ひろむしの知りたがり日記

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嘉納治五郎の柔術修行(5) ─ 起倒流 飯久保恒年

2013年04月29日 | 日記
天神真楊流の師である磯正智を失った嘉納治五郎は、東京大学の学友本山正久の父で、幕末には講武所の起倒流柔術教授方を勤めた本山正翁の紹介によって、飯久保恒年<いいくぼつねとし>と出会います。
恒年は江戸の生まれで、名を鍬吉<くわきち>といいました。年少の頃から竹中鉄之助に起倒流を学んでその高弟となり、麻布日ヶ窪に道場を開いていました。本山正翁同様、講武所の教授方を勤めています。維新後は徳川家の転封に従って静岡に移住しましたが、間もなく東京に戻り神田にあった駅逓局(交通・通信を司った官庁)の吏員となりました。安政3(1856)年に免許を得て、文久年間(1861-1864)には同門の保科家家中沢田義明が麻布材木町に開いた道場で助教を勤めています。治五郎が弟子入りした時、恒年はすでに50歳近い年齢でしたが、いまだ現役バリバリで、治五郎は形はもちろん、乱取も恒年から学びました。

治五郎は、起倒流がこれまで学んできた天神真楊流とあまりに違うことにカルチャー・ショックを受けます。天神真楊流は平服(普段着)での組討の技で構成され、咽喉<のど>を絞めたり、逆を取ったり、押し伏せたりといった攻撃が主でした。それに対して起倒流は、戦場における鎧組討のための投げ技を重視しています。天神真楊流にも巴投げとか、足払いとか、腰投げなどの投げ技はありますが、起倒流とはかけ方がかなり違っていました。そのことに感じ入った治五郎は、本気になって起倒流の研究に没頭します。そして乱取修行中に、治五郎は画期的な発見をしました。その出来事は、治五郎自身は明治18(1885)年頃のことと語っていますが、その後の事実関係から見て、実際には2年ほど前であったろうと思われます。

ある日、恒年と乱取をしていると、治五郎の投げがなぜかよくきくのです。恒年は投げ技の名人で、今までも治五郎が投げることはありましたが、恒年からもずい分と投げられていました。ところがその日は、これまでと違って恒年からは一本も取られず、しかも治五郎のかける技が実によくかかるのです。いつにない珍しい結果に、恒年も不思議に思うほどでした。

これは、治五郎が相手の身体を崩す、すなわち巧みに押したり引いたりすることによって、相手の身体の安定を奪うことに集中した結果だったのです。この日治五郎は、まず崩してから、しかる後に技をかけること、これを徹頭徹尾実行しました。そうしたところ、彼の技が見事に決まるようになったのです。
治五郎がこの、相手を崩してから技をかけるという発見を恒年に話したところ、恒年はいかにもその通りである、もう治五郎に教えることはない、今後は若い者を相手にますます研究を積むがよいと言って、これを限りに乱取をやめてしまいました。そして、それから間もない明治16年10月、治五郎は起倒流の免許を与えられ、恒年の持っていたあらゆる伝書を授けられました。

起倒流を学ぶ一方で、治五郎は天神真楊流の稽古も続けていました。3代目家元磯正智が亡くなった後は、4代目磯正信や、正智の高弟で学習院柔術教師も勤めた井上敬太郎に師事していました。ちなみに、必殺技山嵐でその名を轟かせた西郷四郎と、「鬼」と呼ばれた横山作次郎という講道館四天王のうちの2人が、かつてはこの井上道場の門下生でした。


嘉納治五郎が飯久保恒年の協力を得ながら講道館柔道を創始した永昌寺の山門(左)と本堂(右)
(東京都台東区東上野5-1-2)

学習院の教師となった嘉納治五郎が、下谷区北稲荷町の浄土宗永昌寺<えいしょうじ>の書院を道場にして、そこで講道館柔道を創始したのは、飯久保恒年に師事してから1年もたたない明治15(1882)年5月のことでした。治五郎は恒年を講道館に迎え、自分の弟子を教えながら、その一方で恒年から形や乱取の指導を受けていたのです。それは、明治18、9年頃まで続きました。

そんな飯久保と草創期の講道館との関係の深さを示すように、富田常雄の柔道小説『姿三四郎』では、恒年をモデルにした飯沼恒民<いいぬまこうみん>が、紘道館柔道の創始者矢野正五郎が起倒流を学んだ師として登場します。そして、姿三四郎(モデルは西郷四郎)が宿敵の良移心当流檜垣源之助<ひがきげんのすけ>と右京ヶ原で生死を賭けた決闘を行った際に、立合人として勝負の結果を見届けるという重要な役割を果たしています。対峙した三四郎と檜垣を前に、恒民は「わしは自分の命を投げ出しても留める心算<つもり>で、この事は紘道館にも、その他の関係者にも話さなかった。わしの苦衷<くちゅう>を買って意を翻す気にはなれぬか」と若い2人を惜しみ、身を呈して闘いをやめさせようとします。けれども、もはや意を決した両雄の激突を、恒民は止めることができませんでした。


永昌寺境内に立つ「講道館柔道発祥之地」と自然石に刻まれた記念碑

小説の中の飯沼恒民同様、古流柔術家の立場から、講道館柔道の誕生に深く関わった飯久保恒年が亡くなったのは、明治21年のことです。55歳でした。
なお、起倒流鎧組討の形は、投げ技の原理と高尚な理論を含んでいると評価され、「古式の形」として今も講道館柔道の中に生き続けています。


【参考文献】
富田常雄著『姿三四郎』中巻 新潮社、1973年
嘉納治五郎著『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター、1997年
山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』BABジャパン出版局、1997年
藤堂良明著『柔道の歴史と文化』不昧堂出版、2007年
講道館百三十年沿革史編纂委員会編『講道館百三十年沿革史』講道館、2012年