ひろむしの知りたがり日記

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皇居の門に名を留める忍者のボス・服部半蔵

2012年04月29日 | 日記
前回は徳川吉宗が創設した将軍専属の隠密、御庭番について書きましたが、江戸幕府に仕え、立身を遂げた隠密の先駆けといえば、なんといっても服部半蔵正成<まさなり>でしょう。

お父さんの半三保長<はんぞうやすなが>は、伊賀国(三重県)阿拝<あへ>郡服部郷の上忍(伊賀忍者の頭領)の家の出で、はじめは室町幕府第12代将軍足利義晴に仕えていました。それから三河国(愛知県)へやって来て、徳川家康のおじいさん松平清康に臣従し、以後、広忠・家康と3代に仕えました。

半蔵は天文11(1542)年、保長の5男として三河国に生まれています。初陣は16歳の時で、同国宇土城の夜討ちだとされています。ただしこの戦いは永禄5(1562)年というのが通説なので、誕生の年から換算すると、半蔵は当時21歳だったことになります。
彼は伊賀忍者6、70人を率いて城内に潜入し、見事武功を立てて家康から長さ7寸8分の持槍をもらいました。そうした働きぶりから考えると、16歳の少年だったというよりも、22歳の若武者であったと考える方が、自然なような気もします。
いずれにせよ、初戦でいきなり高ポイントを上げた半蔵は、その後も掛川城攻め、姉川の戦い、高天神城の戦い、三方ヶ原の戦いなどにおいて目覚しい活躍をし、勇猛果敢な戦いぶりから「鬼半蔵」と呼ばれました。


半蔵が優れた武将であったことは間違いないようですが、では、忍者としてはどうだったのでしょうか?

伊賀の上忍藤林長門守の後裔藤林左武次保武<さむじやすたけ>が著した忍術書『萬川集海<まんせんしゅうかい>』には、上忍は人に知られることなく巧みに任務を果たす者とあり、忍びの働きは音もなく、臭いもなく、名も知られず、勇名を馳せることもなく、その功は天地万物を創造した神の如しと書かれています。

痕跡を残さずに目的を遂げるのが忍者であり、半蔵が忍びとして優秀であればある程、当然のことながらそれを示すエピソードを残すことはないわけです。
強いて挙げるなら、竹庵という武田信玄の間者が徳川の家来になりすまして潜入しているのを見破り、討ち取ったという話が伝わっているぐらいです。


半蔵が家康の信頼を勝ち取ることになった決定的な出来事は、天正10(1582)年6月2日に起きた本能寺の変です。

家康はその時、信長に招かれて表敬訪問した後、和泉国堺(大阪府堺市)に滞在していました。信長の同盟者である家康も、言うまでもなく明智光秀軍の標的となりました。窮地に陥った家康を救うため、半蔵は伊賀者200人、甲賀者100人を動員して護衛の任にあたりました。そして峻険な伊賀の鹿伏兎<かぶと>峠を越えて、本国の三河岡崎へ無事帰国させたのです。

こうした功によって半蔵は遠江国(静岡県)に8,000石を与えられました。
家康はまた、逃避行に従った伊賀者200人を召し抱え、半蔵の配下に付けました。尾張国鳴海<なるみ>の地で取り立てたので、彼らは鳴海伊賀衆と呼ばれました。これが伊賀組同心の起こりです。
そして天正18(1590)年に家康が豊臣秀吉の命で関東に入国したのち、半蔵は江戸城の裏門である麹町御門(東京都千代田区麹町1)の外に伊賀組組頭として組屋敷を拝領し、先の伊賀者200人と与力(同心の指揮役)30騎の支配を任されました。
そのことに由来して、元江戸城である皇居西側の内濠に架かるこの門は、半蔵門と呼ばれています。甲州街道に直結し、万が一江戸城が陥落するような事態になった時、将軍は半蔵門から脱出し、甲州街道を通って幕府の天領である甲府に逃れる手筈になっていました。



上の写真は、門の北側の半蔵濠沿い設けられた千鳥ヶ淵公園から望んだ半蔵門の姿です。
現在も往時の姿を留める半蔵門は、さほど大きい門ではありませんが、半蔵濠と南側の桜田濠の間に挟まれ、周りを緑と水に囲まれた美しく穏やかな景観を有しています。

その佇まいからは、かつてのきな臭い役割など窺い知る由もありません。しかし皇居への出入り口の1つであるだけに、皇宮警察によって常に厳重にガードされています。


家康の信任厚く、武将として、忍びの頭領として抜群の働きをした服部半蔵ですが、彼の息子の代になって、服部家は悲惨な末路をたどることになります。
そのことについては、次の日記で詳しく見ていくことにしましょう。



【参考文献】
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第11巻他 吉川弘文館、1990年他
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年

吉宗専属のスパイ集団・御庭番

2012年04月23日 | 日記
人気TV時代劇シリーズ「暴れん坊将軍」では、徳川吉宗の側近くに常に待機していて、身辺警護はもちろんのこと、その優れた情報収集能力で毎回登場する敵役が行う悪事の証拠を掴んだり、被害者の身を守ったりと、事件解決の裏で縦横無尽に働く御庭番が登場します。
もちろん、ストーリーの大部分はフィクションですが、吉宗の大胆な改革政治の背後で、御庭番が暗躍していたのは紛れもない事実です。

吉宗は享保元(1716)年に紀州藩主から8代将軍に就任するにあたり、205人もの藩士を連れていきましたが、その中には「薬込役<くすりごめやく>」と呼ばれる者たちがおりました。
表向きの役目は吉宗が使う鉄砲に火薬を込めるというものですが、時に密命を受けて、国の内外において諜報活動を行うこともありました。
彼らは甲賀忍者の子孫であるとも伝えられています。

村垣忠充ら元薬込役16人は、幕府の中にあった役職の1つ、「御広敷伊賀者<おひろしきいがもの>」に編入されました。
この役職は、家康の頃から仕えてきた伊賀者や甲賀者といった忍者の末裔で組織されていましたが、世の中が安泰になるにつれて隠密御用から遠ざかり、江戸城警備の任に就いていました。

でも平和な時代になったとはいえ、幕府は大名や庶民を取り締まるために出した数々の法度に対する違反や、政権を脅かす不穏な動きに目を光らせておかなければなりませんでした。
そこで伊賀者や甲賀者に代わり、大名などを監視する老中支配下の大目付や、旗本・御家人を見張る若年寄支配、目付配下の徒<かち>目付や小人<こびと>目付がその役割を果たしました。これが公儀隠密です。

吉宗の将軍就任にともなって新たに任命された御広敷伊賀者は、もともといた者たちと職名は同じでも、職務内容は大きく異なりました。給料も後者が30俵2人扶持だったのに対し、35俵3人扶持とより高額でした。

でも、その真の役割が諸藩や遠国奉行所・代官所などの実情を調査し、老中をはじめとする諸役人の行状や世間の風聞などの情報収集であることは、当初吉宗のほかには御側御用取次の有馬氏倫<うじのり>と加納久通<ひさみち>しか知りませんでした。

徳川の嫡流が絶えて、幕府創設以来はじめて御三家出身の将軍となった吉宗は、江戸城という巨大組織の中では、いわばよそ者でした。そんな彼が自分の思うように政治を行うためには、側近を信頼できる旧紀州藩士で固めるとともに、正確な情報を側用人や老中に邪魔されることなく入手するために、独自の諜報機関を持つ必要があったのです。

享保11(1726)年には「御庭番<おにわばん>」の名称が与えられ、幕府の正式な職名になりました。ここに至って、はじめて彼らが将軍専属の隠密組織であることが公となったのです。

同14年には、紀州藩時代に吉宗の愛馬、亘<わたり>の手綱取りである「馬口之者<うまくちのもの>」を務めていた川村脩常<なかつね>が加わり、旧薬込役16人と合わせた17人の家が「御庭番家筋」に定められ、役職を世襲しました。その後絶家したものや、二男、三男で分家に取り立てられたものなどがあり、最後は22家となって幕末を迎えます。

隠密御用がない時は、彼らは本丸天守台下の御庭御番所や、二の丸御休息、西の丸山里門の詰所に毎夕交替で宿直し、天守台近辺や吹上の御庭などの警備にあたることを日常の任務としていました。
彼らの職場である御庭御番所は現存していませんが、元江戸城である皇居東御苑(東京都千代田区千代田)には、鉄砲百人組と呼ばれた伊賀組、甲賀組、根来<ねごろ>組、二十五騎組が詰めていた百人番所(写真)のほか、同心番所、大番所という3つの番所(警備の詰所)が残っています。



御庭番はまた、江戸城の近辺で火事があって将軍が城から逃げ出さなければならなくなった場合には、避難の誘導をしたり、火消しや目付などを奥向きへ呼び込む際の取り次ぎや手配の伝令を行ったり、不法侵入者が紛れ込むのを防ぐといった役割も担っていました。


御庭番設置当初、彼らは全員が将軍に直接会うことができる身分である御目見<おめみえ>以下でした。
そこで、将軍の内密御用を受ける時、通常は有馬か加納が指示をしましたが、将軍から直に指令を受ける場合には、「御障子越し」に聞くという形式を取りました。
これは、将軍が遠出などをする際に、大奥と中奥の境近くにある御休息御駕籠台(御駕籠部屋)という場所で、障子越しに行ったのです。

それがまだるっこしかったからというわけではないでしょうが、やがて御目見以上に昇進する者が出てきて、5種類の格式に分けられました。

まず、御目見以上が「両番(小姓組番・書院番)格御庭番」と「小十人<こじゅうにん>格御庭番」、御目見以下が「添番<そえばん>御庭番」、「添番並御庭番」、「伊賀御庭番」です。
でも、11代将軍家治<いえはる>の時代までには、ほとんどの家筋が御目見以上に昇進しました。中には村垣淡路守定行、明楽飛騨守茂村、梶野土佐守良材のように、勘定奉行にまで昇進した者も現れました。
最初は御目見以下からスタートしたのですから、いやはや大した出世をしたものです。

そういえば、ロシアのウラジーミル・プーチン首相もKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイ出身だそうですが、いつの時代であれ、どこの国であれ、情報を制することは、やはり大きな力となるのでしょうか?



【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1990年
深井雅海著『江戸城御庭番』中央公論社、1992年
歴史群像シリーズ41『徳川吉宗 八代米将軍の豪胆と治政』学習研究社、1995年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年

暴れん坊将軍は知りたがり将軍だった!?

2012年04月15日 | 日記
徳川8代将軍吉宗は、享保の改革を断行して危機に陥っていた財政を立て直し、幕府中興の祖と仰がれました。テレビの時代劇シリーズ「暴れん坊将軍」の主人公としても知られ、歴代将軍の中では初代家康と人気を2分する存在だといっていいでしょう。

彼は身長182センチ、当時としては並外れた巨漢で、15、6人がかりで運ばなければならない程の大猪を、鉄砲で殴り殺したというエピソードがある怪力の持ち主でした。
そんな肉体派のイメージが強い吉宗ですが、意外にも相当な学問好きでありました。
詩歌管弦や文学といった貴族的・遊芸的な教養には関心が薄かったものの、政治や殖産興業に役立つような実証的・実利的な学問には並々ならぬ関心を持っていました。

このような学問を実学といい、その範囲は法律・農政・天文・気象・地理・医学・薬学・蘭学などと多岐にわたります。吉宗はこうした実学関係の書物を納める自分専用の書庫を、江戸城本丸御殿の中奥に設け、それらの蔵書を暇さえあれば自分でも読み、側近く仕える近習たちにも勧めていました。

吉宗がプライベート書庫を作る前から、江戸城にはもともと家康の蔵書を基礎とした、将軍のための官立図書館ともいうべき紅葉山文庫がありました。その蔵書数は膨大で、元治元(1864)年から慶応2(1866)年に編纂された『元治増補御書籍目録』によると、約11万4,000点にも上ったそうです。歴代将軍の中でも、とりわけ図書の収集に熱心だった吉宗は、1代で蔵書数を倍増させました。

彼は青木昆陽らに古書・古文書を集めさせるとともに、長崎を通して入って来た漢籍の目録には必ず目を通し、政治向きのもの、地誌類などをたくさん買い求めました。
海外の先進知識の取り込みに積極的だった吉宗は、享保5(1720)年には、厳重だった漢訳洋書の輸入制限を緩和し、キリスト教の教義を説いたものを除き輸入を許可しています。
漢訳では飽き足らず、オリジナルを通してさらに最新知識を入手したかったのでしょう。
吉宗が元文5(1740)年に青木昆陽と幕府医官の野呂元丈に命じてオランダ語を学ばせたことは、4月1日の日記ですでに書きました。

吉宗は、古代や外国の法制研究にも力を注ぎました。
寛保2(1742)年に編纂された幕府の基本法典「公事方御定書」には、法律に詳しかった吉宗の意見が所々に反映されています。

また、社会秩序の維持には庶民教育が必要であると考え、幕府に仕える儒者の講義を民間に開放したり、享保7(1722)年には吉宗の侍講として重用された儒者の室鳩巣<むろきゅうそう>に命じ、寺子屋の教科書として『六諭衍義大意<りくゆえんぎたいい>』を刊行させました。これは中国、明の初代皇帝朱元璋による民衆教化のための6条の心得と、その意義について解説した本です。

それから地図好きだった吉宗は、紅葉山文庫に納められた正保・元禄の国絵図などの地図類や城図を取り寄せては、あかずに眺めていたといいます。そして江戸近郊に出る時には必ず地図を持って行き、行動の参考にしました。和算家の建部賢弘<たけべかたひろ>に命じて、日本総絵図を編集させたりもしています。


吉宗は天文・暦術にもたいへん興味を持っていて、和漢の書物はもちろん、オランダのものなども取り寄せて研究しました。

改暦にも手をつけています。
西洋天文学の優秀さを認めていた吉宗は、それに基づく暦の作成を目指したのです。
彼はすでに将軍の座を息子の家重に譲っていましたが、大御所として主導しました。
しかし残念なことに、事業半ばで吉宗が死去してしまったこともあって、宝暦5(1755)年から施行された宝暦暦は、それまで使われていた貞享暦をわずかに補正したものに終わってしまいました。

これはうまくいかなかった例ですが、彼の先端知識が世の中を救ったこともあります。
雨量調査に興味があった吉宗は、江戸城の庭に桶を据え付けて雨水のたまり具合を測定し、それを日記に毎日記録しました。
寛保2(1742)年に江戸時代最大といわれる大洪水が関甲信地方を襲ったのですが、吉宗は日記の記録からそれを予測し、事前に救済対策を立てておいたので、洪水と同時に御助船を出して被災民を救ったり、小屋を建てて食事を供するなど迅速に手を打つことができました。
新しく学んだことを単なる頭の中の知識だけで終わらせるのではなく、自分自身で実際に試し、その結果を現実に活かした見事なケースといえるでしょう。


これまで見てきたように吉宗は、TVドラマみたいに庶民を装って江戸市中に出没し、悪人を懲らしめたりこそしませんでしたが(当たり前か・・・)、時代の最先端をいく学問や技術をアクティブに取り入れる、知的好奇心とチャレンジ精神に溢れた、なかなか魅力的な人物だったようです。

宝暦元(1751)年に68歳で亡くなった吉宗は、上野の寛永寺(東京都台東区上野桜木)に葬られました。

徳川歴代将軍の霊廟(国指定重要文化財)は非公開のため、中へは入れません。でも、豪華な5代将軍綱吉の勅額門(上の写真)の奥に広がる墓域を囲む石垣の周りをめぐると、立派な宝塔がいくつか頭をのぞかせているのを垣間見ることができます(下の写真)。







【参考文献】
北島正元編『徳川将軍列伝』秋田書店、1989年
鈴木一義監修『見て楽しむ江戸のテクノロジー』数研出版、2006年
安藤優一郎著『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』日本放送出版協会、2007年
大石学編著『史上最強カラー図解 江戸時代のすべてがわかる本』ナツメ社、2009年

甘藷先生の7つの名前

2012年04月07日 | 日記
青木昆陽について調べるために人物辞典などを見ていると、同一人物なのにズラズラといくつもの異なった名前が載っていました。

まず、見出しになっている最も有名な「昆陽」ですが、これは号です。
次によく出てくるのが「文蔵」で、こちらは通称だそうです。
本人も気に入っていた「甘藷先生」は愛称、ニックネームといったところでしょうか。

それから諱<いみな>の「敦書<あつのり>」、幼名の「半五郎」、それに字<あざな>の「厚甫」と続きます。
ちなみに、諱の敦書を「あつぶみ」と読む研究者もおり、字についても「原甫」という説もあります。さらに付け加えるなら、ここまで載っているものは滅多にありませんが、戒名は「本立院道誉生安一誠」といいます。





昆陽神社の近くには、彼の名がついた地下道もあります(千葉市花見川区幕張町)


このように、昔の人はいくつもの名前を持っていました。
明治5(1872)年に政府が禁止するまで、少なくとも武士階級以上の男子は、みな複数名の保持者でした。

では、それぞれの名にどんな意味があり、どのように使われたのかを見てみましょう。

まず、諱とは「忌み名」であり、その人が亡くなった後の、生前の実名のことをこういいます。中国ではもともと実名を生前は「名」、死後は「諱」といいました。

生まれた時につけられた幼名は15、6歳ごろに元服すると棄てられて、代わりに実名と通称を持ちます。
かつてはみだりに他者が実名を呼んだり書いたりすると、その人に不吉なことが起こるとされていました。また、実名は持ち主の実体と同じであり、他人に知られれば、その相手の支配下に入ってしまうという考え方もありました。そうした事態を避けるためにつけられたのが通称です。仮名・俗名・呼名ともいいます。
そんなわけで、自分から名乗る時は実名、他人を呼ぶ時は通称と使い分けていました。

字は中国古来の習俗をマネしたもので、あちらでは日本の通称に当たります。わが国では主に文人や学者といったインテリが、通称とは別に名乗っていたようです。
さらに文人・学者・画家などが、よりハイセンスな別名として愛用していたのが号です。雅号ともいいます。

ちなみに、昆陽という号の由来は、生地が日比谷村の東南にあったため、日比谷村の「日比」を1字に合体させて「昆」とし、その南ということで「陽」を足した(中国山地の南側を山陽、北側を山陰というのと同じでしょうか?)とも、父半右衛門の出身地、摂津多田村昆陽野<こやの>から採ったともいわれます。

今回は調べきれませんでしたが、諱や通称、字などほかの名前にも、それぞれ昆陽の人となりや、こうありたいという願望など、さまざまなものがつまっているのでしょう。

名前の世界というのも、いやはや奥が深いですね!



【参考文献】
中村幸彦他編『角川古語大辞典 第1巻』角川書店、1982年
市古貞次監修『国書人名辞典 第1巻』岩波書店、1993年
渡辺三男著『苗字名前家紋の基礎知識』新人物往来社、1994年

甘藷先生のマルチな才能

2012年04月01日 | 日記
青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた人としてあまりにも有名ですが、本業は農学者でもなければ、薬などにするために草木や自然物を研究する本草学者でもありません。

彼の本来の専門は、儒学です。

元禄11(1698)年、江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区日本橋室町)の佃屋という魚問屋に生まれた昆陽(通称文蔵)は、子どもの頃から学問が好きで、享保4(1719)年、22歳の時に京都の堀川にある伊藤東涯の塾、古義堂に入門しました。そこでは実用に役立つ学問が重視されており、また朱子学や陽明学の注釈によらず、直接『論語』や『孟子』の原典に当たるため、語学的訓練にも力を入れていました。
東涯のもとで学んだことが、その後の昆陽の人生に大きく影響することになります。

江戸に戻った昆陽は、八丁堀の南町奉行与力加藤枝直<えなお>の給地内に地借して塾を開きます。加藤と親しくなったことで、昆陽の運命が開けます。国学者でもある加藤は、昆陽の学識・人物を見込んで享保18年、自分の上司に推挙しました。

その上司こそ、あの名奉行、大岡越前守忠相だったのです!

大岡に自分を売り込むために昆陽が提出したのが『蕃藷考』でした。
その前年にはイナゴの大量発生などによって享保の大飢饉が起こり、大量の餓死者が出ました。そんな時節柄、痩せた土地でも育ち、凶作の時にも収穫できる救荒作物としての蕃藷(甘藷、サツマイモ)に目をつけたあたり、まさに実用に重点を置く古義堂で学んだ成果といえるでしょう。また『蕃藷考』は、『農政全書』や『本草綱目』など中国の文献をもとに漢文で書かれたもので、これまた語学重視の古義堂教育の賜物です。

大岡はさっそく『蕃藷考』を、飢饉対策に頭を痛めていた将軍徳川吉宗に見せます。吉宗は享保20年、昆陽を薩摩芋御用掛に任命し、試作を行わせました。

試作地の1つは、先に紹介した江戸の小石川御薬園ですが、実は甘藷試作栽培の地は、そのほかにも2ヵ所あります。1つは下総国馬加<まくわり>村(千葉市花見川区幕張町)で、もう1つは上総国不動堂村(千葉県山武郡九十九里町不動堂)です。

ひろむしは、そのうちの幕張に行ってみました。

京成幕張駅の改札を出るとすぐ、右手にさほど大きくない社殿が2つ、並んで建っているのが見えます。左側が火の神である火之迦具土大神<ひのかぐつちのおおかみ>を祀る秋葉神社、右側が昆陽神社です。

そうです! ここでは昆陽は、伊毛<いも>神サマとして祀られているのです!!
昆陽による試作の後、馬加村ではサツマイモの栽培法が普及して、天明の大飢饉の際にも多数の人命が救われました。また、芋苗の栽培による利益で村が潤ったため村人はたいへん感謝し、昆陽の死後、その霊を祀ったのが始まりとされます。そして弘化3(1846)年、秋葉神社の境内に社殿が建立されました。

 昆陽神社の鳥居(幕張町4-803)
 秋葉神社(左)と昆陽神社(右)の社殿

神社と通りを挟んだ反対側、民家のたて込む中、四方をコンクリートの塀で囲まれた一角に、「昆陽先生甘藷試作之地」と彫られた石碑が立っています。そしてその裏側には、「享保二十年五月十二日栽培 大正八年五月建之」とあります。
同じ敷地内には、没後200年に当たる昭和45(1970)年に立てられた、こぢんまりとした「青木昆陽先生顕彰碑」も見えます。この地は同29年12月21日、県の史跡に指定されています。

 青木昆陽甘藷試作地(幕張町4-598-11)

昆陽は農業経験などないにもかかわらず、書物によって得た知識だけを頼りに、それまで関東地方では誰もやったことのなかったサツマイモの栽培に成功しました。
その功績を認められ、御書物御用御写物御用に登用されたのを皮切りに、書物の専門家としての道を歩んでいきます。甲斐・信濃・駿河・武蔵・相模・伊豆・遠江・三河など各地を巡り、旧記や古文書の探査も行いました。評定所儒者となって将軍拝謁を許され、最終的には御書物奉行にまで累進しています。

これだけでも十分エラいのですが、昆陽にはもう1つ、忘れてはならない業績があります。それは、蘭学のパイオニアとしての役割です。

昆陽は御目見医師の野呂元丈と共に吉宗からオランダ語を学ぶよう内旨を受け、元文5(1740)年からスタートしました。毎年春に行われるオランダ商館長一行の江戸参府滞在中に定宿の長崎屋を訪問し、通詞を介して文字や文の読み方、訳し方を学んだほか、オランダの文化や社会の諸問題に至るまで幅広く研究しました。その成果として『阿蘭陀文字大通辞答書』『和蘭<おらんだ>話訳』『和蘭文訳』『和蘭文字略考』『和蘭貨幣考』などを著しています。

昆陽の蘭学の弟子には、杉田玄白らと『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、安永3(1774)年に『解体新書』として刊行した前野良沢がいます。
このように昆陽は、後の蘭学興隆の礎を築いたのです。


昆陽の博学・健筆ぶりは並大抵のものではなく、『蕃藷考』やオランダ語関係の著書のほか、経済や貨幣に関する『経済纂要』『国家金銀銭譜』、さらには『草盧雑談』『昆陽漫録』『対客夜話』といったエッセイを書くというように、マルチな才能を発揮しました。

そんな彼が、亡くなる直前まで執筆していた本があります。
それは、やっぱりというか、さすがというか、サツマイモに関するものでした。

『蕃藷考補』というのが、その本のタイトルです。
彼が世に出るキッカケとなったあの『蕃藷考』を書いた後、さらに研究を重ねた成果をまとめたもので、サツマイモを生で食べる時の工夫や、飴や酒など加工品としての利用方法などについて細かく記されています。

これを書き終えた5ヵ月後の明和6(1769)年10月12日、昆陽は72歳でこの世を去りました。
命日は、昆陽神社の例祭日となっています。



【参考文献】
朝日新聞社編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
NHK取材班編『その時歴史が動いた 9』KTC中央出版、2001年
金子務著『江戸人物科学史』中央公論新社、2005年
安藤優一郎著『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』日本放送出版協会、2007年