「千葉定吉道場跡」と書かれた標示板が立っているのは、JR東京駅の八重洲南口から歩いて約6分の場所です。外堀通りを南へ4分ほど行くと、鍛冶橋交差点に出ます。その西側角には「鍛冶橋跡」の標示板があり、この交差点とJR線の間にはかつて江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋が架かっていたことが記されています。その先には外郭門の1つ鍛冶橋御門があり、門内に土佐藩上屋敷がありました。
江戸へ剣術修行に来た坂本龍馬が起居した所だと書かれたものもありますが、前回の日記で触れたように身分の低い郷士である龍馬が上屋敷に住めるはずはないので、中屋敷にいたのではないかという説が有力そうです。しかし、目と鼻の先に千葉定吉の道場があり、たとえ住んでいなかったとしても、土佐藩士である龍馬はしばしばここを訪れていたでしょうから、「大千葉」玄武館ではなく、「小千葉」定吉道場を選んだのは、至極自然だという気がします。
「鍛冶橋跡」の標示板が立つ鍛冶橋交差点
さて、鍛冶橋交差点を左(東)に折れて鍛冶橋通りに入り、右側の歩道を行くと1、2分で「千葉定吉道場跡(東京都中央区八重洲2-8先)」の標示板が立っています。
その説明によれば、嘉永6(1853)年12月付の絵図には新材木町、翌年正月付の絵図には幕府奥絵師鍛冶橋狩野家の屋敷があったことから、狩野屋敷と呼ばれていたこの地域に定吉の名を確認できるとあり、「日本橋南京橋八丁堀霊岸嶋辺絵図」(三井文庫蔵)の該当箇所の写真が添えられています。
龍馬が最初に江戸へ来た時、前者の絵図が出されたのと同じ嘉永6年の3月に土佐を出国し、後者が出された翌年6月に帰国していますから、彼の修行中に道場の移転があったのかもしれません。
「千葉定吉道場跡」の標示板(上)と、そこから見た鍛冶橋交差点方面(下)
この辺りのどこかに、定吉の小千葉道場があった
19歳の龍馬は、江戸で大事件に遭遇します。嘉永6(1853)年6月3日、アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が、国交を求めて江戸湾の浦賀沖に来航したのです。
龍馬は臨時兵員として招集され、土佐藩が品川に築いた台場に詰めることになりました。この時龍馬は国元の父へ、戦いになったら異国人の首を討ち取って帰郷すると、勇ましい手紙を送っています。
幸い軍事衝突が起こることはありませんでしたが、外国勢力の脅威を肌で感じた経験は、その後の龍馬の生き方、考え方に大きく影響したことは想像に難くありません。
事実龍馬は、黒船に対抗するには剣ではダメだと考え、剣術修行の傍ら、木挽町にあった信州松代藩士の西洋兵学者、佐久間象山<しょうざん、または、ぞうざん>の砲術塾に入門しています。
残念なことに、この時の龍馬の西洋砲術修行はごく短期間で終わってしまいました。
師の象山が、安政元(1854)年1月16日にペリーが再来日した際、長州藩士吉田松陰が企てた密航計画に加担したために幕府に捕らえられ、国元で蟄居生活を送ることになってしまったからです。
こうしたきな臭い出来事があった一方で、龍馬と定吉の長女佐那との間に、ロマンスが生まれていました。
佐那は龍馬より3歳年下で、細面で鼻筋が通り、口元のキリッと締まった美人でした。剣術は兄の重太郎とともに門人たちに稽古をつけるほどの腕前で、馬術や長刀なども得意でした。その上、琴を上手に弾き、絵も描いたといいますから、才色兼備の素晴らしい女性だったようです。
美しいけれど男まさり──そんなイメージが浮かびそうですが、龍馬が姉の乙女に送った手紙によれば、静かで余計なことを言わない、おしとやかな面も持っており、なるほど、龍馬が惚れたのも無理はありません。一方の佐那も龍馬に好意を抱き、相思相愛となった2人はついに婚約しました。
しかし、安政5(1858)年に2度目の修行期間を終えて国へ戻った龍馬は、やがて幕末動乱の荒波に呑み込まれていきます。脱藩して再び江戸に舞い戻り、佐那とも再会したものの、東奔西走する龍馬の活動の舞台は江戸から遠く離れていき、愛の約束は、ついに果たされることはありませんでした。
その後、龍馬はお龍と出会って短い間とはいえ結ばれますが、佐那の方は誰とも結婚することなく独身を通し、明治29(1896)年に59歳で亡くなりました。
龍馬を生涯の伴侶と心に定め、彼への愛を貫いたのだといいます。その想いを表わすかのように、山梨県甲府市の清運寺にある佐那の墓には、「坂本龍馬室」と刻まれています。
【参考文献】
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
山村竜也著『天翔る龍 坂本龍馬伝』日本放送出版協会、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年
江戸へ剣術修行に来た坂本龍馬が起居した所だと書かれたものもありますが、前回の日記で触れたように身分の低い郷士である龍馬が上屋敷に住めるはずはないので、中屋敷にいたのではないかという説が有力そうです。しかし、目と鼻の先に千葉定吉の道場があり、たとえ住んでいなかったとしても、土佐藩士である龍馬はしばしばここを訪れていたでしょうから、「大千葉」玄武館ではなく、「小千葉」定吉道場を選んだのは、至極自然だという気がします。
「鍛冶橋跡」の標示板が立つ鍛冶橋交差点
さて、鍛冶橋交差点を左(東)に折れて鍛冶橋通りに入り、右側の歩道を行くと1、2分で「千葉定吉道場跡(東京都中央区八重洲2-8先)」の標示板が立っています。
その説明によれば、嘉永6(1853)年12月付の絵図には新材木町、翌年正月付の絵図には幕府奥絵師鍛冶橋狩野家の屋敷があったことから、狩野屋敷と呼ばれていたこの地域に定吉の名を確認できるとあり、「日本橋南京橋八丁堀霊岸嶋辺絵図」(三井文庫蔵)の該当箇所の写真が添えられています。
龍馬が最初に江戸へ来た時、前者の絵図が出されたのと同じ嘉永6年の3月に土佐を出国し、後者が出された翌年6月に帰国していますから、彼の修行中に道場の移転があったのかもしれません。
「千葉定吉道場跡」の標示板(上)と、そこから見た鍛冶橋交差点方面(下)
この辺りのどこかに、定吉の小千葉道場があった
19歳の龍馬は、江戸で大事件に遭遇します。嘉永6(1853)年6月3日、アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が、国交を求めて江戸湾の浦賀沖に来航したのです。
龍馬は臨時兵員として招集され、土佐藩が品川に築いた台場に詰めることになりました。この時龍馬は国元の父へ、戦いになったら異国人の首を討ち取って帰郷すると、勇ましい手紙を送っています。
幸い軍事衝突が起こることはありませんでしたが、外国勢力の脅威を肌で感じた経験は、その後の龍馬の生き方、考え方に大きく影響したことは想像に難くありません。
事実龍馬は、黒船に対抗するには剣ではダメだと考え、剣術修行の傍ら、木挽町にあった信州松代藩士の西洋兵学者、佐久間象山<しょうざん、または、ぞうざん>の砲術塾に入門しています。
残念なことに、この時の龍馬の西洋砲術修行はごく短期間で終わってしまいました。
師の象山が、安政元(1854)年1月16日にペリーが再来日した際、長州藩士吉田松陰が企てた密航計画に加担したために幕府に捕らえられ、国元で蟄居生活を送ることになってしまったからです。
こうしたきな臭い出来事があった一方で、龍馬と定吉の長女佐那との間に、ロマンスが生まれていました。
佐那は龍馬より3歳年下で、細面で鼻筋が通り、口元のキリッと締まった美人でした。剣術は兄の重太郎とともに門人たちに稽古をつけるほどの腕前で、馬術や長刀なども得意でした。その上、琴を上手に弾き、絵も描いたといいますから、才色兼備の素晴らしい女性だったようです。
美しいけれど男まさり──そんなイメージが浮かびそうですが、龍馬が姉の乙女に送った手紙によれば、静かで余計なことを言わない、おしとやかな面も持っており、なるほど、龍馬が惚れたのも無理はありません。一方の佐那も龍馬に好意を抱き、相思相愛となった2人はついに婚約しました。
しかし、安政5(1858)年に2度目の修行期間を終えて国へ戻った龍馬は、やがて幕末動乱の荒波に呑み込まれていきます。脱藩して再び江戸に舞い戻り、佐那とも再会したものの、東奔西走する龍馬の活動の舞台は江戸から遠く離れていき、愛の約束は、ついに果たされることはありませんでした。
その後、龍馬はお龍と出会って短い間とはいえ結ばれますが、佐那の方は誰とも結婚することなく独身を通し、明治29(1896)年に59歳で亡くなりました。
龍馬を生涯の伴侶と心に定め、彼への愛を貫いたのだといいます。その想いを表わすかのように、山梨県甲府市の清運寺にある佐那の墓には、「坂本龍馬室」と刻まれています。
【参考文献】
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
山村竜也著『天翔る龍 坂本龍馬伝』日本放送出版協会、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年