木村政彦が、力道山による裏切り行為の前に敗れ去った夜、彼と手を取り合って泣いた大山倍達は、それから数日後、力道山に挑戦する意思を表明します。
鬼の木村が流す涙を見ながら固めたこの決意は、木村がKOされた直後にリング上へ駆け上がろうとした時のような衝動的なものではなく、もっと静かな、しかし強固なものでした。
ところが、この挑戦を力道山は受けようとはしませんでした。関係者に掛け合っても一向に埒があかず、ついに業を煮やした倍達は、ストリート・ファイトでもいいから力道山に目にもの見せてやると決心し、彼が現れそうな酒場、ナイトクラブなどに夜な夜な出向いては網を張っていました。
そんな倍達の動きを察知したのか、力道山はその種の店に現れる時は若手のプロレスラーなどの取り巻きを連れていき、つかまえてケンカを売ろうにも、心ゆくまで闘うことなど、とてもできないような状況でした。
そうこうするうちに2ヵ月、3ヵ月と過ぎましたが、それでも倍達は辛抱強く機会を待ち続けました。
ある夜、倍達は遂に、力道山が一人でいるところをつかまえます。
『大山倍達、世界制覇の道』によれば、そこは赤坂の「ラテン・クォーター」というナイトクラブだったといいます(後に力道山が刺される「ニューラテンクォーター」とは同一、あるいは系列店か?)。
例によって倍達が店で網を張っていると、力道山が珍しく取り巻きも連れずに入って来たのです。
通路のところで早くも倍達の姿を見つけたのか、力道山はそれまでスタスタと足早に歩いていたのが、急に大きく足を引きずり始めました。ケガを装って、対決を避けようとする肚だと読めた倍達は、激しい怒りを覚えて席を立ちます。
「大山だ。ここで、君と立ち合いたい。もちろん、非常識なのは百も承知だ」
呆けたような顔のまま、無言でいた力道山ですが、ふいに踵を返すと、傍らのステージにあった据え置き式のマイクロフォンを引っつかみざまに振りかざしました。
プロレス界の王者として一世を風靡した力道山が見せた、子供のケンカのようなあからさまな醜態は、倍達にとって信じられない光景でした。気持ちが急速に冷めていくのを感じながら、倍達は「やめておこう」とだけいって、力道山に背を向けてゆっくりと自分の席へと戻っていきました。
以上が、『大山倍達、世界制覇の道』を元にした倍達の力道山に対する挑戦事件の顛末です。
この逸話の真偽をめぐっては、さまざまな議論があり、とりわけプロレス側に立場を置く関係者は、「大山のホラ話だ」と断定しています。
また対戦が実現しなかったことについて、一部マスコミで「大山は自分から挑戦しておきながら、いざとなると力道山に恐れをなして逃げたのだ」というまことしやかな憶測が流れましたが、真相は異なっていました。
『大山倍達正伝』によれば、在日韓国人のヤクザで実業家、後に東声会を結成する町田久之や、倍達に空手を教えたソウ・ネイチュウ(第2回「“柔道の鬼”に憧れた“空手バカ”」参照)の説得によるといいます。
あるいは『大山倍達 炎のカラテ人生』には、倍達がアメリカへ行った時に生活の面倒を見てくれ、力道山とも親しかった松村や、建設会社社長の梅田といった、当時赤貧洗うがごとき暮らしをしていた彼が世話になった恩人に止められたことや、その後、力道山と木村が和解を成立させたことが主な理由だったとあります。
ところで、この手打ち式がまた、とんでもない茶番だったのです。
力道山は木村を自分で呼んでおきながら、木村が帰る時には部屋から出ることも、見送ることもしませんでした。和解は、形だけのものに過ぎなかったのです。
木村は「しまった」と思いましたが、もう手遅れでした。木村自身の口からそのことを聞いた倍達は激怒します。力道山に対してではなく、あまりにもお人好しな木村に対してです。
「先輩、バカじゃないか。こちらはね、命を賭けて力道を追っかけてるのに、先輩なあーにやってるんですか」
そうして、「もうあなたとは二度と会わない」といって、木村と袂を分かったのです(『大山倍達 炎のカラテ人生』掲載の倍達の談話より)。
その後、対談の企画が持ち上がったこともありましたが、事前に情報が漏れるなどのトラブルもあって結局実現せず、木村と倍達は遂に再会することはありませんでした。
基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』(講談社)
しかし一度だけ、倍達は木村の姿を見かけています。
ある春の日、散歩の途中らしい木村が、江戸川橋から護国寺方面へ抜ける坂道を、昼下がりの柔らかい陽射しを浴びながら、ゆっくりと歩いていたのです。
所用があって車を運転中だった倍達は、木村に声をかけることもなく、道端を徐行させながらその後ろ姿を見送りました。彼の脳裏には、過ぎ去りし日の木村の栄光の軌跡が、走馬灯のように蘇ったといいます。
倍達は木村の老け込みように驚きましたが、昔と変わらぬ分厚い肩幅が、どこか寂しげであったのを、いつまでも忘れることができませんでした。
倍達は、木村VS力道山戦を振り返ってこう語っています。
「確かに力道山は試合に勝った。あの時試合には勝ったけれども、長い目で見ると木村のほうが勝ったんじゃないかなと、こう思う。片方は若くして死んで、片方は今も元気でいる。これだけを取ってみても、真の勝利者は木村政彦のほうじゃなかったかなと、こう思うんです」(前掲書)
空手の名誉を守るために、命を賭けて闘ってきた倍達です。「恥辱にまみれて生きるよりは、死しても誇りを守るべきだ」というのならともかく、これが本心からの言葉なのか、僕にはわかりません。
あるいは年齢を重ね、そのような心境になったのかもしれませんが、少なくとも木村本人はそう思ってはいなかったでしょう。だからこそ、晩年に至ってなお、力道山は自分が念力で殺したのだと信じようとしたのです。
倍達が命の長さで力道山に勝ったといった木村政彦も、平成5(1993)年4月18日、名誉を回復する機会もないまま、寂しくこの世を去ります。そして倍達もまた、それからわずか1年後の平成6年4月26日、肺ガンのため波瀾に富んだ生涯を閉じました。
大山倍達は今、最後に見かけた木村が向かっていた先にある護国寺で、愛妻の智弥子とともに永遠の眠りについています。
護国寺にある大山倍達の墓(上)と、墓前に据えられた極真会館による碑文(下。東京都文京区大塚)
【参考文献】
基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』講談社、1988年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
基佐江里著『大山倍達外伝』クリピュア、2008年
鬼の木村が流す涙を見ながら固めたこの決意は、木村がKOされた直後にリング上へ駆け上がろうとした時のような衝動的なものではなく、もっと静かな、しかし強固なものでした。
ところが、この挑戦を力道山は受けようとはしませんでした。関係者に掛け合っても一向に埒があかず、ついに業を煮やした倍達は、ストリート・ファイトでもいいから力道山に目にもの見せてやると決心し、彼が現れそうな酒場、ナイトクラブなどに夜な夜な出向いては網を張っていました。
そんな倍達の動きを察知したのか、力道山はその種の店に現れる時は若手のプロレスラーなどの取り巻きを連れていき、つかまえてケンカを売ろうにも、心ゆくまで闘うことなど、とてもできないような状況でした。
そうこうするうちに2ヵ月、3ヵ月と過ぎましたが、それでも倍達は辛抱強く機会を待ち続けました。
ある夜、倍達は遂に、力道山が一人でいるところをつかまえます。
『大山倍達、世界制覇の道』によれば、そこは赤坂の「ラテン・クォーター」というナイトクラブだったといいます(後に力道山が刺される「ニューラテンクォーター」とは同一、あるいは系列店か?)。
例によって倍達が店で網を張っていると、力道山が珍しく取り巻きも連れずに入って来たのです。
通路のところで早くも倍達の姿を見つけたのか、力道山はそれまでスタスタと足早に歩いていたのが、急に大きく足を引きずり始めました。ケガを装って、対決を避けようとする肚だと読めた倍達は、激しい怒りを覚えて席を立ちます。
「大山だ。ここで、君と立ち合いたい。もちろん、非常識なのは百も承知だ」
呆けたような顔のまま、無言でいた力道山ですが、ふいに踵を返すと、傍らのステージにあった据え置き式のマイクロフォンを引っつかみざまに振りかざしました。
プロレス界の王者として一世を風靡した力道山が見せた、子供のケンカのようなあからさまな醜態は、倍達にとって信じられない光景でした。気持ちが急速に冷めていくのを感じながら、倍達は「やめておこう」とだけいって、力道山に背を向けてゆっくりと自分の席へと戻っていきました。
以上が、『大山倍達、世界制覇の道』を元にした倍達の力道山に対する挑戦事件の顛末です。
この逸話の真偽をめぐっては、さまざまな議論があり、とりわけプロレス側に立場を置く関係者は、「大山のホラ話だ」と断定しています。
また対戦が実現しなかったことについて、一部マスコミで「大山は自分から挑戦しておきながら、いざとなると力道山に恐れをなして逃げたのだ」というまことしやかな憶測が流れましたが、真相は異なっていました。
『大山倍達正伝』によれば、在日韓国人のヤクザで実業家、後に東声会を結成する町田久之や、倍達に空手を教えたソウ・ネイチュウ(第2回「“柔道の鬼”に憧れた“空手バカ”」参照)の説得によるといいます。
あるいは『大山倍達 炎のカラテ人生』には、倍達がアメリカへ行った時に生活の面倒を見てくれ、力道山とも親しかった松村や、建設会社社長の梅田といった、当時赤貧洗うがごとき暮らしをしていた彼が世話になった恩人に止められたことや、その後、力道山と木村が和解を成立させたことが主な理由だったとあります。
ところで、この手打ち式がまた、とんでもない茶番だったのです。
力道山は木村を自分で呼んでおきながら、木村が帰る時には部屋から出ることも、見送ることもしませんでした。和解は、形だけのものに過ぎなかったのです。
木村は「しまった」と思いましたが、もう手遅れでした。木村自身の口からそのことを聞いた倍達は激怒します。力道山に対してではなく、あまりにもお人好しな木村に対してです。
「先輩、バカじゃないか。こちらはね、命を賭けて力道を追っかけてるのに、先輩なあーにやってるんですか」
そうして、「もうあなたとは二度と会わない」といって、木村と袂を分かったのです(『大山倍達 炎のカラテ人生』掲載の倍達の談話より)。
その後、対談の企画が持ち上がったこともありましたが、事前に情報が漏れるなどのトラブルもあって結局実現せず、木村と倍達は遂に再会することはありませんでした。
基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』(講談社)
しかし一度だけ、倍達は木村の姿を見かけています。
ある春の日、散歩の途中らしい木村が、江戸川橋から護国寺方面へ抜ける坂道を、昼下がりの柔らかい陽射しを浴びながら、ゆっくりと歩いていたのです。
所用があって車を運転中だった倍達は、木村に声をかけることもなく、道端を徐行させながらその後ろ姿を見送りました。彼の脳裏には、過ぎ去りし日の木村の栄光の軌跡が、走馬灯のように蘇ったといいます。
倍達は木村の老け込みように驚きましたが、昔と変わらぬ分厚い肩幅が、どこか寂しげであったのを、いつまでも忘れることができませんでした。
倍達は、木村VS力道山戦を振り返ってこう語っています。
「確かに力道山は試合に勝った。あの時試合には勝ったけれども、長い目で見ると木村のほうが勝ったんじゃないかなと、こう思う。片方は若くして死んで、片方は今も元気でいる。これだけを取ってみても、真の勝利者は木村政彦のほうじゃなかったかなと、こう思うんです」(前掲書)
空手の名誉を守るために、命を賭けて闘ってきた倍達です。「恥辱にまみれて生きるよりは、死しても誇りを守るべきだ」というのならともかく、これが本心からの言葉なのか、僕にはわかりません。
あるいは年齢を重ね、そのような心境になったのかもしれませんが、少なくとも木村本人はそう思ってはいなかったでしょう。だからこそ、晩年に至ってなお、力道山は自分が念力で殺したのだと信じようとしたのです。
倍達が命の長さで力道山に勝ったといった木村政彦も、平成5(1993)年4月18日、名誉を回復する機会もないまま、寂しくこの世を去ります。そして倍達もまた、それからわずか1年後の平成6年4月26日、肺ガンのため波瀾に富んだ生涯を閉じました。
大山倍達は今、最後に見かけた木村が向かっていた先にある護国寺で、愛妻の智弥子とともに永遠の眠りについています。
護国寺にある大山倍達の墓(上)と、墓前に据えられた極真会館による碑文(下。東京都文京区大塚)
【参考文献】
基佐江里著『大山倍達 炎のカラテ人生』講談社、1988年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年
小島一志・塚本佳子著『大山倍達正伝』新潮社、2006年
基佐江里著『大山倍達外伝』クリピュア、2008年
プロ興行は試合会場の確保、チケットの売り上げなど赤字になる可能性のある試合は実現しません。
また、力道山はプロレスラー、大山は空手家。
プロレスルール(拳などでの攻撃は反則)の試合以外で力道山が試合をするわけがありません。
大山得意の目突き、金的蹴りはもちろん反則です。
大山がプロレス・ルールの試合に出場するでしょうか?
常識的に考えれば、公式試合が実現できなかったらプロ格闘家の試合を路上で行いたいという大山の考えが異常。漫画以外、ありえない出来事でしょう。
本当にいきなり路上で喧嘩を挑めば大山は警察に逮捕されたでしょう。
2回にわたるコメント、ありがとうございます。
大山倍達、木村政彦、力道山、3者ともに実像と虚像が入り乱れていてわからないことの多い人物で、ブログを書いていた当時から、結構悩みながらの執筆でした。
ご指摘の点、どれも興味深く、私の知らなかった情報もあり、もう一度、詳しく調べてみたいという気になりました。
いずれはその結果を加えた改訂版でも書きたいとは思いますが、何分だいぶ時間がかかりそうなので、それまでは、読者の方にはasakusa509さまのコメントも参考にして、興味があればご自分で調べていただければ幸いです。
また、何かあれば、ぜひ教えてください。