ひろむしの知りたがり日記

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政彦と又蔵(4)─ 激突! 柔術 VS ボクシング

2015年06月29日 | 日記
大正8(1919)年春、木村又蔵は熊本市の歌舞伎座で催された柔拳興行を見物に出かけました。
柔拳興行とは、柔道や柔術とボクシングを戦わせる見世物です。

その日の熊本歌舞伎座は超満員で、初めて見る拳闘という西洋の格闘技に、われらが柔道(柔術)がいかに立ち向かうか、期待に胸を膨らませた観客が、試合開始を今か今かと待ちわびていました。

ところがいざ蓋を開けてみると、興行師が市内の道場をめぐって集めて来た柔道陣営の選手たちは、いずれもろくに組むこともできぬまま、ひらひら舞うように動くボクサーたちのパンチを喰らって、次々と倒されてしまいました。

次いで、興行は客席から腕に覚えのある参加者を募っての「飛び入り試合」に移りました。
まず名乗りを上げたのが、「鬼熊」の異名を持ち、過去に又蔵と市の力比べ大会で優勝を争い、惜しくも敗れたことのある元関取の大男でした。

鬼熊は顔面を血に染めながらも必死で粘ります。そして、今にも襲いかからんと身構える鬼熊に、ジョーというその白人ボクサーが後ろに下った時のことでした。
ここぞとばかり飛びかかった鬼熊の顎に、ジョーの強烈な一発が炸裂します。仰向けにのけ反って倒れた鬼熊は、審判が10カウントし終えても動くことができませんでした。
こうして鬼熊は、善戦むなしくKOされてしまったのです。

又蔵は、鬼熊を負かしたことから、「鬼熊食い」とも異称された男です。かつての好敵手の惨敗を目にして、もはや黙っていることができず、ジョーに戦いを挑みます。
しかし、他流試合は道場法度の筆頭事項です。師匠の矢野広次に知られることを恐れて、「井上大九郎」という変名を使っての出場でした。
ちなみに井上大九郎というのは、別所長治や羽柴秀長、加藤清正に仕えた織豊時代の武人の名です。

さて、又蔵とジョーの勝負です。ここで又蔵は、なかなかの頭脳プレイを見せます。
彼は仰向けに寝転がって、くの字に曲げて上げた足をジョーの方に向けたのです。ジョーは回り込んで頭部を攻撃しようとしましたが、又蔵は丸めた背中を軸にして先回りします。

この戦法、格闘技の歴史に詳しい人なら気がつくかもしれませんが、この時から57年後の昭和51(1976)年6月26日に行われた、プロレスラーのアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリとの試合で、猪木がアリに取った戦い方とよく似ています。

実はそればかりでなく、小説『姿三四郎』でも、三四郎がアメリカ人でスパアラ(ボクシングのこと。実戦形式で行う練習法をいう「スパーリング(sparring)」から来ているという人もいますが、真偽は不明です)の選手であるウイリアム・リスターとの試合で、やはりリング上に寝転がって戦っているのです。
これが、組討系の格闘技がボクシングを相手にするには、もっとも有効なやり方なのかもしれません。


『姿三四郎』中巻(新潮文庫版)。三四郎は古流柔術ばかりでなく、空手やボクシング、忍術とも戦う

話を試合に戻しましょう。
ジョーは又蔵にのしかかるようにして、足越しに腹を狙ってきました。そこで、又蔵はすかさずジョーの手首を捕らえ、巴投げを仕掛けます。
ジョーは長い足を活かして、ひらりと又蔵を跨いで反転し、再び腹を狙ってのしかかります。
そこで、また又蔵が巴投げ。もう1度ジョーが又蔵を跨ぐと、その虚を突いた又蔵が、頭を越えようとするジョーの片足を掴んだのです。つんのめって腹這いに倒れたジョーが慌てて立って振り向いたところに、跳ね起きた又蔵がその股間に潜り込みます。
そして、ぐいぐいと試合場の隅までジョーを押しやり、つい重心を浮かせた彼を、又蔵がここぞとばかりに肩へ担ぎ上げました。

悲劇は、その直後に起こります。
驚いたジョーは、思わず場外に置かれていた長椅子に取りついたのです。それと気づかぬ又蔵は、長椅子もろともジョーを真っ逆さまに投げ落としました。
先に降って来たのは長椅子の方でした。これには又蔵も、さぞビックリしたことでしょう。
続いて落下したジョーは、裏返しになった長椅子の脚で脾腹を強打し、悶絶してしまいます。

重傷を負ったジョーは、担架で運び出されました。予想外の惨事に又蔵は勝ち名乗りを上げることもできず、賞金20円だけをそそくさと渡されて、興行は異様な空気に包まれたまま幕切れとなりました。

「ここまでの話であれば、まだ期限付きの『稽古どめ』か、それに準ずる懲罰で済まされたかもしれない。」(木村武則著『柔道一本槍』)
ところが、事態は最悪の結果となります。
長椅子の脚に突かれて折れた肋骨が心臓を傷つけ、ジョーは収容先の病院で絶命してしまいました。
故意ではないとはいえ、死人が出る事態となっては、いくら又蔵が矢野広次の頼みの愛弟子であっても、心を鬼にして破門せざるをえませんでした。

こうして広次のもとを去った又蔵は、矢野道場の掟という唯一のタガが外れ、トラブルメーカーとしての本領を発揮することになります。
破門されてすぐ、又蔵はさらに新たなる問題を引き起こしてしまいました。

それが、増田俊成著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にただ一言「地元ヤクザとの揉め事」とだけサラッと書かれた事件なのです。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎』中巻 新潮社、1973年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年 

政彦と又蔵(3)─ 心優しき悪童、竹内三統流矢野道場へ

2015年06月21日 | 日記
木村又蔵は明治27(1894)年末、熊本県飽田<あきた>郡八分字<はふじ>村(現・熊本市)の農民木村惣五郎の2男として生まれました。弟子の木村政彦も幼い頃からわんぱく坊主でしたが、師の又蔵もまた、負けずに悪童ぶりを発揮しています。

小学3年生の時には森先生という担任の若い女性教師の袴の裾をまくり、驚いて跳びあがった彼女の板裏草履が当たって、眉間に一生痕が残るほどの傷を負いました。ただ、この時又蔵は森先生をかばい、傷はその場にいて彼の頭を素草履で蹴った青木という男性教師のせいだと言い張りました。幼いながらも、うら若き乙女に恥ずかしい思いをさせたという罪悪感があったでしょうし、彼女がわざとやったわけではないということもわかっていたのでしょう。それよりも、「この糞餓鬼が!」と言って脳天を蹴とばした青木先生に対する恨みの方が、勝っていたようです。

また、4年生の時には、7つ違いの姉キヨが肺を患います。キヨの容態は絶望的でしたが、心配する又蔵に医者が気休めに言った「魚ば食わせてやれば死なん」という言葉を信じ、授業中に大便がしたいと言って教室を抜け出して、小川に行って鯉や鮒を捕まえてはせっせとキヨのところに持って行ったのです。
そんなことが2日続き、3日目、不審に思った森先生が、
「そこでしなっせ」
と言うと、又蔵は本当にその場で大便をひねり出したのです!
小遣いさんの手も借りてなんとか始末しましたが、翌日、又蔵が「先生、糞」と声を上げると、すかさず許可がおりたことは言うまでもありません。

又蔵には、こうした悪ガキぶりを示すエピソードがいくつもありますが、最初の話では怪我をさせられた女性教師をかばったり、もう1つの話でも授業をサボった理由が病気の姉のためだったりと、又蔵が実は、心の優しい少年だったことが窺い知れます。

明治44(1911)年、16歳になった又蔵は、村の相撲大会に出場しました。彼はかつて騎兵連隊の相撲大会で優勝したことのある坂井という馬喰<ばくろう>(馬を売買、周旋する人)に日頃から相撲を習っており、今では坂井を負かすほどの腕前になっていました。そして、自分より一回りも身体が大きく屈強な男たちを相手に、5人抜きをして優勝したのです。内掛け、外掛け、足払いなど、見事な技を次々と繰り出す又蔵の取り口を見た駐在さんが、
「おまえのは相撲というより、どちらかといえば柔術に近か。おまえに習う気があれば、わしが習うた矢野先生が、ちょうど内弟子ば探しておられるけん、仲介してやるぞ」
と声をかけてきました。その誘いに乗った又蔵は、竹内三統流の矢野権之助広次に入門したのです。

竹内三統流は、享禄5(1532)年に美作(現・岡山県北部)の人、竹内中務大輔久盛が開いた竹内流から派生したものです。源流である竹内流は、創立以来の伝承系統が明らかなものとしては、日本柔術史上最古の由緒ある流派です。江戸時代には日本全土に広まり、各地に分派分流が生まれました。
天保年間(1830~1844)に矢野彦左衛門広英が、熊本に伝承される2系統(2代竹内常陸介久勝の弟子小林善右衛門勝元と、3代竹内加賀介久吉から伝を受けた荒木無人斎秀縄に連なる流系)と、作州の本家で学んだ竹内流を整理再編して創始しました。

又蔵が師事した矢野広次は、竹内三統流3代目の継承者です。2代矢野司馬太広則の養嗣子となりました。若い頃には相当な負けず嫌いだったようで、次のようなエピソードが残されています。

明治14(1881)年春、広次は良移心当流の中村半助(小説『姿三四郎』で、古流柔術を代表して三四郎と戦った好敵手にして、三四郎を恋い慕うヒロイン乙美の父でもある村井半助のモデル)と試合をします。善戦むなしく上四方固で押さえ込まれてしまった広次は、なんと中村の胸の下から噛みついて放さず、同門の佐村正明が口の中に鉄の火箸を突っ込み、歯を叩き折って口を開かせてようやく引き離しました。

そんな広次も、又蔵が入門した時にはすでに70代半ばでした。高齢に至ってもなお稽古着を身につけ、自ら門人を指導しましたが、若い頃の血気盛んな姿はすでになく、温厚篤実な君子となっていました。

             
加来耕三編『日本武術・武道大事典』。「竹内三統流」の項には矢野広次や木村又蔵の人物伝も掲載

ここで1つ、訂正をしておかなければなりません。
前回、又蔵は竹内三統流と、上京して自ら学んだ講道館柔道をミックスして教えていたのではないかと書きました。もちろん、そのような側面はあったでしょうが、彼が柔術を習い始めた頃には、すでにそうしたことは古流の間で行われていたようです。

嘉納治五郎が、第五高等中学校の校長として熊本に赴任して来たのは明治24年9月のことでした。
彼は校長官舎の物置や生徒控室に畳を入れて道場とし、柔道の指導を始めます。そして翌年9月には、熊本講道館を起こしました。
嘉納に招かれて、五高で英語と英文学を教えた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、嘉納の柔道理論に共感し、『柔術』という論文を執筆しています。
翌明治26年2月、嘉納は文部省図書課長となって帰京し、当時五高の教授で講道館4段だった有馬純臣<すみおみ>が後事を託されました。

そうした経緯もあって、熊本には早くから講道館柔道が普及し、同地で力のあった竹内三統流、扱心流、四天流などの柔術道場も、日常の稽古に柔道を採り入れるようになりました。

柔道の立ち技の大内刈りや小外刈りが、又蔵が相撲で得意としていた内掛け、外掛けとあまり変わらなかったので、大いに又蔵の上達を助けたといいます(『柔道一本槍』)。

嘉納治五郎像(講道館。東京都文京区)

又蔵は入門して3年後には早くも中極意に進み、やがて師範代を任されるまでになりました。そして大正7(1918)年10月には、ついに同流小具足1巻を授けられます。時に又蔵、23歳のことでした。

しかし、子どもの頃から折り紙付きのトラブルメーカーだった又蔵です。
時折現れる武者修行まがいの流れ者と立ち合っては、竹内三統流の威力を見せつけて追い払ったりしてはいましたが、その程度の刺激に満足して、いつまでもおとなしくしていられる男ではありません。
彼は大事件を引き起こして矢野道場を破門になり、さらにほかの事情も加わって、逃げ出すように郷里を去ることになります。

又蔵は他流試合禁止の掟を破ってボクシングとの異種格闘技戦に挑み、しかもその勝負は、思いもよらぬ無残な結果に終わったのです。


【参考文献】
石橋和男著『良移心頭流 中村半助手帖』石橋大和、1980年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
松田隆智著『復刻版 秘伝 日本柔術』壮神社、2000年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年

政彦と又蔵(2)─ 入門初日に絞め落とされた“鬼の木村”

2015年06月10日 | 日記
その日、小学校4年生の木村政彦は、同級生の波平という少年と一緒に昭道館へ入門しました。
月謝と入門料を片手で受け取りながら、道場主の木村又蔵は政彦に、「お前のお父さんは、酒を呑むか?」と尋ねます。
「好きです」と答えると、「それなら、焼酎を1升持って来い」と言うのです。おかしな先生もあるものだと思いましたが、そんなのはほんの序の口でした。

彼らが入門帳に名前を書いていると、又蔵はいきなり「活法を教えよう」と言い出しました。
そして、10人ほどいた門弟たちの前で、政彦に「寝ろ」と言うのです。彼が仰向けになると、又蔵はやおら馬乗りになり、両手を交叉させて十字絞めでぐいぐい絞め始めました。
政彦は苦しくてしようがありません。しかし、ひっかこうにも、噛みつこうにも力がなくなって、ついに絞め落とされてしまいました。
次に波平も、同じく又蔵の餌食となります。2人は活を入れてもらってどうにか蘇生することができましたが、その後が悲惨でした。

「木村先生の活法がものすごく苦しく、痛かったのは、頸動脈を締めずに、気管を締めたからだった。そのため、私たちは数日間首に湿布をしなければならなかった。そして、飯もノドを通らず、しばらくおカユをすすっていた。」(木村政彦著『鬼の柔道』)

こう書いてくると、又蔵は十字絞めのやり方をちゃんと知らなかったように思われますが、意外なことに彼は、後に16歳になった息子の武則に教える時に、理路整然と次のように説明しています。

「〈十字絞め〉で決むるには、十字に交差させた腕ば出来る限り深う差して、相手の奥衿ば掴まんといかん。差し手の深ければ深かだけ、頸動脈の腕に挟まり、脳の血流ば断たるるけん決まる。ばってん衿の取り方の浅かと、頸動脈に圧迫の効かんで、どぎゃん馬鹿力で絞めても決まらん」(木村武則著『柔道一本槍』)

しっかりと理屈はわかっているのに、なぜ又蔵は政彦たちに間違った絞め方をしたのでしょうか?
それについて武則は、こう父を擁護しています。

「政彦少年が入門に来たとき、又蔵は〈十字絞め〉の説明中ででもあったのか、これ幸いと政彦少年を寝かせて、〈十字絞め〉では持ち手が浅ければ、こんな子供にも絞まらない、という悪い手本を見せたらしい」(前掲書)

ちょっと言い訳がましい気がしないでもありません。
ただ又蔵は、かつて皇宮警察柔道部の主将をしていた時に、気に入らない相手をいじめるため、わざと腕を交叉させないで絞めて、気持ちよく落ちることもさせずに苦しめた前科があるので、まんざら嘘ではないかもしれません。

このように、政彦の柔道初体験は散々なものでしたが、いつか田川先生をあのように絞め落としてやろうとかえって闘志がわいたのか、めげることなく稽古にのめり込んでいきます。

昭道館道場の広さは12、3畳(木村政彦著『わが柔道』。『柔道一本槍』によれば21畳)。古材木を集めて建てられた粗末なもので、強く板壁にぶつかると、そこだけが破れてしまいました。
この狭い道場で4、5組が練習するので、尻と尻がぶつかったり、横で投げたり投げられたりする他の組の足がとんできたりしました。

それでも政彦は、毎日の練習が楽しくてたまらず、夕方6時になると、いそいそと家を出て道場に向かいます。又蔵は副業でやっていた接骨の合間をみては、大外刈り、一本背負い、体落としなどの技を教えてくれました。
ですが、後から思えば、それらはどうにも嘘ばかりの技で、突拍子もないものだったと政彦は述懐しています(『わが柔道』)。それでも当時の政彦は、又蔵の教えを信じて、真剣に練習を続けました。

木村政彦の自伝『わが柔道』(学研М文庫版)

政彦は又蔵先生のことを、次のように語っています。
「先生は当時34、5歳であったが、この木村又蔵流というのは、組むより早く投げるという柔道だった。先生の得意技は大外刈で、それも力でねじふせるような大外刈であった。柔道にあらず剛道である。
私は入門当時いっぺん投げられたが、それからは2度と投げられたことはなかった。この先生の柔道は、いわゆるごまかしの柔道だった。あっちに技をかけるとみせて、こっちにかけるという柔道で、手の内がわかるともうかからないのである。当時は、そんな柔道家がたくさんいた」(『鬼の柔道』)

前回も触れたように、政彦が入門したのは古流柔術である竹内三統流の道場です。『柔道一本槍』に掲載された昭道館の写真(109ページ)を見ても、看板に「竹内三統流」とはっきり書かれています。
にもかかわらず、政彦は自伝の中で昭道館において学んだものを、一貫して「柔道」と表記しています。これは、やはり前回書いたように講道館柔道がもともとは柔術の1流派と見なされていたように、古流柔術も柔道も、一般にはほぼ同類のものと考えられていたことと、後述しますが、又蔵は上京して講道館に入門し、政彦が入門した頃には3段を取っていたことから、昭道館では竹内三統流と講道館柔道をミックスしたような形で教えていたのではないかということが考えられます。

入門してから2ヵ月ばかり経った頃、政彦は足の裏にマメができて歩けなくなりました。医者に行くと、化膿していたため、すぐに切開手術が行われました。
その足で道場に行って稽古すると、歩くたびに畳が血で染まり、又蔵に「どうした?」と尋ねられました。
事情を説明すると、「それはたいへんだ、足を1本切り落とさなければならない」とおどされます。
それでも完治するまで、とうとう1日も休まずに道場へ通いとおしました。
1日休めば1日、田川先生を投げる日が遅れると本気で思っていたからです。とても小学生とは思えぬ執念深さです。

自伝を読むと、政彦はあまり又蔵先生のことを高く評価していなかったようですが、又蔵の方は、政彦の将来を大いに期待していたようです。指導次第では日本一の柔道家になれると見ていました。
土曜日の夕方と日曜や祭日、夏休みなどの長期休暇に、父親の手助けに励んで砂利採りをする健気な政彦少年の姿を、又蔵は川岸から5歳の武則に見せて、こう語っています。

「武則、あの政彦ばしっかり見とけ。どぎゃん学問より親孝行が大事ぞ。きっと政彦は偉うなる。武則も早よう太なって柔道に励めよ。そるが一番の親孝行ぞ。わかったか」(『柔道一本槍』)

ちなみに又蔵と政彦は、2人で組んで武則に、とんでもないスパルタ教育を施したことがありました。
武則が小学1年生の時、加瀬川で溺れ、町の若衆に引き上げられるという事件が起きます。武則を逆さ吊りにして蘇生させた又蔵は、次の日曜日、政彦が働いている砂利採取場にやって来ました。そしてなんと、川上から流す息子を網で掬ってくれるよう政彦に頼んだのです。

こんな依頼をする師匠も師匠ですが、弟子も弟子です。政彦は快く引き受け、30メートルほど上流から浮きつ沈みつ流れてくる武則を、漏らさず網で掬い上げました。
これを3回繰り返した又蔵は、水の飲み過ぎで顔色蒼ざめ、泣くことさえできずに震えている息子を背負って、礼を言いながら帰って行きました。
そして次の日曜もその次も、武則が泳ぎを覚えるまで毎週続けたといいます。その甲斐あって、武則は泳ぎ達者になりました。

木村又蔵の長男武則が書いた伝記『柔道一本槍』

政彦が小学校5年生になった秋、6キロばかり離れたところにある中山道場と昭道館の対抗試合が行なわれ、彼が先鋒をつとめることになりました。
試合はなかなかの盛況ぶりで、会場は満席の観衆で溢れていたといいます。

政彦の対戦相手は、彼よりも体が大きな中学2年生で、体落としをかけても大外刈りをかけてもビクともしません。ヨシッとばかり大内刈りをかけると逆に仰向けにひっくり返され、頭にカーッと血が上っているうちに上四方固めで抑えられ、敗れてしまいました。

頭を下げ、逃げるようにして退場した政彦ですが、そこはまだ子ども。出場記念として饅頭と鉛筆を貰うと恥ずかしさもけろりと忘れ、喜び勇んで我が家に帰りました。
初めての試合は、こうして負けたとはいえ、政彦の懐かしい思い出となりました。

又蔵が政彦を先鋒で出したのは、ほかに選手がいなかったわけではなく、1年でも早く試合度胸を付けさせるためでした。そんな師匠の思い入れの深さとは裏腹に、あまり又蔵を尊敬していなかった政彦は、3年ほどで昭道館を去ります。

ただ、誇張や虚構の多い政彦の自伝を読めばわかるように、必ずしも事実を正確に語っているとは限らない彼の又蔵評を、そのまま鵜呑みにするのは間違いです。
事実、その半生をたどってみると、木村又蔵が只者ではないことが、よくわかります。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年

政彦と又蔵(1)─ “鬼の木村”柔との出合い

2015年06月01日 | 日記
“鬼の木村”と呼ばれ、『姿三四郎』の著者、富田常雄をして「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言わしめた天才柔道家木村政彦。
昭和12(1937)年から14年にかけて全日本柔道選士権3連覇、太平洋戦争をはさんで昭和24年には全日本柔道選手権を制するという偉業を成し遂げ、無敗のままプロ柔道参戦のためにアマ引退後も、ブラジルでグレイシー柔術のエリオ・グレイシーを破り、さらにプロレスに転向して力道山と血みどろの死闘を演じるなど激動の格闘人生を歩んだ彼は、大正6(1917)年9月10日、熊本県飽託郡川尻町(現在は熊本市に編入)の砂利採り人夫、泰蔵の3男として生まれました。

極貧だった家計を助けるために、政彦は幼い頃から父の手伝いをしていました。半月型の金網に斜めに棒を通した「タボ」という道具で川底から砂利や砂をすくい上げ、砂を振るい落として砂利だけを舟に積み上げる砂利採りの作業で鍛えた強靭な足腰と腕力で(これは、のちに柔道をやるようになった時にも、たいへん役立ちます)、相撲をとっても喧嘩をしても、誰にも負けませんでした。

川尻尋常小学校4年生の時には、同級生が上級生に殴られたといって泣きついてきたので、その敵討ちに出かけました。6年生4、5人を相手に大立ち回りを演じ、たちまちのうちに全員を泣かせてしまいます。

また同じ4年生の時のことです。学校をあげての大掃除の最中、担任の田川先生が席をはずしている隙に、政彦は学校を抜け出して近くにあった饅頭屋に飛び込んで、4つ5つ腹に詰め込んで戻って来ました。
ひょいと見ると、同級生たちが掛け声をかけながら教壇を移動しています。大掃除の時には、教壇を持ち上げて部屋中を徹底的に拭き掃除するのです。政彦は走りざま、教壇の上に飛び乗りました。
駕籠に乗っているみたいですっかりいい気持ちになった政彦は、バンザイ、バンザイと跳び上がって喜びました。その時、彼の後衿を強くつかんで引き戻す者がありました。振り向くと、そこにはいないはずの田川先生が、世にも恐ろしい形相で政彦をにらんでいたのです。

「このバカ面が!」
怒声とともにビンタが飛んできました。つづいて、床に投げつけられます。倒れると引きずり起こされてまた殴られ、何度も何度も繰り返し殴られ、投げられました。
腕には自信のある政彦でしたが、やり返そうと向かっていってもまったく歯が立ちません。
散々に叩きのめされたあと職員室で説教、廊下に立たされて、政彦はすっかりしょげかえって家に帰ったのです。級友たちの前で恥をかかされ、ガキ大将だった彼のプライドはずたずたになりました。

               
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政彦は田川先生に対する復讐の念に燃えます。
どう考えてみても、あれだけ殴られ、投げられたことが悔しくてなりません。1週間ほど考え込み、調べもしました。そして、田川先生が師範学校時代に柔道をやり、初段(自伝『わが柔道』にはこうありますが、もう1つの自伝『鬼の柔道』では1級と書かれています)の腕前だということを知ったのです。

「柔道とはそんなに恐しいものか、よし、それなら俺も柔道をやろう、先生が初段なら、俺が二段になれば投げ返すことができるだろう・・・・・・」(『わが柔道』)

以来政彦は、あちこちの道場を研究して歩きました。当時、熊本市内には扱心流<きゅうしんりゅう>江口道場、竹内三統<たけのうちさんとう>流矢野道場、四天<してん>流星野道場という、有名な古流柔術の3流派がありました。
かつて肥後藩は、この3家を300石から400石で召し抱え、藩士を鍛え上げていた武道王国でした。政彦の少年時代にはまだ、これらの柔術の道場があったのです。
しかし、政彦の家から通うにはどこも遠過ぎたので、小学校正門の脇にあった木村又蔵がやっている昭道館<しょうどうかん>という竹内三統流の道場に目をつけます。

柔道をやっていた先生を倒すのに、古流柔術を習うとはと、奇異に感じる人もいるかもしれませんが、講道館柔道も当初は嘉納流柔術とか、講道館流柔術と呼ばれたように柔術諸流の1つと見なされていましたから、当時としてはそんなに違和感はなかったのでしょう。

政彦は毎日、道場の武者窓から中をのぞいていました。どんな様子か、先生は強そうかと品定めをしていたのです。
ある日、そんな政彦に又蔵は、「おい、そこの小学生、ちょっと中に入って来い」と声をかけました。政彦が道場へ入って行くと、
「柔術をやりたいのか。もし入門したいのだったら、今日からでもよいぞ」
と言いました。それに対して政彦は、
「今日はのぞきに来ただけで、母がまだ許してくれないんです」
と答えました。母ミキが許さなかったのは、柔術は危険なもので、腕を折ったり、足をくじいたりすると聞いていたからです。
政彦は困惑しましたが、やがて入門に賛成していた父の口ぞえもあって、頑強に反対していた母も、ついに折れます。

勇躍して昭道館の門をくぐった政彦少年ですが、母の心配は的中し、入門早々、彼はとんでもない洗礼を受けることになるのです。


【参考文献】
木村政彦著『鬼の柔道』講談社、1969年
木村政彦著『わが柔道』ベースボール・マガジン社、1985年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年