ひろむしの知りたがり日記

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姿三四郎 異種格闘技戦激伝 【序章】 必殺技“山嵐”引っ提げて天才児登場!

2016年07月24日 | 日記
『姿三四郎』は、太平洋戦争が始まった明くる年の昭和17(1942)年9月、錦城出版社から書き下ろしとして刊行されました。翌年には黒沢明監督の記念すべきデビュー作として映画化されたのをはじめ、幾度も映画やテレビドラマ、マンガになった人気小説であります。作者は講道館最初の入門者で、四天王の1人である富田常次郎の子、常雄です。彼自身も、柔道5段の腕前でした。

そのストーリーを、ごくごく大雑把に書けば、次のようなものです。

日本が西洋の技術や文化を貪欲に吸収し、世界の一等国となることに躍起になっていた明治時代、会津から上京した17歳の若者姿三四郎は、押し寄せる文明開化の波に追いやられ、廃れゆく日本武術の現状を憂い、理論に裏打ちされた近代柔道を模索する矢野正五郎の紘道館に身を寄せます。
厳しい稽古に耐え、天賦の才を花開かせた三四郎は、勝つことによって敗れた相手を傷つけ、時にその家族をも不幸に陥れてしまうという苦悩に心を苛まれつつも、草創期の柔道発展のため、血にまみれた修羅の道を行くのです。
そんな彼が闘うのは、紘道館を敵視する古流柔術のほか、ボクシング、唐手(空手)、一刀流剣術と、まさに異種格闘技戦を次々と繰り広げます。
『姿三四郎』は、若き天才が柔道や恋愛を通して成長する姿を描き上げる青春小説であると同時に、極上の格闘エンターテインメント小説でもあるのです。

『姿三四郎』には、実在の武術家などをモデルにした人物が何人も登場します。
たとえば、紘道館(言わずと知れた講道館がモデル)の創始者で三四郎の師匠矢野正五郎は嘉納治五郎、主人公である姿三四郎のモデルは、富田常次郎と同じ講道館四天王の西郷四郎です。

嘉納治五郎は万延元(1860)年10月、現在の兵庫県神戸市東灘区御影町御影に生まれました。
少年の頃、勉学では他人にひけをとらなかったものの、身体が虚弱だったために他人から軽んじられたことが悔しくて、「たとえ非力なものでも大力に勝てる方法であるときいていた」(嘉納治五郎著「柔道家としての私の生涯」)柔術を学ぼうと決心しました。
18歳にして天神真楊流の道場に入門し、次いで起倒流を修行して、明治15(1882)年5月に東京下谷北稲荷町(現在の台東区東上野)の永昌寺において講道館を創設しました。
ちなみに矢野正五郎が紘道館を開いた寺の名は隆昌寺といい、道場の名も寺の名も、オリジナルとはわずか1字ずつしか違いません!


嘉納治五郎が講道館を開いた永昌寺の山門と「講道館柔道発祥之地」碑(東京都台東区東上野5-1-2)

西郷四郎は慶応2(1866)年に現在の福島県会津若松市で誕生しました。
明治15年8月、創立間もない講道館に入門します。身長約155センチ、体重約56キロという小躯ながら、水の流れるように滑らかな体さばきから、相手の一瞬の崩れをついて畳に叩きつける技の冴えは、まさに天才と呼ぶにふさわしいものでした。

姿三四郎の得意技は「山嵐」といいます。これは、西郷四郎が実際に得意としていた技です。
手技(腕を主とした全身の働きによって投げる技の総称)の一種で、大正9(1920)年まで講道館柔道の投技指導要目である「五教の技」の1つでしたが、その後削除され、幻の技となってしまいました。
四郎が8歳頃から学んだ大東流柔術六か条の応用技ではないかという説もあります。

『柔道大事典』には、富田常雄が父常次郎から聞いたという言葉が引用されています。
「山嵐という技は、決して腕力や体力の技ではない。まったくのるかそるかという気合と腰の技である。力学上からいうと、相手の重心をできるだけ最短距離に崩して、しかも最大速度をもって掛ける柔道諸技の内でも、もっとも進んだ技であるとみるべきである」

次いで、具体的な掛け方が紹介されます。
互いに右に組んだと仮定すると、右手で相手の右襟を深く取り、左手で奥袖を握って、同時にかなり極端なまでに右半身となります。そして巧みに相手を誘導して前方に押し返してくるように仕向け、「出てくる途端を、すなわち峰から嵐の吹き下ろすごとく、全速力をもって十分に肩にかけると同時に払腰と同様、相手の右足を払いとばす」のです。
常次郎はこうした山嵐を、「払腰と背負投のコンビネーションとみてもさしつかえあるまい」と称しました。

どうです? 少しは技のイメージが掴めたでしょうか?

常次郎はさらに続けます。
「これだけの技ならば、誰にでもできそうであるが、実行はなかなか容易ではない」

四郎が山嵐を得意としたのは、身体上の2つの特徴によるといいます。
1つは前述したように、彼が小柄であったことです。
それゆえ、「ことさら腰を下げなくても、押し返す相手をそのまま引き込めば、彼の身体はちょうど理想的な支点」となりました。
もう1つの特徴は、足の指が熊手のように、みな下を向いていたことです。
そのため、相手のくるぶしに足を掛けるとそこにピッタリと食いついて、逃れることができませんでした。
そうした特徴を生かして四郎が大胆に、かつ思い切って掛ける山嵐は、「ほとんど百発百中、相手を投げ飛ばすことができた」必殺技だったのです。

西郷四郎にはもう1つの得意技がありました。
屋根から落ちた猫が、ひらりと身を翻して着地するところからヒントを得て、猛練習の末に体得したという「猫の三寸返り」です。
相手に投げられた瞬間にくるりと宙に返って畳に背中をつかぬという、まさにマンガか映画くらいでしかお目にかかれないようなアクロバット技で、姿三四郎も本家同様、強引に投げを打ってくる敵を翻弄します。


講道館柔道の黎明期に、彗星のごとく現れた天才児西郷四郎。
その必殺技「山嵐」を受け継ぎ、輝かしい格闘歴をフィクションとして、よりドラマチックに再現すべく大衆文学の世界に登場した『姿三四郎』──次回からはいよいよこの小説の中で、三四郎が古流柔術家をはじめとする強敵たちといかに闘ったのかを追いつつ、実際にあった異種格闘技戦の記録や、講道館柔道と他の武術や格闘技との接点なども、合わせて検証していくことにしましょう。


【参考文献】
嘉納治五郎著「柔道家としての私の生涯」『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
富田常雄著『姿三四郎 天の巻』講談社、1996年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
よしだまさし著『姿三四郎と富田常雄』本の雑誌社、2006年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年


八雲、講道館流柔術との遭遇 《第5部・完》 東の国から

2016年07月17日 | 日記
話題を、ラフカディオ・ハーンのエッセイ「柔術」に戻しましょう。

ハーンはこの、日本が生んだ驚異の格闘技と出合った衝撃を、率直に語ります。
「相手の力を使って、(中略)敵を打ち負かすというような、奇妙な教えを考え出したものが、これまで西洋にいたでしょうか。たしかに、一人もいません」(上田保訳「柔術」より。引用文は以下同)

それは、単なる護身術ではなく、「哲学であり、経済学であり、倫理学」であるといいます。そして、「柔術のほんとうのすばらしさは、その道の達人がみせてくれる最高の技術ではなくて、そのわざ全体にみられる東洋独特の考えかたにある」と、ついに彼が最も語りたかった本題へと入っていきます。

「西欧の精神の働きが、直線的であるのに対して、東洋の精神は、ふしぎな曲線や円を描いて進むようです。しかも、野蛮な暴力の裏をかく手段として、なんとすばらしい知性のひらめきを象徴しているではありませんか」
こう前置きして綴られていくその内容はというと、私たちから見れば、いささかこそばゆくなるほど日本人を褒めちぎったものでした。

西洋人たちはかつて、日本は服装をはじめとする風俗や習慣、それに交通、運輸、建築理論、産業、応用科学、形而上学や宗教に至るまで、欧米のあらゆるものを採用するようになるだろうと予想していました。さらには外国の植民地となり、やがて勅令が発せられて、全国民がキリスト教に改宗させられるだろうと本気で信じている者さえあったのです。
しかしそれは、日本人が古来より柔術を稽古してきたことを知らなかったためだとハーンは論じます。
実際のところ、彼が力説するほど柔術が日本人の民族性の形成に影響を与えてきたとは思えませんが、逆に日本人が伝統的に培ってきた精神が、柔術を生み出したのだとはいえるかもしれません。いずれにしろ、彼が「万事が柔術のやりかただった」とする方法で、日本は急速に西洋技術を吸収していきます。

日本はフランスやドイツの優れた経験にもとづく軍事制度を採用した結果として、強力な砲兵に援護された250,000の精鋭を召集することが可能になりましたし、イギリスやフランスを模範として世界で最も優秀な巡洋艦隊を含む強大な海軍を擁するに至りました。
またフランス人の指導のもとに造船所を設け、自国の産物を朝鮮や中国、マニラ、メキシコ、インド、南洋方面などに運ぶため、汽船を買うばかりでなく、自ら作ることもできるようになりました。
軍事ならびに商業上の目的のために、およそ2,000マイル(約3,219キロ)に及ぶ鉄道も敷設しました。
アメリカとイギリスの援助を受けて、当時としては最も料金が安く、最も効率的な電信や郵便の制度も作り上げました。
日本の海岸線には、東西両半球のうちで一番照明が行き届いているといわれるほど多数の灯台が建てられましたし、アメリカに劣らない信号設備も構築しました。
さらにアメリカから電話や電灯の設備も輸入し、ドイツやフランス、アメリカのものを十分に研究した上で公立学校制度を、またフランスに範をとって警察制度を設立しましたが、それらを自分の国のさまざまな事情と調和するように改めて採用したのです。


明治4(1871)年、新式郵便制度の発足時に駅逓局と東京の郵便役所が置かれた「郵便発祥の地」。碑の上に据えられた胸像は、日本近代郵便の父・前島密(日本橋郵便局。東京都中央区日本橋1-18-1)

初めのうちは、それらの導入のために外国から機械類を買い、大勢の技師を雇い入れましたが、このエッセイが書かれた頃には、そうした指導者たちをみな解雇しつつありました。

ハーンはいいます。
日本は「西洋の産業や、西洋の応用科学や、西洋の経済的、財政的、立法的な経験によって明らかとなった第一線のものをすべて、選び出して採用し、どの場合でも、最上の結果だけを利用しながら、しかも自分の手にいれたものを、かならず、自分の要素にぴったり合うようにつくりかえています」と。

日本は自国の力を増強するのに必要なものだけを選んで、それらを採用しました。
「日本には鉄道や定期船の航路、電報や電話、郵便や通運会社、大砲や機関銃、大学や専門学校がたくさんありながら、千年まえと同じように、いまもって東洋的であります。自分はすこしも変わらないでいながら、日本は敵の力を最大限度まで利用してきたのです」

そして、この日本のやり方の背後には、柔術の原理があるとハーンは結論づけます。
「日本は、かつてその例をみないほどりこうな、あの驚くべき自衛手段たる、すばらしい国技の柔術によって、自分の国を守ってきましたし、いまも守りつづけています」


わたしたちはこれまで、ラフカディオ・ハーンが熊本の地で柔術(柔道)と出合い、その原理の中に見い出した近代日本発展の秘密についての論考を、こちらもまた「そんな見方もあるのか」と、驚きの念を抱きながら追いかけてきました。
エッセイの中では、この後も日本の着物と洋服のことや、キリスト教受け入れの問題などについてさらに深く言及していくのですが、彼の主張の大略にはあらかた触れることができたと思いますので、このあたりで筆を置くことにしましょう。

ハーンに柔術への目を開かせた嘉納治五郎は、明治26(1893)年2月、文部省参事官兼文部大臣官房図書課長に任じられて東京へ帰りました。同年6月19日には、文部省参事官は兼務したまま第一高等中学校(東京大学教養学部の前身)の校長に就任します。
一方のハーンは、翌年の10月まで五高に在任していました。忙しい学務の合間をぬってまとめ上げられた「柔術」は、明治28年にアメリカのボストンでハウトン・ミフリン社から出版されたエッセイ集『東の国から 新しい日本の幻想と研究』(“Out of the East, Reveries and Studies in New Japan”)に収められました。

ハーンはその後、「神戸クロニクル」紙の記者を経て、東京帝国大学や東京専門学校(早稲田大学の前身)で英語や英文学の教授にあたりました。
『東の国から』が出版された翌明治29年には日本に帰化し、小泉八雲となります。そして数々の著作によって古き良き時代の日本の姿を広く世界に紹介し続けた彼は、明治37(1904)年9月26日、東京新宿の大久保で亡くなりました。54歳でした。


小泉八雲終焉の地(新宿区立大久保小学校。東京都新宿区大久保1-1-21。下は旧居の古写真である)
  

彼が柔術の教えの中に見た日本精神は、果たして現在も健在なのでしょうか?
確かに、海外の先端技術や文化を採り入れ、それを自国流にアレンジし、国内のみならず世界に発信することは、今日でも日本のお家芸といってよいでしょう。
しかし、ハーンが賞賛したような、どのようなものを受け入れても少しも変わらない、確固たるわが国独自の核があるかといえば、なんとも心許ない気がします。
わたしたちは今一度、日本とは何なのか、日本人とは何者なのか、ラフカディオ・ハーンや嘉納治五郎のように、その本質を問い直してみる必要があるのかもしれません。


【参考文献】
小泉八雲著、平井呈一訳『東の国から・心』恒文社、1975年
L・ハーン著、上田保訳「東の国から 新しい日本の幻想と研究」『世界教養選集9』平凡社、1975年
熊本大学小泉八雲研究会編『ラフカディオ・ハーン再考 百年後の熊本から』恒文社、1993年
嘉納治五郎著『新装版 嘉納治五郎著作集』第3巻 五月書房、1992年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
工藤美代子著『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯[日本編]』集英社、2003年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年

八雲、講道館流柔術との遭遇 《第4部》 嘉納治五郎、柔術諸流派の達人を語る

2016年07月03日 | 日記
「柔術:武器を使わないさむらいの武術」の内容を、もう少し追いかけてみることにしましょう。

本論文では引き続き、いくつかの流派の創始者や主だった人物を挙げていきます。
しかし話をわかりやすくするために、順序は逆になりますが、その後に語られている柔術において「勝利を得る」方法についての説明を、先に紹介したいと思います。

柔術には「地面に力いっぱい投げつけたり、喉を絞めたり、地面に抑えつけたり、相手が体を起したり自由に動けないように壁に押しつけたり、相手が痛みなどに堪えられないように、腕や足や指を捻ったり曲げたりする」技術があり、流派によっては秘術として「当身、活」を教えます。
当身は「相手を殺したり、傷つけたりするために、体のある部分を打ったり、蹴ったりする術」のことで、活とは「暴行によって仮死状態になった人を生き返らせる術」です。
各流派はこれらの全部、あるいは一部を用いて相手を制します。

嘉納治五郎とトマス・リンゼーは、外国人ら柔術を知らない人たちのために、これらの術についてもう少し踏み込んで説明しています。
たとえば講道館柔道が最も得意とした投げ技の原理については、「相手の重心をはずし、相手が立てないように、引いたり押したり」し、「力よりも技によって、相手に平均を失わせ、地面に力いっぱい投げ飛ばすことである」としています。また簡単にではありますが、首の絞め方や関節技で使われる身体の部位、首を絞められて窒息した人に対する活の入れ方にまで言及しています。

では、これらの術を駆使して戦う柔術には、どのような流派があるのでしょうか。
楊心流や起倒流についてはすでに触れましたが、楊心流には前述の秋山四郎兵衛義時創始のものだけでなく、同じく肥前長崎の医師三浦楊心を祖とするものもあります。起倒流にしても、流祖を福野七郎右衛門正勝とするものや、その弟子筋に当たる寺田勘右衛門(正重、のち満英)とするものなど諸説があり、その起源の探究は早くも複雑怪奇な様相を呈します。

ほかに「数百もあるだろう」流派の中から、犬上左近将監長勝が創始した扱心流、関口柔心(弥六右衛門氏心<うじむね>)が始めた関口流、そこから派生した渋川伴五郎義方の渋川流、治五郎が最初に学んだ流派で、磯又右衛門正足が起こした天神真楊流が紹介されています。

また、起倒流の飯久保鍬吉恒年(治五郎の師)、扱心流の江口弥三、関口流9代目関口柔心、渋川流8代目渋川伴五郎、楊心流(三浦系)の戸塚英美ら本論文発表当時に存命していた各流派後継者の名が挙げられているのも、徳川時代ほどの勢いはないにせよ、古流柔術がまだまだ健在であったことを示していて興味深いものがあります。


愛宕神社の境内に立つ「起倒流拳法碑」。碑文には、陳元贇の名も見えます(東京都港区愛宕1-5-3)

さて、ラフカディオ・ハーンのエッセイ「柔術」を読んだ人が不満に思う点があるとすれば、それは柔術家が相手の力を利用して、魔法のようにいともたやすく敵を倒すことができるらしいというのはわかっても、実際にどのような達人がいて、どのような技を使ったのか、具体的な話が何も語られていない点ではないでしょうか。

その辺り、さすが時代遅れと見なされていた柔術を講道館柔道として生まれ変わらせ、世界中に広める礎を築いた嘉納治五郎です。講演の聞き手(論文の読者)を楽しませ、関心を惹くこと間違いなしの、「高名な柔術家の話」という章を設けています。

ここで挙げられたエピソードは以下の4つです。

(1)約200年前、紀州徳川家の家来だった関口柔心を、殿様がその腕前を試そうと、一緒に庭の橋を渡っている時、徐々に端へと押していきました。柔心はまさに水の中に落ちそうになったその瞬間、くるっと向きを変えて殿様の身体をすり抜けて反対側に回ったのです。そして彼を押した拍子にバランスを崩し、逆に落ちそうになっていた殿様を掴み、「気をつけなければなりませんぞ」と言ったので、殿様はひどく恥ずかしい思いをしました。
話はこれだけでは終わりません。後日、他の家来がもし相手が敵だったら、助けた時に殺されていただろうと柔心を非難しました。すると彼は、自分も同じことを考えたので、殿様を掴んだ際に袖に小柄を突き刺しておいて、相手が殿様でなければ刺し殺せたということを明らかにしたと答えたのです。

(2)寛永年間(1624-1644)、越前福井の八幡宮の祭りで武芸大会が行われました。見分役の柳生但馬守(宗矩)に、ある高名な柔術家が試合を挑みましたが、但馬守はそれを断ります。それでも柔術家は諦めず、突然但馬守を引き倒そうとしました。ところが但馬守はたちまち柔術家を掴んでひっくり返し、ものすごい力で地面に投げつけてしまいました。

(3)40年程前、寺田五右衛門が江戸・本郷近くの水道橋を通っている時、水戸徳川家の行列と行き会いました。先払いの家来たちが五右衛門を跪かせようとしますが、彼は自分のような身分の武士は、大名の駕籠がもっと近づいてからでなければ、その必要はないとはねつけます。それでも跪かせようとした先払いたちは五右衛門を何度も投げ倒そうとしましたが、逆に全員地面に叩きつけられてしまいました。加勢にかけつけた家来たちをも投げ飛ばして彼らの十手を奪った五右衛門は大名屋敷まで走り、「拙者はこれこれの身分の武士で、もし跪けば自分の殿様の威厳にかかわります。こちらの殿様の家来を投げねばならなかったことは誠に申し訳ありませんでしたが、自分の威厳を保つためには、どうしてもそうしなければなりませんでした」と言って、家来たちから取り上げた十手を返したのです。感心した水戸公は五右衛門に自分に仕えるよう勧めましたが、彼は現在の殿様の下に留まると、その申し出を断りました。

(4)扱心流の犬上郡兵衛は、ある日茶屋で有名力士の小野川と出会い、酒を酌み交わします。しきりに力自慢をする小野川に、郡兵衛は「どんなに頑強な筋肉を持ち、声も身体も大きな相撲取りでも、この老人(郡兵衛)を負かすことはできないだろう」と言いました。怒った小野川は、「では、試してみよう」と郡兵衛を庭へ連れ出して掴みかかります。そして「さあ、逃げられるか」と言ったのです。それに対して郡兵衛が「もちろんだとも。お主がもっとしっかりと捕まえていないとね」と答えたので、小野川はさらに固く掴んで同じ質問をしました。すると郡兵衛も同じ答えを返します。それを3度繰り返した時、郡兵衛が「もう、これ以上はできないかね」と言ったので、小野川はほんの少し握りを緩めて、より強く絞めようとしました。するとその瞬間、彼は地面に投げ飛ばされてしまいました。小野川はもう1度試みますが結果は同じで、驚いて郡兵衛の弟子になったということです。

これらの話のうち、(2)はやや異質な感じがしますが(ただし、柳生但馬守と柳生新陰流は、起倒<乱>流の誕生に深く関わっています)、その他は敵がどんなに力が強かろうと、人数が多かろうと、一瞬のうちに倒してしまう柔術の達人の凄技ぶりをよく物語っています。

論文は最後に、天神真楊流と起倒流を学んだ嘉納治五郎が、その他の流派をも広く研究して柔道を作り上げたことを述べ、その高名な門弟として西郷四郎、山田(富田)常次郎、山下義韶、横山作次郎の講道館四天王を挙げています。

また警視庁においても、主催した武術大会で治五郎の門弟たちが見せた強さに着目し、それまで警察官たちが学んでいた古い流派の柔術を、柔道に切り替えたことを誇らしげに語っているのです。

ここで注意しておきたいのは、講道館柔道をこれまで論じてきた柔術とは別物と扱っているわけではないということです。
最終章のタイトルも、「最近の柔術の進歩」と、講道館柔道の誕生を柔術の発展の延長線上にあるものと位置づけ、「この流派」とあくまで柔術の新興流派として書いているのです。

明治21(1888)年当時では、講道館柔道に対する世間の認識とはこのようなものであり、ハーンが自らのエッセイの題名を「柔術」としたのも、まさに、彼が治五郎の柔道を「嘉納流(講道館流)柔術」と見なしていたからでしょう。

ところで、前にも書きましたように、ハーンは治五郎とリンゼーによるこの論文を参考にしたと考えられています(「柔術」の注釈には、「嘉納氏は数年前、『アジア協会紀要』に、柔術の歴史に関する、きわめて興味ぶかい記事を寄稿されました」との記述があります)。
それにもかかわらず、日本の伝説や昔話を数多く紹介している彼が、なぜ本論文に取り上げられた興味深い柔術家たちのエピソードにまったく触れていないのでしょうか?

それは、彼が本当に書きたかったことが、柔術の技の不思議さや凄さではなく、もっと別なもの、その背後にある日本独自の精神や文化についてであったからです。


【参考文献】
綿谷雪、山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』東京コピイ出版部、1978年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
綿谷雪著『完本 日本武芸小伝』国書刊行会、2011年
トマス・リンゼー、嘉納治五郎著、小野勝敏訳「柔術─武器を使わないさむらいの武術」
 『岐阜経済大学論集』9月号(16巻3号)岐阜経済大学学会、1982年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年