徳川幕府最後の将軍(15代)慶喜<よしのぶ>は、大政奉還後も諸藩による連合政権の中で権力を維持しようと画策していました。しかし薩摩や長州など討幕派勢力がクーデターを起こし、天皇親政を行うという王政復古の大号令が宣され、慶喜に辞官・納地が命じられます。そしてついに、慶應4(1868)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍は大敗を喫してしまいました。
大坂城を脱出して江戸へ戻った慶喜を追討するため、2月に維新政府は東征軍を結成して東海・東山・北陸の3道から進軍を開始、江戸総攻撃の日を3月15日と決定しました。それに対して慶喜は、恭順の姿勢を示して2月12日に江戸城を去り、上野の寛永寺で謹慎生活に入ります。そして3月9日には幕府陸軍総裁勝海舟の使者として、山岡鉄舟が薩摩藩士益満休之助<ますみつきゅうのすけ>を伴って駿府に赴き、東征大総督府参謀西郷隆盛と接触して西郷・勝の会談実現への道を開きました。
益満はその前年に、江戸の警備に当たっていた庄内藩兵などが、幕命によって薩摩藩邸を焼打ちした際に捕らえられ、勝の庇護を受けていました。幕府が焼打ちを命じた理由は、当時江戸市中では火付けや強盗が横行していたのですが、その裏で糸を引いていたのが、治安を乱して徳川方を挑発し、戦争に持ち込もうとした薩摩藩だったからです。
実のところ勝は、最初西郷への使者を高橋泥舟<でいしゅう>に任せるつもりでした。高橋は槍術の達人で、22歳の若さで講武所教授となったほどの人物です。しかし慶喜の身辺警護を務めていた高橋はその信頼厚く、使者の任に就くことを慶喜が許しませんでした。そこで高橋が代わりに推薦したのが義弟(妹英子の夫)の山岡です。山岡も武術に優れ、講武所剣術世話役を務めました。勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の3人は、後に「幕末三舟」と並び称されます。使者に発つ前日の3月6日、勝宅を訪ねた山岡を一目見て、海舟は大役を任せられる相手だと確信しました。山岡も勝同様、いやそれ以上に剣と禅の厳しい修行を通して人間を磨き上げてきた男です。勝には何か、ピンと感じるものがあったのでしょう。
勝は和平工作を進める一方で、会談が決裂した場合に備えて軍事作戦も展開していました。
新政府軍が江戸に攻めて来たら、新門辰五郎ら火消しの頭や任侠の親分に江戸市中に火を付けさせてその進軍を妨げ、品川沖に配置した海軍副総裁榎本武揚<えのもとたけあき>率いる幕府艦隊と、会津藩主松平容保<まつだいらかたもり>、桑名藩主松平定敬<さだあき>、勘定奉行小栗忠順<おぐりただまさ>のような主戦派が協力して攻撃を仕掛けるというものです。その際に、房総にある大小全ての船を江戸の運河に待機させ、市民を避難させる手はずを整えていました。さらに横浜に停泊していたイギリス軍艦を利用して、慶喜を亡命させることまで考えていたといいますから、なんとも用意周到です。
当初、維新政府側では徳川家に対して厳しい処分を下す方針でしたが、新政府内部の徳川一門や、東叡(寛永寺)・日光・比叡3山を管掌する輪王寺宮<りんのうじのみや>、仁孝<にんこう>天皇の皇女で14代将軍徳川家茂<いえもち>に嫁いだ静寛院宮<せいかんいんのみや>(和宮<かずのみや>)の嘆願、イギリス公使パークスの恭順している者を攻めるのは筋違いだという批判などもあって、妥協せざるをえませんでした。
さて、西郷と勝の会談は、13・14日の両日にわたって行われました。江戸総攻撃の前日である14日、三田の薩摩藩蔵屋敷(高輪の下屋敷との説もあります)における最後の会談で、江戸無血開城が取り決められて総攻撃は中止されました。このことによって、江戸の町が戦火に包まれるのを防ぐことができたのです。
会談場所となった薩摩藩の蔵屋敷や上屋敷は、JR山手線・京浜東北線田町駅からほど近くにありました。改札を出て三田口(西口)から地上に下りるエスカレーターの脇に「西郷南洲・勝海舟会見の図」と題された巨大な壁画があり、右側に対座する西郷と勝、左に咸臨丸の勇姿が極彩色で立体的に描かれています。
JR田町駅の「西郷南洲・勝海舟会見の図」
壁画を横目に見ながらエスカレーターを下ります。そしてその先の交差点を右に折れて、歩いて約2分の三菱自動車が入っている第一田町ビルのあたりが、薩摩藩蔵屋敷の跡地です(東京都港区芝5-33-8)。ビルの手前には、勝と西郷の会談が行われたことを示す碑があります。
大きなコインのような丸い形の碑面には、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」と記されており、その台座には解説とともに、会談場面を描いたレリーフと古地図が並んではめ込まれています。
西郷隆盛と勝海舟が会談したとされる薩摩藩蔵屋敷跡地にある碑(上)とその台座にはめ込まれた会談の模様を描いたレリーフ(下)
西郷と勝の会談が蔵屋敷で行われたのは、先に書いたように上屋敷が焼打ち事件で焼失してしまったためです。上屋敷があったのは、現在セレスティンホテル(港区芝3-23-1)から日本電気本社ビル(芝5-7-1)のある一帯で、日本電気敷地内の植え込みの中に、「薩摩屋敷跡」の碑があります。
ちなみにこの碑も、先の西郷・勝の会見の地碑も隆盛の孫で参議院議員、法務大臣を務めた西郷吉之助が題字を書いています(9月17日の日記で紹介した、勝海舟生誕の地碑もそうでしたね!)。
薩摩藩上屋敷跡地にある「薩摩屋敷跡」碑
こうして4月11日に江戸城は開城し、慶喜は水戸で謹慎することとなりました。しかしまだ、関東が新政府の支配下に置かれたわけではありませんでした。榎本は江戸湾にある軍艦の多くを新政府軍に渡していませんでしたし、北関東では歩兵頭並大鳥圭介<おおとりけいすけ>率いる旧幕府軍が勢力を持っていました。
そして恭順を不服とする旧幕臣たちで結成された彰義隊<しょうぎたい>が、上野を拠点として新政府軍と対立していたのです。当初、新政府軍は兵力不足から攻撃を控えていましたが、5月15日、新政権の軍事指導者として活躍した大村益次郎の指揮の下、上野の山に攻め入ってついに彰義隊を壊滅させました。
その一方で、徳川宗家の家督を田安亀之助<たやすかめのすけ>(家達<いえさと>)に相続させることを決定し、24日には亀之助を駿府70万石に封じる旨を徳川方に伝えました。徳川家の駿府移封により、ようやく新政府は江戸を中心とする関東支配を確固たるものにすることができました。
鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争の戦場は、こうして関東から東北地方へと移っていったのです。
【参考文献】
松浦玲著『勝海舟』中央公論社、1968年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
神一行著『人物相関日本史 幕末維新編』コアラブックス、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
安藤優一郎『勝海舟と福沢諭吉』日本経済新聞出版社、2011年
大坂城を脱出して江戸へ戻った慶喜を追討するため、2月に維新政府は東征軍を結成して東海・東山・北陸の3道から進軍を開始、江戸総攻撃の日を3月15日と決定しました。それに対して慶喜は、恭順の姿勢を示して2月12日に江戸城を去り、上野の寛永寺で謹慎生活に入ります。そして3月9日には幕府陸軍総裁勝海舟の使者として、山岡鉄舟が薩摩藩士益満休之助<ますみつきゅうのすけ>を伴って駿府に赴き、東征大総督府参謀西郷隆盛と接触して西郷・勝の会談実現への道を開きました。
益満はその前年に、江戸の警備に当たっていた庄内藩兵などが、幕命によって薩摩藩邸を焼打ちした際に捕らえられ、勝の庇護を受けていました。幕府が焼打ちを命じた理由は、当時江戸市中では火付けや強盗が横行していたのですが、その裏で糸を引いていたのが、治安を乱して徳川方を挑発し、戦争に持ち込もうとした薩摩藩だったからです。
実のところ勝は、最初西郷への使者を高橋泥舟<でいしゅう>に任せるつもりでした。高橋は槍術の達人で、22歳の若さで講武所教授となったほどの人物です。しかし慶喜の身辺警護を務めていた高橋はその信頼厚く、使者の任に就くことを慶喜が許しませんでした。そこで高橋が代わりに推薦したのが義弟(妹英子の夫)の山岡です。山岡も武術に優れ、講武所剣術世話役を務めました。勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の3人は、後に「幕末三舟」と並び称されます。使者に発つ前日の3月6日、勝宅を訪ねた山岡を一目見て、海舟は大役を任せられる相手だと確信しました。山岡も勝同様、いやそれ以上に剣と禅の厳しい修行を通して人間を磨き上げてきた男です。勝には何か、ピンと感じるものがあったのでしょう。
勝は和平工作を進める一方で、会談が決裂した場合に備えて軍事作戦も展開していました。
新政府軍が江戸に攻めて来たら、新門辰五郎ら火消しの頭や任侠の親分に江戸市中に火を付けさせてその進軍を妨げ、品川沖に配置した海軍副総裁榎本武揚<えのもとたけあき>率いる幕府艦隊と、会津藩主松平容保<まつだいらかたもり>、桑名藩主松平定敬<さだあき>、勘定奉行小栗忠順<おぐりただまさ>のような主戦派が協力して攻撃を仕掛けるというものです。その際に、房総にある大小全ての船を江戸の運河に待機させ、市民を避難させる手はずを整えていました。さらに横浜に停泊していたイギリス軍艦を利用して、慶喜を亡命させることまで考えていたといいますから、なんとも用意周到です。
当初、維新政府側では徳川家に対して厳しい処分を下す方針でしたが、新政府内部の徳川一門や、東叡(寛永寺)・日光・比叡3山を管掌する輪王寺宮<りんのうじのみや>、仁孝<にんこう>天皇の皇女で14代将軍徳川家茂<いえもち>に嫁いだ静寛院宮<せいかんいんのみや>(和宮<かずのみや>)の嘆願、イギリス公使パークスの恭順している者を攻めるのは筋違いだという批判などもあって、妥協せざるをえませんでした。
さて、西郷と勝の会談は、13・14日の両日にわたって行われました。江戸総攻撃の前日である14日、三田の薩摩藩蔵屋敷(高輪の下屋敷との説もあります)における最後の会談で、江戸無血開城が取り決められて総攻撃は中止されました。このことによって、江戸の町が戦火に包まれるのを防ぐことができたのです。
会談場所となった薩摩藩の蔵屋敷や上屋敷は、JR山手線・京浜東北線田町駅からほど近くにありました。改札を出て三田口(西口)から地上に下りるエスカレーターの脇に「西郷南洲・勝海舟会見の図」と題された巨大な壁画があり、右側に対座する西郷と勝、左に咸臨丸の勇姿が極彩色で立体的に描かれています。
JR田町駅の「西郷南洲・勝海舟会見の図」
壁画を横目に見ながらエスカレーターを下ります。そしてその先の交差点を右に折れて、歩いて約2分の三菱自動車が入っている第一田町ビルのあたりが、薩摩藩蔵屋敷の跡地です(東京都港区芝5-33-8)。ビルの手前には、勝と西郷の会談が行われたことを示す碑があります。
大きなコインのような丸い形の碑面には、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」と記されており、その台座には解説とともに、会談場面を描いたレリーフと古地図が並んではめ込まれています。
西郷隆盛と勝海舟が会談したとされる薩摩藩蔵屋敷跡地にある碑(上)とその台座にはめ込まれた会談の模様を描いたレリーフ(下)
西郷と勝の会談が蔵屋敷で行われたのは、先に書いたように上屋敷が焼打ち事件で焼失してしまったためです。上屋敷があったのは、現在セレスティンホテル(港区芝3-23-1)から日本電気本社ビル(芝5-7-1)のある一帯で、日本電気敷地内の植え込みの中に、「薩摩屋敷跡」の碑があります。
ちなみにこの碑も、先の西郷・勝の会見の地碑も隆盛の孫で参議院議員、法務大臣を務めた西郷吉之助が題字を書いています(9月17日の日記で紹介した、勝海舟生誕の地碑もそうでしたね!)。
薩摩藩上屋敷跡地にある「薩摩屋敷跡」碑
こうして4月11日に江戸城は開城し、慶喜は水戸で謹慎することとなりました。しかしまだ、関東が新政府の支配下に置かれたわけではありませんでした。榎本は江戸湾にある軍艦の多くを新政府軍に渡していませんでしたし、北関東では歩兵頭並大鳥圭介<おおとりけいすけ>率いる旧幕府軍が勢力を持っていました。
そして恭順を不服とする旧幕臣たちで結成された彰義隊<しょうぎたい>が、上野を拠点として新政府軍と対立していたのです。当初、新政府軍は兵力不足から攻撃を控えていましたが、5月15日、新政権の軍事指導者として活躍した大村益次郎の指揮の下、上野の山に攻め入ってついに彰義隊を壊滅させました。
その一方で、徳川宗家の家督を田安亀之助<たやすかめのすけ>(家達<いえさと>)に相続させることを決定し、24日には亀之助を駿府70万石に封じる旨を徳川方に伝えました。徳川家の駿府移封により、ようやく新政府は江戸を中心とする関東支配を確固たるものにすることができました。
鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争の戦場は、こうして関東から東北地方へと移っていったのです。
【参考文献】
松浦玲著『勝海舟』中央公論社、1968年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
神一行著『人物相関日本史 幕末維新編』コアラブックス、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
安藤優一郎『勝海舟と福沢諭吉』日本経済新聞出版社、2011年