明治15(1882)年、東京・下谷区北稲荷町の永昌寺で産声を上げた講道館は、幾度かの移転を経て、木村又蔵がやって来た大正8(1919)年当時は、小石川区下富坂町に107畳の道場を構えていました。
汗ばんだ十字絣の肩に稽古着と風呂敷を振り分け、破れ袴に太緒の下駄履き、コウモリ傘を提げた田舎者丸出しの姿で「竹内三統流の木村又蔵と申します」と名乗る彼に、応対に出た道場生は「講道館は、他流試合は致しません」と門前払いをしようとします。しかし又蔵は、
「ワシは試合に来たつじゃなか、入門に来たつです。そっで入門する前に、本家ん柔道が、どういうもんかば知る必要のあっとです」
と必死で懇願しました。そのあまりに真剣な様子に気の毒と思ったのか、数十名の門人相手に柔道理論の講義をしていた渥美正純が、又蔵を道場に上げて「講道館の豹」と呼ばれていた寺山正義3段と立ち合わせたのです。
がむしゃらに攻めたてる又蔵を、“押さば引け、引かば押せ”の講道館流で翻弄する寺山に、又蔵は巴投げで技ありを取られてしまいます。しかし負けず嫌いの又蔵はなおも食い下がり、ついには寺山の首を股の間に挟み、「参った」と言わせてしまいました。
「まだ決まってもいないのに、一体なんで参るのだ?」
と訝る渥美に、寺山は目鼻が一つになるほどのしかめ面を作りながら、「木村氏の股が臭くて、とても辛抱できません」と答えたのでした。
講道館下富坂道場は、現在の小石川大国ビル(左。東京都小石川区1-3-25)の場所にありました。
現在の講道館(右。文京区春日1-16-30)は、春日通りを挟んですぐ目と鼻の先に建っています
礼儀作法もなっておらず、柔道も呆れるほど粗暴な又蔵でしたが、手元において指導すれば、いずれは物になると見た渥美は、身元保証人となって彼を講道館に入門させます。渥美は嘉納治五郎の信任篤く、皇宮警察の柔道指南に当たっていたほどの人物でした。
「木村又蔵の股力」と語り草になった一戦以来すっかり仲良くなった寺山の下宿に、部屋代折半の取り決めで転がり込んだ又蔵は、人力車夫をしながら、一から講道館柔道を学び始めます。すると渥美の見込み通り、数ヵ月のうちにみるみると力をつけていきました。そこで渥美は、又蔵を皇宮警察の柔道指導助手に起用することにしました。
その際、社会的信用を付けるために、郷里で鐘淵紡績の女工をしていたスミと結婚します。また、皇宮警察のほかに、又蔵は深川の顔役、武部晋策が洲崎に設けた柔道道場へ指導に通うようになりました。もっともこちらの方は、武部の子分衆への柔道指導より、武部組の用心棒という色合いが強く、しばしば紛争の場に立ち合っては、危ない目にも遭ったといいます。
こうした小さなトラブルはあったにしろ、それまで根なし草のようだった又蔵の人生も、ようやく落ち着いたかに思われました。しかしそれも、長くは続きませんでした。
又蔵は、「サンテル事件」と呼ばれる講道館柔道とプロレスの異種格闘技戦に関わることになります。
講道館に入門して2年後の大正10年3月のことです。5日と6日の両日、靖国神社境内の相撲場で柔道有段者数名が、アメリカのプロレスラー、アド・サンテルとヘンリー・ウェーバーを相手に興行試合を行いました。サンテルは鉄人ルー・テーズが師事し、必殺技バック・ドロップを伝授されたという業師で、かつて、サンフランシスコで前田光世、大野秋太郎、佐竹信四郎とともに「海外四天王」と並び称された伊藤徳五郎5段を破った実績があります。
試合の結果はといえば、初日の第1試合はウェーバー対増田宗太郎2段で、1回戦は増田、2回戦はウェーバーが勝ち、3回戦は引き分けでした。
第2試合はサンテル対永田礼次郎2段で、1回戦は引き分け、2回戦はサンテルの反則で永田が首を痛め、試合続行不可能となったため痛み分けとなりました。
2日目の第1試合はウェーバー対清水一2段。1、2回戦とも清水が制します。第2試合はサンテル対庄司彦男3段。1、2、3回戦、すべて時間切れの引き分けに終わりました。
2日間の興行は、初日にして1万人の観客が入る大盛況でしたが、講道館は館員がこの試合に出場することを認めていませんでした。
嘉納治五郎は、かねてより武術興行を行うことには否定的でした。明治のはじめ、西欧化の大波が押し寄せる中、日本古来の武術が衰退し、暮らしに窮した武術家たちは撃剣会や柔術<やわら>会、馬術会などを企画して、かつては幕府や藩を守るために磨き上げた技や、試合を人々に見せて、木戸銭を取って糊口をしのいでいました。
嘉納が天神真楊流を学んだ福田八之助や磯正智もそうした興行に関わっていましたが、嘉納自身はその種の見世物には手を出そうとしませんでした。興行化が武術に対する世人のイメージを悪くし、何か賤しいものであるかのようにみなされる結果を招いたと考えていたからです。
彼が柔術、柔<やわら>、体術といった従来の名称をやめて、柔道と称することにした理由の1つに、こうした悪印象を払拭する狙いがあったといいます。
靖国神社の境内にある相撲場(左)と、そのそばに立つ国技像(右。東京都千代田区九段北3-1-1)
そうした経緯もあって、試合後、講道館は「柔道精神に反する」として、関係した有段者7名に対して段位剥奪という厳しい処分を下しました。もっとも、反省して2度とこのようなことはせぬと誓うなら、遠からず元の待遇に復するという条件付きではありましたが。
又蔵の長男武則が書いた伝記『柔道一本槍』では、又蔵がこの事件の首謀者だったと書かれています。しかし、渥美に期待されていたとはいえ、又蔵は講道館の生え抜きではなく、いわば竹内三統流からの留学生のような存在です。講道館の代表とは見なされなかったのか、試合に出場することもなく、処分された有段者7人のうちにも、その名は見られません。
そうは言っても何のお咎めもなかったわけではなく、皇宮警察の柔道指導助手を辞めさせられ、3ヵ月間の謹慎を申し渡されました。
丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決』
その後、大正12年9月1日に起きた関東大震災の際にも、又蔵は絶体絶命の危機に見舞われました。
地震の翌日、はぐれた妻子を探して廃墟をさまよっていた又蔵は、町の自警団に襲撃された朝鮮人に助けを求められたことから諍いとなります。多勢に無勢、彼はその場を逃げ出しますが、材木置き場で最後までただ1人日本刀を手に追って来た入墨男を、置いてあった木材で、それが折れるほどメッタ打ちにしてしまいました。
又蔵がボコボコにした相手は、悪いことに顕神会という組織の幹部でした。こうして又蔵は、またもやヤクザから逃げ回ることになります。
彼は前回のヤクザとのトラブルで、ともに郷里を脱した弟の継信が、信州で旅館の主人に気に入られて雇われるまで、4年間厄介になっていた旅巡りの一座に潜り込みます。
そこで彼は、手で5枚重ねの瓦を割ったり、立て掛けた板を蹴り割ったり、仰向けに寝て腹の上に渡した板に数人の人間を乗せたりといった曲芸を見せながら、諸国巡業の旅を続けました。
又蔵をかばう武部組と、顕神会の反目はなかなか解決しませんでしたが、大正14年の暮れになって、状況は急展開を見せます。
武部の親分筋に当たる頭山満(国家主義者で右翼の巨頭。政界の黒幕として暗躍した)に相談すると、彼は柔拳興行や靖国神社での事件のことを知っていて、又蔵という人間に興味を持っていたので、自分の右翼団体である玄洋社を動かして、瞬く間に事態を収拾してしまいました。
何とも恐るべき頭山の政治力ですが、おかげで又蔵は、大手を振るって東京に戻ることができたのです。
その後、又蔵は短い期間ですが、渥美の勧めで皇宮警手になったり、神戸の講道館分場の指導員をしたり、長崎県島原中学の柔道教師に招かりたりして、家族とともに比較的穏やかな歳月を過ごしました。島原中学の柔道部は、又蔵の指導で昭和3(1928)年11月の県下武道大会で、念願の初優勝を果たしました。しかし喜びも束の間、優勝祝いに又蔵が出場選手一同を料亭に連れ込み、芸者を上げて大騒ぎをしたのが問題となり、在職わずか8ヵ月でクビとなってしまいました。どうやらトラブルを起こさずにはいられないお騒がせ男の性根は、いまだ治ってはいなかったようです。
その翌月に、指導を一任されていた町営道場も辞めた又蔵は、帰郷を決意します。
そんな折、命の恩人である頭山満から呼び出され、妻子を先に熊本へ発たせて上京しました。
緊張の面持ちで対座した又蔵に、頭山は「ワシの仕事を手伝ってみないか」と持ち掛けます。しかし又蔵は、今の柔道には納得がいかないので、自分の道場を持って、より実戦的な武道らしい柔道を広めたいという夢を、つっかえ、つっかえしながらも熱く語って、頭山の申し出を断りました。
又蔵の話をじっと聞いていた頭山は、「よくわかった、力を貸そう」と言って、「道場開きの足しにしたまえ」と500円の札束を与えたのです。
そんな頭山に、厚かましくも又蔵は、腰痛を治してやった鍛冶屋が謝礼として作ってくれた鉄扇に「尚武」と書いてもらった上、すき焼きまでご馳走になって、意気揚々と頭山邸を後にしました。
昭和4(1929)年正月、こうして熊本に戻って来た又蔵でしたが、生まれ育った八分寺村では、「糞笹<くそざさ>又蔵」と呼ばれて疫病神のように忌み嫌われていたために道場を開くことができず、馬喰の坂井(第3回参照)に見つけてもらった川尻町の土地に、念願の道場、昭道館を開きます。
ここで話はようやく振り出しに戻り、又蔵と木村政彦少年との出会いへと繋がっていくのです。
【参考文献】
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年
丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決─大正十年・サンテル事件─』島津書房、2006年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年
汗ばんだ十字絣の肩に稽古着と風呂敷を振り分け、破れ袴に太緒の下駄履き、コウモリ傘を提げた田舎者丸出しの姿で「竹内三統流の木村又蔵と申します」と名乗る彼に、応対に出た道場生は「講道館は、他流試合は致しません」と門前払いをしようとします。しかし又蔵は、
「ワシは試合に来たつじゃなか、入門に来たつです。そっで入門する前に、本家ん柔道が、どういうもんかば知る必要のあっとです」
と必死で懇願しました。そのあまりに真剣な様子に気の毒と思ったのか、数十名の門人相手に柔道理論の講義をしていた渥美正純が、又蔵を道場に上げて「講道館の豹」と呼ばれていた寺山正義3段と立ち合わせたのです。
がむしゃらに攻めたてる又蔵を、“押さば引け、引かば押せ”の講道館流で翻弄する寺山に、又蔵は巴投げで技ありを取られてしまいます。しかし負けず嫌いの又蔵はなおも食い下がり、ついには寺山の首を股の間に挟み、「参った」と言わせてしまいました。
「まだ決まってもいないのに、一体なんで参るのだ?」
と訝る渥美に、寺山は目鼻が一つになるほどのしかめ面を作りながら、「木村氏の股が臭くて、とても辛抱できません」と答えたのでした。
講道館下富坂道場は、現在の小石川大国ビル(左。東京都小石川区1-3-25)の場所にありました。
現在の講道館(右。文京区春日1-16-30)は、春日通りを挟んですぐ目と鼻の先に建っています
礼儀作法もなっておらず、柔道も呆れるほど粗暴な又蔵でしたが、手元において指導すれば、いずれは物になると見た渥美は、身元保証人となって彼を講道館に入門させます。渥美は嘉納治五郎の信任篤く、皇宮警察の柔道指南に当たっていたほどの人物でした。
「木村又蔵の股力」と語り草になった一戦以来すっかり仲良くなった寺山の下宿に、部屋代折半の取り決めで転がり込んだ又蔵は、人力車夫をしながら、一から講道館柔道を学び始めます。すると渥美の見込み通り、数ヵ月のうちにみるみると力をつけていきました。そこで渥美は、又蔵を皇宮警察の柔道指導助手に起用することにしました。
その際、社会的信用を付けるために、郷里で鐘淵紡績の女工をしていたスミと結婚します。また、皇宮警察のほかに、又蔵は深川の顔役、武部晋策が洲崎に設けた柔道道場へ指導に通うようになりました。もっともこちらの方は、武部の子分衆への柔道指導より、武部組の用心棒という色合いが強く、しばしば紛争の場に立ち合っては、危ない目にも遭ったといいます。
こうした小さなトラブルはあったにしろ、それまで根なし草のようだった又蔵の人生も、ようやく落ち着いたかに思われました。しかしそれも、長くは続きませんでした。
又蔵は、「サンテル事件」と呼ばれる講道館柔道とプロレスの異種格闘技戦に関わることになります。
講道館に入門して2年後の大正10年3月のことです。5日と6日の両日、靖国神社境内の相撲場で柔道有段者数名が、アメリカのプロレスラー、アド・サンテルとヘンリー・ウェーバーを相手に興行試合を行いました。サンテルは鉄人ルー・テーズが師事し、必殺技バック・ドロップを伝授されたという業師で、かつて、サンフランシスコで前田光世、大野秋太郎、佐竹信四郎とともに「海外四天王」と並び称された伊藤徳五郎5段を破った実績があります。
試合の結果はといえば、初日の第1試合はウェーバー対増田宗太郎2段で、1回戦は増田、2回戦はウェーバーが勝ち、3回戦は引き分けでした。
第2試合はサンテル対永田礼次郎2段で、1回戦は引き分け、2回戦はサンテルの反則で永田が首を痛め、試合続行不可能となったため痛み分けとなりました。
2日目の第1試合はウェーバー対清水一2段。1、2回戦とも清水が制します。第2試合はサンテル対庄司彦男3段。1、2、3回戦、すべて時間切れの引き分けに終わりました。
2日間の興行は、初日にして1万人の観客が入る大盛況でしたが、講道館は館員がこの試合に出場することを認めていませんでした。
嘉納治五郎は、かねてより武術興行を行うことには否定的でした。明治のはじめ、西欧化の大波が押し寄せる中、日本古来の武術が衰退し、暮らしに窮した武術家たちは撃剣会や柔術<やわら>会、馬術会などを企画して、かつては幕府や藩を守るために磨き上げた技や、試合を人々に見せて、木戸銭を取って糊口をしのいでいました。
嘉納が天神真楊流を学んだ福田八之助や磯正智もそうした興行に関わっていましたが、嘉納自身はその種の見世物には手を出そうとしませんでした。興行化が武術に対する世人のイメージを悪くし、何か賤しいものであるかのようにみなされる結果を招いたと考えていたからです。
彼が柔術、柔<やわら>、体術といった従来の名称をやめて、柔道と称することにした理由の1つに、こうした悪印象を払拭する狙いがあったといいます。
靖国神社の境内にある相撲場(左)と、そのそばに立つ国技像(右。東京都千代田区九段北3-1-1)
そうした経緯もあって、試合後、講道館は「柔道精神に反する」として、関係した有段者7名に対して段位剥奪という厳しい処分を下しました。もっとも、反省して2度とこのようなことはせぬと誓うなら、遠からず元の待遇に復するという条件付きではありましたが。
又蔵の長男武則が書いた伝記『柔道一本槍』では、又蔵がこの事件の首謀者だったと書かれています。しかし、渥美に期待されていたとはいえ、又蔵は講道館の生え抜きではなく、いわば竹内三統流からの留学生のような存在です。講道館の代表とは見なされなかったのか、試合に出場することもなく、処分された有段者7人のうちにも、その名は見られません。
そうは言っても何のお咎めもなかったわけではなく、皇宮警察の柔道指導助手を辞めさせられ、3ヵ月間の謹慎を申し渡されました。
丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決』
その後、大正12年9月1日に起きた関東大震災の際にも、又蔵は絶体絶命の危機に見舞われました。
地震の翌日、はぐれた妻子を探して廃墟をさまよっていた又蔵は、町の自警団に襲撃された朝鮮人に助けを求められたことから諍いとなります。多勢に無勢、彼はその場を逃げ出しますが、材木置き場で最後までただ1人日本刀を手に追って来た入墨男を、置いてあった木材で、それが折れるほどメッタ打ちにしてしまいました。
又蔵がボコボコにした相手は、悪いことに顕神会という組織の幹部でした。こうして又蔵は、またもやヤクザから逃げ回ることになります。
彼は前回のヤクザとのトラブルで、ともに郷里を脱した弟の継信が、信州で旅館の主人に気に入られて雇われるまで、4年間厄介になっていた旅巡りの一座に潜り込みます。
そこで彼は、手で5枚重ねの瓦を割ったり、立て掛けた板を蹴り割ったり、仰向けに寝て腹の上に渡した板に数人の人間を乗せたりといった曲芸を見せながら、諸国巡業の旅を続けました。
又蔵をかばう武部組と、顕神会の反目はなかなか解決しませんでしたが、大正14年の暮れになって、状況は急展開を見せます。
武部の親分筋に当たる頭山満(国家主義者で右翼の巨頭。政界の黒幕として暗躍した)に相談すると、彼は柔拳興行や靖国神社での事件のことを知っていて、又蔵という人間に興味を持っていたので、自分の右翼団体である玄洋社を動かして、瞬く間に事態を収拾してしまいました。
何とも恐るべき頭山の政治力ですが、おかげで又蔵は、大手を振るって東京に戻ることができたのです。
その後、又蔵は短い期間ですが、渥美の勧めで皇宮警手になったり、神戸の講道館分場の指導員をしたり、長崎県島原中学の柔道教師に招かりたりして、家族とともに比較的穏やかな歳月を過ごしました。島原中学の柔道部は、又蔵の指導で昭和3(1928)年11月の県下武道大会で、念願の初優勝を果たしました。しかし喜びも束の間、優勝祝いに又蔵が出場選手一同を料亭に連れ込み、芸者を上げて大騒ぎをしたのが問題となり、在職わずか8ヵ月でクビとなってしまいました。どうやらトラブルを起こさずにはいられないお騒がせ男の性根は、いまだ治ってはいなかったようです。
その翌月に、指導を一任されていた町営道場も辞めた又蔵は、帰郷を決意します。
そんな折、命の恩人である頭山満から呼び出され、妻子を先に熊本へ発たせて上京しました。
緊張の面持ちで対座した又蔵に、頭山は「ワシの仕事を手伝ってみないか」と持ち掛けます。しかし又蔵は、今の柔道には納得がいかないので、自分の道場を持って、より実戦的な武道らしい柔道を広めたいという夢を、つっかえ、つっかえしながらも熱く語って、頭山の申し出を断りました。
又蔵の話をじっと聞いていた頭山は、「よくわかった、力を貸そう」と言って、「道場開きの足しにしたまえ」と500円の札束を与えたのです。
そんな頭山に、厚かましくも又蔵は、腰痛を治してやった鍛冶屋が謝礼として作ってくれた鉄扇に「尚武」と書いてもらった上、すき焼きまでご馳走になって、意気揚々と頭山邸を後にしました。
昭和4(1929)年正月、こうして熊本に戻って来た又蔵でしたが、生まれ育った八分寺村では、「糞笹<くそざさ>又蔵」と呼ばれて疫病神のように忌み嫌われていたために道場を開くことができず、馬喰の坂井(第3回参照)に見つけてもらった川尻町の土地に、念願の道場、昭道館を開きます。
ここで話はようやく振り出しに戻り、又蔵と木村政彦少年との出会いへと繋がっていくのです。
【参考文献】
木村武則著『柔道一本槍 「最後の柔術家」木村又蔵の生涯』飛鳥新社、1995年
柔道大事典編集委員会編『柔道大事典』アテネ書房、1999年
井上俊著『武道の誕生』吉川弘文館、2004年
丸島隆雄著『講道館柔道対プロレス初対決─大正十年・サンテル事件─』島津書房、2006年
加来耕三編『日本武術・武道大事典』勉誠出版、2015年