は、剣術道具一式を背中の薬箱に括りつけて持ち歩き、行く先々の道場で他流試合を申し込んでは腕を磨きました。その甲斐あって、歳三は試衛館で師範代を務めるまでになっています。
安政6(1859)年に歳三が入門するより前、勇の養父近藤周助の代に弟子入りしていたのが六番隊組長井上源三郎や、一番隊組長沖田総司です。わずか9歳で入門した総司は早くから天才ぶりを発揮し、19歳にして免許皆伝、その後塾頭となりました。

試衛館にはまた、天然理心流の門人ではありませんが、食客として居候していた剣士たちがいました。その1人が二番隊組長永倉新八で、神道無念流の岡田十松<じゅうまつ>や百合元昇三<ゆりもとしょうぞう>に師事し、本目録を得ていました。新選組発足当初、勇と並んで局長を張っていた芹沢鴨の流儀も神道無念流です。ちなみに新八が試衛館に出入りするようになる前に、心形刀流<しんぎょうとうりゅう>坪内主馬<つぼうちしゅめ>の道場に招かれていましたが、そこには二番隊で伍長を務めた島田魁<かい>がいました。
やはり食客だった八番隊組長藤堂平助は、参謀伊東甲子太郎<かしたろう>が深川に開いていた道場で北辰一刀流を修め、目録の腕前だったといいます。同じ北辰一刀流の総長山南敬助は、千葉周作の玄武館で免許を取り、小野派一刀流大久保九郎兵衛の門下でもあったという輝かしい剣歴を持っていますが、勇と試合をして敗れ、天然理心流に入門し直しました。
剣術以外では、種田宝蔵院槍術を学んだ十番隊組長原田左之助<さのすけ>がいます。彼の師である谷万太郎、その兄で七番隊組長兼槍術師範の三十郎、弟の周平はいずれも新選組に入隊しています。周平は勇に見込まれて、養子になりました。


近藤勇の天然理心流道場、試衛館跡(東京都新宿区市谷柳町25)

剣を取っては向かうところ敵なしの新選組隊士も、乱戦の中で武器を奪われたり、刀が折れてしまったりすることもあるでしょう。たとえ素手になっても戦い抜く技術が必要です。それを教えるために、隊には柔術師範がいました。関口流を身に付け、入隊前には大坂で道場を開いていた四番隊組長松原忠司<ちゅうじ>や、良移心当流を遣う諸士調役兼監察の篠原泰之進<たいのしん>がそうでした。
しかし柔術師範の1人、松原忠司の最期は悲惨です。切腹をはかって一時は命をとりとめたものの、その傷が悪化して死亡してしまいました。切腹の理由についてははっきりしませんが、一説に、ささいなことで殺害してしまった浪士の妻に対し、罪の意識から面倒を見ていたのが、良からぬ仲と疑われたのを苦にしたためとされます。あるいは、やがて本当に深い仲となってしまった彼女と心中したという説もあります。いやいや、最初に切腹した時にはすでに男女の仲になっていたとも・・・。
もっともこの話は、子母澤寛などによる創作である可能性が高いようです。そんなこんなで、あまり名誉ではない末路をたどった(ことにされてしまった?)松原の人気がないこともあってかさほど注目されていませんけれど、刀による斬り合いのイメージばかりが強い新選組において、剣術や槍術だけでなく柔術の訓練も行われていたのは興味深い事実です。


【参考文献】
山村竜也著『新選組剣客伝』PHP研究所、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
加来耕三監修・水谷俊樹著『新選組人物事典 壬生狼FILE』朝日ソノラマ、2003年
清水克悦著『多摩「新選組」の小道』けやき出版、2003年
菊地明著『図解雑学 近藤勇』ナツメ社、2003年

新選組随一の名バイプレーヤー 井上源三郎 ─ 如意山宝泉寺

2013年01月14日 | 日記
近藤勇、土方歳三、沖田総司といったスターたちに比べるとやや地味な感じがしますが、組織としての新選組にとっては欠かせないキーパーソンの1人だったのが、今回取り上げる井上源三郎<げんざぶろう>です。源三郎は武州多摩日野宿の出身で、文政12(1829)年3月1日、藤左衛門の三男として生まれました。井上家は日野在住の八王子千人同心五家の1つです。八王子千人同心とは、天正18(1590)年に関東へ入国した徳川家康が、八王子周辺や江戸西部の防備のために甲州武田家の遺臣団を土着させたのが起源です。井上家も甲州井上郷から日野本郷北原に移り住み、代々千人同心を務めていました。


井上源三郎の墓がある臨済宗の寺、宝泉寺

泰平の世になると千人同心も軍事色が薄れ、日光東照宮の火之番(消防隊)が主な任務となりました。
千人同心は千人頭<がしら>が旗本であることを除けば基本的には農民身分でしたが、勤番中は農民より上の同心身分(武家奉公人相当)扱いをされたので、半分は武士だという自負はあったのでしょう、武士の必須科目である剣術を源三郎も熱心に学びました。弘化4(1847)年頃、天然理心流近藤周助の門人となり、やはり周助の弟子で、後に新選組の支援者となる日野本郷名主佐藤彦五郎が屋敷に設けた道場で稽古に励みました。佐藤道場には勇や総司が出稽古に訪れ、同じ日野出身の歳三も通って来ました。
後に千人同心となる兄の松五郎も剣術好きで、兄弟は自宅の土間でも稽古に熱中しました。井上家には、剣術ばかりやっていて農作業が遅れて困った、という話が伝わっています。同家の柱は、源三郎たちが木刀で打ち込むので中央部分が細くなっていたといいます。
熱心に修行した甲斐あって、源三郎は万延元(1860)年5月に免許を授かりました。

近藤勇らとともに上洛した後は、新選組の副長助勤や六番隊組長を務めました。隊内での人望もあり、局長会議に参与する立場でした。元治元(1864)年6月5日の池田屋事件の際は土方隊に属し、先に斬り込んでいた近藤隊を支援すべく隊士10名と共に突入して、倒幕派志士の捕縛に貢献しました。
こうして新選組の運営でも実戦でも重要な役割を果たした源三郎ですが、慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、淀堤千両松にて1月5日、討ち死にを遂げてしまいます。退却命令が出ても踏みとどまって戦い、銃弾を受けて即死したのです。40歳でした。
首はまだ12歳だった甥の井上泰助(松五郎の子)が刀と共に持ち、新選組が前年12月の王政復古の大号令にともなって拠点を移していた大坂へ引き揚げようとしました。しかし重くてしようがなかったので、途中で寺の門前の田んぼを掘って埋めたといいます。

そうなると、おそらく遺骨は納められていないのでしょうが、源三郎の魂だけは故郷に呼び戻され、JR中央線の日野駅からほど近い、旧甲州街道に面した如意山宝泉寺(東京都日野市日野本町3-6-9)で眠っています。境内に入ると、本堂の左手に昭和46(1971)年9月に建立された「新選組副長助勤 井上源三郎之碑」と刻まれた顕彰碑があります。裏面の略歴では、彼の人柄を「性真摯篤実寡黙実行の人」と評しています。こうした誠実な源三郎の支えがあればこそ、勇や歳三も思うがままに活躍することができたのでしょう。
顕彰碑からさらにその左手にある墓地を行くと、井上家の墓所に、法号「誠願元忠居士」が刻まれた源三郎の墓があります。平成9(1997)年11月に建て直されたばかりの、まだ新しい墓碑です。


宝泉寺境内に立つ井上源三郎の顕彰碑


左写真が井上源三郎の墓(右側)、右写真がその裏面。ここには亡くなった日が1月4日とある

日野駅周辺には、ほかにも源三郎がらみで見落とせない場所があります。まずは井上源三郎資料館(日野市日野本町4-11-12)です。生家の土蔵を改造し、平成16年1月にオープンしました。源三郎宛ての天然理心流免許、大和守秀国の銘がある勇から松五郎に贈られた刀、歳三から松五郎に宛てた書簡などが展示されています。ここは毎月第1・第3日曜日の午後12時から4時までしか開いていないので、行く際には注意してください(問い合わせ先 042-581-3957)。
もう1つは、日野駅を横切って走る甲州街道沿いに鎮座する八坂<やさか>神社(日野本町3-14-12)です。ここには、安政5(1858)年に近藤周助の門人たちが剣術の上達を願って、八坂神社の前身である牛頭天王社に奉納した天然理心流奉納額があります。縦47センチ、横90センチのケヤキの一枚板に26名の名が書かれ、その上に大小2振の木刀が架けられています。26名の中には、松五郎や彦五郎、勇、総司らと並んで源三郎の名も含まれています。ただし歳三だけは、入門が翌安政6年であるために名前がありません。
この奉納額は普段は見られませんが、毎年5月に行われる「ひの新選組まつり」の一環として公開されています。今年は5月12日(日)ですので、興味のある方は是非行ってみてください。


「誠」の文字も鮮やかな井上源三郎資料館(左)と天然理心流奉納額がある八坂神社(右)

ほかにも少し歩けば、佐藤彦五郎の名主屋敷で源三郎らが通った道場があった日野宿本陣(日野本町2-15-9)や、佐藤彦五郎新選組資料館(日野本町2-15-5)、新選組のふるさと歴史館(神明4-16-1)などが点在し、さらに日野市立日野図書館(日野本町7-5-4)には新選組に関する資料のコーナーが設けられていて、小説やマンガまで取り揃えています(日野市立図書館全体で所蔵する関係資料の数は、平成12年10月末現在でなんと2,348点!)。この辺り一帯は、まるで地域まるごと新選組テーマパークといった様相を呈しています。新選組について詳しく知りたいなら絶対に外せない、お勧めスポットだと言えるでしょう。


【参考文献】
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
木村幸比古著『新選組と沖田総司』PHP研究所、2002年
菊地明著『図解雑学 近藤勇』ナツメ社、2003年
日野市立新選組のふるさと歴史館製作『常設展示解説図録 新選組・新徴組と日野』日野市、2010年

病魔に敗れた天才剣士 沖田総司 ─ 浄土宗専称寺

2013年01月06日 | 日記
新選組きっての天才剣士といわれた沖田総司<そうじ>の墓は、六本木ヒルズからほど近い、専称寺(東京都港区元麻布3-1-37)という小さなお寺にあります。
残念ながら、墓地に入ることはできません。熱烈なファンが墓石を削ったりしたことなどが原因で、今では年1回、6月後半に新選組友の会が開催している「沖田総司忌」の時にしか公開していないのです(「沖田総司忌」について、お寺へ直接問い合わせることは絶対やめてほしいとのことです)。
墓石を削るというのはいくらなんでもちょっとやり過ぎですが、それほどまでに愛される沖田総司とは、いったいどのような人だったのでしょうか?


沖田総司の墓がある専称寺山門(左)と本堂(右)

沖田総司は天保13(1842)年(天保15年=弘化元年との説もあります)、江戸詰の奥州白河<しらかわ>藩士勝次郎の長男として、同藩江戸下屋敷に生まれました。沖田家は白河藩士とはいっても22俵2人扶持と微禄ですから、生活は決して楽ではなかったでしょう。それでも親が健在であれば、まだ貧しくともささやかな幸せのある暮らしを送れたかもしれませんが、弘化2(1845)年10月、総司が4歳の時に父勝次郎が死んでしまいます。母は名も没年も不明で、総司が幼少の頃に亡くなったと考えられています。
沖田家の家督は、姉のみつと結婚して婿入りした日野宿の農家出身の井上林太郎<りんたろう>(井上源三郎の親戚)が継ぎました。口減らしのためか、総司はわずか9歳の頃に江戸市ヶ谷にあった近藤周助(勇の養父)の剣術道場試衛館の内弟子となり、天然理心流を学びます。
しかしこのことが、彼の天賦の才を開花させることになります。沖田家には、12歳で藩の指南番と剣を交え、勝利を収めたという話が伝わっています。もし事実だとすれば、まさに天才といっていいでしょう。19歳で免許皆伝、20歳の時には塾頭となっていました。
総司のずば抜けた強さの前には、土方歳三や井上源三郎ら試衛館の生え抜きをはじめ、食客で北辰一刀流の目録を受けていた藤堂平助、同流免許の山南敬助といった、後に新選組の中核をなす猛者たちが皆子供扱いでした。本気で立ち合ったら勇もやられるだろうと、道場内では噂されていたそうです。

総司は文久3(1863)年2月に勇らと上洛し、新選組の副長助勤、やがては一番組長となります。後に肺病を患って若死にしているので、病弱で線の細い青年を想像しがちですが、新選組が屯所にしていた八木家の人で、当時少年だった為三郎の証言によれば、背は高くて肩幅が広く、色黒だったということです。
日焼けした顔にがっちりした体型の、運動部タイプの人物という印象でした。よく冗談を言っていて、ほとんど真面目になっている時がなかったそうです。子どもを相手に往来で鬼ごっこをしたり、寺の境内を走り回って遊んでいたとも語っています。新選組結成当初、勇とともに局長を張っていた芹沢鴨の暗殺や、新選組を一躍有名にした池田屋事件などで、非情な殺人剣を振るった凄腕の剣士というイメージとはかけ離れていて意外な感じがしますが、一度市中見回りに出れば、いつ斬り合いになるかわからない過酷な隊務の合間に、このようにバカ話をして笑ったり、子どもと戯れることによって、どうしようもない緊張感や奪った命に対する罪悪感を忘れようとしていたのかもしれません。
しかし、そうした行動で気を紛らわせなければいられないほど、実はナイーブだった総司の心の葛藤は、彼の肉体をも蝕んでいきます。池田屋事件当時にはすでに発病していた肺結核が、慶応3(1867)年頃にはもう隊務が遂行できなくなるまでに悪化し、翌年5月30日に27歳の若さでこの世を去りました。
よく解釈すれば、近藤勇をはじめ多くの同志がその前後に戦いの中で壮絶な最期を遂げたのに対し、畳の上で穏やかに死ねてよかったと言えるでしょうが、総司本人にしてみれば、同じ死ぬのなら、新選組の仲間たちとともに戦って、見事に討ち死にしたかったかもしれません。彼がどのような思いであの世へ旅立っていったかは、今となっては知る由もありませんが・・・。

最初に書いたとおり、総司が眠る専称寺の墓地に一般の人は入れませんが、ありがたいことに、塀の外から遠目に墓を見ることはできます。本堂の裏手に回ると、墓地の入口から2列目の道の右側にある、赤茶色の屋根に覆われた小さな墓石がそうです。距離がある上に、側面しか見えないのでわかりませんけれど、それには「賢光院仁誉明道居士」という戒名が刻まれているはずです。入口から見て総司の墓より手前側には、沖田家先祖代々の墓が立っています。総司の墓の前にはたくさんの花が供えられていました。


左写真の右側が沖田家先祖代々の墓、同左側が沖田総司の墓。右写真は総司の墓のアップ

上方に視線を転ずると、背後には六本木ヒルズの巨大なビルが、天に届けとばかりにそびえ立っています。それを目にした瞬間、剣だけを頼りに激動の時代を駆け抜けた、沖田総司が生きた約150年昔への時間旅行から、瞬時にして現代へと舞い戻ってきたような、そんな不思議な感覚に陥ります。


専称寺の墓地前から六本木ヒルズの高層ビルを見上げる


【参考文献】
山村竜也著『新選組剣客伝』PHP研究所、1998年
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
木村幸比古著『新選組と沖田総司』PHP研究所、2002年
菊地明著『図解雑学 近藤勇』ナツメ社、2003年

土方歳三ゆかりの高幡不動尊に初詣 ─ 高幡山明王院金剛寺

2013年01月03日 | 日記
京王線高幡不動駅の南口側に出て、すぐ右に見える参道を抜けると信号を渡った先に高幡不動尊(東京都日野市高幡733)があります。僕が訪れた元日の午前10時半頃には、参道の半ば過ぎまで初詣をする参拝者の行列ができていました。
高幡不動尊は真言宗智山派のお寺で、正しくは高幡山明王院金剛寺と号します。大宝年間(701~704)以前の開創とも伝えられる古刹で千葉成田山、神奈川大山とともに関東三不動の一つに数えられています。
境内入口の仁王門は室町時代に建てられたもので、そこをくぐると正面に見える鎌倉時代建造の不動堂とともに、国の重要文化財に指定されています。境内にはやきそばやたこ焼き、あんず飴、牛串、五平餅などの屋台が軒を連ね、長い行列に並んでようやくたどり着いた参詣者たちでごった返していました。

↓高幡不動尊仁王門(中)とその左右に配された仁王像(左・右)

          
          ↑南北朝時代に高幡山中から現在地に移建された不動堂

人ごみを縫って、弁天池入口そばの、新選組局長近藤勇<いさみ>と副長土方歳三<ひじかたとしぞう>の幕府への忠節を顕彰する殉節両雄之碑と、歳三の銅像が並び立つ場所にやって来ました。なぜここにこのようなものがあるかというと、歳三の生家が室町中期以前から高幡不動尊の有力檀那衆に名を連ねる旧家で、檀頭<だんとう>の格式を持つ由緒ある家柄だったからです。


↑平成7年11月に立てられた土方歳三の銅像

不動堂の背後にある奥殿には、古くは平安時代から伝わる文化財や寺宝が多数収蔵されています。中でもとりわけ立派なのは、本尊の重厚感溢れる木造不動明王像とその両脇に立つ童子像でしょう。いずれも平安時代の作で、重要文化財になっています。
ここはまた、新選組や幕末ファンにとっても胸躍る資料の宝庫でもあります。2通展示されていた歳三が郷里に送った書簡のうち、1つは将軍徳川家茂<いえもち>が元治元(1864)年1月に海路上洛した折に、大坂の安治川河口を警備した際のようすを書面と絵図で知らせた「天保山警固図」(筆跡から代筆とされています)で諸藩兵の配置が描かれている中に、誠の旗とともに「松平肥後守御預 新選組」と記されています。もう1つは鳥羽・伏見戦の前に書かれたもので、「遠からず都において一戦もこれあるべき事ニご坐候」とあり、「高幡山貴僧へよろしくご鶴声<かくせい>願い奉り候」と書かれていました。いずれの書簡からも、時勢が風雲急を告げる中、歳三が置かれた緊迫した状況を窺い知ることができます。そのほかにも、彼が日光山で揮毫してもらったという「東照大権現」の旗印もありました。
また、「新選組英名并日記」は甲州口を警衛した八王子千人同心の家系出身で、戊辰戦争に参戦した中島登が明治3(1870)年に土方家を訪れた時に彼の覚書を関係者が写したもので、鳥羽・伏見戦後に結成された甲陽鎮撫隊の出陣から恭順までの経過と、隊員178名の氏名・役職・出身・消息が記録されています。そこには「陸軍奉行 土方歳三」とあり、箱館一本木関門で5月11日に戦死したことが記されていました。
その他、新選組二番隊長だった永倉新八<ながくらしんぱち>が明治9年、勇が処刑された板橋刑場跡に勇と歳三の墓碑を建立するに当たり、資金提供者にお礼として贈った元医学所頭取松本良順(順)の書軸、井上源三郎<げんざぶろう>のものと伝えられる脇差、天然理心流の中極意目録や同流の木剣、柔術免許状などもあって興味が尽きません。
新選組関連以外にも、徳川慶喜・勝海舟・榎本武揚・大鳥圭介・山内容堂といった幕末史を彩るビッグネームの書も見ることができます。それぞれに個性的で、彼らの人柄を彷彿とさせます。とりわけ山岡鉄舟の書や屏風なんぞは力強く大胆な筆使いで、書のことなどまるでわからない僕の目から見ても、見事だと感じさせるものがありました。それからなんと、新選組にとっては敵役である坂本龍馬の肖像画まで飾られているのには、意外な感じがしました。

奥殿のさらに奥にあるのが大日堂です。高幡不動尊の総本堂で、平安時代に造られた大日如来像が安置されています。外陣の天井には「鳴り龍」と呼ばれる龍の絵が描かれていて、その下で手を叩くと妙音を発し、願い事がかなうそうです。ここにはまた、「歳進院殿誠山義豊大居士」という戒名が記された歳三の位牌や、近藤勇・沖田総司・井上源三郎の位牌、新選組隊士慰霊の大位牌も納められています。

板橋刑場跡の墓碑が立てられたのと同じ明治9年には、高幡不動尊の境内に近藤勇と土方歳三の顕彰碑を建立することが計画されていました。しかし、賊軍扱いされていた彼らを讃える碑などけしからんとなかなか許可がおりず、明治21年になってようやく、先に紹介した殉節両雄之碑を立てることができたのです。
時が移り、今では多くの新選組ファンがここを訪れて、歳三の銅像を憧れの眼差しで見上げたり、その位牌に手を合わせたりしているのでしょう。このような状況を、あの世の勇や歳三は、苦笑しながら眺めているのではないでしょうか。


↑明治9年銘、同21年建立の殉節両雄之碑(日野市指定史跡)


【参考文献】
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
高幡山金剛寺編『歳三菩提寺 高幡不動尊の新選組関連資料』高幡山金剛寺