ひろむしの知りたがり日記

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目黒不動尊と甘藷先生

2012年03月24日 | 日記
小石川御薬園について語る時、養生所と並んで必ず取り上げられるのが、享保20(1735)年に飢饉対策用食糧とすべく行われた甘藷(サツマイモ)の試作です。その責任者だった青木昆陽(1698-1769)の墓が、東京都目黒区の瀧泉寺墓地にあります。

泰叡山瀧泉寺は天台宗のお寺で、目黒不動尊とも呼ばれます。
慈覚大師円仁(794-864)が比叡山に向かう途中目黒に宿泊し、その時夢に現れた不動明王の姿を像に彫り、安置したのが始まりとされています。境内には、円仁が堂塔建設の敷地を占うために独鈷<とっこ>という煩悩を打ち砕く仏具を投げたところ、たちまち泉が湧いて滝になったと伝えられる「独鈷の滝」もあります。

 瀧泉寺境内にある独鈷の滝

そして滝の左側には、2階の建物くらいの高さがありそうな、甘藷問屋の組合によって造られた昆陽の頌徳碑が立っています。
瀧泉寺では毎年10月28日に甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が並び、大勢の参拝客で賑わいます。以前は昆陽が亡くなった明和6(1769)年10月12日にちなんで毎年その日に行われていたのが、戦後、寺の縁日に合わせて28日に変わりました。

 独鈷の滝の近くに立つ青木昆陽頌徳碑

青木昆陽の墓があるのは、本堂裏手の高台になっている墓地の中です。
昭和18(1943)年5月1日に国の史跡に指定されました。てっぺんの尖った将棋の駒を細長くしたような形の墓碑に刻まれた文字は、昆陽が生前に自ら記したものです。

「甘藷先生墓」と彫られた青木昆陽の墓碑

正面には「甘藷先生墓」、左側面には「甘藷を広めたことにより、人は私のことを甘藷先生と呼ぶ。私は天下の人が、皆餓えることのないように願う」といった意味のことが書かれています。
この墓碑からも、昆陽がどれだけ人々が食べる物に困らずに暮らせる世の中を望み、サツマイモ栽培の普及に力を尽くすことによってその実現に貢献でき、人々から「甘藷先生」と呼ばれるに至ったことを誇りに思っていたのかがわかります。

でも、昆陽の功績は実はそれだけではありません。次回は、甘藷先生がどれだけエラい人だったのか、その知らざる活躍ぶりについて、見ていくことにしましょう。



【瀧泉寺基本データ】
■所 在 地 東京都目黒区下目黒3-20-26
■電話番号 03-3712-7549
■アクセス JR五反田駅(西口)から東急バス渋谷駅東口行き(渋72系統)目黒不動尊下車
        JR・東急目黒線目黒駅下車、徒歩20分
        東急目黒線不動前下車、徒歩15分

小川笙船と小石川養生所

2012年03月18日 | 日記
山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』に登場する小石川養生所の医長「赤ひげ」こと新出去定<にいできょじょう>は、腕は一流ながら、どこまでも自分流を押し通す剛腕医師です。

一見頑なな態度の裏に激しい情熱を秘め、病の多くを生み出す貧困や無知に対して敢然と闘いを挑む去定には、実在のモデルがあります。徳川8代将軍吉宗時代の享保7(1722)年1月21日、庶民の意見を広く汲み上げる目的で設置された目安箱に投書し、貧困者のための無料診療所をつくることを訴えた小川笙船です。

彼は伝通院近くの麹町12丁目(現在の東京都新宿区)の三郎兵衛店に住む町医者でした。笙船は嘆願書の中で、役得をむさぼる町名主を糾弾し、名主無用論を展開しています。
「赤ひげ」に負けず劣らず、なかなかの反骨精神の持ち主だったようです。


当時、江戸には農村部から大量の人々が流入してきていました。貧しく、独身の者も多かったので、病気になっても医者に診てもらったり薬を買う金がなく、看病してくれる家族すらいないという有様でした。
そんな状況でしたので、吉宗は江戸南町奉行の大岡忠相と北町奉行の中山時春に、笙船の案について検討を命じました。そして同年12月4日、小石川御薬園内に施薬院がつくられ、間もなく養生所と改称されました。笙船は養生所を支配する肝煎<きもいり>に任じられ、その役職は小川家が代々世襲しました。

 小石川植物園に残る養生所の井戸

しかし、立ち上げは決して順調なものではなかったのです。

開設直後は無料医療施設としての趣旨が理解されず、薬園でできた和漢薬の効能を試す実験台にされるとの風評が広がったため、入所希望者はあまりいませんでした。
そこで翌8年7月以降、町奉行所は江戸中の町名主を養生所に集めて施療の様子を見学させました。また、入所の条件を緩和し、当初は看病する人のいない者だけが対象だったのを、2月には極貧の病人であれば、看病人や親方などがいても収容することにしました。さらに同10年には行倒人や寺社奉行支配地の者にも門戸を開きました。診療科も最初は本道(内科)だけでしたが、外科と眼科を増設しました。

こうしたさまざまな改革の結果、入所希望者は次第に増えていきました。はじめは通院して治療・投薬を受ける患者もいたのですが、享保8年8月以後、医師の手が足りなくなって通院制度を廃止しました。それでも足りず、本道2人、外科2人、眼科1人だったのを、翌年には本道7人、外科4人、眼科1人に増員しています。

入所者には夏は帷子<かたびら>、冬は布子<ぬのこ>が支給されました。また冬には、木綿の袋で包んだ一升徳利が湯たんぽとして配られました。入浴も、5・15・25日の月3回することができました。


ところが、天保期(1830-44)になると入所希望者が激減してしまいます。

理由は、養生所職員たちの間に蔓延していた腐敗です。
幕府から給付される役料が少なかったため、医師は投薬を渋るなど治療に対して不熱心でした。入所者の身辺の世話をする看病中間<ちゅうげん>も、患者に支給される諸物品を着服し、夜は博打や酒盛りに耽るという始末でした。食事の世話をする賄中間にも、余った飯を転売する不正行為が見られました。さらに病室の臭気はひどいもので、生活環境は劣悪でした。

町奉行所からは、与力・同心が派遣されて養生所の医療活動を監督していました。本当ならこのような状況を改善すべき立場にあった彼らも、縁側から見分するだけで病室に入ることさえしないという怠慢ぶりでした。こうした実態が、入所希望者の激減につながったのです。

奉行所も、決して何もしなかったわけではありません。
医師や与力・同心に対して職務に精勤するよう命じ、看病中間たちには不正行為を厳禁するなどの改善策を何度となく取りました。しかし、事態を好転させる決定打を打てないまま、明治維新を迎えるとともに養生所はその歴史に幕を閉じました。


 雑司ヶ谷霊園にある小川笙船の墓

貧民救済の理想に燃えて、施薬院の設立を願い出た小川笙船は、養生所がたどったこのような末路を、草葉の陰からいったいどのような思いで眺めていたのでしょうか。

笙船が亡くなったのは、養生所開設から38年後、終焉より108年前の宝暦10(1760)年6月14日のことです。89歳の長寿を全うしました。
墓は幾度か改葬されましたが、現在は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園にあり(墓碑の位置は1種5号4側)、先祖や子孫たちとともに眠っています。



【参考文献】
山本周五郎著『赤ひげ診療譚・五瓣の椿』(山本周五郎全集第11巻)新潮社,1981年
矢田挿雲著『新版 江戸から東京へ(8)小石川』中央公論新社,1999年
大石学著『首都江戸の誕生─大江戸はいかにして造られたのか』角川書店,2002年
加藤貴編『江戸を知る事典』東京堂出版,2004年

小石川植物園─日本で一番歴史のある植物園

2012年03月11日 | 日記
明治14(1881)年、第2回内国勧業博覧会を見物するために上京した19歳の牧野富太郎は、文部省博物局を訪ね、田中芳男(1838-1916)らに小石川植物園を案内してもらいました。
前回の日記で紹介した、現在は牧野記念庭園になっている自宅兼研究所の庭に、富太郎はさまざまな草木を植えて「我が植物園」と呼んで大切にしましたが、もしかしたら、青雲の志に燃えて初めて東京にやって来た時に見た小石川植物園の情景をイメージしながら、お気に入りの庭を歩いていたのかも知れません。


実は、よく知られている小石川植物園というのは通称で、正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」といいます。一般公開こそされていますが、ここは東京大学の教育・研究施設なのです。

面積は161,588平方メートル(48,880坪)、台地・傾斜地・低地・泉水地などを擁する変化に富んだ地形を利用して、約4,000種もの植物が植栽されています。

所蔵する植物標本の数も膨大です。
本館に納められているのは約70万点ですが、標本は東大総合研究博物館と一体で管理されていて、全体ではなんと約170万点にも上ります!
さらに植物学関連の図書も、約2万冊収蔵しています。

また、栃木県日光市には明治35(1902)年に設立された「日光分園」があり、東京では栽培の難しい高山植物や冷温植物が栽培されていて、こちらも一般公開されています。


小石川植物園は、日本で最も古い植物園です。それだけに、園内には長い歴史を物語る遺構や植物が数多く見られます。

では、植物園の変遷をたどりながら、それらを見ていくことにしましょう。

寛永15(1638)年、それまで輸入に頼っていた漢方薬の自給と、薬草知識の普及を目的として江戸城の南北に幕府直営の御薬園が開かれました。南の方を麻生御薬園、北を大塚御薬園といいました。そのうち白金にあった南の御薬園が、貞享元(1684)年に徳川5代将軍綱吉の館林藩主時代の別邸だった白山(小石川)御殿跡地に移転して「小石川御薬園」となりました。これが小石川植物園の遠い前身です。
園内の西端には、白山御殿時代の名残である日本庭園が広がっています。

明治10(1877)年に東京大学が設立されると、すぐに附属植物園となりました。その前年に東大の本郷構内に建てられた旧東京医学校本館が、昭和44(1969)年に日本庭園の一隅に移築されています。洋風を模した校舎としては都内で最も古いという貴重な建築物で、国の重要文化財に指定されています。

 ウメ林から旧東京医学校本館を望む

話は江戸時代に戻ります。

ここは8代将軍徳川吉宗時代の享保20(1735)年、青木昆陽(文蔵)が飢饉対策用として甘藷、つまりサツマイモの試作を行なって成功した場所でもあります。園の中央やや東寄りに、高さ約2メートル、紫色のずんぐりとした岩でできたサツマイモ形の記念碑が立っています。

 甘藷試作跡に立つサツマイモ形の碑

甘藷試作跡の近くに、植物の多様性を理解しやすいよう分類体系に従って配列した分類標本園と並んで薬園保存園があります。ここではコガネバナ・オウレン・マオウなど、御薬園当時から植えられていた代表的な薬用植物約120種を集めて栽培しています。
ちなみに、現在でも薬屋さんには化粧品も一緒に売られていますが、御薬園では化粧水であるヘチマ水も作られ、大奥に納められていました。その量は年間60~190リットルにも及んだそうです。

そのほか、園の東端に建つ熱帯・亜熱帯の野生植物などを集めた温室の手前に乾薬場跡があり、石畳と呼ばれた平石の一部が残っています。御薬園時代には、その上に薬草を並べて乾燥させていました。

 乾薬場跡に残る石畳


このように、植物園内を散策しながら江戸時代の薬作りを偲ぶことができるのですが、ここで触れられるのは、わが国の歴史ばかりではありません!

温室の右側には「ニュートンのリンゴ」と「メンデルのブドウ」が並んで植えられています。
ニュートン(1642-1727)が万有引力の法則を発見する契機となった彼の生家にあったリンゴの木と、遺伝学の基礎を築いたメンデル(1822-1884)が実験に用いたブドウです。
いずれも原木からの接木や分株によって育てられた、由緒正しい子孫たちです。


さて、この地の歴史を語る中で、忘れてはならないのが小石川養生所の存在です。

享保7(1722)年、貧困者を官費で療養させる施設として「養生所(施療院)」が設けられました。ヒューマン医療ドラマの草分けとも言うべき山本周五郎の小説『赤ひげ診療所』の舞台となった小石川養生所です。
養生所は明治維新の時に廃止されましたが、ここの井戸は水質が良く、水量も豊富でした。大正12(1923)年9月1日の関東大震災の際には、焼け出された東京市民3万人以上が植物園に一時避難しました。その時、彼らの飲料水として大いに役立ったそうです。現在も植物園のほぼ中央に、その井戸が残っています。

被災者の一部は、園内に設けられた震災救護所で、さらに長期にわたる避難生活を余儀なくされました。
そして最後の1人がようやくここを退去したのは、震災発生から1年4ヵ月後の大正12年1月のことです。

 植物園内に立つ関東大震災記念碑

奇しくも今日、3月11日は東日本大震災からちょうど1年目になります。

いまだ被災地の復興は思うにまかせず、日本全体もなかなか元気になれません。
90年前の関東大震災でも、そして7年前に起った阪神・淡路大震災でも、人々の暮らしが元通りに戻るのは、やはり簡単なことではありませんでした。
今回も、これからまだまだ、長い道のりが続くのでしょうね。


小石川養生所については次回の日記で、もう少し詳しく見ていきたいと思います。



【小石川植物園 基本データ】
■所 在 地 東京都文京区白山3-7-1
■入 園 料 大人330円(中学生以上)、小人110円(小学生)、6歳未満は無料
■開園時間 午前9時~午後4時30分(入園は午後4時まで)
■休 園 日 月曜日(祝日の場合はその翌日)
        年末年始(12月29日~1月3日)
■連 絡 先 03-3814-0138
■アクセス 都営地下鉄三田線・白山駅より徒歩10分

【参考文献】
東京大学大学院理学系研究科附属植物園 社会教育企画専門委員会編
 『小石川植物園案内』小石川植物園後援会,1984年
東京大学大学院理学系研究科附属植物園 植物園案内編集委員会編
 『小石川植物園と日光植物園』小石川植物園後援会,2004年

牧野記念庭園─富太郎の私設植物園

2012年03月04日 | 日記
現在は区立の庭園になっている牧野富太郎の旧邸跡は、ファーブルにとってのアルマスと性格が似ています。どちらも人生の最期を過ごした家であり、庭に自らさまざまな草木を植えた研究所となっていました。

ファーブルの場合、それは周辺の昆虫を集めるのが主な目的でしたが、彼は植物にも造詣が深く、『ファーブル植物記』(平凡社ライブラリー、2007年刊他)など、日本で翻訳出版された著書もあります。

富太郎も若い頃、自分の決意を記した15ヵ条から成る勉強心得の中で、「植学に関係する学科は皆学ぶを要す」と書いていますから、植物とは持ちつ持たれつの関係にある昆虫は無視できない存在だったはずですし、水田と雑木林に囲まれ、「私の植物園」と言って愛した牧野邸の庭にも、豊富な樹木や草花に惹かれてたくさんの虫が集まって来たに違いありません。

そんな富太郎とファーブルがもし出会っていたら、一体どうなったでしょう?
(1823年生まれ、1915年没のファーブルと、1862年生まれ、1952年没の富太郎は、なんと生きた時代が50年も重なるのです!!)

生き物の研究に生涯を捧げた者どうし、意気投合したでしょうか。
あるいは、2人とも相当にガンコだったようなので、自説を曲げずに衝突したかもしれません。


しょうもないことを夢想しながら、ひろむしは日本版アルマス(?)、牧野記念庭園にやって参りました。

 牧野記念庭園正門前

大正15(1926)年、富太郎は東京郊外で武蔵野の面影が残る北豊島郡大泉村(現在の東京都練馬区東大泉)のこの地に移り住み、昭和32(1957)年に死去するまでの30年余りを過ごしました。
遺族の希望もあって、彼が亡くなるとすぐに東京都が公園として整備し、練馬区に移管されて翌年12月には早くも一般公開されました。平成20(2008)年には施設の老朽化による改修工事のために一時休園しましたが、同22年8月にリニューアルオープンしました。
改修工事中の同21年2月には、国の登録記念物(遺跡および名勝地)に指定されています。

面積2,222.5平方メートルの園内には、300種を超える草木類が植裁されています。

たとえば、正門を入ってすぐの所に、富太郎が妻スエ子を想って詠んだ「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」の句碑がありますが、その前と、左手に少し離れて立つ富太郎の胸像の前には、妻の名から命名されたスエコザサが繁っています。
スエコザサの特徴は、葉の左右両側が少し内側にめくれていることと、葉の表面に細かな毛がはえていることだそうです。

 牧野富太郎の胸像

また、高知市内の仙台屋という店の前にあったのでその名がつけられたセンダイヤザクラや、区内では珍しい樹種であるヘラノキ(どちらも富太郎の命名で、「ねりまの名木」に指定されています)など、たくさんの貴重な植物を見ることができます。


「花在れバこそ吾れも在り」という富太郎の言葉が浮き彫りされた顕彰碑の奥には、書斎として使われていた部屋が屋根ごとすっぽりそのまま建物で覆われ(鞘堂と言います)、保存されています。
室内には植物を長持ちさせるために使用したガラス張りの「活かし箱」のほか、蔵書や色紙、家財道具などが置かれ、生前の暮らしぶりを偲ぶことができます。

 富太郎の書斎に置かれた「活かし箱」

書斎展示室の隣には記念館があります。館内の常設展示室では富太郎の生涯と業績を、パネルによる解説と、ゆかりの品々の展示によって紹介しています。
『日本植物志図篇』や『日本植物図鑑』などの著書はもちろん、明治14(1881)年に生まれ故郷の高知から初めて上京した時に内国勧業博覧会で買ったドイツ製の顕微鏡や、朝日文化賞や文化功労者・文化勲章の賞状や盾といったその栄誉を示すものから、反対に借金証書などという不名誉なものまであります。

おもしろいのは9つ残されているという印鑑で、自作したものもあります。中でもユニークなのは、ひらがなの「の」をそのまま伸ばして渦巻き模様のようにぐるぐる巻いて、「巻きの」→「牧野」と読ませるダジャレのようなハンコで、思わず失笑してしまいます。


常設展示室の奥は企画展示室で、現在は「牧野富太郎生誕150年記念企画展」と銘打って、「花との約束─植物図鑑と植物画」を開催中です(3月31日まで)。

この企画展では富太郎の代表的著作『牧野日本植物図鑑』の原図が初公開されています。
『牧野日本植物図鑑』は彼の死後も改訂増補を重ね、今も現役の植物図鑑として利用されていますが、漢字とカタカナによる文語体で書かれていた最初のものと、それをひらがなを使った平易なものに変えた『牧野新日本植物図鑑』、白黒だった植物画をカラー化した原色図鑑の3種が並べて展示されており、その変遷がよくわかります。

それに富太郎が研究上の参考として集めた、江戸から明治時代にかけて関根雲停(1804-77)や服部雪斎(1807-没年不詳)らによって描かれた植物画も展示されています。
近代的な植物学が日本に入って来る前のものとは思えない、あまりに精緻で写実的な絵に、驚きで目を見張ってしまいました。

いやァ、いいものを見たなぁ♪


今回牧野記念庭園を訪れて、富太郎が生まれてから今年で150年になるんだということに初めて気がつきました。
彼を敬愛するひろむしとしては迂闊でありましたが、この記念すべき年に、どこかの博物館やら生まれ故郷の高知やらで、企画展やイベントが行われるのではないかと秘かに期待しております^^

なにか情報があったら、ぜひ教えてくださいネ!



【牧野記念庭園・基本データ】
■所 在 地 東京都練馬区東大泉6-34-4
■入 園 料 無料
■開園時間 午前9時~午後5時
■休 館 日 毎週火曜日(祝休日に当たる場合は、その直後の祝休日でない日)
        年末年始(12月29日~1月3日)
■電話番号 03-3922-2920
■アクセス 西武池袋線・大泉学園駅南口より徒歩5分

【参考文献】
俵浩三著『牧野植物図鑑の謎』平凡社,1999年
渋谷章著『牧野富太郎 私は草木の精である』平凡社,2001年