ひろむしの知りたがり日記

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江戸総攻撃を阻止せよ! ─ 西郷隆盛・勝海舟会見の地

2012年09月30日 | 日記
徳川幕府最後の将軍(15代)慶喜<よしのぶ>は、大政奉還後も諸藩による連合政権の中で権力を維持しようと画策していました。しかし薩摩や長州など討幕派勢力がクーデターを起こし、天皇親政を行うという王政復古の大号令が宣され、慶喜に辞官・納地が命じられます。そしてついに、慶應4(1868)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍は大敗を喫してしまいました。
大坂城を脱出して江戸へ戻った慶喜を追討するため、2月に維新政府は東征軍を結成して東海・東山・北陸の3道から進軍を開始、江戸総攻撃の日を3月15日と決定しました。それに対して慶喜は、恭順の姿勢を示して2月12日に江戸城を去り、上野の寛永寺で謹慎生活に入ります。そして3月9日には幕府陸軍総裁勝海舟の使者として、山岡鉄舟が薩摩藩士益満休之助<ますみつきゅうのすけ>を伴って駿府に赴き、東征大総督府参謀西郷隆盛と接触して西郷・勝の会談実現への道を開きました。
益満はその前年に、江戸の警備に当たっていた庄内藩兵などが、幕命によって薩摩藩邸を焼打ちした際に捕らえられ、勝の庇護を受けていました。幕府が焼打ちを命じた理由は、当時江戸市中では火付けや強盗が横行していたのですが、その裏で糸を引いていたのが、治安を乱して徳川方を挑発し、戦争に持ち込もうとした薩摩藩だったからです。

実のところ勝は、最初西郷への使者を高橋泥舟<でいしゅう>に任せるつもりでした。高橋は槍術の達人で、22歳の若さで講武所教授となったほどの人物です。しかし慶喜の身辺警護を務めていた高橋はその信頼厚く、使者の任に就くことを慶喜が許しませんでした。そこで高橋が代わりに推薦したのが義弟(妹英子の夫)の山岡です。山岡も武術に優れ、講武所剣術世話役を務めました。勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の3人は、後に「幕末三舟」と並び称されます。使者に発つ前日の3月6日、勝宅を訪ねた山岡を一目見て、海舟は大役を任せられる相手だと確信しました。山岡も勝同様、いやそれ以上に剣と禅の厳しい修行を通して人間を磨き上げてきた男です。勝には何か、ピンと感じるものがあったのでしょう。

勝は和平工作を進める一方で、会談が決裂した場合に備えて軍事作戦も展開していました。
新政府軍が江戸に攻めて来たら、新門辰五郎ら火消しの頭や任侠の親分に江戸市中に火を付けさせてその進軍を妨げ、品川沖に配置した海軍副総裁榎本武揚<えのもとたけあき>率いる幕府艦隊と、会津藩主松平容保<まつだいらかたもり>、桑名藩主松平定敬<さだあき>、勘定奉行小栗忠順<おぐりただまさ>のような主戦派が協力して攻撃を仕掛けるというものです。その際に、房総にある大小全ての船を江戸の運河に待機させ、市民を避難させる手はずを整えていました。さらに横浜に停泊していたイギリス軍艦を利用して、慶喜を亡命させることまで考えていたといいますから、なんとも用意周到です。

当初、維新政府側では徳川家に対して厳しい処分を下す方針でしたが、新政府内部の徳川一門や、東叡(寛永寺)・日光・比叡3山を管掌する輪王寺宮<りんのうじのみや>、仁孝<にんこう>天皇の皇女で14代将軍徳川家茂<いえもち>に嫁いだ静寛院宮<せいかんいんのみや>(和宮<かずのみや>)の嘆願、イギリス公使パークスの恭順している者を攻めるのは筋違いだという批判などもあって、妥協せざるをえませんでした。

さて、西郷と勝の会談は、13・14日の両日にわたって行われました。江戸総攻撃の前日である14日、三田の薩摩藩蔵屋敷(高輪の下屋敷との説もあります)における最後の会談で、江戸無血開城が取り決められて総攻撃は中止されました。このことによって、江戸の町が戦火に包まれるのを防ぐことができたのです。

会談場所となった薩摩藩の蔵屋敷や上屋敷は、JR山手線・京浜東北線田町駅からほど近くにありました。改札を出て三田口(西口)から地上に下りるエスカレーターの脇に「西郷南洲・勝海舟会見の図」と題された巨大な壁画があり、右側に対座する西郷と勝、左に咸臨丸の勇姿が極彩色で立体的に描かれています。


JR田町駅の「西郷南洲・勝海舟会見の図」

壁画を横目に見ながらエスカレーターを下ります。そしてその先の交差点を右に折れて、歩いて約2分の三菱自動車が入っている第一田町ビルのあたりが、薩摩藩蔵屋敷の跡地です(東京都港区芝5-33-8)。ビルの手前には、勝と西郷の会談が行われたことを示す碑があります。
大きなコインのような丸い形の碑面には、「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 會見之地」と記されており、その台座には解説とともに、会談場面を描いたレリーフと古地図が並んではめ込まれています。


西郷隆盛と勝海舟が会談したとされる薩摩藩蔵屋敷跡地にある碑(上)とその台座にはめ込まれた会談の模様を描いたレリーフ(下)


西郷と勝の会談が蔵屋敷で行われたのは、先に書いたように上屋敷が焼打ち事件で焼失してしまったためです。上屋敷があったのは、現在セレスティンホテル(港区芝3-23-1)から日本電気本社ビル(芝5-7-1)のある一帯で、日本電気敷地内の植え込みの中に、「薩摩屋敷跡」の碑があります。
ちなみにこの碑も、先の西郷・勝の会見の地碑も隆盛の孫で参議院議員、法務大臣を務めた西郷吉之助が題字を書いています(9月17日の日記で紹介した、勝海舟生誕の地碑もそうでしたね!)。

薩摩藩上屋敷跡地にある「薩摩屋敷跡」碑

こうして4月11日に江戸城は開城し、慶喜は水戸で謹慎することとなりました。しかしまだ、関東が新政府の支配下に置かれたわけではありませんでした。榎本は江戸湾にある軍艦の多くを新政府軍に渡していませんでしたし、北関東では歩兵頭並大鳥圭介<おおとりけいすけ>率いる旧幕府軍が勢力を持っていました。
そして恭順を不服とする旧幕臣たちで結成された彰義隊<しょうぎたい>が、上野を拠点として新政府軍と対立していたのです。当初、新政府軍は兵力不足から攻撃を控えていましたが、5月15日、新政権の軍事指導者として活躍した大村益次郎の指揮の下、上野の山に攻め入ってついに彰義隊を壊滅させました。
その一方で、徳川宗家の家督を田安亀之助<たやすかめのすけ>(家達<いえさと>)に相続させることを決定し、24日には亀之助を駿府70万石に封じる旨を徳川方に伝えました。徳川家の駿府移封により、ようやく新政府は江戸を中心とする関東支配を確固たるものにすることができました。

鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争の戦場は、こうして関東から東北地方へと移っていったのです。



【参考文献】
松浦玲著『勝海舟』中央公論社、1968年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
神一行著『人物相関日本史 幕末維新編』コアラブックス、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
安藤優一郎『勝海舟と福沢諭吉』日本経済新聞出版社、2011年

SAMURAI、アメリカへ ─ 万延元年遣米使節記念碑

2012年09月23日 | 日記
都営三田線・芝公園駅のA3出口から、日比谷通りを御成門方面に向かって3分ほど歩くと、芝公園の一角(10号地)に「万延元年 遣米使節記念碑」(東京都港区芝公園2-1)があります。これは昭和35(1960)年6月、日本の外交使節団が初めて太平洋を渡って以来100年になるのを記念して、日米修好通商百年記念行事運営会によって立てられたものです。
万延元(1860)年2月13日(陽暦。和暦では1月22日)、日米修好通商条約の批准書交換のために、正使新見正興<しんみまさおき>、副使村垣範正<むらがきのりまさ>、目付小栗忠順<おぐりただまさ>らの使節団が、アメリカ軍艦ポーハタン号で横浜を出航しました。
余談ですが、ポーハタン号は安政元(1854)年のマシュー・カルブレイス・ペリー提督2回目の来航時の旗艦です。そしてさらに余談ですが、芝公園の遣米使節記念碑の向かいには、ペリーの出生地である米国ロード・アイランド州ニューポートから東京都に贈られたペリーの胸像(「ペルリ提督の像」)が立っています。

使節団は上記の3人のほかに、役人17名、従者51名、賄方<まかないかた>6名の計77名でした。太平洋に乗り出した一行は、ハワイに寄港し、現地時間の3月29日にサンフランシスコへ到着しました。4月7日に同地を出発して南下、パナマ地峡を汽車で横断して大西洋側に出、アメリカ軍艦ロアノーク号に乗って北上し、小蒸気船に乗り換えてポトマック河を遡り、5月14日、ワシントンに到着しました。
そして同月17日にはホワイトハウスでジェームズ・ブキャナン大統領と謁見します。新見たちは狩衣<かりぎぬ>や鞘巻太刀<さやまきたち>など最高の礼装で会見に臨みましたが、将軍には徳川家の人間しかなれない日本に生まれ育った副使の村垣は、大統領は4年毎に行われる国中の入札(選挙)で決められるため国君ではないとし、上下の別も、礼儀もない連中だから、狩衣を着たのも無益だったと日記に書いています。

批准書の交換は、5月22日に国務省で行われました。一行はさらに国会議事堂や海軍造船所・天文台・博物館などを見学、20日間あまりをワシントンで過ごした後、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨークなどを歴訪して盛大な歓迎を受けました。6月30日、ナイアガラ号に乗ってニューヨーク港を出帆、大西洋から喜望峰を回り、バタビア(ジャカルタ)、香港に寄港して、11月9日(和暦9月27日)品川沖に到着しました。

使節団が留守にしていた9ヵ月の間に、日本の情勢は大きく変わっていました。3月3日に大老井伊直弼<いいなおすけ>が桜田門外で暗殺され、攘夷熱が高まっていたのです。そのため、一行はせっかくアメリカで吸収した新知識を活かすことができませんでした。


芝公園内にある万延元年遣米使節記念碑。背後に見える赤い建造物は増上寺三解脱門

遣米使節記念碑と向かい合うペルリ提督の像

使節一行の警護を名目に、幕府海軍の操船技術を試すため、日本軍艦として初めて太平洋を横断したのが咸臨丸<かんりんまる>です。
咸臨丸は幕府の注文によって、オランダのホップ・スミット造船所で建造されました。原名をヤパン(日本)号といいます。全長48.8メートル、全幅8.74メートル、100馬力の蒸気機関を備えた3本マストの木造スクリュー蒸気艦です。満載排水量625トン、速力6ノット、30ポンドカロネード砲8門、12ポンド長カノン砲4門の計12門のほかに、6門の補助砲を備えていました。

咸臨丸に乗り込んだのは、最高責任者として木村喜毅<よしたけ>、その補佐官で実質上の艦長である勝海舟、それに木村の付き人として福沢諭吉、通訳として中濱(ジョン)万次郎もいました。彼ら96名の日本人のほかに、日本近海で遭難したジョン・マーサー・ブルック大尉ら11名のアメリカ人が乗船していたのですが、これがトラブルの種となります。日本人だけでは不安なので、アメリカ人士官を付けられたと憤慨した海舟は、彼らの手助けしようという申し出を拒絶しました。怒ったアメリカ人たちは船室に引き籠り、日米の乗組員間の空気は険悪になってしまいました。
海舟はまた、自分より能力の劣る木村が上司に収まっていることにも不満を露<あらわ>にし、始終部屋に引っ込んでいたといいます。なんとも困った艦長です。
ちなみに咸臨丸の咸臨は中国の古典から取った言葉で、「君臣互いに親しみ厚く、情をもって協力し合う」という意味だそうですから、海舟はそれとは真逆の行動をしていたことになります。
ところがこの日米冷戦は、暴風雨によって文字通り吹き飛ばされてしまいます。艦は大揺れに揺れ、ほとんどの日本人乗組員は、船酔いで作業どころではありません。その時ブルックたちアメリカ人は、海舟の意向に逆らって独断で船を操り、危機を脱したのです。このような事態に、船酔いで自ら指揮を執れなかった海舟は、彼らの協力を受け入れざるをえませんでした。

ポーハタン号に先立つこと3日の2月10日(和暦1月19日)に浦賀を出航した咸臨丸は、日米両国の乗組員が力を合わせた結果、3月17日、サンフランシスコに到着しました。
後から来た使節団を迎え、ワシントンに向けて出発するのを見送った後、咸臨丸は帰国の途に着きます。ホノルルを経由して6月23日(和暦5月5日)、無事浦賀に帰り着くことができました。苦難に満ちた往路で航海技術をしっかりと身につけた乗組員たちは、今度こそアメリカ人の手を借りることなく、完全に日本人の力だけで太平洋を横断することに成功したのです。
海舟はアメリカで砲台・ガス灯・病院・印刷・劇場・製鉄所・武器庫などを視察して最先端の文化や技術を見聞しただけでなく、大統領や政府高官・議員が選挙によって選ばれる政治制度にも強い感銘を受けました。それは、能力がありながら、固定化された階級社会の中で、なかなか頭角をあらわすことができなかった彼にとって、まさしく理想の体制でした。そして江戸城で帰国の挨拶をした時、老中たちに「アメリカでは、政治の高い地位につく者は国民によって選ばれます。日本のように、どんなボンクラでも身分や家格が高いだけで自動的に偉くなれるなんてことはありません」と言って彼らを怒らせたそうです。先に書いた村垣が、同じ政治体制を見て否定的に受け止めたのとは対照的で、興味深いものがあります。

このように、制度硬直を起こしている幕府に見切りをつけつつも、海舟は日本の未来を見据えて近代海軍を建設する仕事にとりかかります。軍艦奉行並となった彼は、元治元(1864)年、神戸に海軍操練所を設けました。幕臣や諸藩士ばかりでなく、併設した私塾には土佐脱藩浪人の坂本龍馬や、彼に誘われた志士たちも受け入れるなど、身分の別に関係なく幅広く人材を集め、育成しようとしたのです。しかし9月9日の日記でも書いたとおり、激動する時代の渦に呑み込まれるように、海舟の突然の罷免によって操練所が閉鎖されて、彼の近代海軍建設の夢がもろくも崩れ去るのは、それからわずか1年足らず後のことでした。



【参考文献】
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
石川榮吉著『海を渡った侍たち─万延元年の遣米使節は何を見たか』読売新聞社、1997年
NHK取材班編『その時歴史が動いた 7』KTC中央出版、2001年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
船の科学館編『船の科学館資料ガイド7 咸臨丸』船の科学館、2007年

勝海舟の父小吉のハチャメチャ人生─勝海舟生誕の地

2012年09月17日 | 日記
勝海舟(麟太郎義邦)は文政6(1823)年1月30日、江戸本所亀沢町にあった男谷<おだに>邸で生まれました。現在ではJR総武線両国駅の東口から歩いて5分、本所署真裏の両国公園(東京都墨田区両国4-25)になっているあたりです。公園の一角に、そのことを示す石碑が立っています。前面中央には「勝海舟生誕之地」と刻まれ、その横に「法務大臣 西郷吉之助書」とあります。吉之助は、海舟と江戸開城をめぐって渡り合った西郷隆盛の孫です。

西郷吉之助の筆になる「勝海舟生誕之地」碑

曽祖父の米山検校<けんぎょう>は、越後国(新潟県)刈羽郡長島村(北魚沼郡小千谷<おぢや>とも)の農家出身で、生まれながら目が見えませんでした。江戸へ出て来た時にはたった300文しか持っていませんでしたが、金貸しで儲けて莫大な富を得、3万両で御家人である男谷家の株を買い、男谷検校と名乗りました。検校というのは、幕府が定めた盲人の最高位です。彼は末っ子の平蔵を男谷家の当主としました。平蔵の3男が、文化5(1808)年に7歳で勝元良の養子となった小吉<こきち>(左衛門太郎惟寅)です。

勝家は近江国(滋賀県)勝村の出で、天正年間(1573-92)以来徳川家に仕えてきたといいますが、石高はわずか41石あまり、小普請<こぶしん>組所属の貧乏御家人でした。小吉も生涯無役で、本俸の41石以外に役料がもらえないので生活は苦しく、刀剣のブローカーや鑑定屋などをして生計を立てていました。
たいへんな暴れん坊で、市井無頼の徒と付き合い、喧嘩口論は日常茶飯事でした。何度も家を飛び出すなど荒れた暮らしをしていましたが、剣術は相当な腕前だったようです。
文政2(1819)年に元良の一人娘信<のぶ>を妻にし、男谷邸内に新居を構えました。結婚しても家庭をかえりみることなく、長男の海舟が生まれたのも、博打と喧嘩が元で21歳の秋から24歳の冬まで、3年以上も座敷牢に入れられていた間のことでした。
このように、決して幸福とはいえない人生のスタートを切った海舟は、7歳までここで暮らしましたが、その後は転居を重ねることになります。


「勝海舟生誕之地」碑は、両国公園の一角に立っています

お世辞にもよき家庭人とはいえない小吉ですが、それでも息子のことを深く愛していたことを伝えるエピソードがあります。海舟が9歳の時、犬に睾丸<こうがん>を噛まれて大怪我をしてしまいました。あまりにひどい傷に医者も怖気づき、治療をためらうほどでした。しかし、枕元に刀を突き立てた父の気迫に海舟が全く泣かなかったので、なんとか傷口を縫うことができたのです。
それから小吉は、日頃から信仰していた能勢妙見<のせみょうけん>堂(墨田区本所4-6-14)に毎晩通って水をかぶり、息子の回復を祈りました(ここには、昭和49<1974>年に立てられた海舟の胸像があります)。
さらに自ら息子を抱いて寝るというように、必死の看病を続けました。その甲斐あって、70日目には、海舟は床を離れることができたのです。

意外なことに、小吉にはちょっとした文才がありました。隠居後の天保14(1843)年、42歳の時に書いた自叙伝『夢酔独言』は、なかなかの傑作です。「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまりおるまい」と、悪さや喧嘩に明け暮れた幼少時代から、14歳で家を飛び出して乞食同然でさまよった旅の体験などを皮切りに、伝法な筆調で、実話にしてはあまりにおもしろ過ぎる波乱万丈の半生を、生き生きと描き出しています。
そんな小吉の墓は、青山霊園(港区南青山2-32-2)にあります。

蛙の子は蛙と言いますが、剣が得意だった父の血を受け継いだのか、若き日の海舟は熱心に剣術の稽古をしています。彼ははじめ、父の実家男谷家の養子に入った精一郎から直心影<じきしんかげ>流を習いました。精一郎は幕府が設けた講武所の頭取兼剣術師範役を務めた幕末随一の剣客で、海舟とは実の従兄弟でもあります。その後、精一郎の弟子で豊前中津藩出身の島田虎之助に就いてさらに修行を重ね、父小吉が『夢酔独言』を著したのと同じ天保14年には免許皆伝を受けています。その一方で、海舟は島田に勧められて牛島の広徳寺に通って禅の修行も行っていました。

そればかりでなく、弘化2(1845)年には、やはり島田の勧めで筑前藩のお抱え蘭学者である永井助吉(青崖)に師事し、蘭学の修得にも取り組んでいます。さらに、幕府の馬役だった都甲<つこう>市郎左衛門からも蘭学の指導を受けました。蘭学修業中の有名なエピソードとしては、赤城某という蘭方医に10両を払ってオランダ語の辞書『ヅーフハルマ』58巻を借り受け、1年がかりで2部書き写して1部を売り、苦しい家計の助けにしたという話が伝わっています。
こうした刻苦勉励の結果、小吉が49歳でその破天荒な生涯を閉じた嘉永3(1850)年には、海舟は赤坂坂田町のあばら家に「氷解塾」を開き、蘭書や西洋兵学を教授するまでになっていました。

父同様、幕臣としては芽の出る見込みのない暗澹たる日々を送りながらも、ひたすら未来を信じて自らの精神と肉体・知性を磨き上げ、着々と実力を蓄えてきた海舟に、とうとうその運命を劇的に変える出来事が起こります。幕末の日本を大きく揺さぶった、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖にやって来たのは、それから3年後、嘉永6年6月3日のことでした。



【参考文献】
勝部真長編『夢酔独言─勝小吉自伝』平凡社、1974年
石井孝著『勝海舟[新装版]』吉川弘文館、1986年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
安藤優一郎著『勝海舟と福沢諭吉』日本経済新聞出版社、2011年

坂本龍馬と勝海舟─勝海舟邸跡

2012年09月09日 | 日記
2度にわたって江戸に上り、風雲急を告げる世の動きを目の当たりにした坂本龍馬には、もはや郷里の土佐でじっとしていることはできませんでした。

文久元(1861)年8月、土佐藩の「一藩勤皇」を目指す武市瑞山<たけちずいざん>が結成した土佐勤王党に加盟すると、10月には剣術修行を名目に出国、翌年1月に長州萩へ赴いて久坂玄瑞<くさかげんずい>を訪ねます。武市の手紙を久坂に届け、「大義のためには藩が滅んでも構わない」と、草莽の志士の団結を訴える久坂の返書を預かって帰ります。
久坂と腹蔵なく語り合った龍馬は、藩という枠を超え、国を想う久坂の情熱に動かされたのでしょうか、帰国後の3月24日、ついに脱藩を決行しました。その後の龍馬の足取りははっきりしませんが、通説では下関、九州、大坂を経て江戸へ出たとされています。

そして千葉重太郎から奸物だという評判を聞き、幕臣の勝海舟に会うために同年10月、赤坂氷川<ひかわ>町の邸宅を訪ねました。彼は開国論者として有名な海舟を、場合によっては斬るつもりだったと言われています。ところが海舟から世界情勢を聞かされて、その見識・人物に惚れ込み、その場で弟子入りしてしまいました。そして海舟の許で、航海術を学ぶことになるのです。

よく知られたエピソードですが、これには異説もあります。
龍馬が海舟を訪ねたのは10月ではなく12月だとも、場所も江戸ではなく大坂出張中の海舟が滞在していた神戸の旅館だったともいいますし、前回の日記で書いたように、龍馬は黒船騒動に直面して異国の脅威を肌で感じ、佐久間象山に西洋流砲術を学ぶほど開明的な人物でした。

さらに最初の江戸行きから戻った龍馬は、河田小龍<しょうりゅう>という土佐藩随一の西洋事情通と出会っています。小龍は絵師で役人でもあり、漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎を取り調べ、彼から聴取した見聞をまとめた『漂巽紀略<ひょうそんきりゃく>』を著したり、薩摩藩に赴いて金属を溶かし、精錬するための反射炉を視察するなど、当時としては最先端の知識を有する人物でした。
その小龍から外国船を手に入れ、同志を集めて海運業を起こし、その利益で活動資金を得ると同時に航海術を習得するという構想を聞かされた龍馬は大いに共感し、船の入手は龍馬が、人材育成は小龍が担うという誓いを交わしたといいます。2人の約束は、小龍が開いた塾から、近藤長次郎や長岡謙吉ら、後に龍馬が作った商社亀山社中や海援隊で彼と行動を共にする人物が巣立ったことで果されました。

こう見てくると、海舟を訪ねた頃の龍馬はそれなりに国際情勢を認識しており、本気で海舟を斬ろうと考えるようなガチガチの攘夷論者だったとは考えられません。
余談ですが、龍馬は土佐にいた頃から西洋流砲術に対する素養があったかもしれないのです。
彼の家の近くには島与助という西洋流砲術家が住んでいて、龍馬とも接点があったと考えられることや、最初に江戸へ出た時に付き添った溝淵広之丞<みぞぶちひろのじょう>が御持筒役を務める土佐藩士で、その前年、すでに象山の許で西洋流砲術を学んでいたことから、江戸行きの目的も剣術ではなく西洋流砲術の修行であると推測する歴史家もいます。
ましてや黒船来航以降、国防意識が急激に高まる中での2度目の江戸出府はその感が強く、龍馬ら江戸にいた土佐藩士たちは、日々砲術操練に明け暮れていました。出府自体が土佐藩による、攘夷戦に備えての軍役であった可能性すらあるのです。


海舟と龍馬は、前述した訪問以前から知り合いだった可能性があります。
海舟も象山門下生であり、嘉永6(1853)年12月の龍馬入門よりも前から象山門下となっています。これまた前回の日記で触れたように、その後まもなく師の象山が罪に問われることとなってしまったために、彼らが同門として共に学んだ期間は短く、どの程度の接触があったのかはわかりませんが、海舟と龍馬はこの時すでに出会っていたとしても、おかしくはありません。
ちなみに象山の奥さんは海舟の妹で、2人は師弟であると同時に義理の兄弟でもあるのです。通称を麟太郎という勝に、「海舟」の号をつけたのも象山でした。

海舟に弟子入りした龍馬はその信頼を受け、彼を補佐して活躍しました。海舟の主唱による神戸海軍操練所設立のための資金集めなどに東奔西走し、元治元(1864)年5月、ついにその発足に漕ぎ着けました。
それより先の文久3(1863)年9月に、海軍操練所に併設される形で海舟の私塾である海軍塾が開かれ、10月に龍馬はその塾頭となります。この時龍馬29歳、多少遅咲きではありましたが、その胸はさぞ希望に溢れていたことでしょう。

ところが、龍馬の師弟関係は剣術を除くと、どうも長くは続かないようです。
元治元年6月5日、京都三条河原町の池田屋で、尊皇攘夷派の志士たちが御所に放火し、その混乱に乗じて孝明天皇を連れ去ろうという物騒な計画を話し合っていました。情報を嗅ぎつけた新撰組が池田屋を襲撃し、計画は未然に防がれましたが、参加していた志士の中に海軍塾の北添佶磨<きたぞえきつま>や望月亀弥太<もちづきかめやた>がいたことや、7月19日に起きた禁門の変で、敗れた長州側に加わった土佐の脱藩浪士を海軍塾で匿ったことなどから、塾は尊攘派の巣窟とみなされました。
そして長州征討に反対して幕府から睨まれた海舟は10月に江戸へ召喚され、軍艦奉行を罷免されてしまいます。海舟の失脚にともない海軍塾は閉鎖、神戸海軍操練所も翌慶應元(1865)年3月19日、廃止の憂き目を見ることになったのです。

海舟に心酔し、その事業を全身全霊で支えてきた龍馬にとって、この事態はさぞかし無念だったでしょう。
しかし、脱藩してから海舟の片腕として働いたわずかな期間に、龍馬はその後の躍進につながる、人脈という貴重な財産を得ました。前越前藩主の松平春嶽<しゅんがく>や越前藩に賓師<ひんし>として招かれた思想家横井小楠<しょうなん>、同藩士の由利公正<ゆりきみまさ>、幕臣の大久保一翁<いちおう>、そして薩摩藩の西郷隆盛ら、そうそうたる面々と知遇を得ることができたのです。

さて、そんな龍馬にとって人生の転機となる出会いの場であったかもしれない勝海舟の屋敷があったあたりは、現在、地下鉄千代田線の赤坂駅から歩いて6分ほどの、マンションや社屋が建ち並ぶ閑静な住宅地となっています。そして、跡地にある白タイル壁のバーの植え込みの中に、「勝海舟邸跡」と書かれた木標がひっそりと立っています(東京都港区赤坂6-10-39)。

 勝海舟邸宅跡地(左)と平成7年建立の木標(下)


今は移転してしまいましたが、盛徳寺というお寺の隣にあったこの屋敷に海舟が住み始めたのは、長崎海軍伝習所で3年余りの修行を終えた安政6(1859)年、36歳の時のことです。1月に江戸に帰って来た彼は、ただちに軍艦操練所教授方頭取に就任し、同じ年の7月から約10年、ここを活動の拠点とします。そして、万延元(1860)年に咸臨丸館長としてアメリカに向けて旅立ったのも、明治元(1868)年に、幕府陸軍総裁として官軍の征討総督府参謀の西郷隆盛と談判を重ね、江戸城無血開城を成し遂げたのもこの間のことです。
今はなんの面影も残ってはいませんが、勝海舟の人生のうちもっともドラマチックな時期の舞台となった場所だと思うと、なんとも感慨深いものがあります。

ところで、この幕末維新を代表する傑物は、いったいどのように生まれ育って、あれだけの大業を成し遂げる人物へと成長していったのでしょうか?
次回は勝海舟が産声をあげた本所亀沢町の誕生地を訪ねつつ、その生い立ちと、彼の人格形成に少なからぬ影響を与えたであろう、父小吉<こきち>の存在に迫ってみたいと思います。



【参考文献】
石井孝著『勝海舟[新装版]』吉川弘文館、1986年
児玉幸多監修『知ってるようで意外と知らない日本史人物事典』講談社、1995年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
松浦玲著『坂本龍馬』岩波書店、2008年
加来耕三著『坂本龍馬 本当は何を考え、どう生きたか?』実業之日本社、2009年
加来耕三監修『知ってるようで知らない坂本龍馬がわかる本』あさひ出版、2009年
木村幸比古監修『図説 地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年