前回の日記で、江戸時代には四谷から新宿にかけての地下に、縦横無尽に坑道が掘られていたという話を書きましたが、その入り口の1つが、JR山手線の新大久保駅から歩いて1分ほどの所に建つ小さな神社にありました。
皆中<かいちゅう>稲荷神社(東京都新宿区百人町1-11-16)です。
空襲で本殿が焼け落ちた時に発見された穴は縦長の楕円形で、人間が立っても頭の上に十分なスペースが空き、両手を広げても大丈夫なくらいの幅がありました。天井は、粘土で丁寧に打ち固められていました。
この穴は、万が一江戸城が攻められるような事態に陥った時に、鉄砲百人組が秘密の抜け穴として使うためのものだったと考えられています。
鉄砲百人組とは幕府が設けた鉄砲隊で、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組は同心100人ずつで編成されていました。城門の警護や将軍他出の際の護衛が任務でしたが、敵が甲州街道を攻め上って来た時には、その進撃を食い止める役割も担っていました。皆中稲荷神社があるあたりにはその組屋敷があり、「百人町」という町名はそこから来ています。
組屋敷といっても1軒の建物を指すのではなく、同心や与力の住居のほか、大筒や鉄砲の射撃場も含めて20万坪近い面積がありました。その広大な敷地内では、同心たちの副業としてツツジも栽培され、土地の名物となりました。
組屋敷は言うなればそれ自体がちょっとした町のようなもので、中には食料をはじめ生活必需品を商う店もあり、長期間籠城することが可能でした。細長い敷地に道幅狭く作られているので守るに安く攻めるに難いため、江戸城を守る防衛拠点の1つとなります。
抜け穴を通って武器弾薬などを運び込み、いよいよ危ないとなれば、そこから脱出するというわけです。
入り口がある皆中稲荷神社も、当然、この組屋敷の中にありました。訪ねてみると、確かにうなぎの寝床のような狭く細長い境内が印象的でした。
皆中稲荷神社本殿。この下に抜け穴の入り口があったといいます
ちなみに皆中稲荷神社はパワースポットとして、現在でも参拝者が絶えません。
ここはなんと、宝くじはもちろん競馬、競輪などあらゆる勝負事にご利益があり、狙ったものは「みな当たる」(「中」は「あたる」とも読みますよね!)と、ギャンブル好きに人気の神社なのです。
創建は戦国時代の天文2(1533)年ですが、なんでも当たる神社として信仰されるようになったのは、江戸時代に入った寛永年間(1624-44)に鉄砲隊の隊士の身に起こった奇跡体験によります。
その隊士は、朝早くから夕方遅くまで何日も練習を続けたにもかかわらず、一向に射撃の腕が上がりませんでした。そんなある夜、夢枕に老人とも若者とも見える者が立ち、「組屋敷の近くにお宮があるが、参拝する者も奉納される物もないので寂しい」と語りました。
隊士はそのお宮を探し回り、ようやく人気のない林の中に朽ち果てた社殿を見つけました。そして、そこから現れた狐が置いていった板や小石を持って射撃場に行き鉄砲を打つと、なんと弾は百発百中、どんな姿勢でも当たるようになりました。
それからというもの、お礼に朝夕お宮に頭を下げていると、願い事はかない、病や傷は癒え、悩みも解消するといいことずくめでした。
やがて他の隊士たちもその霊験に気づき、社を林の中から組屋敷の中地に移しました。この噂が近郷近在に広まり、多くの人々がお参りをするようになったといいます。
ちなみに、毎年9月26・27日には皆中稲荷神社の例大祭が行われますが、隔年に前後の土曜か日曜に「鉄炮組百人隊行列」が行われます。江戸時代に鉄砲百人組が神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもので、その中で古銃の一斉射撃が実演され、往時の勇姿を偲ぶことができます。
百人隊行列は平成14(2002)年2月1日、新宿区無形民俗文化財に登録されました。
百発百中、みな当たるのはギャンブルばかりではありません。
同じ勝負事なら任せなさいと、スポーツなどで勝利を得る必勝祈願、商売が当たる商売繁盛、志望校に百発百中で受かる合格祈願、意中の人のハートを射止める恋愛成就と、その御利益はオールマイティーです。
それを証明するかのように、境内に架けられた絵馬には、国体のクレー射撃競技の部に出場できますようにといったこの神社本来のご利益にのっとったものや国家試験などの合格を願うきわめて真当なものから、よい結婚相手にめぐり会えますようにとか、果ては嵐やAKBのライブチケット当選を祈るものまで、ありとあらゆる願いが書き込まれています。
かなえたい望みのある方は、ぜひ1度、試しに参拝されてみてはいかがでしょうか?
【参考文献】
別冊宝島 シリーズ「歴史の新発見」『徳川将軍家の謎』宝島社、1994年
小山和著『江戸古社70』NTT出版、1998年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
戸部民夫著『ツキを呼ぶ「神社・仏閣」徹底ガイド』PHP研究所、2008年
皆中<かいちゅう>稲荷神社(東京都新宿区百人町1-11-16)です。
空襲で本殿が焼け落ちた時に発見された穴は縦長の楕円形で、人間が立っても頭の上に十分なスペースが空き、両手を広げても大丈夫なくらいの幅がありました。天井は、粘土で丁寧に打ち固められていました。
この穴は、万が一江戸城が攻められるような事態に陥った時に、鉄砲百人組が秘密の抜け穴として使うためのものだったと考えられています。
鉄砲百人組とは幕府が設けた鉄砲隊で、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組は同心100人ずつで編成されていました。城門の警護や将軍他出の際の護衛が任務でしたが、敵が甲州街道を攻め上って来た時には、その進撃を食い止める役割も担っていました。皆中稲荷神社があるあたりにはその組屋敷があり、「百人町」という町名はそこから来ています。
組屋敷といっても1軒の建物を指すのではなく、同心や与力の住居のほか、大筒や鉄砲の射撃場も含めて20万坪近い面積がありました。その広大な敷地内では、同心たちの副業としてツツジも栽培され、土地の名物となりました。
組屋敷は言うなればそれ自体がちょっとした町のようなもので、中には食料をはじめ生活必需品を商う店もあり、長期間籠城することが可能でした。細長い敷地に道幅狭く作られているので守るに安く攻めるに難いため、江戸城を守る防衛拠点の1つとなります。
抜け穴を通って武器弾薬などを運び込み、いよいよ危ないとなれば、そこから脱出するというわけです。
入り口がある皆中稲荷神社も、当然、この組屋敷の中にありました。訪ねてみると、確かにうなぎの寝床のような狭く細長い境内が印象的でした。
皆中稲荷神社本殿。この下に抜け穴の入り口があったといいます
ちなみに皆中稲荷神社はパワースポットとして、現在でも参拝者が絶えません。
ここはなんと、宝くじはもちろん競馬、競輪などあらゆる勝負事にご利益があり、狙ったものは「みな当たる」(「中」は「あたる」とも読みますよね!)と、ギャンブル好きに人気の神社なのです。
創建は戦国時代の天文2(1533)年ですが、なんでも当たる神社として信仰されるようになったのは、江戸時代に入った寛永年間(1624-44)に鉄砲隊の隊士の身に起こった奇跡体験によります。
その隊士は、朝早くから夕方遅くまで何日も練習を続けたにもかかわらず、一向に射撃の腕が上がりませんでした。そんなある夜、夢枕に老人とも若者とも見える者が立ち、「組屋敷の近くにお宮があるが、参拝する者も奉納される物もないので寂しい」と語りました。
隊士はそのお宮を探し回り、ようやく人気のない林の中に朽ち果てた社殿を見つけました。そして、そこから現れた狐が置いていった板や小石を持って射撃場に行き鉄砲を打つと、なんと弾は百発百中、どんな姿勢でも当たるようになりました。
それからというもの、お礼に朝夕お宮に頭を下げていると、願い事はかない、病や傷は癒え、悩みも解消するといいことずくめでした。
やがて他の隊士たちもその霊験に気づき、社を林の中から組屋敷の中地に移しました。この噂が近郷近在に広まり、多くの人々がお参りをするようになったといいます。
ちなみに、毎年9月26・27日には皆中稲荷神社の例大祭が行われますが、隔年に前後の土曜か日曜に「鉄炮組百人隊行列」が行われます。江戸時代に鉄砲百人組が神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもので、その中で古銃の一斉射撃が実演され、往時の勇姿を偲ぶことができます。
百人隊行列は平成14(2002)年2月1日、新宿区無形民俗文化財に登録されました。
百発百中、みな当たるのはギャンブルばかりではありません。
同じ勝負事なら任せなさいと、スポーツなどで勝利を得る必勝祈願、商売が当たる商売繁盛、志望校に百発百中で受かる合格祈願、意中の人のハートを射止める恋愛成就と、その御利益はオールマイティーです。
それを証明するかのように、境内に架けられた絵馬には、国体のクレー射撃競技の部に出場できますようにといったこの神社本来のご利益にのっとったものや国家試験などの合格を願うきわめて真当なものから、よい結婚相手にめぐり会えますようにとか、果ては嵐やAKBのライブチケット当選を祈るものまで、ありとあらゆる願いが書き込まれています。
かなえたい望みのある方は、ぜひ1度、試しに参拝されてみてはいかがでしょうか?
【参考文献】
別冊宝島 シリーズ「歴史の新発見」『徳川将軍家の謎』宝島社、1994年
小山和著『江戸古社70』NTT出版、1998年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
戸部民夫著『ツキを呼ぶ「神社・仏閣」徹底ガイド』PHP研究所、2008年