桧垣源之助との右京ケ原での決闘に勝利した姿三四郎は、東京を離れて旅に出ます。
南小路家へ帰ることを拒んだ村井乙美が追って来るのを振り切って、紘道館の分場を作るために帰郷していた戸田雄次郎のいる伊豆を皮切りに、彼とともに浜松から名古屋へ、そして大阪を経て遠く広島にまで足を延ばし、各地の柔術家を訪ねては修行を続けた三四郎は、沼津で雄次郎と別れて横浜まで戻って来ました。
しかし、乙美への愛と柔道を両立させる自信のない三四郎は、彼女の待つ東京へ帰る決心がつかず、なかなか横浜を発つことができずにいました。そして、その地で彼は、柔術以外で初めて闘うことになる格闘技と出合います。その名を「スパアラ」といいました。
スパアラとはあまり聞きなれない闘技名ですが、拳闘、すなわちボクシングのことです。わたしは長い間、『姿三四郎』以外でボクシングのことをこう呼ぶ事例を知りませんでした。しかし、今回のブログを書くために調査を進める中で、ついに見つけたのです!
それは、『ボクシング100年』というムックにある記事で、アメリカでボクシング修行を積んで明治20(1887)年に帰国した元力士の浜田庄吉が、一緒に連れ帰ったボクサーやレスラーと全国を興行して回ったことが書かれています。そして、「その模様が4代歌川国政という絵師によって『欧米大相撲、スパーラ・ラスラ之図』と題する2枚続きの錦絵に描かれている。スパーラとはボクシングでいうスパーリングのことであり、ラスラはレスリングのことだろう。この錦絵が制作されたのは88年で、スパーラはグローブを着用していた」とありました。どうやらこの時代に、ボクシングのことをスパーラ、あるいはスパアラと呼ぶことがあったのは、確かなようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/ac/05f468e4703430b223b0352574bacfce.jpg)
明治時代の横浜の風景写真① 横浜桟橋入口
三四郎がスパアラを見た最初は、野毛町裏の宿屋で一緒になった憂国の士真崎東天が、柔道の参考にでもなればとアメリカ人のスパアラ選手ウィリアム・リスターと、通訳の布引好造を連れて来た時です。
三四郎には先客がありました。「関東のお伊勢さま」こと伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市西区宮崎町64)がある野毛山(実際は明治4年に天照大御神が勧請された際に「伊勢山」と改められました)の掛茶屋で、空腹のあまり大福を食い逃げしようとして三四郎に捕まり、代金を払ってもらったお詫びとお礼に訪れた、18歳の若者左文字大三郎です。
武術の心得のある彼は、槍代りの物干し竿を手に、リスターと立ち合うことになります。
小刻みにステップを踏み、胸の辺りに構えた両拳を上下左右に小さく躍動させていつでも自在に進退できる体勢のリスター。闘志に燃え、竿先を突き付けてジリジリと迫る大三郎。
リスターは一旦跳躍しながら後退しますが、すぐ軽快に大三郎に向かって進んで来ます。好機と見た大三郎が、鋭く繰り出した竿先を左手ではね上げたリスターは、大三郎が竿を手元に繰り込むよりも早く飛び込んで、頬を平手で張り飛ばしていました。
勝負は一瞬でつき、顔を腫れ上がらせて寝込んでしまった大三郎を介抱しながら、三四郎はリスターの拳と足さばきについて考え続けました。彼と対戦した場合のことをあれこれ工夫してみましたが、勝つ方法を見出すことはできませんでした。
その後、また野毛山の茶屋を訪れた三四郎は、南小路高子に同行するリスターと偶然再会し、いつか彼と闘うことになるだろうと運命を予感します。
そんな時、彼は布引の招待で本格的なスパアラの試合を観戦する機会を得ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0e/8edc534f0334eac995a27e96a5f7cb95.jpg)
明治時代の横浜の風景写真② 横浜海岸より桟橋を望む
最初に行われたスパアラの選手同士の試合は、三四郎も素直に布引の好意に感謝して見ていました。
ところが次に現れたのは、あのウイリアム・リスターと、日本人の柔術家だったのです。
勝てる見込みのない試合だからやめろと、三四郎は柔術家を止めます。しかし、一心流の関根嘉兵衛と名乗ったその男は、
「こんなことでもやらにゃ、柔術家は飯が食えんわ」
と言い残してリスターに向かっていきました。
三四郎はどんな手段を使ってもいいから勝ってくれと必死で念じますが、彼の思いは通じず、嘉兵衛は人間サンドバックと化して一方的に殴られ、最後はアッパーをまともに喰らって、血の海に沈みました。
わずか3分間の勝負でした。
精魂を捧げつくしてやまぬ至高の存在と信じた日本の武術がスパアラに翻弄され、何ら対抗する術も策も持たない哀れな柔術家が、血に飢えた外国人観衆の残虐な欲望の餌食となるさまを目の当たりにし、三四郎は同じ武術家として、日本人として、激しい怒りと悲しみに苛まれていました。
その場にいたたまれなくなって、三四郎は外へ飛び出します。ガス灯の青い光芒に照らされて、奥歯を噛みしめ、夜空を睨みながら歩く彼の頬には、光るものがありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/13/9621ca0368091e08943ece8a34a53c6e.jpg)
明治時代の横浜の風景写真③ 本牧
【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
NIPPON SPORTS MOOK31『ボクシング100年』日本スポーツ出版社、2001年
散歩マップ編集部編『横浜 散歩マップ』成美堂出版、2009年
南小路家へ帰ることを拒んだ村井乙美が追って来るのを振り切って、紘道館の分場を作るために帰郷していた戸田雄次郎のいる伊豆を皮切りに、彼とともに浜松から名古屋へ、そして大阪を経て遠く広島にまで足を延ばし、各地の柔術家を訪ねては修行を続けた三四郎は、沼津で雄次郎と別れて横浜まで戻って来ました。
しかし、乙美への愛と柔道を両立させる自信のない三四郎は、彼女の待つ東京へ帰る決心がつかず、なかなか横浜を発つことができずにいました。そして、その地で彼は、柔術以外で初めて闘うことになる格闘技と出合います。その名を「スパアラ」といいました。
スパアラとはあまり聞きなれない闘技名ですが、拳闘、すなわちボクシングのことです。わたしは長い間、『姿三四郎』以外でボクシングのことをこう呼ぶ事例を知りませんでした。しかし、今回のブログを書くために調査を進める中で、ついに見つけたのです!
それは、『ボクシング100年』というムックにある記事で、アメリカでボクシング修行を積んで明治20(1887)年に帰国した元力士の浜田庄吉が、一緒に連れ帰ったボクサーやレスラーと全国を興行して回ったことが書かれています。そして、「その模様が4代歌川国政という絵師によって『欧米大相撲、スパーラ・ラスラ之図』と題する2枚続きの錦絵に描かれている。スパーラとはボクシングでいうスパーリングのことであり、ラスラはレスリングのことだろう。この錦絵が制作されたのは88年で、スパーラはグローブを着用していた」とありました。どうやらこの時代に、ボクシングのことをスパーラ、あるいはスパアラと呼ぶことがあったのは、確かなようです。
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明治時代の横浜の風景写真① 横浜桟橋入口
三四郎がスパアラを見た最初は、野毛町裏の宿屋で一緒になった憂国の士真崎東天が、柔道の参考にでもなればとアメリカ人のスパアラ選手ウィリアム・リスターと、通訳の布引好造を連れて来た時です。
三四郎には先客がありました。「関東のお伊勢さま」こと伊勢山皇大神宮(神奈川県横浜市西区宮崎町64)がある野毛山(実際は明治4年に天照大御神が勧請された際に「伊勢山」と改められました)の掛茶屋で、空腹のあまり大福を食い逃げしようとして三四郎に捕まり、代金を払ってもらったお詫びとお礼に訪れた、18歳の若者左文字大三郎です。
武術の心得のある彼は、槍代りの物干し竿を手に、リスターと立ち合うことになります。
小刻みにステップを踏み、胸の辺りに構えた両拳を上下左右に小さく躍動させていつでも自在に進退できる体勢のリスター。闘志に燃え、竿先を突き付けてジリジリと迫る大三郎。
リスターは一旦跳躍しながら後退しますが、すぐ軽快に大三郎に向かって進んで来ます。好機と見た大三郎が、鋭く繰り出した竿先を左手ではね上げたリスターは、大三郎が竿を手元に繰り込むよりも早く飛び込んで、頬を平手で張り飛ばしていました。
勝負は一瞬でつき、顔を腫れ上がらせて寝込んでしまった大三郎を介抱しながら、三四郎はリスターの拳と足さばきについて考え続けました。彼と対戦した場合のことをあれこれ工夫してみましたが、勝つ方法を見出すことはできませんでした。
その後、また野毛山の茶屋を訪れた三四郎は、南小路高子に同行するリスターと偶然再会し、いつか彼と闘うことになるだろうと運命を予感します。
そんな時、彼は布引の招待で本格的なスパアラの試合を観戦する機会を得ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/0e/8edc534f0334eac995a27e96a5f7cb95.jpg)
明治時代の横浜の風景写真② 横浜海岸より桟橋を望む
最初に行われたスパアラの選手同士の試合は、三四郎も素直に布引の好意に感謝して見ていました。
ところが次に現れたのは、あのウイリアム・リスターと、日本人の柔術家だったのです。
勝てる見込みのない試合だからやめろと、三四郎は柔術家を止めます。しかし、一心流の関根嘉兵衛と名乗ったその男は、
「こんなことでもやらにゃ、柔術家は飯が食えんわ」
と言い残してリスターに向かっていきました。
三四郎はどんな手段を使ってもいいから勝ってくれと必死で念じますが、彼の思いは通じず、嘉兵衛は人間サンドバックと化して一方的に殴られ、最後はアッパーをまともに喰らって、血の海に沈みました。
わずか3分間の勝負でした。
精魂を捧げつくしてやまぬ至高の存在と信じた日本の武術がスパアラに翻弄され、何ら対抗する術も策も持たない哀れな柔術家が、血に飢えた外国人観衆の残虐な欲望の餌食となるさまを目の当たりにし、三四郎は同じ武術家として、日本人として、激しい怒りと悲しみに苛まれていました。
その場にいたたまれなくなって、三四郎は外へ飛び出します。ガス灯の青い光芒に照らされて、奥歯を噛みしめ、夜空を睨みながら歩く彼の頬には、光るものがありました。
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明治時代の横浜の風景写真③ 本牧
【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
NIPPON SPORTS MOOK31『ボクシング100年』日本スポーツ出版社、2001年
散歩マップ編集部編『横浜 散歩マップ』成美堂出版、2009年