ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第9章】 VS ボクシング 《巻之一》

2017年05月15日 | 日記
桧垣源之助との右京ケ原での決闘に勝利した姿三四郎は、東京を離れて旅に出ます。
南小路家へ帰ることを拒んだ村井乙美が追って来るのを振り切って、紘道館の分場を作るために帰郷していた戸田雄次郎のいる伊豆を皮切りに、彼とともに浜松から名古屋へ、そして大阪を経て遠く広島にまで足を延ばし、各地の柔術家を訪ねては修行を続けた三四郎は、沼津で雄次郎と別れて横浜まで戻って来ました。
しかし、乙美への愛と柔道を両立させる自信のない三四郎は、彼女の待つ東京へ帰る決心がつかず、なかなか横浜を発つことができずにいました。そして、その地で彼は、柔術以外で初めて闘うことになる格闘技と出合います。その名を「スパアラ」といいました。

スパアラとはあまり聞きなれない闘技名ですが、拳闘、すなわちボクシングのことです。わたしは長い間、『姿三四郎』以外でボクシングのことをこう呼ぶ事例を知りませんでした。しかし、今回のブログを書くために調査を進める中で、ついに見つけたのです!
それは、『ボクシング100年』というムックにある記事で、アメリカでボクシング修行を積んで明治20(1887)年に帰国した元力士の浜田庄吉が、一緒に連れ帰ったボクサーやレスラーと全国を興行して回ったことが書かれています。そして、「その模様が4代歌川国政という絵師によって『欧米大相撲、スパーラ・ラスラ之図』と題する2枚続きの錦絵に描かれている。スパーラとはボクシングでいうスパーリングのことであり、ラスラはレスリングのことだろう。この錦絵が制作されたのは88年で、スパーラはグローブを着用していた」とありました。どうやらこの時代に、ボクシングのことをスパーラ、あるいはスパアラと呼ぶことがあったのは、確かなようです。


明治時代の横浜の風景写真① 横浜桟橋入口

三四郎がスパアラを見た最初は、野毛町裏の宿屋で一緒になった憂国の士真崎東天が、柔道の参考にでもなればとアメリカ人のスパアラ選手ウィリアム・リスターと、通訳の布引好造を連れて来た時です。
三四郎には先客がありました。「関東のお伊勢さま」こと伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市西区宮崎町64)がある野毛山(実際は明治4年に天照大御神が勧請された際に「伊勢山」と改められました)の掛茶屋で、空腹のあまり大福を食い逃げしようとして三四郎に捕まり、代金を払ってもらったお詫びとお礼に訪れた、18歳の若者左文字大三郎です。
武術の心得のある彼は、槍代りの物干し竿を手に、リスターと立ち合うことになります。

小刻みにステップを踏み、胸の辺りに構えた両拳を上下左右に小さく躍動させていつでも自在に進退できる体勢のリスター。闘志に燃え、竿先を突き付けてジリジリと迫る大三郎。
リスターは一旦跳躍しながら後退しますが、すぐ軽快に大三郎に向かって進んで来ます。好機と見た大三郎が、鋭く繰り出した竿先を左手ではね上げたリスターは、大三郎が竿を手元に繰り込むよりも早く飛び込んで、頬を平手で張り飛ばしていました。
勝負は一瞬でつき、顔を腫れ上がらせて寝込んでしまった大三郎を介抱しながら、三四郎はリスターの拳と足さばきについて考え続けました。彼と対戦した場合のことをあれこれ工夫してみましたが、勝つ方法を見出すことはできませんでした。

その後、また野毛山の茶屋を訪れた三四郎は、南小路高子に同行するリスターと偶然再会し、いつか彼と闘うことになるだろうと運命を予感します。
そんな時、彼は布引の招待で本格的なスパアラの試合を観戦する機会を得ます。


明治時代の横浜の風景写真② 横浜海岸より桟橋を望む

最初に行われたスパアラの選手同士の試合は、三四郎も素直に布引の好意に感謝して見ていました。
ところが次に現れたのは、あのウイリアム・リスターと、日本人の柔術家だったのです。
勝てる見込みのない試合だからやめろと、三四郎は柔術家を止めます。しかし、一心流の関根嘉兵衛と名乗ったその男は、
「こんなことでもやらにゃ、柔術家は飯が食えんわ」
と言い残してリスターに向かっていきました。
三四郎はどんな手段を使ってもいいから勝ってくれと必死で念じますが、彼の思いは通じず、嘉兵衛は人間サンドバックと化して一方的に殴られ、最後はアッパーをまともに喰らって、血の海に沈みました。
わずか3分間の勝負でした。

精魂を捧げつくしてやまぬ至高の存在と信じた日本の武術がスパアラに翻弄され、何ら対抗する術も策も持たない哀れな柔術家が、血に飢えた外国人観衆の残虐な欲望の餌食となるさまを目の当たりにし、三四郎は同じ武術家として、日本人として、激しい怒りと悲しみに苛まれていました。
その場にいたたまれなくなって、三四郎は外へ飛び出します。ガス灯の青い光芒に照らされて、奥歯を噛みしめ、夜空を睨みながら歩く彼の頬には、光るものがありました。


明治時代の横浜の風景写真③ 本牧


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
NIPPON SPORTS MOOK31『ボクシング100年』日本スポーツ出版社、2001年
散歩マップ編集部編『横浜 散歩マップ』成美堂出版、2009年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第8章】 VS 良移心当流・桧垣源之助《後編》

2017年05月05日 | 日記
徳川2代将軍秀忠・3代家光が世を治めていた元和(1615~1624)年間、福野七郎右衛門正勝によって良移心当和<やわら>が創始されました。一般には福野流、あるいは良移心当流と呼ばれ、良移心頭流とも書きます。当初はごく少数の門人に教授されただけで、あまり広く普及しませんでしたが、元禄(1688~1704)頃に筑前福岡藩士の笠原四郎左衛門一春が出て、流名を高めました。
正徳6(1716)年、笠原の高弟森八郎右衛門尚友が筑後久留米藩に槍術と和(柔術)の師範として仕え、同地に良移心当流をもたらしました。森はその伝を藩士の島田丹右衛門隆直に授け、島田はこれを下坂才蔵重義に伝えます。
下坂道場は、幕末から明治中期にかけて隆盛を誇りました。明治16(1883)年に下坂の推薦で、同門の上原庄吾とともに警視庁柔術世話係に採用されたのが、村井半助のモデル中村半助です。

桧垣源之助は村井半助の高弟ですが、琉球出身の彼はもともと唐手(空手)を修行した人間であり、柔術各流派の研究もしていました。頭脳明晰で学問もあり、その実力を知る柔術関係者はことごとく彼に敬服し、維新以来、全面的に傾きかけていた柔術界の救世主とみなしていました。本人も強い自信を持ち、野心もありました。しかし、一切の望みを絶たれた今となっては、宿敵姿三四郎の抹殺こそが、彼にとって唯一絶対の至上命題でした。
源之助から送られた果し状に対し、いつ、いかなる場合でも彼の挑戦に応じると心に決していた三四郎に、否やはありません。彼は紘道館の誰にも告げることなく、果し合いの地へと向かいました。

明治20年10月7日夜、上野高崎藩主松平右京亮<うきょうのすけ>(7万2千石)の中屋敷跡に広がる右京ケ原で、姿三四郎と桧垣源之助はついに対峙します。立会人は飯沼恒民、かつて二人が最初に出会った時に、闘うことを許さなかった人物です。彼は今回も勝負を止めるつもりでこの場に臨んだのですが、彼らの決意を覆すことはできませんでした。
いよいよ生死を賭けた対決が始まります。源之助と三四郎の間隔は2間(約4m)、そのまま、お互いの眼を射すくめる勢いで凝然と動きません。生きているもののすべてが、ピタリと気息を潜めているような緊迫感が辺りを支配します。それは長い時間に思われましたが、実際は2分か3分に過ぎませんでした。

源之助がやや身を沈め、唐手の八字立ち(両足を肩幅程度に開き、爪先を自然と外側に向けた立ち方)でじりじりと草の上を3、4寸(約9~12cm)進みます。左拳が腹の上に置かれ、右拳は腰骨の辺りに構えられていました。小林<しょうりん>流(知花朝信<ちばなちょうしん>を開祖とする唐手の流派)の平安<ぴんあん>の型から考案した、彼独特の攻防体勢です。三四郎は両手を下げたまま、構えるとも、守るとも見えない姿勢で立っていました。


都営地下鉄三田線・大江戸線の「春日」駅近く、白山通りから東へ入ると階段(上)を上がった所に清和公園(下)があります。この辺りから向う一帯が、「右京山」、あるいは「右京ケ原」と呼ばれていました。


そのまま、呼吸にして3つか4つの間が過ぎた時、動かなかった三四郎が無造作に、一直線に源之助に向かって歩き出しました。いたずらに相手の気息を窺っているのは賢明ではないと判断したのでしょう。三四郎の3歩目に源之助がいっそう低く身構えました。4歩目、4つの腕が互いに触れ合う近さに来た時、
「おうりゃっ」
裂帛の気合が夜気をつんざいて、源之助が一気に襲いかかります。
左の拳が三四郎の眉間に飛び、右の拳がみぞおちに走りました。腕と腕が絡み合います。
三四郎は源之助の左拳を左手で受けて、擦り上げるようにはずしながら身を倒しました。右足が相手の腹にかかり、右手はみぞおちを突いてきた源之助の右拳を抑えています。
6尺(約182cm)豊かな源之助の長身が、月の光の中にくっきりと弧を描き、3間(約5m)の距離を飛んで雑草の生い茂った中に落下しました。茎の折れる音と地響きがしましたが、落ちる時に半身を翻し、源之助は腹這いになって、草むらに両手を突いていました。
巴投げから身を起した三四郎と、草むらから飛び出した源之助が三四郎に躍りかかったのは同時でした。ガッと音のする激しさで、2つの肉体がぶつかります。

三四郎の投げを予想して、思い切り腰を落した源之助の両腕が、十字形に三四郎の襟に食い込みました。逆十字の立ち絞めです。投げを常日頃の攻防に用いる三四郎は襟に備えがなく、そこを実戦経験豊富な源之助に突かれたのです。
そのまま腰をのばし、源之助はキリキリと襟を絞りながら、三四郎を引きずり上げました。
三四郎の顔色が、月の光にもそれとわかるほどに赤紫に変ります。絞め落とされるまでに、もう10秒とは要さないでしょう。

三四郎は、絶体絶命の窮地に陥っていました。絞めを逃れようともがくことは、いたずらに彼の死を1秒なり、半秒なり早めるに過ぎません。自分の腕や手を相手の組んだ腕の間に割り込ませることは、麦わらで鉄錠をこじ開けようとするようなものです。
三四郎は敗北を覚悟しました。苦痛が薄れ、手足の先の感覚が鈍り、スーッと全身から力が抜けていきます。それはむしろ、快感に近いものでした。

その時、源之助は泉の水が湧くような歓喜を全身に感じていました。
宿敵が今、彼の両腕の中で絶息しようとしているのです。
「われ勝てり」
彼は月に向かって怒号したい衝動にかられました。
ですが、この最初の絞めで三四郎が仮死状態に陥ったとしても、そのまま放置すれば恒民が活を入れて息を吹き返すでしょう。彼は三四郎を殺してしまおうと決心していました。たとえ殺人犯として監獄に繋がれることになろうとも、彼はそれで満足だったのです。
彼の三四郎に対する憎しみは、そこまで根深いものとなっていました。

源之助は止めを刺すための新しい力を入れようと、わずかに両腕の力を緩めました。
ところが三四郎は、霞みかけた意識の底で、なおも源之助の技を冷静に観察し、研究を続けていたのです。彼を柔道の天才と呼ばせるものは、まさにそこにありました。あるいは、矢野正五郎や四天王、その他の若き門人たちとともに血のにじむような努力をして育て上げてきた柔道への深い愛着が、させたこととも言えるでしょう。
わずかに力の抜けた、敵の十字に組んだ腕のまたの真ん中に、三四郎の右腕が滑り込みます。そして源之助が我に返った時には、三四郎の左手が源之助の袖裏にかかっていました。
三四郎は思い切り身を沈めて、半身になって源之助の足を払い上げました。

壮絶な山嵐に、源之助は虚空を掴むような手付きで頭を下にして、半分、草の生えた柔らかい土の中に顔を突っ込んでいました。源之助は村井半助の轍<てつ>を踏みたくない一心で、頬をゆがめ、歯をくいしばって、フラリと起き上がりましたが、眼が霞み、西も東もわからなくなっていました。その胸元へ体を丸めるようにして飛び込んだ三四郎が、2度目の山嵐を仕掛けます。
最初の一撃で意識が混迷していた源之助は、頭と背中で受身をする形で地響きを立てて落下し、長々と草の上にのびてしまいました。
不気味な静けさが流れ、海底を思わせる重い青さをたたえた月夜の右京ケ原が、しんと静まり返ります。三四郎は終始声なく、2本の腕を両脇に下げたまま、じっと源之助を見つめていました。

「それまでっ、それまで!」
恒民が片手を挙げて叫んだ時、その声に意識を取り戻した源之助が、「まだっ!」とよろめきながら起き上がろうとしました。鼻血が顔の半分を染め、土に汚れた顔は蒼白でした。呼吸が続かないらしく、あえぎながら両手で土を掻くようにしてやっと立った彼の形相は、月光を浴びて、まるで悪鬼のようでした。
その時、草むらの中から匕首<あいくち>を手に飛び出した香車の安兵衛が、身体ごと源之助にぶつかっていきました。心明活殺流と付き合いがあった元遊び人の仙吉(三四郎が稽古を差し止められる原因となった喧嘩の相手)から今日の果し合いのことを聞き出し、復讐してやろうと身を潜めていたのです。

源之助は辛うじて安兵衛の一撃目をかわしましたが、身を翻して突進してきた第二撃からは、逃れる術がありませんでした。
安兵衛が源之助に飛びついたのと、その脇腹に三四郎の当身を食った上、体落しで仰向けに草に飛ばされたのとは同時でした。匕首が月光の中に舞って、源之助の側に落ちます。
危うく命拾いした源之助ですが、そこで彼の精魂もついに尽き果て、がっくりと膝を突いて草の上に崩れ落ちてしまいました。それ以上立ち上がる力は、もはや彼には残されていませんでした。


東側から見た清和公園。看板には「右京山」とあり、裏に解説が書かれています(東京都文京区本郷)

稽古着から着物に着替え、立ち去ろうとする三四郎を、良移心当流の付添人たちに囲まれて横たわる源之助が、「姿・・・君・・・」と呼び止めました。三四郎に技で負けた上、命まで救われた源之助は、自分の全面的敗北を認めざるをえませんでした。彼は心を改め、「柔術は出世の道具じゃなかった」と呟きます。
「それが分かるか、桧垣君、柔道は一流一派の道具でもない、日本の武術だということが」
という問いかけに、「分かる」と答えた源之助の手を、三四郎は固く握りしめました。
彼は柔道に志して以来初めて味わう、心からの安らぎと感激を嚙み締めていました。

こうして、三四郎は宿命のライバルに打ち勝ち、彼との和解を果たします。
しかし、それは三四郎がたどって来た修羅の道の終着点ではありませんでした。
もはや柔術界に敵のいなくなった彼を、さらに過酷な運命が待ち受けていたのです。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
高宮城繁他編『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年
公益財団法人全日本空手道連盟監修『はじめての空手道』誠文堂新光社、2016年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年
江幡潤著『東京史跡ガイド⑤ 文京区史跡散歩』学生社、1992年
街と暮らし社編『江戸・東京文庫⑧ 本郷界隈を歩く』街と暮らし社、2002年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第7章】 VS 良移心当流・桧垣源之助《前編》

2017年04月16日 | 日記
姿三四郎と宿敵桧垣源之助との出会いは、慢心した三四郎が暴力事件を起こし、稽古を差し止められていた時に遡ります。

まだ下谷の隆昌寺にあった紘道館は、その日ほとんどの門人たちが外出していて、残っているのは新関虎之助と三四郎だけでした。それに、矢野正五郎の起倒流の師であり、紘道館を開いた後も正五郎のよき理解者として、しばしば指導に訪れていた飯沼恒民<こうみん>(嘉納治五郎の師、飯久保恒年<つねとし>がモデル)が虎之助に稽古をつけていました。
そこへ突然、源之助が訪れたのです。師の村井半助に代わって警視庁武術世話係の職に就き、やがては柔術界を統合しようと目論む源之助にとって、紘道館はその前に立ちはだかる障害物にほかなりませんでした。その実力を確かめることが、彼の目的だったのです。

「一本、稽古を願おう」
そう言う源之助に、まだ17歳の少年である虎之助が立ち合うことになりました。稽古とは言っても、その実質は他流試合です。経験のない虎之助は、源之助の誘いに乗って安易に組みに行き、担ぎ上げられて道場の羽目板に叩きつけられ、気絶してしまいます。
次いで三四郎が源之助に挑もうとしましたが、恒民は稽古止めの身である彼が闘うことを許しませんでした。無念の思いを噛みしめながら玄関まで送り出した三四郎に、源之助は警視庁武術大会で試合をしようと約束し、紘道館を後にします。

しかし、この約束は結局果たされませんでした。先に書いたように、警視庁武術大会で三四郎と相見えたのは打倒紘道館の闘志に燃え、半病人の暮らしから立ち直った村井半助でした。
源之助は自分が代りに出場することを半助に申し出ましたが、拒まれて非常手段に訴えます。
試合前日、手の者に三四郎を襲撃させ、彼が試合に出られないようにしようと画策したのです。

ところが三四郎はその時、鹿鳴館の舞踏会に行っていました。暴走する馬車を身を挺して止め、南小路光康子爵の娘高子(村井乙美の腹違いの姉)の命を救ったことが縁で、招待されたのです。
三四郎は気乗りがしませんでしたが、明日の試合に囚われるなとの訓戒を込めて正五郎が強く勧めたので、渋々出かけました。
そこで彼は、高子に言い寄るスペイン領事館の書記官を投げ飛ばしてしまいます。巡査らに追われていた彼を救ったのは、当時第1次伊藤博文内閣(明治18<1885>年12月22日~21年4月30日)で農商務大臣を務めていた谷干城<たてき>でした。谷の馬車で無事鹿鳴館を脱出した三四郎は、奇しくも源之助の命を受けて鹿鳴館を張っていた襲撃者たちからも逃れることができたのです。
自分が狙われているなどとは、つゆ知らぬまま・・・・・・。


諸外国との間に結ばれた不平等条約改正のため、日本が文明国であることを示そうと建てられた社交場、鹿鳴館跡(東京都千代田区内幸町1-1)。煉瓦造り2階建ての洋館で、英国人コンドルが設計しました

思惑がことごとくはずれてしまった源之助は、ついに半助よりも実力が上の自分が三四郎と闘うべきだと三島通庸警視総監に直訴します。しかし、あくまで試合を譲ろうとしない半助を「先生はある意味で裏切り者ですぞ」と罵るに及び、ついに三島の怒りを買ってしまいます。それは、源之助の警視庁武術世話係への望みが絶たれた瞬間でもありました。

源之助が危惧した通り、半助は善戦むなしく三四郎の山嵐の前に敗れ去ります。
勝利を収めた紘道館は、当然のごとく警視庁に進出し、源之助が就けなかった武術世話係には、四天王の壇義麿や津崎公平(モデルは講道館四天王の横山作次郎と山下義韶)が採用されました。さらに、古流に対する柔道の優位が明らかになると、柔術諸流派を修行していた若者たちが、次々と紘道館に転向し始めました。
こうして、源之助の柔術界統合の野望はもろくも潰え、そればかりか、妻にと望んでいた乙美の心もまた三四郎に奪われてしまったのです。

世間の注目が最も集まる時と場所を選んで、三四郎を、紘道館を叩きのめそうと考えていた源之助は、ここに来て、ルールもなく、何の邪魔も入らない野試合で、三四郎の息の根を完全に止めてしまう決意を固めます。

村井半助の葬儀後間もなく、姿三四郎の許に桧垣源之助からの果し状が送り届けられたのです。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
嘉納治五郎著『私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
黒坂判造著『千代田区の今と昔 人と生活』黒坂判造、2003年
鳥海靖編『歴代内閣・首相事典』吉川弘文館、2009年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第6章】 VS 良移心当流・村井半助 《巻之四》

2017年03月18日 | 日記
ブーンと唸る勢いで飛んだ姿三四郎の身体は、虚空3尺(約91cm)、丸くなってクルリと宙に返ると、観覧席前に張られた縄とすれすれの位置で、やや腰をかがめ、村井半助に対して真向いに立っていました。

三四郎のモデル、西郷四郎が得意とした「猫の三寸返り」です。
少年時代、四郎は暇さえあれば屋根から転げ落ち、地に着く直前にスクッと立つ練習をしたといいます。
三四郎も、故郷の会津で天神真楊流を習った大曾根俊平から、かつて関口流柔術の流祖関口弥六右衛門氏心<うじむね>(柔心)が同様の技を使ったと聞き、修練を重ねていました。

道場中が驚嘆のどよめきに叩き込まれた時、飽くまでも己の優勢を崩したくない半助が、ドドドドッと畳を蹴って三四郎に飛びつきました。その左の出足へ、三四郎の右足が飛びます。三四郎の大内刈に、半助はドスンと尻もちをつきました。
しかし、半助は相手の袖をつかんだ手を放さず、右手を半ば後ろ向きになった三四郎の帯に回すと、座りながら赤ん坊を抱いて立ち上がるような格好で軽々と抱きかかえ、肩の辺りまで担ぎ上げました。

「とうっ!」
腸<はらわた>から絞り出すような気合を発し、半助は仰向けに倒れながら、三四郎を頭越しに放り投げました。この裏投げで、三四郎は試合場の西の隅から東の隅へ、鞠のように吹き飛びました。
しかし、ガバッと起きて、技の効果を見定めようとした半助の眼に、またしても宙に返ってポンと立ち、両手を無造作に下げている三四郎の姿が映ったのです。

場内の異様な叫喚よりも先に、半助自身の眼がこれを疑い、意外な結果に戸惑っていました。
これではいくら投げてもきりがありません。極めるべき技がないのです。もはや寝技に引きずり込んで、逆を取るか、絞めるか、固めて攻略するほかに手がありません。
その新たな戦法を脳裏に浮かべるほんの2、3秒の間、半助にわずかな隙ができました。
それを見逃す三四郎ではありません。守勢一方だった彼が、半助の懐に飛び込みます。
右手が半助の左襟にかかり、左手が左袖にかかると体を斜めに開いて、グイグイと引きずり始めました。

体重と身長の開きから想像される力の差から推して、三四郎に半助を圧倒するパワーがあるとは思えませんでしたが、内心の動揺がそうさせるのか、半助は腰を引き、ダダ、ダダッとのめるように、畳を叩くような足音を立てて移動していきます。
30畳の試合場を半周した時、堪りかねた半助の左足が、三四郎の右足の踵<かかと>をぱっと払いました。刹那、三四郎の払われた右の足裏は、半助の右の足首にピッタリと張り付いて、飛び込んだ肩に23貫(約86kg)の肉塊を担ぐと、相手の足首を力の限り払い飛ばしました。
小柄な三四郎の頭上で、半助の足は遥か上空を蹴ると、身体は三四郎を中心に車輪のような半円を描いて、ズシンと畳に落ちました。
三四郎の必殺技、山嵐です!


三島家墓所に立つ通庸墓碑(左)と顕彰碑(右)。通庸は『姿三四郎』では三四郎と村井半助、現実でも横山作次郎と中村半助、西郷四郎と楊心流戸塚派、好地円太郎戦などを目撃(東京都港区・青山霊園)

半助は首の骨を強か打ってしまいました。頭から谷底へ飛び込んだ心地で、フラリと起き上がった彼の耳に、道場中のどよめきが遠い潮鳴りのようにぼんやり聞こえてきます。
そう思った時、三四郎の2度目の山嵐が襲いました。
腰にも、足にも、心にも備えがありませんでした。半助は、またもや宙を飛びます。
ガクンと畳に落ちた時、彼は頭を強打しました。受身をするには、角度が鋭すぎたのです。

「起きてはやられる・・・・・・」
霞む意識の中で、半助はそう思いました。このまま寝技に引っぱり込む以外に逃れる術がありません。
ですが、それは相手が寝技を仕掛けてきた場合の話です。投げられたまま起きもせず、寝て待つことはできません。立ち上がる力も失せたと見なされ、敗北を宣されてしまいます。ちらつく彼の網膜に、自分のようすを5間(約9m)も先から、両手を下げてじっと見つめている三四郎が映りました。
「堂々と戦わねばならぬ」
半助は苦痛の中で思いました。顔を歪めて起き上がった彼が一歩足を踏み出した時、三四郎は三度、彼の懐に飛び込みました。止めの壮絶な山嵐です。

足を縮め、首をすくめた半助は、1個の岩塊に似て空中を飛ぶと、真っ逆さまに畳に落ちました。
半助はそれでもなお、両手を前に突いて起きようとします。しかし、軽い脳震盪<のうしんとう>を起してしまい、眼がくらみ、手足が痺れます。さすがの彼も、ついに闘う気力が尽きました。
「我、敗れたり・・・・・・」
半助は全身の気力を集め、ようやく正座して両手を突くと、「ま、参りましたっ」と言ったのです。
応じる動作で、半助と5間を隔てて三四郎もまた、正座して両手を突きました。

「それまで!」
検証の佐々木源一郎の声が終わらぬうちに、半助は前のめりに突っ伏していました。試合係が3、4人駆け寄って半助を抱きかかえると、急いで観衆の開けた路を、控室へと運んで行きました。
割れるような拍手と歓声の中で三四郎は、三島通庸警視総監や矢野正五郎が座る正面の上席に一礼すると、もの静かな、いや、見ようによってはもの悲し気とさえ思える面持ちで、群れ立つ人々の間を足早に引き上げて行ったのです。


死力を尽くした闘いで、精魂使い果たした半助は、試合後にそのまま病の床に就きます。若い頃から浴びるように飲んだ酒が、五体をすっかり蝕んでいたことも災いしたのでしょう。
半助は、試合を通して武術家としても、人間としても大きな信頼を寄せるようになった三四郎に、乙美を実父である南小路光康子爵の許へ帰すよう依頼します。
いかに柔道が強かろうと、三四郎は社会的には一介の書生に過ぎません。自分に課された責任の重大さに困惑しつつも、半助の切実な願いに引き受けざるを得なかった彼の所に「村井半助、死す」の報せが届いたのは、秋も深まったある朝のことでした。


【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第13巻 吉川弘文館、1992年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
星亮一著『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』平凡社、2013年

姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【第5章】 VS 良移心当流・村井半助 《巻之三》

2017年02月05日 | 日記
姿三四郎VS村井半助戦が行われた当時、警視庁は現在の桜田門外ではなく、旧江戸城の外濠に架かっていた鍛冶橋の内側にありました。維新前は津山松平藩の江戸藩邸だった場所で、今では東京駅の敷地内となっています。
明治7(1874)年の警視庁創設とともに建てられた最初の庁舎が老朽化し、同15年12月4日に鍛冶橋第二次庁舎が竣工してから4年半あまりが経過していました。
桜田門から皇居外苑に入った三四郎は、皇居前広場を駆け抜け、おそらくは馬場先門橋辺りで内濠を渡って、鍛冶橋警視庁へと向かったのでしょう。


皇居外苑案内図。上端にある桔梗門の別名が内桜田門(楠公レストハウス。東京都千代田区皇居外苑)

その頃、すでに警視庁の武術大会会場では、さまざまな柔術流派の乱取や形が披露されていました。
実際の警視庁武術大会では、当然、剣術も行われたのでしょうが、『姿三四郎』ではそのことには触れられていません。
不遷流の形に続いて、いよいよ本日のメイン・イベントで、唯一の他流試合である紘道館矢野流と良移心当流との対戦が、満を持して始まろうとしていました。
剣術道場と柔術道場の境の仕切りをはずし、その真ん中に畳を30枚も敷いた試合場がひどく狭く感じられるのは、観戦者があまりに多いためです。
鈴なりの観衆のお目当てもやはりこの試合で、客席は柔術諸流の関係者、紘道館の門人や矢野塾(矢野正五郎の私塾)の塾生、世評を聞いて集まった人々で埋め尽くされていました。

呼出係の巡査が「模範他流試合!」と大声で叫ぶと、古流柔術と新興柔道の存亡を賭けた世紀の一戦への期待と興奮で、凄まじい熱気に包まれた試合場には歓呼の声が上がりました。
やがて東の一隅に、白髪白鬚で品のよい老人が立ちました。検証役の汲心流師範、佐々源一郎です。
「良移心当流、村井半助師範」
係の呼び声に、半助がゆったりした歩調で、四肢の均整が取れ、引き締まった巨体を現しました。
襟元から覗く盛り上がった胸の筋肉と皮膚の照りの良さは、彼が充分に稽古を積んだことを物語り、静かな物腰と、澄んだ眼は心の落ち着きを表していました。
「紘道館矢野流、姿三四郎君」
「師範」ではなく、「さん」とも呼べず、「氏」というのは古臭く、「先生」とするほどの歳でも格でもなし・・・・・と無意識のうちに判断しての「君」づけでしたが、三四郎を応援する側からは「先生と呼べ!」とブーイングが飛びます。そうは言っても呼び直すわけにもいかず、「静粛に願います」という係の言葉に、客席の興奮は一気に高まりました。
「警視庁、公平にやれ」「黙れ、つまみ出すぞ」「横暴、横暴!」
罵声が飛び交い、敵対する両陣営間の緊張が張り詰める中、決戦の舞台に間に合った三四郎が、迷いの吹っ切れた軽快な足取りで登場しました!

騒然としていた会場が、シーンと静まり返ります。三四郎は、三島通庸警視総監の席から5人目の椅子に座っている正五郎に向って頭を下げました。
拍手が起こり、それはすぐに止みます。誰もが、一刻も早い試合の開始を望んでいるかのようでした。
三四郎と半助は相対して座すと、互いの眼を見合ってから、両手をついて丁重に一礼しました。
「勝負、30分」
佐々が凛とした声で宣すると同時に、両者は素速く、弾かれたように立ち上がります。一礼が終われば、すでに戦闘は始まっているのです。
二人はすぐには組まず、3尺(約91cm)の距離を隔ててにらみ合いました。
半助の身長5尺9寸(約179cm)に対して三四郎は5尺2寸(約158cm)。7寸も丈の差があります。
体重も、半助の23貫(約86kg)に対して三四郎15貫(約56kg)と、8貫の開きがありました。
まるで、大人と子どもです。筋肉の発達と、バランスのとれた四肢は決して半助に劣るものではありませんでしたが、重さ、厚み、長さにおいて甚だしい体格差があります。
勝負30分ということは、この試合が審判の判定で勝敗の決するものではないことを意味しました。三本勝負でも、一本勝負でもありません。関節を逆に極めるもよし、絞め落とすもよし、どちらかが降参するか、意識を失って戦闘不能に陥るまで続けられるデスマッチです。

三四郎と半助の距離は、2尺(約61cm)へと縮まっていました。二人は間合いをはかりながら、じりじりと小刻みに右へ右へと移動していきます。
見た目にはなんの攻防も行われてはいませんが、彼らの間では精神力で相手を圧倒せんとする熾烈な心の闘いが展開されており、その気魄が互いに鉄と鉄とがぶつかり合うように、火花を散らして一歩も譲りませんでした。
半助と三四郎の間隔は、ついに1尺(約30cm)弱となりました。ぴたりと静止した瞬間、「参ろう」と低いけれど鋭い声が、半助の唇から発せられます。
二人はどちらからともなく互いの襟と袖先を掴みました。半助はやや右に、三四郎は心持ち左に開いて左自護体(自然体から上体を少し低くして、両足をやや広く開いて左足を一足分ほど真ん前に出した防御姿勢)となって、そのまま動きません。
しかし、それは時間にして10秒とはなかったでしょう。
半助はすぐに三四郎の体勢を崩そうと右に半歩動き、続いて、また半歩引きました。それに対して三四郎の足は、音もなく、動いたとも見えないのに半助の半歩に対してそれよりも5寸(約15cm)多く、次の半歩には1尺(約30cm)近くも大きく先に移っていました。
三四郎の体はまったく崩れません。ただ大きな移動で、腰が伸びて自然体に近い姿勢になっています。半助は右隅になおも引くと見せて、次の瞬間には左足を三四郎の後方に飛ばしていました。
体落としと、大外刈りの中間のような技でした。凄まじい気合が一陣の風を巻き起こし、半助の巨体が小柄な三四郎を舞い上げんばかりの勢いでぶつかります。
しかし、その一瞬、三四郎の右足が半助の食い込んだ右足をふわりと流して、左手を振りほどいてすっくと立っていました。それは、まるで柳の枝が一陣の突風を軽く受け流すかのようでした。

半助は攻撃の手をゆるめず、次いで大外刈りを飛ばします。
三四郎は、今度は両手を払って1間(約182cm)ほど飛び退きました。
追いすがって、再び組む半助。三四郎の両袖を掌の中に巻き込んで、そのまま吊り上げる勢いで左へ、左へと引き回し始めました。三四郎は、一切、半助の力にさからいません。
こちらが引けば、引かれまいとして引き返してきてこそ、初めてその力に乗じて相手の体勢を崩し、技をかけることができるのです。まったく抵抗することなくこちらの動きについて来られては、その機会はいつまでたっても得られません。
すでに試合開始から15分あまりが過ぎて、一方的に攻め続ける半助の胸中にも次第に焦りが生じてきました。彼は一瞬、静止すると腰を引いて、全身の力を両腕に集中して軽く押し込むと、その力を倍加して前に引き戻しました。次に体をすくめ、三四郎の内股を内側から抱き込んだのです。
もはや、相手の力を利用して倒すという柔術の基本セオリーは、半助の頭から吹き飛んでいました。
己の力だけに頼った強引な肩車です。重さ約60kgの米俵を両手に一俵ずつ持って自在に操ったという中村半助をモデルとする、彼の膂力があったればこその荒技でしょう。
彼は三四郎を横ざまに、高々と肩に担ぎ上げました。
「やった!」
観衆の口を、鋭い絶叫が衝いて出ます。
三四郎は、そのまま脳天から試合場の畳の上に叩きつけられて、あえなく悶絶する・・・・・・、誰もが彼の運命を、そう予測した瞬間でした。


JR東京駅。敷地に編入されることになった鍛冶橋第二次庁舎は明治44年3月30日にその役目を終え、警視庁は日比谷赤煉瓦<れんが>庁舎へと移転することになりました(東京都千代田区丸の内1丁目)


【参考文献】
警視庁史編さん委員会編『警視庁史 明治編』警視庁史編さん委員会、1959年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年