ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (3) ─ 強くなり過ぎた男たち

2014年09月28日 | 日記
大山倍達は著書の中で、木村政彦とは血の繋がった兄弟以上に親しい間柄だったと述懐しています(『大山倍達、世界制覇の道』)。また別の著書では、拓殖大学の先輩後輩の間柄であり(これについては前回書いたとおり、確証はありません)、数々の修羅場をくぐり抜けてきた武道家同士でもあるので、互いに意気投合したとも書いています(『空手士魂 わが極真の実像』)。もっとも同書では、2人の出会いは日本国内ではなく、遠征先のアメリカだったということになっています。

これまでも見てきたように、倍達の著述はどこまでが真実なのか判断し難い面はありますが、彼が木村を心から尊敬し、兄と慕って側に付き従っていたのは確かなようです。
木村は倍達の初対面の印象を、「なかなかピシッとしてですね、礼儀正しくて好青年だなあ」と感じたと語っています(『真説 大山倍達』)。憧れの木村の前でカチンコチンに緊張し、直立不動で受け答えする倍達の姿が目に浮かぶようで、微笑ましくなります。

一方、倍達の方は木村のことを、「“鬼の木村”といわれていても、“鬼”になるのは試合および稽古のときだけであって、試合場あるいは稽古場を一歩でも離れれば、木村さんは“仏”のように温厚な方であった」と評しています(『空手士魂 わが極真の実像』)。
『空手バカ一代』でも、プロ柔道の試合を見て感動した倍達が控室の木村を訪ねると、2人はすぐに親しくなり、焼き鳥屋でまるで旧知の間柄のように語り合います。その際に倍達は心の中で、「酒のせいばかりじゃない・・・真の木村さんは、こういういい人なのだ。勝負に鬼となる根性と・・・めぐまれずにいる不幸とが、あの試合中の殺気を、この人に与えるのか・・・?」と呟くシーンがあります(講談社漫画文庫、第5巻)。

              
   『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』。表紙は17歳の木村。すでに筋骨隆々です

木村と倍達は、実際さまざまなことを論じ合いながら酒を飲む仲だったようです。
両者とも自分より大きく力の強い敵と闘うことの困難さを熟知していましたので、「格闘家は一定水準の体重を維持しなければならない」という点ではいつも意見が一致していました。それゆえか、飲みに行った先で彼らの食べる量は尋常ではなく、30センチほどの串料理を各々50本以上平らげるなど、大食漢ぶりで周囲の人々を驚かせたといいます(『我が父、チェ・ペダル 息子が語る大山倍達の真実』)。

ちなみに木村は身長170センチ、体重は全盛期で85キロと、柔道家としては決して大柄とはいえない体格の持ち主でしたが、当時はまだあまり普及していなかったウェイト・トレーニングを取り入れて体を作りました。250キロあるトロッコの車軸を、ベンチプレスで挙げていたというからなんともパワフルです。

倍達はといえば、木村とさほど変わらない身長175センチ、体重72キロ。しかし、倍達の言によれば、柔道家と違って当時の空手家は身長155センチ、体重45キロといった程度の人が多かったそうですから、その中では体格に恵まれた方でした。もとより地上最強の格闘家を目指す彼にとって、そんなことで優越感にひたっていられるはずもなく、やはり熱心にウェイト・トレーニングをやっています。
ところが、それが当たり前のトレーニングではありません。バーベルを持ち上げる際に、妻や弟子にふとん針を尻の筋肉に突き刺させて、痛みのあまり反射的に出る馬鹿力を利用したというのですから、常軌を逸しています(『わが青春の修練秘録 続ケンカ空手』)。

大山倍達の修行記『わが青春の修練秘録』

木村も倍達も、人間離れした修練を積んで類を見ない実力者となりましたが、引き換えに、それぞれの世界では異端視される存在となりました。
突き・蹴りなどを相手に当てない“寸止め”ルールが主流だった空手界で、“直接打撃制”による稽古・試合法を主張した倍達が邪道扱いされて孤立してしまったように、木村もプロ柔道を起こしたことによって、アマチュアに固執する柔道界から排斥され、30歳で取った7段から段位が上がることもなく、破門同然で講道館を去った西郷四郎(講道館四天王の1人、姿三四郎のモデル)ですら亡くなった際に6段を追贈されたのに比して、15年間無敗という他の追随を許さぬ記録を打ち立てたにもかかわらず、段位を追贈されることもなく、柔道の普及・発展に貢献した者を顕彰する殿堂入りもできませんでした。


講道館国際柔道センター。功労者19名の肖像写真が並ぶ柔道殿堂があります(東京都文京区春日)

『空手バカ一代』の中で、初めて木村の試合を見た倍達は呟きます。
「どこか・・・おれと似ている・・・! いや・・・そっくりだ!! おそらく木村さんも、また柔道界で、あまりにも実戦的すぎ・・・あまりにも勝負の鬼でありすぎたのだ!!」(講談社漫画文庫、第5巻)

似た者同士の木村政彦と大山倍達が惹かれ合うのは、当然の成り行きだったのかもしれません。しかし、そこに第3の男が介在したことによって、2人の関係はもろくも崩れ去ることになります。

その男こそ、倍達のもう1つの側面の相似形であり、大相撲の力士からプロレスラーに転身し、日本に空前のプロレス・ブームを巻き起こした力道山光浩なのです。


【参考文献】
大山倍達著『わが青春の修練秘録 続・ケンカ空手』スポーツニッポン新聞社、1974年
大山倍達著『空手士魂 わが極真の実像』テレハウス、1985年
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版・第5巻)講談社、1999年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
ボム・ス・ファ著、金至子訳『我が父、チェ・ペダル 息子が語る大山倍達の真実』アドニス書房、2006年
基佐江里著『真説 大山倍達』気天舎、2007年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)』新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (2) ─ “柔道の鬼”に憧れた“空手バカ”

2014年09月21日 | 日記
『空手バカ一代』では大山倍達と木村政彦の出会いは、目白御殿を追われて貧乏のどん底に陥っていた倍達が、質屋帰りにたまたま家の近所でやっていたプロ柔道の興行に立ち寄り、木村の闘いぶりに自分と同じ恵まれぬ真の強者の姿を見て、感動のあまり控え室を訪れたことに始まります。
昭和25(1950)年に旗揚げしたプロ柔道は、わずか8ヵ月で頓挫してしまいますので、その間の出来事ということになります。感動的なシーンですが、実際に2人が知り合ったのはそれよりずっと以前、木村がまだ拓殖大学の学生だった頃でした。

倍達は幼い頃、すでに柔道界の新星として活躍していた若き日の木村の写真や記事を雑誌などで見て、「木村政彦のように強くなりたい!」と憧れていました(大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』)。
いわゆる“大山倍達伝説”によれば、倍達は山梨航空技術学校を卒業後、上京して拓殖大学に入ったことになっています。彼自身も、木村に近づきたくて、拓大司政科に入学したと語っています。
ところが、倍達が拓大に在籍していたという正式な記録はありません。戦後の混乱で紛失してしまった可能性も否定はできませんが、木村と倍達が同窓の先輩後輩の間柄だったかどうかは、定かではないのです。

倍達の自叙伝『大山倍達、世界制覇の道』

木村と倍達の邂逅の場は拓大ではなく、義方会であったようです。
京都に本部のある義方会は、もともとは柔道の道場でしたが、創設者の福島清三郎が教えていた立命館大学で空手部主将の山口剛玄と知遇を得て、空手部門が創設されました。そこで山口とともに指導に当っていたのが、倍達の青春時代に多大な影響を与えたソウ・ネイチュウです。

ソウは祖国朝鮮の独立を目指す民族運動家でもあり、倍達は渡日する以前に彼と出会い、日本・中国・満州の大同団結を唱える石原莞爾<いしわらかんじ>の東亜連盟思想を知らされ、剛柔流空手を学びました。そして、日本に来てからもソウを頼り、義方会道場に隣接して建てられた外国人留学生のための寮、協和塾(塾頭はソウ・ネイチュウ)に住み込みます。
一方の木村は、師の牛島辰熊が福島と親交があり、前回書いたように自分の修行に空手を取り入れていたので、松濤館流の船越義珍のほか、義方会東京支部へ指導に来るソウからも剛柔流を学びました。また逆に木村が京都本部で指導することもあり、そんな縁で、木村と倍達は巡り会います。

義方会を作った福島は、ソウを空手部門の指導者や協和塾の塾頭にするだけあって、やはり石原莞爾の思想に傾倒し、東亜連盟活動に協力していました。京都の義方会本部道場の前に、「東亜連盟関西支部」という看板を出すほどの入れ込みようでした。
牛島もやはり石原に私淑し、太平洋戦争末期に戦いを止めるため、東條英機首相(陸軍大臣・内務大臣を兼任)の暗殺を企てた際も、当時山形に隠棲していた石原のもとに承諾を得に行っています。

『大山倍達正伝』はソウと倍達の関係を詳述

思想家としての一面を持つ師牛島に対して、弟子の木村は無邪気にひたすら強さのみを追い求め、脇目もふらず稽古に励んでいました。それが木村を空前絶後、史上最強の柔道家にしたのは確かですが、反面、柔道以外の世間的なことにはどうしようもなく疎い、“柔道バカ”にしてしまったのかもしれません。
他方、その半生を描いたマンガのタイトルに“空手バカ”の称を掲げた倍達は、その実、早くから民族運動に携わり、世の中の酸いも辛いも味わい尽くした苦労人でした。彼は、虚実入り混じった“伝説”のベールを身にまといながら、巨大な極真帝国を築き上げていきます。
そのような世渡りの才を持たない木村は、プロ柔道の旗揚げにも失敗し、プロレスに転向するも、倍達と同じ朝鮮半島出身のレスラー力道山との日本一を賭けた試合に騙し討ちを受けて敗れ、失意のうちに残りの人生を送ることになります。

倍達が初めてアメリカに遠征した時、ハワイで会った力道山にこうアドバイスされたといいます。
「アメリカ人は格闘技の勝者など、誰も羨ましがったりはせん。彼等が敬意をはらうのは、金を持っている者だけさ。たとえ、試合相手の足の裏をなめてでも、まず金儲けを考えることだよ」(前掲書)

プロモーターとしての才能に長け、己を売り込むことに貪欲な力道山と倍達の間には、ある意味、相通じる部分があったといえましょう。しかし、倍達の胸の内には、そんな自分に対する嫌悪感が潜んでいたのかもしれません。なぜなら、彼が空手修行を始めたそもそもの動機は、木村の柔道と同じく、どこまでも強さを追究したいという熱い思いだったからです。
そんな自身の二重性を天秤にかけた結果、倍達は木村VS力道山戦では同郷の力道山ではなく、木村側に付きます。そして木村が敗れた際には怒りのあまり、その場で力道山に闘いを挑んでさえいるのです。

それほどまでに強く結ばれた、木村政彦と大山倍達の絆とは、一体どのようなものだったのでしょうか?


【参考文献】
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版・第5巻)講談社、1999年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上)』新潮社、2014年

木村政彦と大山倍達 (1) ─ 受け継がれた“鬼”の魂

2014年09月09日 | 日記
前回の日記では、強い男に憧れるひろむし少年が、ハートを鷲づかみにされた『空手バカ一代』について語りました。少年にこのマンガを手に取らせたのは、彼が当時熱中していた柔道がきっかけで呼び起こされた武道全般に対する興味でしたが、彼は『空手バカ一代』を通して、そもそもの出発点である柔道の世界の巨人とも遭遇することになります。

それは、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われた木村政彦です。木村は「超人追究編」「無限血闘編」に続く「悲願熱涙編」に登場します。
『空手バカ一代』で大山倍達が木村と出会うのは、倍達がアメリカに渡ってプロレスラーやボクサーと死闘を繰り広げ、日本に帰国して間もなくのことでした。稼いだファイト・マネーで目白に豪邸を構え、結婚して新生活を始めた倍達ですが、友人の借金の保証人になったために新居を奪われ、途方に暮れていた時に、プロ柔道家となっていた木村と出会います。
実際に倍達と木村が知り合うのはもっと若い頃の話ですが、そのことについて書く前に、まずは木村がプロ柔道に身を投じるまでの経歴を見ておくことにしましょう。

文庫『空手バカ一代』⑤巻に木村が登場

木村政彦は大正6(1917)年9月10日、熊本市外の川尻町大渡(現在は熊本市)の貧しい砂利採り人夫の子として生まれました。幼い頃から父の仕事を手伝っていましたが、川底の砂利採りという過酷な仕事で強靭な腕力と足腰が培われた木村は、旧制鎮西中学(現在の鎮西高校)柔道部でその才能を発揮し、“熊本の怪童”として全国に名を轟かせました。
家が貧乏なため大学には進学せず、そのまま父の仕事を手伝うことになっていましたが、同郷熊本の出身で、当時東京で拓殖大学師範をしていた牛島辰熊<たつくま>が、木村の並外れた才に目をつけます。

牛島はそのこわもての風貌と、あまりの強さから“鬼の牛島”と呼ばれていました。全日本選士権などで5度の日本一に輝きましたが、皇室にまつわる記念の年に開かれる天覧試合だけは、2度挑戦の機会がありながら、最初は辛くも準優勝に止まり、次も胆石を患って苦痛に耐えながら善戦するも、不本意な結果に終わりました。牛島が己の無念を代わりに晴らす逸材として選んだのが、木村政彦だったのです。牛島は木村を自宅で開く牛島塾に引き取り、拓殖大学予科に入学させました。

『実録 柔道三国志・続』。表紙の写真は牛島辰熊

“鬼”が見込んだだけあって、木村の柔道に対するのめり込みぶりは、尋常なものではありませんでした。“3倍努力”を信条とするその練習量は、実に凄まじいものでした。朝5時に起床すると、すぐ庭に出て、巻き藁を突く空手のトレーニングをします。なぜ柔道を学ぶ木村が空手かといえば、この巻き藁突きが、手首と握力の両方を鍛えるのに効果的だったからだそうです。
それから塾内外の掃除を済ませ、朝食をとって拓大へ。授業後はさっそく柔道部の稽古です。それが終わると今度は近くの高等師範学校(現在の筑波大学)の道場から警視庁、講道館と順番に回ります。締めは深川にあった満蒙開拓義勇軍と近所の青少年の鍛錬のために、加藤寛治<ひろはる>が造った150畳の柔道場です。こうして木村が赤坂の牛島塾へ戻るのは、10時、11時になることも珍しくありませんでした。

木村の1日は、まだ終わりません。牛島はしばしば真夜中に木村が巻き藁を突き、樫の木を相手に打ち込みをする音を聞いて目を覚ましたといいます。
布団に入った後も、その日の稽古内容を思い出しては、あの技はこうかければよかった、あの時はああすれば・・・などとあれこれと考えをめぐらせ、何か思いつくと布団から飛び出して裏庭で稽古に没頭しました。こんな具合ですから、彼の睡眠時間は日にたった2、3時間でした。昼も夜もない、まさに柔道漬けの毎日です。

それだけ練習すれば、強くならないほうがどうかしています。拓大予科に進学した昭和10(1935)年から、木村は連勝街道を突っ走ります。同15年6月には、ついに師から託された天覧試合制覇の悲願を、全試合一本勝ちという快挙をもって成し遂げます。
木村は師から悲願だけではなく鬼の名も受け継ぎ、“鬼の木村”と呼ばれるようになりました。負け知らずの彼は戦争を挟んで終戦後に開かれた全日本選手権でも優勝し、15年不敗という記録を打ち立てたのです。

戦後、GHQによって軍国主義的であると武道が疎まれ、柔道家たちは食べていけなくなります。そんな中、妻の斗美が結核にかかり、その薬代を稼がなければならない木村は、恩師である牛島の旗揚げしたプロ柔道に転じます。それは、昭和25年のことでした。


【参考文献】
原康史著『実録 柔道三国志・続』東京スポーツ新聞社、1977年
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
梶原一騎原作、つのだじろう漫画『空手バカ一代』(文庫版・第5巻)講談社、1999年
拓殖大学柔道部百年史編集委員会編『拓殖大学柔道部百年史 拓魂の軌跡』
 拓殖大学柔道部OB、2002年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年

私の愛した『空手バカ一代』 ─ 大山倍達とブルース・リー

2014年09月02日 | 日記
   

1973年7月20日、32歳の若さで急逝したブルース・リー。その没後40周年に当たっていた昨年末の12月15日にアップした「ブルース・リーのドラゴン拳法(1)」から、先月3日アップの「『ロングストリート』実戦ジークンドー講座(完)」まで、いろいろと切り口を変えながら延々と彼がらみの話題を取り上げてきました。それらの記事は、数えてみたら28本にもなっていました。
なんでそんなに書いたのかといえば、それはもう、好きだからとしか申し上げようがないのですが、ぼくがブルース・リーに夢中になるのには、1つのきっかけがあったのです。

それは、ある少年マンガとの出会いでした。
国際空手道連盟極真会館の創始者で、“ゴッド・ハンド(神の手)”と謳われた大山倍達<ますたつ>を主人公に、『巨人の星』や『あしたのジョー』で一世を風靡した梶原一騎が原作を手がけ、後に『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』などを描いてオカルトブームの一翼を担ったつのだじろうが作画を担当した『空手バカ一代』です(作画は途中から影丸譲也に変わります)。
子どもの頃のぼくは強い男に憧れて、熱心に柔道の稽古に励んでいました。それと同時に生来の“知りたがり”の性質から他の武道にも興味を持ち、いろいろと本を読んだりするようになりました。
そうして、本屋さんでふと手にしたのがこのマンガです。

どこまでも強さを追い求め、人間の空手家に敵がいなくなれば牛や熊と闘い、日本を飛び出して海外のプロレスラーやボクサーにも挑戦するその生き様は、まさにぼくの理想像そのものでした。たちまち魅了されてしまいましたが、まだ小学生だったぼくは小遣いも少なく、毎日本屋さんに通っては立ち読みをしていました。

そんな時、ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」が公開されます。
当時の日本では、中国拳法のことなどあまり知られておらず、この映画も“空手映画”と紹介されました。大山倍達でさえパンフレットに寄せたコメントで、「感銘致しました。今まで空手劇映画でこれほどすばらしいのを見たことがありません」と語っているくらいです。

もしかしたら“地上最強の格闘技”かもしれないと思い始めていた空手の映画があると聞いて、知りたがり屋が見逃せるはずもありません。かといって、公開してすぐだったのでまだ小学生の間にまでブームは広がっておらず、一緒に行く友だちはいませんでした。
こうして「燃えよドラゴン」は、ぼくが生まれて初めて1人で映画館へ見に行った作品となったのです。
その後、ぼくがどれだけブルース・リーの虜になってしまったかは、先に挙げたブログ記事を読んでいただければよくおわかりになるでしょう。

 
  大山倍達や梶原一騎もコメントを寄せる「燃えよドラゴン」日本初公開時のパンフレット(1973年)

話を『空手バカ一代』に戻します。
昭和46(1971)年に講談社の『週刊少年マガジン』でスタートし、ブルース・リーブームとの相乗効果もあってか大人気を博し、同52年まで6年間にわたって長期連載されました。
昭和48年10月から翌年9月にかけてテレビアニメも放映され、千葉真一主演で50年には実写映画「けんか空手 極真拳」「けんか空手 極真無頼拳」、52年に「空手バカ一代」が公開されています。
かくいうひろむしは、柔道の稽古日とでも重なっていたのか、テレビアニメはあまり見た覚えがありません。映画は少なくとも「極真拳」は見に行ったように記憶しています。


アニメ「空手バカ一代」全47話を収録したブルーレイ・ボックス(製作・著作 トムス・エンタテインメント)

やがて時が流れ、大人になったぼくは、『空手バカ一代』に描かれた大山倍達が、実像とはかなり違っていることを知りました。
彼は実は、最初から日本人だったわけではありません。1921年6月4日に韓国の全羅北道金堤郡龍池面臥龍里に生まれ、元の名を崔永宜<チェ・ヨンイ>といいました。彼が日本に帰化したのは、昭和43(1968)年のことです。しかしそんなことは、『空手バカ一代』のどこを読んでも出て来ません。

また、倍達は特攻隊員の生き残りとされていますが、これも事実とは違います。
彼が戦闘機乗りや軍人に憧れていたのは確かです。そのために彼は、山梨航空技術学校を卒業して受験資格を得、陸軍士官学校の入学試験にチャレンジしています。しかし残念ながら合格できず、軍人になる夢は叶いませんでした。結局彼は、軍用の道路を作ったり、トンネルを掘る徴用工として、太平洋戦争に参戦することしかできなかったといいます。

さらに彼には、マンガに描かれている智弥子夫人と築いた日本における家庭のほかに、韓国にも妻子がいました。しかも、戦後の在日朝鮮人に対する処遇の杜撰さから二重国籍者となった彼は、いずれの家庭も、それぞれの国において正当と認められていたのです!

そういったマンガと実際の倍達の経歴との相違は、挙げていけばキリがありません。
作品の冒頭で、梶原・つのだは「事実を事実のまま完全に再現することは、いかにおもしろおかしい架空の物語を生みだすよりもはるかに困難である」というアーネスト・ヘミングウェイの言葉を引用し、いかにもこれから描くことが真実であるかのように強調しています。
しかし、うがった見方をすれば、それほど難しいことに挑戦しているんだから、ちょっとくらい事実と違っていても許してよね、と言い訳していると取れないこともありません。

事実との相違といえば、なんと、ブルース・リーが極真門下だったことになっているのです!
ハワイ支部に入門した彼は、その才を見込んでかわいがってくれた師範代ブルース・オテナの名にあやかって、ブルース・リーと名乗ったというのです。
ちょっとブルースについて知っている人にとっては、両親から李振藩<リー・チェンファン>という名を授かった彼が、俳優だった父のアメリカ巡業中にチャイナ・タウンの病院で生まれた時に、看護師につけてもらった英語名であることは常識でしょう。

ブルースは格闘に関するあらゆる知識と経験を貪欲に吸収しようとしていましたので、多くの空手の技の名称を日本語で知っていましたし、それらを実演して見せることもできました。
しかし、それはあくまで書物などを通してであり、1度も空手を習ったことはありません。ましてや彼が、極真会に入門したなどという形跡は、まったくありません。

         
     1997年にリバイバル公開された「燃えよドラゴン」のパンフレットに付されたシール

このように『空手バカ一代』に多くの虚構が含まれているのは、梶原の脚色によるところ大なのはもちろんですが、倍達自身がさまざまな場面で語ったり、書いたりしてきたことが、すでに虚飾に満ちていたのです。
その主な理由として、彼が韓国出身で、民族運動に深く関わっていた時期があるという事実を、秘匿しようとしたことが考えられます。彼は戦後混乱期の修羅場をくぐり抜け、韓国と複雑な歴史的因縁を持つ日本で、日本の武道である空手の道で大成するために、自分の過去を“創作”したのです。

    
 極真会館からの1975年の暑中見舞と翌年の年賀状。第1回世界大会や映画に触れています

終戦直後、『空手バカ一代』が描く大山倍達は、1度は命を捨てる覚悟をしたにもかかわらず、死に損ねて何の生きがいも目標も見出せずにいました。ヤクザの用心棒に身をやつし、闘争に明け暮れることによって心の虚しさを紛らわしていた彼は、吉川英治の『宮本武蔵』を読んで衝撃を受けます。そして、武蔵が剣を通して人間としての高みを目指したように、自分も空手の道に生涯を賭けよう決意するのです。

『宮本武蔵』は昭和10(1935)年8月23日から同14年7月11日まで、途中1年弱の休載を挟んで朝日新聞に連載されて大ヒットした剣豪小説です。武蔵は無論実在の人物ですが、その生涯は謎に包まれています。本当に強かったのかどうか、剣の技量さえも論争の種になるくらいで、吉川版に見られるような求道一筋の武蔵像は、史実とは異なると考えられています。
だからといって、それが小説『宮本武蔵』の価値を下げることにはなりません。なぜならば、“吉川武蔵”は宮本武蔵という実在の人物を素材にしてはいるものの、文豪吉川英治が真の武芸者とはこうあるべきだ、こうあってほしいとの理想を注ぎ込んで作り上げた、事実上“オリジナル・キャラクター”であり、それが人の心をとらえる魅力を備えていたからです。

同じことは『空手バカ一代』にもいえるでしょう。
そこに描かれた“梶原倍達”は、実在の大山倍達とは似て非なる存在かもしれません。しかし、それは梶原一騎が、当時の空手界で主流だった相手の身体に突きや蹴りを当てる寸前で止める寸止めルールに異議を唱え、直接打撃制を主張して総スカンを食らっていた倍達を、なんとか日の当る場所に出してやりたいと願って生み出したキャラクターでした。そして、梶原は倍達をより魅力的に見せるために、彼を吉川武蔵と同様に、求道一筋の理想的な武道家に仕立て上げたのです。

ただ、ここで忘れてはならないのは、実在の武蔵や倍達が、決してスポット・ライトを当てる価値のない人間ではなかったということです。武蔵は単なる剣客ではなく、水墨画や彫刻の名品を遺し、『五輪の書』を著すほど多芸多才な人物であり、多くの研究者や作家の関心を掻き立ててきました。そして倍達もまた、梶原にマンガの主人公にしたいと思わせるだけのものを持っていました。

小島一志とともに、日韓を股にかけて5年に及ぶ緻密な調査を行い、倍達伝説の真相に迫る力作『大山倍達正伝』を著した塚本佳子は、序章で次のように書いています。
「『伝説』に包まれていた『虚像』を取り払ってなお、大山倍達が十分に魅力溢れる人間であり、超人的な実力を持った空手家であったという『真実』は微塵も揺るがない」

平成6(1994)年4月26日、大山倍達は肺ガンのために73歳で亡くなりました。巨大なカリスマなき後、求心力を失った極真会はその名を引き継いだ「国際空手道連盟極真会館」や、「全世界空手道連盟新極真会」などに分裂することになります。
しかし、たとえ会派は分かれても、地上最強の空手を目指した倍達の魂は、後進たちに脈々と受け継がれています。今も世界中の道場で、老若男女を問わずたくさんの門下生が、血と汗を流して自らを鍛え上げ、切磋琢磨を続けているのです。

  
 国際空手道連盟極真会館総本部。迫力に満ちた気合が外にまで聞こえます(東京都豊島区)


【参考文献】
梶原一騎原作、つのだじろう・影丸譲也漫画『空手バカ一代』(文庫版・全17巻)講談社、1999~2000年
木村修著『『空手バカ一代』の研究』アスペクト、1997年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
基佐江里著『真説 大山倍達』気天舎、2007年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE: Fighting Spirit』PARCO、1998年
加来耕三著『宮本武蔵剣豪・剣聖事典』東京堂出版、2001年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社、2011年