ひろむしの知りたがり日記

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宝くじから国家試験まで、どんな的でも百発百中─皆中稲荷神社のご利益

2012年05月20日 | 日記
前回の日記で、江戸時代には四谷から新宿にかけての地下に、縦横無尽に坑道が掘られていたという話を書きましたが、その入り口の1つが、JR山手線の新大久保駅から歩いて1分ほどの所に建つ小さな神社にありました。
皆中<かいちゅう>稲荷神社(東京都新宿区百人町1-11-16)です。

空襲で本殿が焼け落ちた時に発見された穴は縦長の楕円形で、人間が立っても頭の上に十分なスペースが空き、両手を広げても大丈夫なくらいの幅がありました。天井は、粘土で丁寧に打ち固められていました。
この穴は、万が一江戸城が攻められるような事態に陥った時に、鉄砲百人組が秘密の抜け穴として使うためのものだったと考えられています。

鉄砲百人組とは幕府が設けた鉄砲隊で、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の4組があり、各組は同心100人ずつで編成されていました。城門の警護や将軍他出の際の護衛が任務でしたが、敵が甲州街道を攻め上って来た時には、その進撃を食い止める役割も担っていました。皆中稲荷神社があるあたりにはその組屋敷があり、「百人町」という町名はそこから来ています。

組屋敷といっても1軒の建物を指すのではなく、同心や与力の住居のほか、大筒や鉄砲の射撃場も含めて20万坪近い面積がありました。その広大な敷地内では、同心たちの副業としてツツジも栽培され、土地の名物となりました。
組屋敷は言うなればそれ自体がちょっとした町のようなもので、中には食料をはじめ生活必需品を商う店もあり、長期間籠城することが可能でした。細長い敷地に道幅狭く作られているので守るに安く攻めるに難いため、江戸城を守る防衛拠点の1つとなります。
抜け穴を通って武器弾薬などを運び込み、いよいよ危ないとなれば、そこから脱出するというわけです。
入り口がある皆中稲荷神社も、当然、この組屋敷の中にありました。訪ねてみると、確かにうなぎの寝床のような狭く細長い境内が印象的でした。


皆中稲荷神社本殿。この下に抜け穴の入り口があったといいます

ちなみに皆中稲荷神社はパワースポットとして、現在でも参拝者が絶えません。

ここはなんと、宝くじはもちろん競馬、競輪などあらゆる勝負事にご利益があり、狙ったものは「みな当たる」(「中」は「あたる」とも読みますよね!)と、ギャンブル好きに人気の神社なのです。

創建は戦国時代の天文2(1533)年ですが、なんでも当たる神社として信仰されるようになったのは、江戸時代に入った寛永年間(1624-44)に鉄砲隊の隊士の身に起こった奇跡体験によります。

その隊士は、朝早くから夕方遅くまで何日も練習を続けたにもかかわらず、一向に射撃の腕が上がりませんでした。そんなある夜、夢枕に老人とも若者とも見える者が立ち、「組屋敷の近くにお宮があるが、参拝する者も奉納される物もないので寂しい」と語りました。
隊士はそのお宮を探し回り、ようやく人気のない林の中に朽ち果てた社殿を見つけました。そして、そこから現れた狐が置いていった板や小石を持って射撃場に行き鉄砲を打つと、なんと弾は百発百中、どんな姿勢でも当たるようになりました。
それからというもの、お礼に朝夕お宮に頭を下げていると、願い事はかない、病や傷は癒え、悩みも解消するといいことずくめでした。
やがて他の隊士たちもその霊験に気づき、社を林の中から組屋敷の中地に移しました。この噂が近郷近在に広まり、多くの人々がお参りをするようになったといいます。

ちなみに、毎年9月26・27日には皆中稲荷神社の例大祭が行われますが、隔年に前後の土曜か日曜に「鉄炮組百人隊行列」が行われます。江戸時代に鉄砲百人組が神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもので、その中で古銃の一斉射撃が実演され、往時の勇姿を偲ぶことができます。
百人隊行列は平成14(2002)年2月1日、新宿区無形民俗文化財に登録されました。


百発百中、みな当たるのはギャンブルばかりではありません。

同じ勝負事なら任せなさいと、スポーツなどで勝利を得る必勝祈願、商売が当たる商売繁盛、志望校に百発百中で受かる合格祈願、意中の人のハートを射止める恋愛成就と、その御利益はオールマイティーです。

それを証明するかのように、境内に架けられた絵馬には、国体のクレー射撃競技の部に出場できますようにといったこの神社本来のご利益にのっとったものや国家試験などの合格を願うきわめて真当なものから、よい結婚相手にめぐり会えますようにとか、果ては嵐やAKBのライブチケット当選を祈るものまで、ありとあらゆる願いが書き込まれています。

かなえたい望みのある方は、ぜひ1度、試しに参拝されてみてはいかがでしょうか?



【参考文献】
別冊宝島 シリーズ「歴史の新発見」『徳川将軍家の謎』宝島社、1994年
小山和著『江戸古社70』NTT出版、1998年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
戸部民夫著『ツキを呼ぶ「神社・仏閣」徹底ガイド』PHP研究所、2008年

伊賀組同心ストライキ決行! 服部半蔵家の落日

2012年05月13日 | 日記
徳川家康の艱難辛苦に満ちた生涯を表から裏から支え続けた服部半蔵正成は、関ヶ原の合戦を4年後に控えた慶長元(1596)年、55歳でこの世を去りました。

正成亡き後、嫡男の正就<まさなり>が半蔵の名と、父の遺領8,000石のうち5,000石、それに与力7騎、伊賀組同心200人を受け継ぎました。
ところが苦労人の父と違って、生まれながらの大身旗本であった正就はわがままで粗暴でした。家康の異父弟で伊勢桑名(三重県桑名市)11万石の城主だった松平(久松)定勝<さだかつ>の娘、つまり家康の姪を妻に迎えたことも、彼をいっそう増長させたのかもしれません。

正就は自分の屋敷の普請をするのに、伊賀組同心たちをまるで下僕のように扱い、労力ばかりか材料まで提供させました。従わない者には、給料に当たる糧米<かてまい>を減らしたり、払わなかったりしたのです。
もともと同心たちは徳川家に召し抱えられたのであって、服部家の私的な家来ではありません。当然、彼らは反発しました。正就と折衝することも試みましたが、一向に埒<らち>があきません。正就は話を聞くどころか、反抗する者には私刑をもって臨むといった有様でした。

慶長10(1605)年秋、彼らの怒りがついに爆発します。弓・鉄砲を揃え、200人が四谷の笹寺(ささ寺)に立て籠りました。ストライキを敢行したのです。

彼らの要求は、正就の罷免と与力への昇格、それに扶持米のアップでした。もし訴えが容れられなければ、斬り死にする覚悟だったといいます。
もちろん、彼らの要求がたやすく通るわけがありません。幕府は旗本に命じて笹寺を包囲させました。ところが、そこはさすが忍者です。寺を抜け出しては食料を調達するために市中を荒らし回ったので、江戸の治安は大いに乱れました。

ようやく幕府は重い腰を上げ、事実調査に乗り出します。その結果、伊賀組同心の言う通りであることがわかりました。そこで正就を罷免し、同心たちを大久保忠直ら4人の旗本に分けて所管させました。


一方的に処罰されて、憤懣やる方ないのは正就です。彼は首謀者10人の処刑を要求しました。
確かに徒党を組むことは幕府の規則に違反しますし、市中を荒し回った盗賊まがいの行為は許されることではありません。8人はあえなく打首となりましたが、2人が逃亡してしまいます。
執念深い正就は彼らを探し回り、そのうちの1人らしき人物を見かけて後を追い、斬り殺してしまいました。

ところが・・・、なんとこれが、人違いだったのです。
しかも悪いことに、正就が斬ったのは、関東代官頭を務め、徳川幕府による地方支配の基礎を築いた功労者伊奈忠次<いなただつぐ>の家士でした!

ことここに至って、ついに服部家は分家だけを残して改易となってしまいました。


同心たちが立て籠った笹寺は、正しくは四谷山長善寺(東京都新宿区四谷4-4)といいます。
笹寺という呼び名は、2代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に立ち寄った時、境内に笹が繁っているのを見てつけたのだそうで、こちらの方が正式名称よりも浸透しています。

地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅を出て、甲州街道を4丁目方向に進むと間もなく、左手に寺への入り口を示す門柱がありますが、そこにも「曹洞宗四谷山 笹寺」と彫られています。


甲州街道から笹寺への入り口に立つ門柱(上)と、手前に笹の繁る本堂(下)


甲州街道と言えば、その起点は4月29日の日記でも触れたように半蔵門です。
そこから麹町を抜け、今のJR四ツ谷駅あたりにあった四谷御門を通り、新宿追分で青梅街道と分かれて甲府方面へと伸びています。


ちなみに、甲州街道と笹寺をめぐって、ちょっとしたミステリーがあるのです。

実は、四谷御門から新宿追分にかけての地域には、かつて地下に縦横無尽に坑道が掘られていました。
ビルの建設工事の際などに発見された、それらのいくつかを調査した時代考証家の名和弓雄氏によれば、坑道群が向かう先をたどっていくと、笹寺に行き着くというのです。
もしそれが本当ならば、伊賀組同心たちが自在に寺を抜け出すことができたのも、それらの抜け穴を利用していたのだと考えれば納得がいきます。
甲州街道はいざという時の将軍の江戸脱出ルートでした。それに面した笹寺が、非常の際に将軍護衛の任を負った忍者たちが集結する秘密拠点であったとしても、なんの不思議もありません。この寺は、彼らが立て籠る場所として、選ばれるべくして選ばれたのです。


正就は、妻の父である松平定勝にお預けの身となりました。そして元和元(1615)年、大坂夏の陣が起こります。正就は手柄を立てて汚名をすすぐべく、家康の6男松平忠輝の陣に加わりました。そして天王寺口の戦いで討死したのですが、その亡骸は行方不明となってしまいました。

当時、遺体が見つからない者はお家断絶となるしきたりだったので、名誉の戦死とは認められず、正就の文字通り命を賭けた服部家再興の願いは、結局叶いませんでした。
戦場から遺体を持ち去ったのは、正就に恨みを抱くかつての部下、伊賀組同心だったとも言われます。


その後、服部家はいったいどうなったのでしょうか?

詳細は省きますが、旗本の地位を失った服部家に救いの手を差し伸べたのは、松平定勝の一族でした。
正就が無念の最期を遂げた後、彼の息子たちを家臣にして面倒を見続けたのです。
正就から半蔵の名を継いだ弟の正重<まさしげ>も、幕府転覆を企てたとされる大久保長安の娘を妻にしていたことがもとでやはり改易となりますが、紆余曲折の末、桑名藩を襲封した定勝の3男定綱に召し抱えられ、最後は家老にまで昇進しています。

兄弟そろって改易になるという悲運に見舞われながら、こうして服部家が辛うじて血脈を保つことができたのは、身命を削って東照大権現のために働いた、服部半蔵正成の遺徳のなせる業だったのかもしれません。




【参考文献】
日本放送協会編『NHK歴史への招待14 実像・宮本武蔵』日本放送出版協会、1989年
NHK歴史発見取材班編『NHK歴史発見 11』角川書店、1994年
別冊宝島 シリーズ「歴史の新発見」『徳川将軍家の謎』宝島社、1994年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
別冊歴史読本34『戦国風雲 忍びの里』新人物往来社、1999年
清水昇著『戦国忍者列伝 80人の履歴書』河出書房新社、2008年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年

鬼の目にも涙 服部半蔵の意外な一面

2012年05月06日 | 日記
「鬼半蔵」と恐れられるほどの猛将で、伊賀忍者のリーダーとしても暗躍した服部半蔵正成ですが、意外なことに、実に人間味あふれるエピソードが残されています。

天正7(1579)年7月、突然の悲劇が半蔵の主君である徳川家康を襲います。
同盟者の織田信長から、正室の築山殿<つきやまどの>と嫡男の岡崎三郎信康が、武田勝頼に内通しているという嫌疑をかけられたのです。
信長にそのことを密告したのは、その娘で、信康の正室になっていた徳姫でした。

激怒した信長は、2人の死を要求してきました。乱世にあって、信長の助力なしには徳川家が生き残っていけないことがわかっていた家康は、苦渋の決断をします。

まず8月29日に築山殿が浜松城(静岡県浜松市中区元城町)近くの小籔村という所で家康の臣下によって殺害されました。
次いで半月後には、大久保忠世<ただよ>に預けられ、居城の岡崎城(愛知県岡崎市康生町)から二俣<ふたまた>城(浜松市天竜区二俣町二俣)に移されていた信康を切腹させました。9月15日のことです。

その際に半蔵は介錯を命じられたのですが、いざその場になると、潔白を訴え、無念の思いを口にする信康の首をどうしても落とすことができず、ただ泣き伏すばかりでした。
そこで半蔵に同行していた天方通綱<あまがたみちつな>が、見兼ねて代わりに介錯しました。
家康は後年雑談の折に、「半蔵ほどの剛強の者でも、さすがに主君の子の首は打てなかった」と語ったといいます。ことあるごとに信康のことを思い出しては悲嘆にくれる家康に困惑した通綱は、たまりかねて高野山に入り、遁世してしまいました。

一方、手を下さなかった半蔵の方も、天正18(1590)年に家康の関東入国に従って江戸入りして間もなく剃髪し、西念と号します。
麹町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷公園辺り)に庵居を構え、信康の遺髪をそこに埋めて菩提を弔う日々を送りました。
そして文禄2(1593)年、半蔵は家康より信康及び徳川家への忠義を貫いて命を落とした者たちの冥福を祈るために、寺院を建立するよう内命を受けました。

しかし半蔵はその完成を待つことなく、慶長元(1596)年11月14日に55歳で亡くなります。
彼の死後に完成した寺は、江戸城外堀の拡張・新設にともなって、寛永11(1634)年に清水谷から現在地へ移されました。
それがJR四ツ谷駅から程近くにある浄土宗のお寺、専称山安養院西念寺(新宿区若葉2-9)です。寺名は、半蔵の法号から取られました。


「専称山」の扁額がかかる西念寺本堂

ここには半蔵の墓と信康の供養塔があり、共に新宿区指定史跡です。
本堂に向かって右手にある半蔵の墓は、高さ2メートルの宝筺印塔<ほうきょういんとう>で、正面下部には「安誉西念大禅定門」とあり、側面には没年月日や享年が刻まれています。
そして本堂と半蔵の墓の間を行くとすぐ、葵の御紋が浮き彫りされた石扉のある五輪塔が立っています。高さは2メートル69センチ、21歳の若さで非業の死を遂げた信康の供養塔です。


服部半蔵の墓




岡崎信康の供養塔(上)とその石扉にある葵の御紋

ついでに言えば、西念寺には半蔵が戦功によって家康から拝領したという槍が保管されています。
槍先と柄の一部が欠けており、現状では全長2メートル58センチ程ですが、戦国時代の槍の標本として貴重なもので、新宿区登録有形文化財(歴史資料)になっています。
ひろむしは実物を見せていただいたことがありますが、一部を破損しているとはいえ重さは7.5キロもあり、たいそう立派なものでした。

半蔵正成が死去したのち、嫡男の半蔵正就<まさなり>が後を継ぎました。
偉大だった父と違い、正就は短気で横暴な性格で、伊賀組同心を服部家の使用人のように扱ったので、不満を抱いた部下たちが罷免を求めて寺に立て籠るという事件を起こし、それがもとで改易となります。


ここで、ひろむしからみなさまへお詫びがあります。

この前の日記では、今回服部家の末路について語ると書いたのですが、調べていくうちにいろいろとおもしろいことがわかってきました。ここで短く紹介するのは少しもったいない気がします。
そこで、急遽予定を変更して、回を改めて詳しく紹介することにいたしました。

突然のわがままで申し訳ありません。
そして、次回語る前代未聞の、忍者によるストライキ事件の顛末をお楽しみに!!



【参考文献】
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年
歴史群像編集部編『決定版 忍者・忍術・忍器大全』学習研究社、2009年
大石学他編『現代語訳徳川実紀 家康公伝1 関ヶ原の勝利』吉川弘文館、2010年