ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第1章】 VS 心明活殺流柔術 《前編》

2016年09月11日 | 日記
姿三四郎が最初に他流試合をした相手は、心明活殺流柔術の門馬三郎です。

心明活殺流を開創したのは、楊心流(揚心流とも書きます)の祖秋山四郎左衛門義時の門下で、下総国(現在の千葉県北部と茨城県の一部)佐倉藩士の上野縦横義喬です。
師の義時は長崎の医者で、医術修行のために中国へ渡った時に、博転という人から柔術3手を、あるいは武官という者から捕手3手、活法28法を授かりました。帰国後、工夫して捕手300手を案出し、これを義喬に伝授したのです。義喬はさらに自己の工夫を加えて一流を興し、心明活殺流と称しました。
楊心流からは心明活殺流のほかに、真神道流、天神真楊流などが派生しています。

故郷の会津でその天神真楊流を学んでいた三四郎が、東京で最初に門を叩いたのはこの心明活殺流の門馬三郎道場でした。ところが、入門するために連雀<れんじゃく>町(現在の千代田区神田須田町1丁目)の門馬道場を訪ねたその日に、彼は日本伝紘道館柔道の創始者矢野正五郎と運命的な出会いを果たすことになるのです。

皮相的に先進国の形だけを追い、日本中が文明開化の熱病に浮かされていた明治の世、剣術や柔術は時代遅れで野蛮と軽蔑され、衰退を余儀なくされていました。門馬も道場経営だけでは食べていけず、浅草で居合抜きと組んで見世物興行を行って糊口をしのいでいたのです。それでも、駄菓子屋の支払いにまで事欠くような窮状にありました。
そんな中、明治10(1877)年に起きた西南戦争において、警視隊から剣術に秀でた者を集めて編成された抜刀隊が威力を発揮したことにより武術が見直され、警察官の訓練に撃剣を追加するようになり、次いで明治16年3月には柔術も採用されることになりました。
こうして警視庁に柔術世話係が置かれ、ようやく陽の目を見る時が来たと喜び勇んでいた矢先、東京大学出の学士で、学習院の講師というきらびやかな肩書を引っ提げた矢野正五郎が、「術の小乗から道の大乗へ」などと偉そうなことをほざいて、颯爽と柔術界に乗り込んできたのです。ただでさえ小さなパイを奪い合う強敵の出現に、門馬たち旧来の柔術家が心穏やかでいられようはずがありません。

「開化の時世を当て込んだような学士の若造の柔道なぞというものに、警視庁まで乗取られては堪らんからのう。正に斬るべしだ!」
門馬たちは紘道館を若芽のうちに摘み取ってしまおうと、正五郎襲撃を企てます。その決行日が、まさに三四郎が入門のために訪れたその日だったのです。
三四郎はすでに50銭の入門料を払ってしまっていましたが、己の不運を呪うばかりで自堕落な暮らしを送り、自ら柔術の品位を下げているような彼らの醜態に絶望し、内心入門を断念していました。
しかし、噂の紘道館柔道がどの程度のものなのか、確かめたいという気持ちもあったのでしょう、誘われるまま、門馬たちに同行します。

その夜、神田錦町の今文で学習院の講師たちの集まりがありました。その帰り道に野試合を挑もうと、門馬たちは万世橋<まんせいばし>の袂で、矢野正五郎を乗せた人力俥を待ち受けることにしたのです。
万世橋は明治6年に造られた東京で最初の石橋で、半円形の2つの通船路が川面に映るようすがまるで眼鏡のようだったので、「めがね橋」の愛称で呼ばれていました。

心明活殺流のメンバーは6人。自分たちはただの無頼漢ではない、武術家であるという誇りだけは辛うじて残されていたのか、武器を持つことは禁じられていました。
俥がやって来ると、仲間の1人根本が闇から飛び出して、俥夫の膝頭をぽんと蹴って転ばせます。俥は横倒しになり、正五郎も前のめりに俥から放り出されてしまいました。
けれども彼は、俥夫の背中に軽く右手を当てて宙に一つ返ると、すっくと下り立ったのです。
まるで体操選手のような、鮮やかな身のこなしでした。

「紘道館の矢野正五郎である。人違いか、それとも闇討か?」
落ち着いた正五郎の声が、門馬たちに問いかけます。
「名乗れ、素姓を」
それに対して根本は「心明活殺流」とたたきつけるように叫ぶと、正五郎の手元に飛び込み、水月(胸の中央にある窪んだ部分。人体の急所)に当身を打ち込みました。正五郎は一歩後ろへ下がって体を開き、相手の手首を掴んで引っ張ります。根本が引かれまいと反身になって上半身に力を込めた瞬間、正五郎は一本の棒のように自分から仰向けに倒れ、根本を神田川に放り込んだのです。
見事な真捨身技でした。


昭和5(1930)年に架け替えられた現在の万世橋(神田須田町2)。最初の万世橋は150mほど上流にありましたが、明治36(1903)年に現在の万世橋にその名を譲り元万世橋と改称されました(明治39年撤去)

続いて3人が、正五郎を取り囲んでじわじわと迫ります。
そのうちの1人が正五郎の着物の袖を鷲づかみにし、思いっきり大外刈りをかけました。
しかし、体勢の崩れていない正五郎に強引な力技を仕掛けてもかかるわけがありません。袖を振り切られ、勢い余って2、3歩たたらを踏んだところ、腰の辺りを一蹴りされると、両手を鳥のように広げて神田川に凄まじい水煙を上げていました。

残る2人は、当身か固技で正五郎を地上に転がして仕留めるほかに術がないと、左右に分かれて肉迫します。すると、それまで守勢だった正五郎が一転、自分から右の敵の方に飛び込んでいきました。
組み合った2人が相互に引き合って腰を落としたと見るや、正五郎は右足を相手の内股に軽くかけ、仰向けに倒れました。相手の身体はその上を飛び、そのまま神田川へ。隅返<すみがえし>の妙技でした。
6尺(約182cm)豊かな大男を3人、5尺2、3寸(約158~161cm)の小さな体で苦も無く川へ投げ込んで、息一つ切らしていない正五郎の闘いぶりに、感動のあまり我を忘れて見つめる三四郎の目の前で、4人目の敵が頭から神田川に吸い込まれていきました。

ついで、仲間のうちでは最も精悍な顔つきをした、心明活殺流免許皆伝の八田千吉が、正五郎の前に仁王立ちします。
睨み合う両者。全身に殺気と闘志をみなぎらせた八田は、それに反してまるで春の野原で風に吹かれているような正五郎の泰然自若とした姿に業を煮やし、拳を固めて一気に眉間を狙いました。正五郎は右腕でその拳を受けて頭上へ流し、さらに鳩尾<みぞおち>(水月に同じ)を狙ってきた八田の左拳を自分の拳で抑えたのです。
正五郎は、そのままひた押しに八田を押します。もつれ合った右手は、互いの肩口を掴んでいました。八田はたじたじと3、4歩後退し、腰を落として食い止めると、満身の力を込めて押し返しました。そのまま神田川に正五郎を押し落としてしまわんばかりの勢いでした。
川まであと一間(約182cm)、正五郎は「えい」という気合とともに身を倒し、右足を相手の下腹にかけました。わが力を利用された八田は、正五郎の右足を軸に鮮やかな放物線を描いて宙を吹っ飛び、神田川に5つめの水柱を立てたのです。

最後に残された門馬三郎は、猪のような唸り声を上げて正五郎の足にしがみつこうと突進していきました。引きずり倒して腕をへし折るか、絞め殺してやろうという腹積もりだったのです。
2つの肉体がもみ合って、地上を転がります。
この寝技勝負を制したのも、やはり矢野正五郎でした。門馬はうつ伏せにされ、正五郎の膝下に抑えられて、右腕を逆に極められてしまいました。
「なんの恨みだ?」
と問い質す正五郎に、門馬はあえぎながら答えます。
「恨みじゃない・・・・・。こ、こらしめだ」
「私をか? はっはっ、愚かなことを言う。そんなことでは、武術家は廃るばかりだ」
これ以上痛めつけても無意味だと、正五郎は手を放して立ち上がりました。しかし門馬はそのまま起き上がることなく河岸まで這っていき、自ら神田川へ飛び込みました。
敗北の無念と、「大学出の学士が理屈でこねた畳水練」と馬鹿にしていた柔道に手も足も出なかった恥辱に耐えることができなかったのです。

それにしても、まだ主人公の姿三四郎が登場したばかりだというのに、いきなり息詰まる格闘シーンが展開され、これから先の物語への期待をいやが上にも高めます。さすが、後に戦後初の直木賞を受賞する稀代のエンタティナー富田常雄の面目躍如といったところでしょう。


「萬世橋」と浮き彫りされた名板(左)と、橋から眺めた神田川の流れ。正面に見える橋は上流の昌平橋

闘いを終えた正五郎は、まるで何事もなかったかのように穏やかな声で俥屋を呼びましたが、何の返事もありません。恐れをなした俥屋は、さっさとどこかへ逃げ去ってしまったのです。しかたなく歩き出そうとした正五郎の前に出て、地面に膝を折って両手をつき、
「先生、私がお供します、お乗りください」
そう申し出た若者がありました。姿三四郎です。
3日前まで俥を引いて苦学していたことが、思わず役に立ちました。
「そうか、では頼もう」
強いばかりでなく、敵とも味方とも知れぬ三四郎に対して「何者か?」と質すこともなく、静かに車上の人となった正五郎の器の大きさに、三四郎の心は畏敬と感激の思いでいっぱいになりました。

履いていた下駄を惜しげもなく脱ぎ捨てた三四郎は、心から尊敬できる師匠と出会えた喜びに胸を高鳴らせながら、夜更けの東京の町を、紘道館のある下谷の隆昌寺へとひた走るのでした。


【参考文献】
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
笹間良彦著『図説 日本武道辞典《普及版》』柏書房、2003年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年

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