ひろむしの知りたがり日記

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1954 ゴジラ誕生物語 (2・完) ─ 咆哮編

2014年08月18日 | 日記
円谷英二率いる特殊技術チームは、身長50メートル、体重2万トンという前代未聞の巨大怪獣をビジュアル化するために、苦心に苦心を重ねました。
当初は「キング・コング」のようなストップモーション・アニメも検討されましたが、およそ1ヵ月で1本の映画を製作する日本の撮影システムでは、1コマずつ人形を動かして撮影するアニメーション方式は、スケジュール的にも予算的にも不可能でした。
そこで、俳優が中に入る着ぐるみ(モンスタースーツといいます)を作って、それをミニチュアセットの中で暴れさせるという撮影方法が取られることになりました。
以後、この方式は日本独自のものとして確立され、様々な怪獣が誕生することになります。

ゴジラの造型は原作者香川滋の推薦で、漫画家の阿部和助が水爆の原子雲をモチーフにしたデザインを描き、それを美術の渡辺明が恐竜スタイルに仕立て、彫刻家の利光貞三が粘土原型を造りました。
皮膚は魚のような鱗状、カメレオンのようなブツブツと変わっていき、最終的にはワニ革状になり、背中に大きなヒレを付けたお馴染みのデザインが決定しました。
それを基に、最初に作られたゴム製の着ぐるみは、150キロというとてつもない重量になりました。中に入ったスーツアクターの中島春雄と手塚勝巳は、まったく動くことができずに悪戦苦闘します。
そこで、より軽い着ぐるみが新たに作られましたが、せっかくこしらえた初号スーツは無駄にはされませんでした。腰から上下に切断され、品川に現れたゴジラの上半身のアップや、銀座あたりを破壊する足元のアップを撮影する際に使われたのです。


池袋サンシャインシティで開かれた「大ゴジラ特撮展 ゴジラ60年激闘伝説」の広告(左)と会場風景

大戸島に甚大な被害をもたらしたゴジラは、次いで本州に上陸します。
破壊の限りを尽くされ、火の海と化す東京の町は、精巧なミニチュアセットです。渡辺明は事前に円谷らとロケハンを重ね、服部時計店の時計台や数寄屋橋、国会議事堂など、実物と見まごうばかりのリアルな街路を25分の1サイズで作り上げました。

破壊シーンの演出にも、さまざまな工夫が凝らされています。
ゴジラが吐き出す放射能の炎で、高圧鉄塔がグニャグニャッと溶けて折れ曲がるシーンでは、円谷のアイディアで、蝋とハンダで鉄塔が作られ、それに強いライトを当てて溶かすという手法が用いられました。
何もかも初めて尽くしだったのは、撮影ばかりではありません。実写と特撮の合成も、かつてない分量をこなさなければなりませんでした。

印象的な楽曲で、映画を力強く支えたのが音楽担当の伊福部昭です。
彼の手になる300本以上もの映画音楽の中でも、“ゴジラ”シリーズをはじめとする東宝怪獣・特撮映画のものは、ある時は重厚に怪獣の猛威を表現し、またある時は勇壮な最先端兵器による戦闘シーンを盛り上げて、見る者を映画の世界に引き込みました。
こうして多方面の才能が各々ベストを尽くし、国産初の怪獣特撮映画という前人未到のフロンティアを切り開いていったのです。数々の困難があったにもかかわらず、映画は驚異的なスピードで完成し、昭和29(1954)年11月3日、ついに有楽町の日劇をはじめとする東宝系の劇場に、ゴジラの咆哮が轟きます。

公開された「ゴジラ」は、新聞の文化欄などでは「ゲテモノ映画」と酷評されました。
しかし、怪獣に仮託して、核兵器に代表される科学技術の暴走の恐ろしさを訴えるというメッセージ性もさることながら、ドキュメンタリー的演出と特撮カットとの連携技術の水準は極めて高く、同時期の海外SF映画と比較してもまったく引けを取らない出来でした。

評論家が知ったかぶりして何を言おうと、そんなことには関係なくホンモノは民衆のハートを引き付けます。
映画は大ヒットし、観客動員数843万人、配収1億5,237万円、その年の東宝配給作品の中で、「七人の侍」「宮本武蔵」に次ぐ第3位にランキングされるという快挙を成し遂げます。そしてその成功の影には、製作に携わった人たちの、それぞれの立場やそれまでの人生経験に基づく真摯な思いの結集があったのです。


ゴジラ東京上陸60周年を記念(?)して発売されたフレーム切手。「東京上陸MAP」や絵葉書付き

軍隊経験が長く、戦争の酷さをよく知る本多猪四郎監督が、自分の思いを込めて撮影した、映画の重要なテーマにも関わるシーンがあります。
それは、古生物学者山根恭平(志村喬)の娘恵美子(河内桃子)と、その恋人で南海サルベージ社員の尾形秀人(宝田明)が、山根の愛弟子で恵美子が兄のように慕う(世間では許嫁同然といわれています)天才科学者芹沢大助(平田昭彦)の研究室へ、彼が極秘に研究しているオキシジェン・デストロイヤーを、ゴジラを倒すために使用するよう説得に行く場面です。

2人は必死に芹沢を口説きますが、一度その凄まじい威力が世に知られてしまえば、為政者たちは必ず兵器として用いようとするだろうと、彼は頑なに拒否します。しかし、見るも無残な惨状を前に、テレビから流れてくる平和への祈りを込めて歌う少女たちの声に心を動かされた芹沢は、あまりに悲しい決断をします。
彼は自らオキシジェン・デストロイヤーを使い、海底に潜むゴジラを消滅させ、それと運命を共にすることによって、オキシジェン・デストロイヤーの秘密を永遠に葬り去ったのです。

芹沢の命と引き換えに、ゴジラが藻屑と消えていった海面を見つめながら、山根恭平は呟きます。
「あのゴジラが、最後の1匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また、世界のどこかに現れて来るかもしれない」

山根の予言は、スクリーン上で実現することになります。
その後も核兵器は世界中に拡散していき、人類を滅亡の危機に晒し続けてきました。それに警鐘を鳴らすかのように、ゴジラ映画は幾度かの休眠期間を経ながらもその都度甦り、60年間で日米合わせて30本が製作されました。それらの作品の中で、ゴジラは「人類よ、このままでよいのか」と問いかけるかのように、恐ろしくも悲しげな咆哮を上げ続けてきたのです。

そして、おそらくはこれからも・・・・・。

ハリウッド製作の「GODZILLA ゴジラ」(2014年)


【参考文献】
坂井由人・秋田英夫著『ゴジラ来襲!!』KKロングセラーズ、1998年
ブラック アンド ブルー編『Japanese SF Movies 日本特撮名鑑』ネコ・パブリッシング、1999年
特撮映画研究会編『怪獣とヒーローを創った男たち』辰巳出版、2002年
井上ひさし著『映画をたずねて 井上ひさし対談集』筑摩書房、2006年
竹内博著『特撮をめぐる人々 日本映画昭和の時代』ワイズ出版、2011年

1954 ゴジラ誕生物語 (1) ─ 胎動編

2014年08月11日 | 日記


第2次大戦の終結から9年後の昭和29(1954)年。戦争の記憶いまだ生々しく、日本人は懸命に復興への努力を続けていました。わが国初の怪獣映画「ゴジラ」が公開されたのは、その年の11月3日のことです。

さかのぼること8ヵ月前の3月1日、マーシャル諸島のビキニ環礁で、米軍による水爆実験が行われました。この実験では、マグロ漁船の第五福竜丸乗組員が被爆するという事件が起きています。ビキニ環礁での水爆実験が原因で生み出された怪獣ゴジラが、放射能を吐き散らしながら東京を蹂躙するこの映画は、日本人に原爆や空襲の再来を思い起こさせました。
それとともに、水中の酸素を破壊し、あらゆる生物を窒息死させ、液化してしまう、核にも引けを取らない恐ろしい兵器オキシジェン・デストロイヤーでゴジラを葬り去るという結末は、どんなに戦争が悲惨なものであるかわかっていても、結局自らを破滅させかねない兵器の開発をやめることができない人類への、強烈な警鐘の意味が込められていました。

「ゴジラ」は東京の封切館4館の初日だけで3万3千人もの観客を動員するという大ヒットを記録し、その後もシリーズ化されます。第1作に込められたメッセージ性の高さが、60年たった今日に至ってもなお、ハリウッドが2度目の映画化に踏み切るほど人々の心の中に長く生き続けている理由といえるでしょう。
しかし実はこの映画、およそ崇高さとは無縁な理由から誕生しているのです。

   
   ゴジラを生んだ東京都世田谷区成城にある東宝スタジオ(本稿の写真は全て同地で撮影)

そもそも「ゴジラ」は代替企画作品でした。インドネシア独立運動の秘話を描き、同国との合作映画になるはずだった谷口千吉監督の「栄光のかげに」が、当時正常な国交がなかった両国間の政治関係の悪化や、アメリカの介入などの諸事情によってクランクイン寸前で中止となり、そのスタッフ編成を活かすために急遽考え出されたものだったのです。撮影用の火薬をインドネシアの海で爆発させ、帰国する途中の船上で、東宝の田中友幸プロデューサーが思いついたのだそうです。

当初の仮タイトルは、「海底2万哩から来た大怪獣」でした。これは前年に公開されたアメリカ映画「原子怪獣現る」(日本公開は「ゴジラ」の直後)の原題「THE BEAST FROM 20,000 FATHOMS」(直訳すると「2万尋<ひろ>からの怪獣」。尋は水深を測る単位で、1尋=約183センチ)にそっくりです。内容も放射能を帯びた恐竜が大都会を襲撃するという、きわめてよく似たものでした。これではパクリと言われてもしかたありません。

しかし元ネタはどんなものであれ、この映画が日本人の魂の琴線に触れるテーマを内包していたのは事実であり、製作のために集った人々の情熱もまた、本物でした。

建物の壁面に描かれた、巨大なゴジラ

5月、田中は幻想・怪奇モノで知られる探偵小説家の香山滋に原作を依頼します。この時点で、監督は本多猪四郎に決定していました。本多は昭和8年に東宝の前身であるPCLに入社、同期の谷口千吉、少し遅れて入社した黒澤明とともに助監督時代を過ごしました。戦争中は3回も徴兵され、8年間もの長い軍隊生活を送ったため、ようやく「青い真珠」で監督デビューしたのは昭和26年、40歳の時でした。

それから2年後、日本初の怪獣映画のメガホンを取ることになった遅咲きの監督は、香山の原作を助監督の村田武雄と共同で脚本化しました。「ゴジラ」の反戦メッセージは、本多の戦争体験によってもたらされたものだと言われています。彼らは300枚に及ぶ絵コンテを書き起こしましたが、こうした絵コンテによる打ち合わせは、本多が円谷英二とコンビを組んだ「太平洋の鷲」(昭和28年)以来、慣例化していたものです。

後に“特撮の神様”と呼ばれ、「ゴジラ」の特殊技術を担当した円谷が、その手腕を天下に示したのは「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年)などの戦意高揚映画でした。そのために戦後、公職追放を受けてフリーになっていました。彼は戦前にアメリカの映画会社RKOの「キングコング」(1933年)を見て、巨大怪獣が暴れる作品をいつか日本でも実現させたいと思い、「巨大なタコ」が登場するプロットを暖めていたといいます。

メイン・ゲートの前に立つゴジラの像

田中、本多、そして東宝に復帰した円谷、さらに森岩雄プロデューサーも加わって、脚本の改稿のための打ち合わせが重ねられました。当初この企画は“ジャイアント(Giant)”の頭文字“G”から「G作品」というコードネームで呼ばれ、秘密裡に進められていました。やがて正式タイトルが必要になり、「ゴジラ」(ゴリラとクジラを合わせた造語、東宝演劇部に所属する部員のあだ名などの説あり)と決定しました。

そして、8月にはドラマ部門の本多組、特撮部門の円谷組、向山明たちの合成チームの3班が編成されて、「ゴジラ」はついにクランクインします。とてつもなく“ジャイアント”なモンスターをスクリーン上で暴れ回らせるという日本で初めてのチャレンジが、こうしてスタートしたのです。


【参考文献】
ナイト・ストーカーズ編著『原子怪獣あらわる! GODZILLA誕生の秘密と日本特撮ソフトの未来』
 フットワーク出版、1998年
ブラック アンド ブルー編『Japanese SF Movies 日本特撮名鑑』ネコ・パブリッシング、1999年
井上ひさし著『映画をたずねて 井上ひさし対談集』筑摩書房、2006年
東宝・東宝映画監修『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』角川書店、2010年
東宝ステラ編『GODZILLA ゴジラ』東宝、2014年

「ロングストリート」実戦ジークンドー講座 (完) ─ 哲学編

2014年08月03日 | 日記
ジム・ボルトとの決闘を明日に控え、いまだ闘い方を頭で覚えようとする姿勢が抜けきれないマイク・ロングストリートに、リー・チョンは武術の真髄を水にたとえて説明します。
これは、ロングストリートが最初にジークンドーを教えてほしいとリーに頼んで断られた時に、「役に立つのは空のカップだ」と言われたこととも呼応しています。

「心を空っぽにするんだ。型や形のない水のようになることだ。カップに入れれば、水はカップの形になる。ティーポットに入れれば、ティーポットの形になる。水は流れたり、広がったり、滴り落ちたり、または怒涛となることもできる。友よ、水になるんだ」
ロングストリートは「僕が水になったら、ボルトは溺れ死ぬかな?」と皮肉混じりにつぶやきます。まだ十分に準備ができていないロングストリートに、リーは静かな口調で最後のアドバイスを送ります。
「皆と同じで、君は勝つ方法のみを覚えようとし、負けることを受け入れようとしない。敗北を認めて死ぬことを学べば、それから解放されるんだ。明日までに、(勝とうという)野心を捨て去り、死の技術を見出せ」


ブルースが書き遺した武術に関する膨大な量の記述を4巻本にまとめた『ブルース・リー格闘術』

翌日の正午、約束通り埠頭に現れたロングストリートとボルトの闘いが始まり、ロングストリートは倒された時に相手の足に強烈な蹴りを一発入れることができただけで、後は一方的に殴りつけられます。窮地に陥った彼の脳裏に浮かんだのは、リーの言葉の数々でした。
「まだ心と体がバラバラだ」「目のせいにするな、耳で聞け」「集中して合わせろ、心を開け」「風を感じろ」「野心を捨て去り、死の技術を見出せ」
次から次へとトレーニングのシーンが心に甦り、ロングストリートはリーの声に導かれるかのように、自らの感覚を研ぎ澄ませます。そして、油断しきって無警戒にロングストリートに近づいてきたボルトに、渾身の力を込めて攻撃を仕かけました。これを契機に、攻守の立場は逆転します。

このシーンも、「燃えよドラゴン」でリーがラスボス、ハンとの鏡の部屋での対決において、少林寺で教えを受けた高僧の「敵は真の姿を覆い隠し、幻惑しようとする。それに惑わされなければ、相手を倒すことができるのだ」という言葉に導かれて、勝利への突破口を開くことができたのを連想させます。
残念ながら、劇場公開時はリーが高僧と語り合うシーンも、鏡の部屋で彼の心に浮かぶ高僧の言葉もカットされていましたが、これらもブルース・リーの武術観を知る上で、たいへん重要なシーンです(これらは最新のDVDやブルーレイには収録されており、7月28日にNHKのBSプレミアムで放映された際もこのバージョンが使われていました)。

思わぬ反撃に形勢不利となったボルトは、今度は用心深くジリジリと迫ります。
「心を空っぽにするんだ。型や形のない水のように」
リーの言葉を思い出し、全身を耳にして気配をうかがうロングストリート。もはや必死となったボルトの猛攻を迎え撃ち、最後は寝技で完全に彼をノックアウトしてしまいました。
自身も満身創痍となりながら、対決の場を後にするロングストリートに刑事が、「あんな闘い方をどうやって学んだんだ?」と訊ねます。するとロングストリートは一言、
「空のカップからお茶を飲んだのさ」
とだけ答えました。それは、彼が水になれというリーの教えを、頭で理解するのではなく、自らのものとして体得できたことを物語っています。
こうして、ブルースがジークンドーのテクニックと哲学を盛り込んだ「ロングストリート」のエピソードは、稀に見る武術ドラマの傑作となりました。

この作品は、1971年6月21日から3日間がリハーサルに当てられ、24日から7月1日まで本撮影が行われました。ブルースはその間の6月28日に香港のゴールデンハーベスト社と正式契約を交わし、12日には「ドラゴン危機一発(唐山大兄)」の撮影のためにタイのパクチョンへと旅立ちます。
ブルースの出演したエピソードは多くの関係者や視聴者のハートを捉えました。その反響は大きく、製作元のパラマウント社はさらなる出演を希望します。それを受けて、「ドラゴン危機一発」の撮影を終えるとブルースは、新たにシリーズ中の3エピソードに出演しました。
すでに脚本が出来上がっていたところに無理やり彼のシーンを入れたので、たいして重要な役を演じることはできませんでしたが、その時ブルースは「ロングストリート」の評判に頼るまでもなく、すでに成功への鍵をつかんでいたのです。クンフー映画初主演作の「ドラゴン危機一発」が記録破りの興行成績を上げ、彼は一気にスターダムへと駆け上がっていきます。

「ドラゴン危機一発」で遂に運が開ける

しかしもう彼には、あまり時間が残されていませんでした。1973年7月20日、ブルース・リーは突然の死を迎えます。念願だったハリウッド主演作「燃えよドラゴン」の世界的な大ヒットも知らずに・・・。

「ロングストリート」は、ブルースが自ら持ち込んだ「サイレント・フルート」の企画が潰れ、自分以外に主役を演じる人間はいないと信じた「燃えよカンフー」から下ろされてハリウッドへの夢に見切りをつけるか否かの決断を迫られていた時に、スターリング・シリファントの温情から最後の望みを託して出演したドラマでした。
「グリーンホーネット」が香港でブレイクするという予想もしていなかった展開で、ようやく積年の努力が報われたブルース。彼の新たな出発のはずのその時が、奇しくも人生のゴール地点となってしまったのです。
それは「ロングストリート」への出演から、わずか2年後のことでした。


【参考文献】
ブルース・リー/M・ウエハラ著、松宮康生訳『ブルース・リー格闘術』vol.1~4 フォレスト出版、1997年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
中村頼永著『世紀のブルース・リー』ベースボール・マガジン社、2000年