ひろむしの知りたがり日記

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「グリーン・ホーネット」カトー進化論 (1)

2014年05月28日 | 日記
【序章】 カトーの進化とともに変貌を遂げる「グリーン・ホーネット」

1930年代後半にラジオドラマとしてスタートした「グリーン・ホーネット」は、その後、連続短編映画、テレビドラマ、長編映画とメディアを変えながら、息の長い人気を保ってきました。昼間は新聞社のオーナーとして活躍するブリット・リードが、夜になると仮面のヒーローグリーン・ホーネットに姿を変え、バディのカトーとともに警察の手に負えない悪党を退治するという基本的な物語構造は変わりませんが、主役と準主役のパワー・バランスは、時の推移とともに様変わりしていきます。
その最大の契機となったのが、1960年代に始まったテレビ・シリーズにおける、ブルース・リー演じるカトーの登場でした。その影響は非常に大きく、彼の出現以前を西暦における紀元前B.C.(Befor Christ)になぞらえてB.D.(Befor Dragon)と呼んでもよいくらいです。
そこで、この稿ではカトーというキャラクターの変遷を軸として、ヒーロードラマの草分け的存在である「グリーン・ホーネット」の歴史を繙いていきたいと思います。
1966年のブルース・リー版カトー誕生をドラゴン暦元年とするなら、ラジオドラマ「グリーン・ホーネット」の放送が始まった1936年はその30年前、つまりB.D.30年ということになります。まずは、すべての出発点であるその時に遡ってみることにしましょう。

【第1章】 カトーとトント

「グリーン・ホーネット」の原作は、フランク・ストライカーとジョージ・W・トレンドルが書いたことになっていますが、実際にはジョージ1人による創作だったといいます。彼は2013年にジョニー・デップが出演して映画化された往年のヒット西部劇「ローン・レンジャー」(THE LONE RANGER)の原作者でもあります。こちらも「グリーン・ホーネット」同様、1933年にラジオドラマとして誕生しました。
「ローン・レンジャー」には主人公の甥であるダン・リードが出てきますが、グリーン・ホーネットの表の顔はダンの息子でロサンゼルスの新聞社デイリー・センチネルを経営するブリット・リードだという設定になっていました。グリーン・ホーネットの正体を知っているのは秘書と検事長だけです。
ちなみにグリーン・ホーネットという名は、彼の車「ブラック・ビューティー」のエンジン音が、凶暴なスズメバチ(=ホーネット)の羽音に似ていることから付けられました。
ブリットには運転手を兼ねたカトー(Kato。加藤か?英語では「ケイトー」と発音します)という日本人の助手がいます。カトーは「イエッシュ、ミスタ・ブリイット」という癖の強い英語が滑稽さを醸し出して人気を呼んだものの、ローン・レンジャーに付き従うネイティブアメリカンのトント(スペイン語で「愚者」という意味)がそうであったように、主人公の引き立て役に過ぎませんでした。

ラジオの「グリーン・ホーネット」は1936年1月から1952年12月までの16年間、30分枠のドラマとして、デトロイトのラジオ局WXYZで放送されました。2003年に公開されたクエンティン・タランティーノ監督の「キル・ビル Vol.1」でも使われた、ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフの「熊蜂の飛行」をルーツとする軽快なリズムのテーマ曲は、この時からすでに存在していました。
1940年にはユニヴァーサル社が、1話20分程度の連続活劇として映画化します。「ザ・グリーン・ホーネット」(THE GREEN HORNET)というタイトルで13話制作されました。こちらもかなり評判がよかったため、同じ年のうちに続編「ザ・グリーン・ホーネット ストライクス アゲイン!」(THE GREEN HORNET STRIKES AGAIN!)として15話が制作されています。
監督はフォード・ビーブとジョン・ロウリンス、ブリット・リードをウォーケン・ハル、カトーを広州生まれのアメリカ人俳優ケイ・ルーク(陸錫麟)が演じています。2人のマスクはブリットのは顔全体を覆う形で、鼻から口の部分に蜂のロゴが刻まれていました。一方、カトーの方はゴーグル型でした。1941年の太平洋戦争開戦直前のこの時期から、本来は日本人という設定であったカトーの国籍が揺らぎます。映画では韓国人とされ、ラジオでも戦時中は東洋人としてのみ扱われたり、フィリピン系とされたりしました。
幼い頃のブルース・リーは、日本軍の戦闘機に向かって拳を振り上げていたといいます。のちに主演映画「ドラゴン怒りの鉄拳」で抗日英雄を演じることになる彼は、日本人の役をやることに対して、どのような思いを抱いていたのでしょうか。そのことについて、彼はなんらコメントを残していませんが、内心、あまりいい気持ちはしなかったかもしれません。

             
             TV版を再編集した「ブルース・リーのグリーン・ホーネット」

連続活劇版「グリーン・ホーネット」が作られた1940年は、奇しくもブルースが誕生した年でもあります。11月27日、彼は広東歌劇団の役者である父李海泉<リー・ホイチュアン>のアメリカ長期公演中に、サンフランシスコの中華街にある病院で産声を上げました。サンフランシスコ(三藩)を揺るがすという意味の振藩<チェンファン>という名を与えられた赤ん坊は、それから26年後に放映が始まる「グリーン・ホーネット」への出演を足がかりに、サンフランシスコはおろか世界を揺るがす巨龍へと成長してゆくのです。


【参考文献】
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
松宮康生著『ブルース・リー最後の真実』ゴマブックス、2008年
映画パンフレッド『グリーン・ホーネット IN 3D』松竹、2011年

「燃えよ!カンフー」の敵を「キル・ビル」で討て!(3) ─ 「キル・ビル」編

2014年05月20日 | 日記
デイビッド・キャラダインに、別段悪意はなかったでしょう。そもそも「燃えよ!カンフー」の制作者側に、ブルース・リーを使う意思はまったくありませんでしたし、キャラダイン自身はブルースのことをほとんど知らなかっただろうと思います。彼は主役としてこの功夫西部劇を6シーズンも続くヒット・ドラマにした立役者であり、そのキャリアから見て、「サイレントフルート」への起用は至極妥当な選択だったでしょう。まして、彼は正真正銘の白人ですから、たとえスポンサーに人種的な偏見があったとしても、文句の出ることはありません。
このように、理屈から見ればキャラダインが責められるいわれはなにもないのですが、わかっていても収まりがつかないのが感情というものです。「デイビッド・キャラダインを殺せ」というフレーズは、ブルース・リーファンの間でさながら呪文のように唱えられ続けることになります。

「サイレントフルート」から25年あまり、キャラダインはクエンティン・タランティーノ監督作品「キル・ビル」(KILL BILL)に出演します。2003年公開のVol.1と、翌年に公開されたVol.2の2本から成るこの映画において、彼の役は「毒ヘビ暗殺団」の首領でユマ・サーマン演じる主人公ザ・ブライドが命を狙う標的のビルです。ザ・ブライドは、時に1978年公開の「死亡遊戯」でブルースが着た黄色に黒い線の入ったトラックスーツとよく似た衣装に身を包み、さまざまな武闘術に長けた敵と壮絶なバトルを繰り広げます。

  
  「キル・ビル」Vol.1。「死亡遊戯」を連想させる黄色に黒い線の入った衣装で闘うザ・ブライド

暗殺団最強と謳われた殺し屋ザ・ブライドは、テキサス州エル・パソの小さな教会で結婚式のリハーサルをしていました。突然、その場に現れたビルは、「サイレントフルート」に登場する盲目の武術家よろしく横笛を奏でます(ブルーレイの特典映像で、「燃えよ!カンフー」で使ったものだとキャラダインが語っています)。結婚を祝福するかのような素振りを見せていたビルですが、実は自分を裏切って組織を去ったザ・ブライドのことを許してはいませんでした。彼とその手下たちは教会を襲撃し、花婿をはじめ出席者を全員惨殺します。さらにお腹にビルの子を宿していたザ・ブライドも、拳銃で頭を撃ち抜かれて瀕死の状態に陥りました。4年間の昏睡から奇跡的に目覚めた彼女は、暗殺団のメンバー5人に復讐することを誓います。

彼女はまず沖縄へ飛び、ビルの師で、今は寿司屋に身をやつしている刀匠の服部半蔵(千葉真一。この役柄は、千葉が1980年に始まり、長くシリーズ化されたTV時代劇「服部半蔵 影の軍団」で演じた同名の主人公の子孫を想定しています)に、最高傑作と自認する名刀を作ってもらいました。それを手に、暴力団組織の頂点に君臨するオーレン・イシイ(ルーシー・リュー)が宴会を開く東京の青葉屋に乗り込みます。
オーレン配下の武闘集団クレイジー88は、全員1966年から67年にかけて放映されたTVドラマ「グリーン・ホーネット」で、ブルース演じるカトーがしていたのと同じ仮面を装着していました。ナレーションでサーマンは、これを「ケイトー(カトー)・マスク」と呼んでいます。ちなみに、ザ・ブライドが那覇から飛行機に乗って東京の青葉屋へ向かう際のBGMには、「グリーン・ホーネット」のテーマ曲が使われています。
クレイジー88や鋸が仕込まれた鉄球のついた鎖を振り回す少女ゴーゴー夕張(栗山千明)を血祭りにあげ、雪の降り積もる日本庭園でオーレンと日本刀で斬り合い、激闘の末に頭頂部を切断して殺します。

次にナイフの使い手ヴァニータ・グリーン(ヴィヴィカ・A・フォックス)をカリフォルニア州パサデナの彼女の自宅に襲い、娘の眼前で殺害し、残る標的を求めてテキサスの荒野に向かいました。そこにはストリップ・クラブの用心棒に落ちぶれたビルの弟バド(マイケル・マドセン)が、薄汚いトレーラーで酒浸りの日々を送っていました。彼を殺そうとして返り討ちにあったザ・ブライドは、墓場の土中に生き埋めにされます。しかし中国の僧パイ・メイ(ゴードン・リュー)のもとでの厳しい武術修行を思い出し、拳で棺桶の蓋を突き破り、地上に出ることに成功しました。
一方バドは、ザ・ブライドの代わりにビルの愛人の座に収まっていた隻眼の女、エル・ドライバー(ダリル・ハンナ)にザ・ブライドの刀を高額で売りつけようとしますが、札束の詰まったトランクに彼女が潜ませておいた毒ヘビに噛まれて命を落とします。その直後にザ・ブライドは、バドが持っていたもう1本の半蔵の刀を取ってエルと死闘を演じ、彼女の残っていたもう片方の目をえぐり取りました。
ザ・ブライドは、いよいよビルの許へたどり着きます。そこで彼女は、死んだと思っていた子どもが生きていることを知りました。それでもなお彼女は全てに決着をつけるべく、ビルとの最後の闘いに臨むのです。

  
  「キル・ビル」Vol.2。ビルとザ・ブライドは、お互いに愛情を感じつつも、生死を賭けて闘います

「キル・ビル」には、映画大好き人間のタランティーノが、愛してやまないカンフー映画や任侠映画、マカロニウエスタンといった過去の作品へのオマージュが思いっきり詰め込まれています。ブルース・リー映画もそのうちの1要素に過ぎなかったかもしれません。そもそも当初の予定では、ウォーレン・ベイティがビルを演じるはずでした。しかし、ビル役を降りたベイティの推薦でキャラダインが起用されたことによって、この作品はにわかにブルースファンの恨みを買ったキャラダインへの復讐劇というテーストを帯びることになります。
ビル=キャラダインに止めを刺したのが刀でも銃でもなく、パイ・メイから教わった中国拳法の秘技だったというのも、あくまで素手での闘いにこだわったブルースの敵討ちという見方をすれば、なんとなく得心がいくような気もします(もっともスクリーンの中のブルースは、秘技などというものは一切使わず、単純にしてスピードとパワーで敵を制する攻撃に徹していましたが・・・)。

「キル・ビル」で、愛する女性に殺される男を演じるだけでは禊を果たすことができなかったのか、Vol.2の公開から5年後の2009年に、キャラダインを突然の不幸が襲います。6月4日、映画出演のために滞在していたタイ・バンコクのホテルで、彼が変死しているのが発見されました。自慰中の事故死だったそうです。
あまりといえばあまりな最期でした。これが祟りだったとは思いたくありませんが、ブルースの夢の跡を引き継いでスターになった男は、その悲運までも引き継いでしまったのかもしれません。


【参考文献】
STUDIO 28監修『アクション・ムービー究極大鑑』ぴあ、2004年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
柴山幹郎著『アメリカ映画風雲録』朝日新聞出版、2008年

「燃えよ!カンフー」の敵を「キル・ビル」で討て!(2) ─ 「サイレントフルート」編

2014年05月06日 | 日記
1969年、ブルース・リーは自らの武術を世に知らしめるため、1本の映画の制作を計画します。
「サイレントフルート」と題されたその映画は、スティーヴ・マックィーンを主演に迎え、ロマン・ポランスキーに監督させる予定でした。2人はブルースの功夫の弟子です。しかし、ブルースをスターにするために利用されることを嫌ったマックィーンは、出演を断ります。この出来事は、ブルースにマックィーンよりも大物のスターになってみせるという決意を固めさせました。ブルースは次に、やはり弟子であるジェームズ・コバーンに話を持って行くと、彼は快く引き受けてくれました。こうしてブルース、コバーン、そして同じく弟子で後のオスカー受賞脚本家スターリング・シリファントの3人で、映画の構想が練られることになります。

翌年、ワーナー・ブラザースがインドを舞台にするという条件で、「サイレントフルート」の制作に興味を示しました。なぜインドかというと、同国で得た収益の持ち出しをインド政府が許さなかったので、国内でそれを使おうと考えたからです。こうしてブルースは、シリファントとコバーンを連れてロケハン旅行に出かけました。
焼けつくような暑さと、未舗装の道から舞い上がる土埃の中を移動しながら、コバーンとシリファントは経験から、インドでの撮影がうまく行かないことを確信します。
ブルースとコバーンの間にも溝ができていきました。大きなホテルではコバーンだけが特別待遇を受け、自分とシリファントはそれに比べて粗末にしか扱われないことに不満を募らせたブルースは、将来超えるべき対象に、マックィーンばかりでなくコバーンも加えます。

結局コバーンが降板し、ワーナーが手を引いたため、この企画は頓挫しました。ポランスキーの妻で、ブルースの弟子でもあった女優のシャロン・テイトが惨殺される事件が起きたことも、挫折の一因となりました。
後にブルースが成功を掴むと、コバーンとシリファントはこの企画を復活させようとします。彼らは香港に飛んでブルースと話し合いますが、その頃彼には世界中から出演依頼が殺到するようになっており、一歩後退ともいうべきこの役を演じることはできませんでした。こうして再び企画は闇に葬り去られます。
ところがブルースが死んだ後の1978年、ついに「サイレントフルート」(The Silent Flute)は彼の神話化の煽りを受けて制作されました。ブルース、コバーンと練り上げた原案に、シリファントがスタンリー・マンとともに脚色を加えました。製作総指揮はリチャード・R・セント・ジョーンズ、製作はサンディ・ハワードとポール・マスランスキー、監督はリチャード・ムーアが務めました。

ストーリーを簡単に紹介しておきましょう。
若き武術家コード(ジェフ・クーパー)は、無敵の強さを誇るというジタン(クリストファー・リー)が持つ、世界の叡智を記した教典を求めて旅に出ました。杖とも武器ともなる長大なフルートを手にした盲目の武術の達人と出会い、その導きを受けながら、次々と襲いかかる試練を乗り越えてジタンのもとへたどり着き、ついに念願の教典を開きます。ところがそれはどのページも鏡がはめ込まれているだけで、コードの顔を映し出すばかりでした。彼は、究極の真理は自らの内側にあることを悟るのです。

ブルースがやるはずだった役を演じたのは、またしてもあのデイビッド・キャラダインでした。彼は盲目の武術の達人やコードと闘うモンキーマン、死神、キャラバンの隊長チャン・シャーと1人で何役もこなし、物語の鍵を握ります。さまざまな役柄を使い分けて幾度も登場し、自らの武術の素晴らしさを観客に見せつけようというブルースの意図が、露骨なくらい明白でした。これでは大スターとしてのプライドがあるマックィーンが、協力を拒んだのもしかたがなかったでしょう。

ブルース原案を謳う「サイレントフルート」

実は今、キャラダイン版「サイレントフルート」で製作に当ったポール・マスランスキーが、香港に拠点を置くプロデューサー兼俳優ベイ・ローガンのB&Eプロダクションと組んでリメイクしようとしています。ゾンビ、もとい不死鳥のように繰り返し蘇り続けるこの作品のことを、彼岸のブルースはどのように思っているのでしょうか。
妻のリンダは原案に夫の名があることについて、「ブルースは、そんなことをしてくれなくてもよかったのにと思ったにちがいない。最終的な作品は、彼の構想とはかけ離れたものだったからだ」(『ブルース・リー・ストーリー』)と言っています。その言葉のとおり、死後とはいえ望みどおりマックィーンやコバーンを超えるスーパー・スターとなったブルースは、もはやこの作品に対してなんのこだわりも持っていないかもしれません。

こだわりを捨てられなかったのは、ブルースを敬愛してやまないファンたちでした。「サイレントフルート」に、主演を熱望していた「燃えよ!カンフー」、2度までも彼の夢見ていた役柄をかっさらっていったキャラダインは、1970年代以降、ブルース・リーファンの怨念を一身に浴びることになります。
そしてそのことが、後に鬼才クエンティン・タランティーノ監督の手になる異色のバイオレンス・アクション映画「キル・ビル」に繋がっていくことになるのです。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
ブルース・トーマス著、横山文子訳『BRUCE LEE:Fighting Spirit』PARCO、1998年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年

「燃えよ!カンフー」の敵を「キル・ビル」で討て!(1) ─ 「燃えよ!カンフー」編

2014年05月04日 | 日記
1966年にレギュラー出演した「グリーン・ホーネット」で、ブルース・リーはそれまで誰も見たことがないスピーディーでパワフルな功夫アクションを披露し、アメリカ人たちを魅了しました。しかし、番組としてはその前に放映されていた人気シリーズ「バットマン」の高視聴率には及ばず、26話で終了します。その後はいくつかのTVドラマや映画に端役で出演したり、武術指導を務めたりはするものの、より創造的で次元の高い演技や役柄を求める彼の野心と情熱は、決して満たされることはありませんでした。

1971年、ワーナー・ブラザースは連続TVアクションドラマ「ウォリアー」を企画します。少林寺で功夫を学んだアメリカ人と中国人のハーフであるクワイ・チャン・ケインが、19世紀中頃、西部開拓時代のアメリカに渡って様々な苦難を乗り越えながら放浪するという物語です。彼は自分から争いをしかけることはありませんが、やむにやまれぬ状況に追い込まれ、最後は磨き上げた武術の腕に訴えて虐げられた弱者たちを救います。また彼が体現している東洋哲学の叡智が、周囲の人々の心を捉えます。

ブルースはこの企画を知らされた時、それがまさに自分にふさわしいものであると確信し、制作会社のワーナーに対して、細部にわたって数多くのアイディアを提供しました。彼は当然のことのように主演を期待していましたが、実はワーナーも放映元のABCテレビも、彼の起用を考えてもいなかったのです。
12月、香港で「ドラゴン怒りの鉄拳」をヒットさせたブルースのもとに、ワーナーから「ウォリアー」を降ろされたという電報が届きます。あまりに無名であるとか、小柄すぎるとか、経験不足であるとか、英語の発音が完璧でないといった理由が挙げられていましたが、「グリーン・ホーネット」で流暢な英語を話し、主人公を上回る人気を勝ち取ったブルースに向けられたものとしては、はなはだ根拠が薄いと言わざるをえません。真の原因は、アジア人に対する人種差別にあったのです。スポンサーがあまりに中国人らしく見える俳優が、毎週放映されるTVシリーズの主人公を演じることに危惧を感じたという一事に尽きます。
こうしてハリウッドでビッグなスターになるというブルースの夢は、決定的な挫折によって一端幕を閉じます。彼は香港で、映画俳優としてのキャリアを積んでいくことを心に決めるのです。

「ウォリアー」は「クンフー」(KUNG FU)と題名を変えて、1972年に全米で放映されました。邦題は「燃えよ!カンフー」です。主演のデイビッド・キャラダインは、これっぽっちも中国人の血が流れていないブロードウェイあがりの俳優で、功夫についてはその名を聞いたことがあるという程度の知識しか持ち合わせていませんでした。物静かで思慮深い男を演じるのはまあまあさまになっていても、そのアクションのキレは、ブルースの華麗な功夫技を知る者の目にはいささか物足りず、まるで素人が踊るダンスを見ているようでした。
そうは言ってもこのドラマ、相当人気があったらしく、6シーズン、全62話が放送され(1972年~75年)、さらには舞台を現代に移した全21話の「新・燃えよ!カンフー」(KUNG FU:THE LEGEND CONTINUES。1993年~97年)、1986年には外伝「ブランドン・リーのカンフー・ファイター」(KUNG FU:THE MOVIE)が作られ、キャラダインとブルースの子ブランドンとの共演まで実現しています。残念ながら、そのほとんどを私は見ていませんが、これだけやればキャラダインの功夫アクションの腕も、相当に上がったことでしょう。

功夫と西部劇のコラボ「燃えよ!カンフー」

つい皮肉っぽくなってきましたので、気を取り直して話題を変えることにしましょう。
少林寺でケインに功夫と東洋の哲学思想を教えた師匠の1人が盲目のポー老師です。しかし修行を終えて寺を去ったケインは、再会したポーを目の前で撃たれ、さらなる銃撃を避けるためにやむなく清国皇帝の甥を殺めてしまいます。こうして追われる身となった彼は、アメリカへ逃れることになるのです。
物語の発端に関わる重要な役割を果したポーを演じるケイ・ルーク(陸錫麒)は、ブルースとは浅からぬ縁のある役者です。彼は人気ラジオ・ドラマを1939年に劇場映画にした「グリーン・ホーネット」の初実写化版で、後にブルースが演じたカトー役をやっています。さらに、「燃えよドラゴン」で悪の総帥ハンに扮したシー・キエンが英語が不得手だったため、セリフの吹き替えを担当しました。
ついでに言えば、やはり「燃えよドラゴン」でブルースとともにハンの要塞を壊滅させるローパーを演じたジョン・サクソンが、「燃えよ!カンフー」にゲスト出演しています。

ブルース・リーのハリウッドにおける挫折は、「ウォリアー」が最初ではありませんでした。かけた時間や労力の分量から見れば、むしろそちらの方が彼に与えたダメージは大きかったかもしれません。
それこそが遡ること3年前、ブルースが俳優としての飛躍を賭けて自ら考え出した冒険活劇映画「サイレントフルート」の制作計画でした。


【参考文献】
リンダ・リー著、柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』キネマ旬報社、1993年
四方田犬彦著『ブルース・リー 李小龍の栄光と孤独』晶文社、2005年
関誠著「「グリーン・ホーネット」魅力の源泉はブルース・リーにあり!」『キネマ旬報』2月上旬号(No.1574)
  キネマ旬報社、2011年