小石川御薬園について語る時、養生所と並んで必ず取り上げられるのが、享保20(1735)年に飢饉対策用食糧とすべく行われた甘藷(サツマイモ)の試作です。その責任者だった青木昆陽(1698-1769)の墓が、東京都目黒区の瀧泉寺墓地にあります。
泰叡山瀧泉寺は天台宗のお寺で、目黒不動尊とも呼ばれます。
慈覚大師円仁(794-864)が比叡山に向かう途中目黒に宿泊し、その時夢に現れた不動明王の姿を像に彫り、安置したのが始まりとされています。境内には、円仁が堂塔建設の敷地を占うために独鈷<とっこ>という煩悩を打ち砕く仏具を投げたところ、たちまち泉が湧いて滝になったと伝えられる「独鈷の滝」もあります。
瀧泉寺境内にある独鈷の滝
そして滝の左側には、2階の建物くらいの高さがありそうな、甘藷問屋の組合によって造られた昆陽の頌徳碑が立っています。
瀧泉寺では毎年10月28日に甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が並び、大勢の参拝客で賑わいます。以前は昆陽が亡くなった明和6(1769)年10月12日にちなんで毎年その日に行われていたのが、戦後、寺の縁日に合わせて28日に変わりました。
独鈷の滝の近くに立つ青木昆陽頌徳碑
青木昆陽の墓があるのは、本堂裏手の高台になっている墓地の中です。
昭和18(1943)年5月1日に国の史跡に指定されました。てっぺんの尖った将棋の駒を細長くしたような形の墓碑に刻まれた文字は、昆陽が生前に自ら記したものです。
「甘藷先生墓」と彫られた青木昆陽の墓碑
正面には「甘藷先生墓」、左側面には「甘藷を広めたことにより、人は私のことを甘藷先生と呼ぶ。私は天下の人が、皆餓えることのないように願う」といった意味のことが書かれています。
この墓碑からも、昆陽がどれだけ人々が食べる物に困らずに暮らせる世の中を望み、サツマイモ栽培の普及に力を尽くすことによってその実現に貢献でき、人々から「甘藷先生」と呼ばれるに至ったことを誇りに思っていたのかがわかります。
でも、昆陽の功績は実はそれだけではありません。次回は、甘藷先生がどれだけエラい人だったのか、その知らざる活躍ぶりについて、見ていくことにしましょう。
【瀧泉寺基本データ】
■所 在 地 東京都目黒区下目黒3-20-26
■電話番号 03-3712-7549
■アクセス JR五反田駅(西口)から東急バス渋谷駅東口行き(渋72系統)目黒不動尊下車
JR・東急目黒線目黒駅下車、徒歩20分
東急目黒線不動前下車、徒歩15分
泰叡山瀧泉寺は天台宗のお寺で、目黒不動尊とも呼ばれます。
慈覚大師円仁(794-864)が比叡山に向かう途中目黒に宿泊し、その時夢に現れた不動明王の姿を像に彫り、安置したのが始まりとされています。境内には、円仁が堂塔建設の敷地を占うために独鈷<とっこ>という煩悩を打ち砕く仏具を投げたところ、たちまち泉が湧いて滝になったと伝えられる「独鈷の滝」もあります。
瀧泉寺境内にある独鈷の滝
そして滝の左側には、2階の建物くらいの高さがありそうな、甘藷問屋の組合によって造られた昆陽の頌徳碑が立っています。
瀧泉寺では毎年10月28日に甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が並び、大勢の参拝客で賑わいます。以前は昆陽が亡くなった明和6(1769)年10月12日にちなんで毎年その日に行われていたのが、戦後、寺の縁日に合わせて28日に変わりました。
独鈷の滝の近くに立つ青木昆陽頌徳碑
青木昆陽の墓があるのは、本堂裏手の高台になっている墓地の中です。
昭和18(1943)年5月1日に国の史跡に指定されました。てっぺんの尖った将棋の駒を細長くしたような形の墓碑に刻まれた文字は、昆陽が生前に自ら記したものです。
「甘藷先生墓」と彫られた青木昆陽の墓碑
正面には「甘藷先生墓」、左側面には「甘藷を広めたことにより、人は私のことを甘藷先生と呼ぶ。私は天下の人が、皆餓えることのないように願う」といった意味のことが書かれています。
この墓碑からも、昆陽がどれだけ人々が食べる物に困らずに暮らせる世の中を望み、サツマイモ栽培の普及に力を尽くすことによってその実現に貢献でき、人々から「甘藷先生」と呼ばれるに至ったことを誇りに思っていたのかがわかります。
でも、昆陽の功績は実はそれだけではありません。次回は、甘藷先生がどれだけエラい人だったのか、その知らざる活躍ぶりについて、見ていくことにしましょう。
【瀧泉寺基本データ】
■所 在 地 東京都目黒区下目黒3-20-26
■電話番号 03-3712-7549
■アクセス JR五反田駅(西口)から東急バス渋谷駅東口行き(渋72系統)目黒不動尊下車
JR・東急目黒線目黒駅下車、徒歩20分
東急目黒線不動前下車、徒歩15分