ひろむしの知りたがり日記

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ブルース・リーのドラゴン拳法(3) ─ 伝統的な中国拳法からの脱却

2013年12月30日 | 日記
1964年8月、カリフォルニア州のロングビーチで、“アメリカ空手の父”として知られるエド・パーカーの主催による第1回インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップが開かれました。ブルース・リーの並外れた才能に着目し、彼をスターに掲げたマーシャル・アーツの未来を予見していたエドは、映画やテレビのプロデューサーが多勢集まる大会でのデモンストレーションを依頼したのです。それを引き受けたブルースは、ここでも「ワンインチパンチ」の妙技を披露し、観客を驚嘆させました。
このデモンストレーションが、ハリウッドの美容師ジェイ・セブリングの目に留まります。ジェイはブルースの素晴らしい技術について誰彼かまわず伝えてまわりました。話を聞いた中の1人に、「バットマン」のTVシリーズを制作していたウィリアム・ドジエがいました。デモンストレーションを収めたフィルムを観たウィリアムは、ブルースをTVシリーズ「チャーリー・チャン」の息子役に起用しようと考えたのです。

              
ブルースの妻リンダが書いた伝記『ブルース・リー・ストーリー』。ハリウッド進出の契機となった第1回インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップを主催したエド・パーカーも序文を寄せています

運命の針が、大きく動き出そうとしていました。一方、武術家としてのブルースに、もう1つの転機が訪れます。翌年、彼は地元の中国武術コミュニティーに睨まれ、ウォン・ジャック・マンから挑戦を受けました。ブルースが中国人以外にグンフーを教えていることへの反感が理由でした。結果はブルースの圧勝でしたが、2、3秒でカタがつくはずの勝負に3分以上もかかり、息を切らしてしまったことが、彼にとってはひどく不愉快でした。これをきっかけに、ブルースは自分の闘い方や訓練法に再検討を加え、さまざまな新しい訓練器具を考案していきます。

2月1日に長男のブランドンが生まれ、ブルースは父親となりました。赤ん坊の泣き声に眠れぬまま、20世紀フォックスの撮影所に出向き、「チャーリー・チャン」のためのカメラ・テストを受けました。グンフーの簡単な技を披露した後、ブルースは「おわかりですか?グンフーとは、とても卑劣なものなのです。まるで中国人のように」と言ったそうです。ルールのあるスポーツ格闘技と違って、それは、グンフーが相手の急所を容赦なく攻撃するし、身体中のありとあらゆる部分を凶器として使うからという意味なのでしょう。

それから間もない2月8日に父李海泉が亡くなったため、ブルースは妻子を連れて香港に一時帰国します。俳優の子である彼は、渡米する前に子役として20本以上もの映画に出演していましたが、あくまでアメリカでの成功に野心を燃やし、香港では旧知の映画人を避けていました。そして、売り込みに使うためなのでしょうか、かつての師葉問<イップ・マン>の訓練を8ミリで撮影しようとして拒否されてしまいます。
ブルースのあまりに欧米化された態度と発想に、葉問はもはや、違和感しか感じなかったのです。9月、シアトルに戻ったブルースは、仏典から老荘思想、南インド出身の宗教者・哲学者クリシュナムルティに至るまで、アジアの伝統思想についての書物を読み耽りました。

先に挙げた「チャーリー・チャン」は企画倒れとなってしまいましたが、ブルースは1966年、「バットマン」に続く連続TV番組「グリーン・ホーネット」に出演することになります。新聞社の若社長にして、裏では最新科学の粋を集めたスーパー・カー「ブラックビューティ」を駆使して悪と戦う主人公グリーン・ホーネットの日本人助手カトーの役でした。撮影開始は6月6日、1回の出演料は400ドルです。カトーは空手の達人という設定でした。ブルースが操るのは、当然、空手ではなく拳法だったのですが、これがアメリカのTVで中国のグンフーが紹介された最初です。そのアクションは、それまでにない斬新なものでした。番組の影響で、アメリカ各地に空手や拳法の道場が続々と生まれました。
ささやかな成功を手にしたブルースの一家は、ロサンゼルスの高級住宅地に小さなアパートを借ります。ブルースは突然有名人になり、地方のラジオやTVにゲストとして出演し、遊園地や武道選手権などを訪れて技を披露する機会が増えました。しかし、番組はわずか半年で終了してしまいます。

1967年、彼はロサンゼルスの中華街に3番目の道場を開き、素質を持った者のみを対象とした、ハイ・レベルな教授に徹するようになります。どこまでも実戦重視の彼は、喧嘩の際には平服でいる可能性が高いからと、特別な練習着を用いない稽古を奨励しました。
さまざまな場でグンフーを披露するブルースに対し、伝統的な中国拳法の教師たちは見下した態度で眺めていましたが、ブルースはそうした連中に反発し、日本の空手からボクシングに至るまで、他の武道や格闘技を幅広く研究します。とりわけ同い年のモハメッド・アリには強い関心を抱き、フィルムを繰り返し観ては、その動きを分析していました。
こうして振藩功夫から截拳道<ジークンドー>へと進化していった彼の格闘術は、単なる中国拳法の枠を超えて、より普遍的かつ統合的な武術としての様相を呈するようになっていくのです。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年
ポール・ボウマン著、高崎拓哉訳『ブルース・リー トレジャーズ』トレジャーパブリッシング、2013年

ブルース・リーのドラゴン拳法(2) ─ 振藩功夫 <ジュンファン・グンフー>

2013年12月22日 | 日記
1959年4月、ブルース・リーは生まれた地であるカリフォルニア州サンフランシスコ行きの汽船に乗り込みました。18歳の誕生日を迎える11月までに戻らないと、市民権が失効してしまうから、という理由もあります。
5月17日にサンフランシスコへ着いたブルースは、しばらくの間、父親の知人の家に厄介になりますが、その人物とは馬が合いませんでした。2、3ヵ月でそこを出たブルースは、ワシントン州シアトルに移りました。そこでは、父と劇団で同僚だったチャウピンのもとに身を寄せ、彼の妻で、地元では名士だった女性実業家ルビーの経営する中華料理店で給仕として働きながら、エジソン職業訓練高校に通いました。
その傍ら、ブルースは路地や公園で詠春拳を教えるようになります。1960年には日本の空手家から挑戦を受けましたが、勝負は11秒で決しました。同じ年に職業訓練高校を卒業し、翌1961年、ワシントン大学哲学科へ進みます。ブルースは勉学に情熱を注ぐ一方で、グンフーの指導も続けました。最初のうち、練習場所は駐車場の片隅、キャンパスの芝生、体育館と、その都度変わりました。この年の、シアトル市アジア文化の日のイベントでは、元空軍ヘビー級チャンピオンのジェームズ・デミールを破り、話題を呼んでいます。

2年生になった1962年には、ルビーの中華料理店の地下駐車場を借りて振藩國術館(振藩はブルースの中国名)を開きます。そこが手狭になると、1963年10月には大学近くにあるアパートの1階部分を全部借り切りました。この頃のブルースは、自身の武術である振藩功夫を、全米にチェーン展開することを夢見ていました。前回触れた『CHINESE GUNGFU』(『基本中国拳法』)を自費出版したのも同じ年です。この冊子は500部発行され、5ドルで売られました。ブルース自身のイラストや写真が数多く掲載されていますが、写真は全てルビーの店の駐車場で撮影されたものです。相手役を務めたのは、弟子で生涯の友人となるターキー木村(木村武之)でした。木村は地元のスーパー経営者で、日系人でした。

同じ年の12月、彼は中国哲学の講義をしに行っていたガーフィールド高校において、初めて「ワンインチパンチ」のデモンストレーションを行い、大評判となります。ワンインチパンチとは、標的と拳との間を1インチ(2.54センチ)開けた状態からパンチを繰り出して、相手を後方へ吹き飛ばすというパフォーマンスです。
のちに伴侶となる17歳のリンダ・エメリーが、この東洋から来たハンサムで、不思議な武術を使う若者を初めて見たのもこの頃でした。高校の廊下で彼を見かけたリンダは、強い印象を受けたようです。その後、ブルースと同じワシントン大学に進学したリンダは、その直前には彼の道場へ入門しています。やがて2人は交際するようになりました。
1964年8月12日、ブルースはリンダと結婚します。その少し前に、彼は道場をシアトルからカリフォルニア州オークランドに移す計画を立てていました。ブルースは、シアトルではすでに有名人でしたが、この町ではなにぶん人口が少なすぎました。道場経営が行き詰まって資金難に陥り、そのため2人は新婚旅行にも行けませんでした。大学の学費も払えなくなり、ブルースは中退を余儀なくされます。そんな状況から脱出するためにも、どうしても人口の多い場所へ移る必要があったのです。

ブルースは、オークランドで有名になれば、ロサンゼルスやサンフランシスコにもその名声が届くだろうと考えていました。そして、オークランドに道場を持っていたジェームズ・リーから誘いを受けて、道場の共同経営者となります。ブルースより20歳も年上のジェームズの仕事は溶接工でした。彼はブルースが考案したトレーニング器具を、数多く製作したことでも知られています。ブルースとリンダは、ジェームズの家に間借りして、新しい生活を始めました。

新天地で再スタートを切ったブルースでしたが、現実は厳しく、その日の食費にも事欠くありさまでした。そこで彼は、自分の武術をもっとアメリカ人に知らせることが必要だと考えました。彼はあちこちに出かけては、グンフーの素晴らしさを人々にアピールすべく、デモンストレーションを行うようになります。
その1つが、1964年8月2日にロングビーチで行われたエド・パーカー主催の第1回インターナショナル・カラテ・チャンピオン・シップでした。この大会で行ったデモンストレーションこそが、ブルースにTVドラマ「グリーン・ホーネット」への出演、そしてハリウッド進出へとつながる道を開かせる、足がかりとなったのです。


  TVドラマから、ブルースの活躍する話を選んだ映画「ブルース・リーのグリーン・ホーネット」
 
(日本公開は1975年3月21日)

【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年

ブルース・リーのドラゴン拳法(1) ─ ジークンドーの核“詠春拳”

2013年12月15日 | 日記
2012年1月29日にこのブログを初めて以来、まもなく2年になろうとしています。振り返ってみると、そのうちのかなりの記事が、武術がらみの内容になっています。もちろん、それは自分にとって関心のあるテーマだからなのですが、そもそもぼくが武術好きになったのには、3つのきっかけがありました。
1つめが小学校3年生で始めた柔道で、2つめが劇画『空手バカ一代』、そして3つめがブルース・リーとの出会いでした。「燃えよドラゴン」を初めて見た時、それまで目にしてきたヒーローものなどとは比べものにならない迫力あるアクションに、すっかり魅了されてしまったのです。今年は彼の没後40周年であるということもありますし(もうすぐ終わりですが・・・)、わが精神構造に少なからぬ影響を与えたブルースについて、武術家としての側面を中心に書いてみたいと思います。

ブルース・リーは1940年11月27日、俳優である父李海泉<リー・ハイチュアン>の巡業先であるアメリカのサンフランシスコで生まれました。やがて李一家は香港に引き上げ、九龍城で暮らします。そんな中、幼いブルースが初めてやった中国拳法は、父親の見よう見まねで始めた太極拳でした。しかし、武術というよりは健康体操として庶民に認識されていた太極拳に満足できず、14歳の頃に友人から実戦的な武術があると聞いて出かけて行ったのが、葉問<イップ・マン>の詠春拳道場でした。

詠春拳は清代末期、福建少林寺で拳法を学んだ厳四<イムセイ>の娘詠春<ウェンチョン>が、女性であるという身体的ハンデに悩まされ、それを苦にすることなく使えるように技術改良を加えたものであるとされています。手技を主体とし、自分と相手の手を絡み合わせるようにして攻防を行う拳法で、その特徴についてブルースは、①至近距離での攻防においてたいへん優れている、②相手と自分を結ぶ最短距離で攻撃するのでロスが少ない、③相手と相対しての練習を常とし、力の流れを感じ取る訓練をするといった点を挙げています。この詠春拳の技術は、「燃えよドラゴン」の中でも使われています。ハンの要塞島で行われた、彼の手下でかつて妹を死に追いやったオハラとの試合において、最初に互いに片手の甲を合わせた態勢から、いきなりブルースが目にも止まらぬ速さでオハラの顔面を叩くというシーンで使われているのがそれだそうです(松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』)。
詠春拳は、のちにブルースが創始するジークンドー(截拳道)の核となりました。

 
  ブルースの名を世界に轟かせた映画「燃えよドラゴン」のパンフレッド(日本公開1973年12月22日)

葉問のもとで修行に励んでいたブルースですが、これはちょっとやり過ぎ─というエピソードを残しています。ある日、彼は師匠の指導を独占するために、「今日は、練習は休みだ」と嘘をつき、他の道場生たちを帰らせてしまいました。そのことは後で葉問に知られ、もちろん、ブルースはこっぴどく叱られたそうです。
そこまで熱を入れて取り組んだ詠春拳の修行ですが、わずか2年ばかりで終わりを迎えます。ブルースは高校で、香港の12校が参加するボクシング選手権に出場し、3年連続で王座を守っていた相手に3ラウンドノックアウト勝ちするといった表舞台での活躍のほか、裏ではストリート・ファイトに興じるというやんちゃな若者でしたが、1959年4月29日、喧嘩相手を徹底的に痛めつけたことが原因で香港にいられなくなり、5月17日に単身サンフランシスコへ戻ることになるのです。

アメリカに渡って3年後、ブルースは『基本中国拳法』(原題 CHINESE GUNG FU - The Philosophical Art of SELF-DEFENSE)を著して、詠春拳の基本技術を紹介しています。ブルース自身はいずれ、もっと詳細な『ダオ・オブ・チャイニーズ・グンフー』を出版するつもりでいましたが、その後の彼の人生の激変および早過ぎる死によって、その企画はついに実現しませんでした。
彼は詠春拳のほかにも、17歳の時には少林拳の第一人者といわれた王雲展<ワン・ユンチャイ>に入門したり、邵漢生<シウ・ホウサン>について節拳や功力拳を学ぶなどいろいろな拳法を研究し、自らもジークンドーを創始しています。それにもかかわらず、結果として『基本中国拳法』がブルース自身の手になる最初で最後のグンフー技術書となったことに、彼と詠春拳の因縁の深さを感じずにはいられません。

【参考文献】
川村祐三著『詠春拳入門 [増補改訂版]』BABジャパン、1998年
ブルース・リー著、松宮康生訳『基本中国拳法』フォレスト出版、1998年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年


荒木流拳法誕生の謎と10代栗原五百二正重

2013年12月07日 | 日記
『荒木流捕手再誕之序』という書があります。
荒木流拳法10代の栗原五百二正重<いおじまさしげ>の手になるもので、600字足らずの短い文章ですが、研究者の頭を悩ませる内容を含んだ資料となっています。

荒木流は無人斎流、荒木無人斎流などともいい、甲冑組討から発展した小具足、捕手を中心に、居合、短刀、小太刀、剣、棒、長巻<ながまき>、手裏剣、乳切木<ちぎりき>、鎖鎌、縄など様々な武器術を含む総合武術ですが、その名が示す通り、流祖は荒木無人斎秀縄<むじんさいひでつな>とされています。ところが、『荒木流捕手再誕之序』には違った人物が登場するのです。まずは、意訳してみましょう。

「当流の源を尋ねると、天正(1573~1592)の頃、太閤秀吉の時代に生きた藤原勝実が元祖である。勝実は常日頃からこの術の修練に励んでいたが、なかなか奥義を悟ることができなかった。そこで、かくなる上は神明の力を仰ぐよりほかにないと、愛宕山大権現に100日間参籠し、丹精込めて祈願したところ、その深い志が通じたのか、ある夜、不思議な霊夢を見てついに奥義を極めた。それより、洛中において強敵と立ち合うこと数度に及んだが、勝利を得ることがはなはだ容易であった。豊臣秀次がそれを聞いて、天下無双の妙術と賞賛したので、勝実の名声は世に高まった。(以下省略)」

次に、一般に流祖とされる荒木無人斎の経歴を見てみましょう。
彼は16~17世紀頃の人で、無仁斎、夢仁斎とも書き、「むにんさい」と読むこともあります。諱は秀縄のほか秀綱、信縄、信綱ともいいました。生国は不明ですが、有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重の一族(孫とも)と伝えられています。豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍して、秀吉から感状を授かったそうです。
『荒木流捕手再誕之序』に書かれていた正三位藤原勝実や、竹内流3代目の竹内加賀介久吉に小具足を学びました。彼も京都の愛宕山に祈願して秘術を得たといいます。

さて、栗原がなぜ、荒木流の元祖を無人斎ではなく勝実にしたかということですが、単に勝実が無人斎の師匠だから、無人斎が創始した武術のルーツであるという位置づけならば、そこに竹内久吉が来てもいいわけですし(ただし、荒木流に竹内流の影響を窺うことはできないそうです)、さらに矛盾しているのは、栗原自身が寛政年間(1789~1801)に天笠勇七へ与えた『印可、荒木流拳法極意』では、「荒木夢仁斎秀縄」を流祖としているのです。
無人斎と勝実は奥義を悟った経緯が酷似しており、両者の事績が混同されているか、あるいは同一人物の可能性も指摘されています。いずれにせよ、なんとも頭の痛い謎ではあります。

最後に、『荒木流捕手再誕之序』の著者、栗原五百二について紹介しておきましょう。
彼は享保6(1721)年4月15日に伊勢崎藩士栗原権之丞正祐の2男として生まれました。元文年中(1736~1741)、前橋藩酒井家の臣小屋幸太夫について砲術を学び、免許を受けます。その後、伊勢崎藩士磯田藤太夫邦道に無外流剣術を学び、宝暦10(1760)年5月、藩の剣術師範となりました。翌年、祖父正孝の門下だった河野四郎左衛門道房について種子島流砲術を修め、合わせて幕府の旗本松平氏に従って佐々木流砲術の免許を得ます。また伊勢崎藩士小峯文太夫武矩の門に入って荒木流の捕手小具足を学び、免許皆伝を受けてその師範となりました。それから2代藩主酒井忠告<ただつぐ>の命によって江戸に上り、土浦藩士関内蔵助依信に南蛮流砲術を学んでいます。

このように、主として砲術のプロフェッショナルとしてキャリアを積んだ栗原は、安永3(1774)年に藩から1貫目丸の大砲の製作を命じられました。苦心して造り上げ、その発砲に成功したので、翌年、3代藩主忠温<ただはる>より五百二の名を賜ります。由来は、1貫目(約3.75キロ)が500匁(1.875キロ。1匁は1貫の1,000分の1で3.75グラム)の2倍であることによります。さらに砲術師範を命じられ、上士に列せられました。また藩校学習堂の頭取となり、金5両3人扶持を授与されています。

なんとも輝かしい経歴の持ち主です。それだけに、『荒木流捕手再誕之序』の内容も、決していかがわしいものではないでしょう。荒木無人斎と藤原勝実の関係について、確かな記録を残してくれなかったのが惜しまれます。あるいは、彼にもその辺りのことは、はっきりわからなかったのかもしれませんが・・・。

栗原五百二は寛政9(1797)年11月1日に77歳で亡くなり、群馬県伊勢崎市曲輪町14-5にある同聚院<どうじゅういん>に葬られました。


伊勢崎市の重要文化財に指定されている同聚院の総門

先日、同聚院を訪ねましたが、どうしても彼の墓が見つかりませんでした。住職に聞くと、栗原家の墓所は整理され、撤去されてしまったものもあるということです。改めて教えてもらった場所に行ってみると、辛うじて五百二の2男である貫次郎正義(1768~1844)の墓碑が見つかりました。権蔵、貫二とも称し、墓碑には貫治と刻まれていました。彼も父から荒木流や砲術を、さらに伊勢崎藩士大橋順蔵次重に直心影流剣術を学んでいます。学習堂の学頭や徒士頭などを歴任しており、父に劣らず、優秀な人物だったのでしょう。

栗原五百二の2男、貫治正義の墓

五百二の墓がなくなっていたのは残念でしたが、彼が生きた伊勢崎の地には現在も荒木流が受け継がれており、荒木流拳法保存会(代表は18代鈴木清一郎師範)が後継者を育成したり、各種イベントで公開演武を行うなどの活動を行っています。

【参考文献】
今村嘉雄他編『日本武道全集』第5巻<柔術・空手・拳法・合気術>人物往来社、1966年
老松信一・植芝吉祥丸著『日本武道大系』第6巻<柔術・合気術>同朋舎出版、1982年
小佐野淳著『図説 柔術』新紀元社、2001年