ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第9章】 VS ボクシング 《巻之一》

2017年05月15日 | 日記
桧垣源之助との右京ケ原での決闘に勝利した姿三四郎は、東京を離れて旅に出ます。
南小路家へ帰ることを拒んだ村井乙美が追って来るのを振り切って、紘道館の分場を作るために帰郷していた戸田雄次郎のいる伊豆を皮切りに、彼とともに浜松から名古屋へ、そして大阪を経て遠く広島にまで足を延ばし、各地の柔術家を訪ねては修行を続けた三四郎は、沼津で雄次郎と別れて横浜まで戻って来ました。
しかし、乙美への愛と柔道を両立させる自信のない三四郎は、彼女の待つ東京へ帰る決心がつかず、なかなか横浜を発つことができずにいました。そして、その地で彼は、柔術以外で初めて闘うことになる格闘技と出合います。その名を「スパアラ」といいました。

スパアラとはあまり聞きなれない闘技名ですが、拳闘、すなわちボクシングのことです。わたしは長い間、『姿三四郎』以外でボクシングのことをこう呼ぶ事例を知りませんでした。しかし、今回のブログを書くために調査を進める中で、ついに見つけたのです!
それは、『ボクシング100年』というムックにある記事で、アメリカでボクシング修行を積んで明治20(1887)年に帰国した元力士の浜田庄吉が、一緒に連れ帰ったボクサーやレスラーと全国を興行して回ったことが書かれています。そして、「その模様が4代歌川国政という絵師によって『欧米大相撲、スパーラ・ラスラ之図』と題する2枚続きの錦絵に描かれている。スパーラとはボクシングでいうスパーリングのことであり、ラスラはレスリングのことだろう。この錦絵が制作されたのは88年で、スパーラはグローブを着用していた」とありました。どうやらこの時代に、ボクシングのことをスパーラ、あるいはスパアラと呼ぶことがあったのは、確かなようです。


明治時代の横浜の風景写真① 横浜桟橋入口

三四郎がスパアラを見た最初は、野毛町裏の宿屋で一緒になった憂国の士真崎東天が、柔道の参考にでもなればとアメリカ人のスパアラ選手ウィリアム・リスターと、通訳の布引好造を連れて来た時です。
三四郎には先客がありました。「関東のお伊勢さま」こと伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市西区宮崎町64)がある野毛山(実際は明治4年に天照大御神が勧請された際に「伊勢山」と改められました)の掛茶屋で、空腹のあまり大福を食い逃げしようとして三四郎に捕まり、代金を払ってもらったお詫びとお礼に訪れた、18歳の若者左文字大三郎です。
武術の心得のある彼は、槍代りの物干し竿を手に、リスターと立ち合うことになります。

小刻みにステップを踏み、胸の辺りに構えた両拳を上下左右に小さく躍動させていつでも自在に進退できる体勢のリスター。闘志に燃え、竿先を突き付けてジリジリと迫る大三郎。
リスターは一旦跳躍しながら後退しますが、すぐ軽快に大三郎に向かって進んで来ます。好機と見た大三郎が、鋭く繰り出した竿先を左手ではね上げたリスターは、大三郎が竿を手元に繰り込むよりも早く飛び込んで、頬を平手で張り飛ばしていました。
勝負は一瞬でつき、顔を腫れ上がらせて寝込んでしまった大三郎を介抱しながら、三四郎はリスターの拳と足さばきについて考え続けました。彼と対戦した場合のことをあれこれ工夫してみましたが、勝つ方法を見出すことはできませんでした。

その後、また野毛山の茶屋を訪れた三四郎は、南小路高子に同行するリスターと偶然再会し、いつか彼と闘うことになるだろうと運命を予感します。
そんな時、彼は布引の招待で本格的なスパアラの試合を観戦する機会を得ます。


明治時代の横浜の風景写真② 横浜海岸より桟橋を望む

最初に行われたスパアラの選手同士の試合は、三四郎も素直に布引の好意に感謝して見ていました。
ところが次に現れたのは、あのウイリアム・リスターと、日本人の柔術家だったのです。
勝てる見込みのない試合だからやめろと、三四郎は柔術家を止めます。しかし、一心流の関根嘉兵衛と名乗ったその男は、
「こんなことでもやらにゃ、柔術家は飯が食えんわ」
と言い残してリスターに向かっていきました。
三四郎はどんな手段を使ってもいいから勝ってくれと必死で念じますが、彼の思いは通じず、嘉兵衛は人間サンドバックと化して一方的に殴られ、最後はアッパーをまともに喰らって、血の海に沈みました。
わずか3分間の勝負でした。

精魂を捧げつくしてやまぬ至高の存在と信じた日本の武術がスパアラに翻弄され、何ら対抗する術も策も持たない哀れな柔術家が、血に飢えた外国人観衆の残虐な欲望の餌食となるさまを目の当たりにし、三四郎は同じ武術家として、日本人として、激しい怒りと悲しみに苛まれていました。
その場にいたたまれなくなって、三四郎は外へ飛び出します。ガス灯の青い光芒に照らされて、奥歯を噛みしめ、夜空を睨みながら歩く彼の頬には、光るものがありました。


明治時代の横浜の風景写真③ 本牧


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
NIPPON SPORTS MOOK31『ボクシング100年』日本スポーツ出版社、2001年
散歩マップ編集部編『横浜 散歩マップ』成美堂出版、2009年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第8章】 VS 良移心当流・桧垣源之助《後編》

2017年05月05日 | 日記
徳川2代将軍秀忠・3代家光が世を治めていた元和(1615~1624)年間、福野七郎右衛門正勝によって良移心当和<やわら>が創始されました。一般には福野流、あるいは良移心当流と呼ばれ、良移心頭流とも書きます。当初はごく少数の門人に教授されただけで、あまり広く普及しませんでしたが、元禄(1688~1704)頃に筑前福岡藩士の笠原四郎左衛門一春が出て、流名を高めました。
正徳6(1716)年、笠原の高弟森八郎右衛門尚友が筑後久留米藩に槍術と和(柔術)の師範として仕え、同地に良移心当流をもたらしました。森はその伝を藩士の島田丹右衛門隆直に授け、島田はこれを下坂才蔵重義に伝えます。
下坂道場は、幕末から明治中期にかけて隆盛を誇りました。明治16(1883)年に下坂の推薦で、同門の上原庄吾とともに警視庁柔術世話係に採用されたのが、村井半助のモデル中村半助です。

桧垣源之助は村井半助の高弟ですが、琉球出身の彼はもともと唐手(空手)を修行した人間であり、柔術各流派の研究もしていました。頭脳明晰で学問もあり、その実力を知る柔術関係者はことごとく彼に敬服し、維新以来、全面的に傾きかけていた柔術界の救世主とみなしていました。本人も強い自信を持ち、野心もありました。しかし、一切の望みを絶たれた今となっては、宿敵姿三四郎の抹殺こそが、彼にとって唯一絶対の至上命題でした。
源之助から送られた果し状に対し、いつ、いかなる場合でも彼の挑戦に応じると心に決していた三四郎に、否やはありません。彼は紘道館の誰にも告げることなく、果し合いの地へと向かいました。

明治20年10月7日夜、上野高崎藩主松平右京亮<うきょうのすけ>(7万2千石)の中屋敷跡に広がる右京ケ原で、姿三四郎と桧垣源之助はついに対峙します。立会人は飯沼恒民、かつて二人が最初に出会った時に、闘うことを許さなかった人物です。彼は今回も勝負を止めるつもりでこの場に臨んだのですが、彼らの決意を覆すことはできませんでした。
いよいよ生死を賭けた対決が始まります。源之助と三四郎の間隔は2間(約4m)、そのまま、お互いの眼を射すくめる勢いで凝然と動きません。生きているもののすべてが、ピタリと気息を潜めているような緊迫感が辺りを支配します。それは長い時間に思われましたが、実際は2分か3分に過ぎませんでした。

源之助がやや身を沈め、唐手の八字立ち(両足を肩幅程度に開き、爪先を自然と外側に向けた立ち方)でじりじりと草の上を3、4寸(約9~12cm)進みます。左拳が腹の上に置かれ、右拳は腰骨の辺りに構えられていました。小林<しょうりん>流(知花朝信<ちばなちょうしん>を開祖とする唐手の流派)の平安<ぴんあん>の型から考案した、彼独特の攻防体勢です。三四郎は両手を下げたまま、構えるとも、守るとも見えない姿勢で立っていました。


都営地下鉄三田線・大江戸線の「春日」駅近く、白山通りから東へ入ると階段(上)を上がった所に清和公園(下)があります。この辺りから向う一帯が、「右京山」、あるいは「右京ケ原」と呼ばれていました。


そのまま、呼吸にして3つか4つの間が過ぎた時、動かなかった三四郎が無造作に、一直線に源之助に向かって歩き出しました。いたずらに相手の気息を窺っているのは賢明ではないと判断したのでしょう。三四郎の3歩目に源之助がいっそう低く身構えました。4歩目、4つの腕が互いに触れ合う近さに来た時、
「おうりゃっ」
裂帛の気合が夜気をつんざいて、源之助が一気に襲いかかります。
左の拳が三四郎の眉間に飛び、右の拳がみぞおちに走りました。腕と腕が絡み合います。
三四郎は源之助の左拳を左手で受けて、擦り上げるようにはずしながら身を倒しました。右足が相手の腹にかかり、右手はみぞおちを突いてきた源之助の右拳を抑えています。
6尺(約182cm)豊かな源之助の長身が、月の光の中にくっきりと弧を描き、3間(約5m)の距離を飛んで雑草の生い茂った中に落下しました。茎の折れる音と地響きがしましたが、落ちる時に半身を翻し、源之助は腹這いになって、草むらに両手を突いていました。
巴投げから身を起した三四郎と、草むらから飛び出した源之助が三四郎に躍りかかったのは同時でした。ガッと音のする激しさで、2つの肉体がぶつかります。

三四郎の投げを予想して、思い切り腰を落した源之助の両腕が、十字形に三四郎の襟に食い込みました。逆十字の立ち絞めです。投げを常日頃の攻防に用いる三四郎は襟に備えがなく、そこを実戦経験豊富な源之助に突かれたのです。
そのまま腰をのばし、源之助はキリキリと襟を絞りながら、三四郎を引きずり上げました。
三四郎の顔色が、月の光にもそれとわかるほどに赤紫に変ります。絞め落とされるまでに、もう10秒とは要さないでしょう。

三四郎は、絶体絶命の窮地に陥っていました。絞めを逃れようともがくことは、いたずらに彼の死を1秒なり、半秒なり早めるに過ぎません。自分の腕や手を相手の組んだ腕の間に割り込ませることは、麦わらで鉄錠をこじ開けようとするようなものです。
三四郎は敗北を覚悟しました。苦痛が薄れ、手足の先の感覚が鈍り、スーッと全身から力が抜けていきます。それはむしろ、快感に近いものでした。

その時、源之助は泉の水が湧くような歓喜を全身に感じていました。
宿敵が今、彼の両腕の中で絶息しようとしているのです。
「われ勝てり」
彼は月に向かって怒号したい衝動にかられました。
ですが、この最初の絞めで三四郎が仮死状態に陥ったとしても、そのまま放置すれば恒民が活を入れて息を吹き返すでしょう。彼は三四郎を殺してしまおうと決心していました。たとえ殺人犯として監獄に繋がれることになろうとも、彼はそれで満足だったのです。
彼の三四郎に対する憎しみは、そこまで根深いものとなっていました。

源之助は止めを刺すための新しい力を入れようと、わずかに両腕の力を緩めました。
ところが三四郎は、霞みかけた意識の底で、なおも源之助の技を冷静に観察し、研究を続けていたのです。彼を柔道の天才と呼ばせるものは、まさにそこにありました。あるいは、矢野正五郎や四天王、その他の若き門人たちとともに血のにじむような努力をして育て上げてきた柔道への深い愛着が、させたこととも言えるでしょう。
わずかに力の抜けた、敵の十字に組んだ腕のまたの真ん中に、三四郎の右腕が滑り込みます。そして源之助が我に返った時には、三四郎の左手が源之助の袖裏にかかっていました。
三四郎は思い切り身を沈めて、半身になって源之助の足を払い上げました。

壮絶な山嵐に、源之助は虚空を掴むような手付きで頭を下にして、半分、草の生えた柔らかい土の中に顔を突っ込んでいました。源之助は村井半助の轍<てつ>を踏みたくない一心で、頬をゆがめ、歯をくいしばって、フラリと起き上がりましたが、眼が霞み、西も東もわからなくなっていました。その胸元へ体を丸めるようにして飛び込んだ三四郎が、2度目の山嵐を仕掛けます。
最初の一撃で意識が混迷していた源之助は、頭と背中で受身をする形で地響きを立てて落下し、長々と草の上にのびてしまいました。
不気味な静けさが流れ、海底を思わせる重い青さをたたえた月夜の右京ケ原が、しんと静まり返ります。三四郎は終始声なく、2本の腕を両脇に下げたまま、じっと源之助を見つめていました。

「それまでっ、それまで!」
恒民が片手を挙げて叫んだ時、その声に意識を取り戻した源之助が、「まだっ!」とよろめきながら起き上がろうとしました。鼻血が顔の半分を染め、土に汚れた顔は蒼白でした。呼吸が続かないらしく、あえぎながら両手で土を掻くようにしてやっと立った彼の形相は、月光を浴びて、まるで悪鬼のようでした。
その時、草むらの中から匕首<あいくち>を手に飛び出した香車の安兵衛が、身体ごと源之助にぶつかっていきました。心明活殺流と付き合いがあった元遊び人の仙吉(三四郎が稽古を差し止められる原因となった喧嘩の相手)から今日の果し合いのことを聞き出し、復讐してやろうと身を潜めていたのです。

源之助は辛うじて安兵衛の一撃目をかわしましたが、身を翻して突進してきた第二撃からは、逃れる術がありませんでした。
安兵衛が源之助に飛びついたのと、その脇腹に三四郎の当身を食った上、体落しで仰向けに草に飛ばされたのとは同時でした。匕首が月光の中に舞って、源之助の側に落ちます。
危うく命拾いした源之助ですが、そこで彼の精魂もついに尽き果て、がっくりと膝を突いて草の上に崩れ落ちてしまいました。それ以上立ち上がる力は、もはや彼には残されていませんでした。


東側から見た清和公園。看板には「右京山」とあり、裏に解説が書かれています(東京都文京区本郷)

稽古着から着物に着替え、立ち去ろうとする三四郎を、良移心当流の付添人たちに囲まれて横たわる源之助が、「姿・・・君・・・」と呼び止めました。三四郎に技で負けた上、命まで救われた源之助は、自分の全面的敗北を認めざるをえませんでした。彼は心を改め、「柔術は出世の道具じゃなかった」と呟きます。
「それが分かるか、桧垣君、柔道は一流一派の道具でもない、日本の武術だということが」
という問いかけに、「分かる」と答えた源之助の手を、三四郎は固く握りしめました。
彼は柔道に志して以来初めて味わう、心からの安らぎと感激を嚙み締めていました。

こうして、三四郎は宿命のライバルに打ち勝ち、彼との和解を果たします。
しかし、それは三四郎がたどって来た修羅の道の終着点ではありませんでした。
もはや柔術界に敵のいなくなった彼を、さらに過酷な運命が待ち受けていたのです。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
高宮城繁他編『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年
公益財団法人全日本空手道連盟監修『はじめての空手道』誠文堂新光社、2016年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年
江幡潤著『東京史跡ガイド⑤ 文京区史跡散歩』学生社、1992年
街と暮らし社編『江戸・東京文庫⑧ 本郷界隈を歩く』街と暮らし社、2002年