ひろむしの知りたがり日記

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千葉周作に一刀流を教えた元アサリ売り─常楽寺(4)

2012年07月28日 | 日記
常楽寺には、実はもう1人、一刀流の剣客が眠っています。
7月1日の日記でちょっとだけ触れた小野忠喜<ただよし>の、向かって右隣に立つのが小野派一刀流中西派の浅利又七郎義信<あさりまたしちろうよしのぶ>の墓です。

彼はもともと武士の出ではなく、松戸の貧しい農家の生まれです。
幼い頃には、アサリを売って廻りました。浅利又七郎という名も、「浅蜊<あさり>売り」の又七をもじったものです。小野派一刀流中西派3代中西忠太子啓<つぐひろ>の道場を何度も覗き見しているうちに、その熱心さを買われて住み込みの内弟子となりました。
突きの名手として知られ、若狭(福井県)小浜藩酒井家の剣術師範に抜擢されます。元アサリ売りが駕籠に乗り、供を連れて出仕する身分となったのです。夢ではないかと疑って、「これは本当だろうか」と自分の頬をつねったといいます。
素朴な人柄がうかがわれる、微笑ましいエピソードですね。


浅利又七郎義信の墓。左端にわずかに見えるのが小野忠喜の墓(常楽寺。東京都新宿区原町2)

北辰一刀流の創始者千葉周作成政<なりまさ>に、最初に一刀流を教えたのが、この浅利又七郎です。文化6(1809)年、16歳の時に周作は松戸にあった又七郎の道場に入門しました。
数年たつと、浅利門下では周作に敵う者がいなくなりました。23歳になった周作に、又七郎は免許皆伝を与え、師家の4代目中西忠兵衛子正<つぐまさ、または、たねまさ>の道場に預けます。

当時、中西道場には俗に「三羽烏」とうたわれた強豪たちがいました。
決して相手の竹刀を自分の竹刀に触れさせず、竹刀が音をたてることがなかった「音無しの構え」の高柳又四郎、組太刀(一刀流では、形のことをこう呼びます)の名人で、その剣尖から火を吹くと称した寺田五郎右衛門宗有<むねあり>、その弟子で、これまた剣尖から輪が出るといっていた白井亨<とおる>の3人です。
火炎を吹き出す剣と、光り輝くリングを発する剣の激突なんて、CGで描いたら「スター・ウォーズ」のライトセーバーさながらの、迫力あるシーンになるでしょうね。

周作は組太刀を寺田宗有に、竹刀打ちを中西忠兵衛に学び、わずか3年で免許皆伝を授けられました。浅利道場に戻った彼に、又七郎は自分の後継者とすべく姪を嫁がせます。
しかし周作は、剣術に対する考えの違いから又七郎と衝突するようになりました。
千葉家にはもともと北辰夢想流という家伝の剣法があり、周作はその組太刀の形も取り入れ、一刀流に斬新な改革をもたらそうという野心に燃えていました。それに対して又七郎は、師より受け継いだ技と形を固く守り続けることを求めたのです。両者の考えはどこまで行っても平行線、決して交わることはありませんでした。話し合いはついに決裂し、周作は流儀の伝書・系譜一切を返上し、妻を連れて浅利の家を出ました。そして新たに、北辰一刀流を打ち立てたのです。

アサリ売りから身を起こし、営々と努力を積み重ねて大名家の剣術師範にまで上り詰めた苦労人の又七郎にとって、自分を拾ってくれた中西家への恩義はそれこそ海よりも深く(アサリだけに・・・)、自派に対する思い入れも、人一倍強かったことでしょう。同じように目をかけてやった周作が、自分と中西派を捨てたことは、許し難い裏切り行為と感じたかもしれません。

そうは言っても、去って行った者にいつまでもこだわっているわけにはいきません。やがて又七郎は、忠兵衛の二男を養子に迎えます。彼は養父の名を受け継ぎ、浅利又七郎義明<よしあき>と名乗りました。
又七郎義信に見込まれただけあって、義明も優秀な剣士でした。明治維新後には、徳川宗家を継いで静岡藩知事となった徳川家達<いえさと>の撃剣指南役を務めたりしています。

その維新に活躍した英傑山岡鉄舟高歩<やまおかてっしゅうたかゆき>は、北辰一刀流を学び一流の域に達しますが、何か満たされないものを感じていました。そんな時に義明と立ち合い、彼の人物と小野派一刀流の奥深さに感嘆し、すぐに入門します。そして日夜研鑽を重ね、ついに一刀正伝無刀流を創始するのです。

小野派一刀流の古さに飽き足らず、より合理的な北辰一刀流を興した千葉周作、逆に伝統がもたらす技術を超えた高みを求めて小野派一刀流に回帰していった山岡鉄舟。2人の生き方は対照的ですが、どこまでも理想を追い求める姿がどちらも格好いいな、男が惚れる男とは、こういう人たちなんだろうな、と思いました。

でも、不器用ながらも実直で、一途に自分の信ずるものを守り通そうとした浅利又七郎義信のひたむきさも、なんかいいな、と感じます。



【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
戸部新十郎著『日本剣豪譚<幕末編>』光文社、1993年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
早乙女貢他著『人物日本剣豪伝<4>』学陽書房、2001年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年

剣鬼・伊藤一刀斎─常楽寺(3)

2012年07月22日 | 日記
現代剣道のルーツといわれる一刀流ですが、その流祖伊藤一刀斎景久<いとういっとうさいかげひさ>の生涯は、謎に包まれています。

まず、その生国がはっきりとしません。
伊豆大島(東京都)をはじめ、伊豆国伊東(静岡県)、近江国堅田(滋賀県)、加賀国金沢(石川県)、越前国敦賀(福井県)などいくつもの説があります。
生年も天文19(1550)年とも永禄3(1560)年ともいわれます。
さらに名字も、伊藤ではなく伊東とするものもあります。もともとの名は、前原弥五郎といいました。

生来たくましい肉体を持ち、腕力があるばかりでなく敏捷性にも優れていたそうですから、もともと剣の天分に恵まれた人だったのでしょう。14歳の時に大島を出たといいますが、その手段が凄い。なんと板1枚を抱えて海に飛び込み、それにすがり、泳いで三島(静岡県)に渡ったと伝えられています。
三島大社の床下に起居していた一刀斎は、富田一放<とだいっぽう>という刀術者と試合をしました。一撃で一放を倒した一刀斎に、立会人を務めた同社の神官織部<おりべ>が瓶割刀<かめわりとう>を授けました。
この刀は同社に奉納されていたもので、抜身のまま天井の梁に括りつけてあったのが、縄が切れて落ちた時、下にあった酒瓶をまっ二つに割ったといいます。一刀流の宝刀とされ、代々宗家に受け継がれました。

その後江戸へ出て、中条流から鐘捲<かねまき>流を創始した鐘捲自斎<じさい>の門人となります。5年もたたずに、門弟の中で一刀斎に敵う者は1人もいなくなってしまいました。
「私は御流儀の妙所を会得しましたので、お暇をいただきます」
そう自斎に言いましたが、そんな短期間で妙境に達することができるはずがないと認めなかったので、ならば証明するまでと、直に木刀を取って立ち合うこととなりました。

結果、3度立ち合い、3度とも一刀斎の勝利に終わります。自斎が理由を尋ねると一刀斎は、
「先生が私を打とうとすると、それが私の心に映るのです。私は、ただそれに応じただけです」
と答えました。鐘捲自斎も達人といわれた剣客です。それを相手に、「あんたの打つ手は、すべて見え見えですよ」と言っているのですから、驚くべき天才ぶりです。
感心した自斎は、自流の極意をことごとく一刀斎に授け、快く彼を送り出しました。
円満退社というわけです。この時授けられた5つの極意─妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣<こんじちょうおうけん>・独妙剣はそのまま一刀流の極意となり、全ての一刀流の技はここから発生したといわれています。

一刀斎はさらに外他<とだ>道宗から判官流を学びましたが、ここでもすぐに奥秘を悟り、道宗のもとを去っています。それからは諸国を遍歴して、数多の武芸者と勝負を重ねていきます。
その戦歴たるや、凄まじいものがあります。真剣勝負33回、殺した相手57人、木刀で打ち倒した者62人と伝えられています。敗れて門人となった者に、唯心一刀流の祖古藤田勘解由左衛門俊直<ことうだかげゆざえもんとしなお>、そして小野善鬼、小野次郎右衛門忠明らがいます。

剣名高い一刀斎は、織田信長や徳川家康にスカウトされたこともありました。しかし、旅から旅への自由な生活を愛し、誰にも仕えることなく流浪の生活を続けました。老齢に至り、兄弟子小野善鬼に勝って一刀流継承者となった忠明に伝書と瓶割刀を授けると、飄然といずこかへ立ち去りました。以後、忠明は2度と一刀斎と会うことはありませんでした。
その晩年は不明です。一説では94歳まで生きたといいますが、彼ほどの天才が、その後エピソードらしいエピソードを何も残していないのは奇異な感じがします。

7月1日の日記で紹介した、小野忠明=小野善鬼説を取る峰隆一郎氏の小説では、神子上典膳<みこがみてんぜん>と組んで善鬼を亡き者にしようとした一刀斎は、善鬼の返り討ちにあって決闘地である下総国(千葉県)小金ヶ原<こがねがはら>で命を落としたのだとしています。

これは峰氏の創作ですが、それなりに説得力があります。従来の説でも、一刀斎は立会人とは名ばかりで、典膳の助太刀同様の働きをして、2人がかりで善鬼を討ち果たしたというものがあります。さらに、典膳が一刀斎を殺したという伝承まであるのです。

一刀斎は望みどおり、お気に入りの典膳を後継者にすることに成功したものの、この時の死闘が老いの身にこたえ、それからほどなくして亡くなったのではないでしょうか。
戦いで深手を負ったのかもしれませんし、優秀な弟子の1人を騙まし討ちにしたことに対する良心の呵責も、一刀斎の老いた肉体を蝕んだのかもしれません。あるいは秘密を守るために、典膳が唯一の証人である師をも葬り去ったと考えるのは、うがち過ぎでしょうか?

もちろん、これはひろむしの勝手な想像です。

流派の未来を典膳に託し、思い残すことのなくなった一刀斎は、剣の道を志して以来駆け抜けてきた修羅の道からようやく抜け出し、穏やかな安らぎの中で最後の日々を送ったというのが、本当のところだったのかもしれません。

亡くなった場所も定かでない一刀斎が、どこに葬られたのかはわかりません。常楽寺にある墓は小野派一刀流の継承者が、後世になって流祖の遺徳を偲ぶために建立したものです。
今度また訪れることがあったら、稀代の剣豪がその人生の終着点においてどのような境地に達したのか、その魂に問いかけてみたいと思います。


常楽寺の墓碑に刻まれた名。右から小野忠明・伊藤一刀斎・小野忠常

【参考文献】
峰隆一郎著『日本剣鬼伝 伊東一刀斎』祥伝社、1991年
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
児玉幸多監修『知ってるようで意外と知らない 日本史人物事典』講談社、1995年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
横瀬知行著『日本の古武道』日本武道館、2000年
牧秀彦著『剣豪全史』光文社、2003年
牧秀彦著『戦国の兵法者─剣豪たちの源流とその系譜』学習研究社、2007年

小野忠明vs柳生宗矩─常楽寺(2)

2012年07月15日 | 日記
2人の将軍家兵法指南役、小野忠明と柳生宗矩は、ほぼ同じ時期に徳川家に仕官しています。
先に仕えたのは忠明で、文禄2(1593)年のことです。宗矩はその翌年で、忠明の方が1年先輩になります。

忠明の就職経緯については、いくつかのエピソードが伝わっています。

たとえば、師の伊藤一刀斎景久<かげひさ>が徳川秀忠の剣術師範にスカウトされた時、諸国武者修行を続けることを望んで、代わりに忠明を推薦したというものです。
これは、宗矩が父石舟斎の代わりに徳川家に仕えたのとよく似ていて、いかにもありそうな話です。
ただ、これに激怒した兄弟子の小野善鬼と命をかけて決闘するという、前回の日記で書いた尋常でない話が付いてくることになるのですが・・・。

また、こんなのもあります。
江戸近郊の村で、剣術使いが人を殺して民家に立て籠りました。家康は、甲州流兵学者の小幡勘兵衛景憲<おばたかんべえかげのり>を検使として派遣し、忠明に賊を倒すことを命じます。忠明は勝負が始まるやたちまち相手の両腕を斬り落として勝ちを収めました。
勘兵衛の報告を聞いた家康は、忠明の働きを賞し、旗本に取り立てたというのです。
ちなみに小幡景憲は、後に忠明から免許を授かり、神子上一刀流を創始しています。

極めつけの話としては、宗矩と忠明の直接対決のエピソードがあります!

江戸に出た忠明は、宗矩に勝負を挑むために、柳生邸に乗り込みました。
大小を取り上げられた忠明に対して、宗矩は真剣を抜き放ち、
「わが道場は、並みの道場ではない。将軍家指南役である。それを知って試合を挑んでくる者は、手討ちにすることになっている」
と言いました。周囲を見回した忠明は、一寸八尺ばかり(約55センチ)の薪の燃えさしが落ちているのを見つけ、それを取り上げて立ち合いました。

宗矩は汗を流しつつ忠明に斬りかかりますが、その刃先は忠明の衣服に触れることさえできません。それどころか顔から衣服にかけて、燃えさしの炭をさんざんなすり付けられてしまいました。宗矩が偉かったのは、そこで弟子たちを使ってよってたかって忠明を斬り殺すというような卑劣なマネをしなかったことです。
忠明の腕に心から感服した宗矩は、彼をその場で待たせたまま登城します。そして大久保彦左衛門に会って、忠明を将軍家で召し抱えるよう推挙したといいます。

最初に書いたように、徳川家に仕えたのは忠明の方が先なので、このエピソードは当然、真っ赤な嘘です。
そうは言っても、忠明自身にも柳生には負けぬという自負があったのでしょう、宗矩の子どもたちの剣術修行法について、上から目線のアドバイスをしたと伝えられています。

どのようなアドバイスかというと、忠明は宗矩に対して次のように言いました。

「ご子息たちが上達するよい方法がある。罪人のうちから腕の立つ者をもらい受けて真剣を持たせ、これを相手にして斬り捨てさせることだ」

乱暴ではありますが、実戦派の忠明らしい言い分です。それに対して宗矩は、「いかにも、いかにも」と頷きはしたものの、当然のことながら実行には移しませんでした。
将軍家指南役の子どもに、そのような人斬り稽古をさせられるはずもありません。それでも、その場では忠明を立てて否定しないあたり、世知に長けた宗矩らしい、大人の対応といえましょう。

立身出世という面では、大名にまでなった宗矩に遠く及ばなかった忠明ですが、剣術としての一刀流は、なかなかの隆盛を誇ることになります。
息子の忠常が受け継いだ小野派一刀流、忠明の弟伊藤典膳忠也<てんぜんただなり>を祖とする忠也派一刀流などに分派して諸国に広まり、江戸時代の終わりには、その流れを汲む北辰一刀流が風雲急を告げる歴史の舞台で活躍、あるいは暗躍したキーパーソンを多く輩出しています。

新撰組の隊士でしたが、それぞれの事情から隊を離れて悲劇の最期を遂げた山南敬介・伊東甲子太郎・藤堂平助、新撰組の母体となった浪士組の募集に応じて京に上るも、近藤勇らと対立して袂を分ち、江戸に戻った後、幕府見廻組に暗殺された尊王攘夷の志士清河八郎、桜田門外の変で大老井伊直弼の首級をあげた有村次左衛門、変を起こした水戸浪士たちに精神的な影響を与えた海保帆平<かいほはんぺい>、西郷隆盛に直談判して勝海舟との会談を実現、江戸無血開城への道を開いた山岡鉄舟、もはや説明不要の幕末一番人気のヒーロー坂本龍馬など、その人材たるやまさに綺羅星の如くです。

それに引きかえ、幕末維新史において柳生新陰流の名を、少なくともひろむしは聞いたことがありません。

忠明は徳川家康に一刀流の極意を尋ねられた時、それは相手を一刀のもとに斃すことにあり、他流派のような定まった型などない、と答えています。
いつ命の危険にさらされるかわからない動乱の中では、剣禅一如を目指し、心法に重きを置く柳生新陰流よりも、実戦至上主義の一刀流の方が、時代のニーズに合っていたのでしょう。
結果的に、広く世に広まった一刀流は、現代剣道のルーツと言われています。

では、そもそも一刀流の創始者伊藤一刀斎とはどのような人物だったのでしょうか?
次回の日記では、そのあたりを語りたいと思います。


小野忠明・伊藤一刀斎・小野忠常の連名墓(常楽寺。東京都新宿区原町2-30)

【参考文献】
森川哲郎著『日本史・剣豪名勝負95』日本文芸社、1993年
別冊歴史読本/読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
歴史と旅 平成9年11月号『幕末青春譜 剣道三国志』秋田書店、1997年
小島英熙著『歴史紀行 素顔の剣豪たち』日本経済新聞社、1998年
童門冬二他著『人物日本剣豪伝<2>』学陽書房、2001年
牧秀彦著『剣豪全史』光文社、2003年
牧秀彦著『戦国の兵法者─剣豪たちの源流とその系譜』学習研究社、2007年

実戦派将軍家兵法指南役・小野忠明─長遠山常楽寺

2012年07月01日 | 日記
2代将軍徳川秀忠、3代家光の兵法指南役を務めた柳生宗矩には、ライバルがいました。

一刀流の小野次郎右衛門忠明<ただあき>です。文禄2(1593)年、29歳の時に江戸へ出て、徳川家康に召し抱えられました。200石をたまわり、家康の子秀忠の兵法指南役となります。元の名を神子上(御子神)典膳<みこがみてんぜん>といいました。なにか、こちらの方がチャンバラ小説の主人公みたいでカッコいいのですが、確かに将軍に剣術を教える師匠にしては、重みに欠けるような気もします・・・。

忠明は、合戦の現場でも活躍しています。慶長5(1600)年に秀忠が真田昌幸・信繁(幸村)父子の籠る信州上田城を攻めた時も、奮戦目覚ましく中山照守・辻久吉・鎮目惟明・戸田光正・斎藤信吉・朝倉宣正とともに上田七本槍の1人に数えられています。
ただし関ヶ原の前哨戦であるこの戦いは、まんまと真田の謀略にはまった秀忠軍が足止めを食らい、関ヶ原に遅参する原因となってしまいました。忠明も軍令違反の罪で、一時真田信之にお預けの身となります。信之は真田昌幸の嫡男ですが、父や弟と袂を分かって徳川方についていました。

軍令違反とは言っても、主君に忠義を尽くした結果であることには違いなく、復帰した後は加増を重ね、600石を領するまでになりました。しかし性格が直情径行で、妥協や要領良く振る舞うことを嫌った忠明は、対人関係で衝突を起こすことが少なくありませんでした。将軍相手の稽古でも手加減せずに立ち合ったので、次第に疎んじられるようになったといいます。そしてついに、元和元(1615)年の大坂夏の陣で、同僚の旗本たちとの間に諍いを起こし、閉門を命じられることになります。

のちに許されましたが、もう人間関係のゴタゴタにはうんざりしてしまったのか、家督を子の忠常<ただつね>に譲り、知行地の下総<しもうさ>国埴生<はぶ>郡寺台村(千葉県成田市)に隠棲してしまいました。そこで晩年を過ごし、寛永5(1628)年11月7日に64歳で亡くなります。
遺体は同地の永興寺に葬られましたが、小野家は幕臣なので、歴代の職場は当然江戸、すなわち今の東京です。柳生家の墓が所領地である奈良・柳生の芳徳寺以外に練馬の広徳寺にもあるように、忠明や忠常の墓も、新宿の長遠山常楽寺にあります。


常楽寺の入口(東京都新宿区原町2-30)

常楽寺は都営大江戸線の牛込柳町駅西口を出てすぐ右で、大きなマンションと入口を接しています。
立札一つなく、他の墓塔たちに紛れるように立つ墓碑の正面には、中央に忠明の師である一刀流流祖伊藤一刀斎、その右側に忠明、左側に忠常の戒名と俗名が刻まれています。
そしてこの墓碑の右隣には、忠明の子孫で11代将軍徳川家斉<いえなり>に仕え、家伝の剣技をことごとく台覧するという栄誉に預かった小野忠喜<ただよし>の墓が立っています。
つまり、忠喜が流祖と祖先を供養するために造ったのが、忠明ら3者連名の墓なのでしょう。

ちなみに一刀流には古藤田一刀流・水戸一刀流・溝口一刀流など諸派があり、小野家に代々伝わるものを小野派一刀流といいます。ところが資料によって、小野派一刀流の祖を忠明とするものと忠常とするものがあります。これは、忠明を一刀流の正統者とし、忠常以降を小野派とする考え方があるためです。


伊藤一刀斎・小野忠明・小野忠常の連名墓(手前)と小野忠喜の墓(その右)

忠明が一刀斎から道統を受け継ぐに当たっては、血なまぐさいエピソードが残っています。

一刀斎には忠明(当時は神子上典膳)のほかに、もう1人小野善鬼<ぜんき>という高弟がいました。一刀斎はあろうことか典膳と善鬼に真剣勝負をさせ、勝った方に一刀流を継がせると言い出したのです。

善鬼はもと船頭でした。足場の不安定な船の上で櫓を漕ぐ生活が、善鬼の腕や足腰を鍛え上げたのでしょう、腕力に物を言わせた太刀筋は凄まじいものがありました。気性も荒く、言動は粗暴だったそうです。

さて、2人の果し合いですが、伎倆は互角、相手の手の内を知り尽くした者同士です。どちらも容易に仕掛けることができません。長い睨み合いの末、一刀斎は一端、勝負を中断させました。

その場にピーンと張り詰めていた空気が緩んだ直後、信じ難いことが起こります。
なんと善鬼が、流派の後継者に与えられる秘伝書を掴み取り、逃走してしまったのです。後を追った典膳は、荒屋の庭先に置かれていた瓶の中に隠れた善鬼を見つけて瓶ごと叩き斬り、即死させてしまいました。

卑怯な振る舞いをしたとはいえ、善鬼とて一刀斎にとっては手塩にかけて育てた愛弟子です。一刀斎は善鬼の妄執を弔うべく小野姓を名乗るよう、典膳に求めたといいます。ただしこれは作り話のようで、幕府が編集した武家系図集である『寛政重修諸家譜』には、家康の命で母方の姓を名乗ったのだと記されています。

小説なのですが、ひろむしがおもしろいと思ったのは、峰隆一郎氏が『剣鬼、疾走す』などで書いた説(?)です。それによると、実は小野忠明は神子上典膳ではなく小野善鬼で、一介の船頭だった善鬼が、氏素性のはっきりした武士である典膳になりすまして、徳川に仕えたというものです。
突拍子もない話ではありますが、忠明がのちに見せる狷介な性格が、言い伝えられる善鬼の言動と相通じるものがあるような気がして、妙に納得してしまいました。

いずれにせよ、ほとんど人を斬ったことのない柳生宗矩と違って、小野忠明が戦いの場数を踏んだ実力派ファイターであったことは確かでしょう。それだけに、彼には真偽はともかく、剣豪らしいエピソードが豊富です。徳川家に仕えるきっかけについても、宗矩がらみの面白いものがあります。

長くなりましたので、その話は次回の日記でしたいと思います。



【参考文献】
編集顧問・高柳光寿他『新訂寛政重修諸家譜 第15』続群書類従完成会、1965年
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第1巻』吉川弘文館、1979年(同第2巻、1980年)
峰隆一郎著『剣鬼、疾走す』双葉社、1989年
別冊歴史読本18巻1号、読本シリーズ5『日本剣豪読本』新人物往来社、1993年
大隅和雄他編『増補日本架空伝承人名事典』平凡社、2000年
新人物往来社編『江戸史跡事典 中巻』新人物往来社、2007年
山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2007年