ひろむしの知りたがり日記

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龍馬、江戸で黒船騒動と出合う─千葉定吉道場跡

2012年08月26日 | 日記
「千葉定吉道場跡」と書かれた標示板が立っているのは、JR東京駅の八重洲南口から歩いて約6分の場所です。外堀通りを南へ4分ほど行くと、鍛冶橋交差点に出ます。その西側角には「鍛冶橋跡」の標示板があり、この交差点とJR線の間にはかつて江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋が架かっていたことが記されています。その先には外郭門の1つ鍛冶橋御門があり、門内に土佐藩上屋敷がありました。

江戸へ剣術修行に来た坂本龍馬が起居した所だと書かれたものもありますが、前回の日記で触れたように身分の低い郷士である龍馬が上屋敷に住めるはずはないので、中屋敷にいたのではないかという説が有力そうです。しかし、目と鼻の先に千葉定吉の道場があり、たとえ住んでいなかったとしても、土佐藩士である龍馬はしばしばここを訪れていたでしょうから、「大千葉」玄武館ではなく、「小千葉」定吉道場を選んだのは、至極自然だという気がします。


「鍛冶橋跡」の標示板が立つ鍛冶橋交差点

さて、鍛冶橋交差点を左(東)に折れて鍛冶橋通りに入り、右側の歩道を行くと1、2分で「千葉定吉道場跡(東京都中央区八重洲2-8先)」の標示板が立っています。
その説明によれば、嘉永6(1853)年12月付の絵図には新材木町、翌年正月付の絵図には幕府奥絵師鍛冶橋狩野家の屋敷があったことから、狩野屋敷と呼ばれていたこの地域に定吉の名を確認できるとあり、「日本橋南京橋八丁堀霊岸嶋辺絵図」(三井文庫蔵)の該当箇所の写真が添えられています。
龍馬が最初に江戸へ来た時、前者の絵図が出されたのと同じ嘉永6年の3月に土佐を出国し、後者が出された翌年6月に帰国していますから、彼の修行中に道場の移転があったのかもしれません。




「千葉定吉道場跡」の標示板(上)と、そこから見た鍛冶橋交差点方面(下)
この辺りのどこかに、定吉の小千葉道場があった

19歳の龍馬は、江戸で大事件に遭遇します。嘉永6(1853)年6月3日、アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船が、国交を求めて江戸湾の浦賀沖に来航したのです。
龍馬は臨時兵員として招集され、土佐藩が品川に築いた台場に詰めることになりました。この時龍馬は国元の父へ、戦いになったら異国人の首を討ち取って帰郷すると、勇ましい手紙を送っています。

幸い軍事衝突が起こることはありませんでしたが、外国勢力の脅威を肌で感じた経験は、その後の龍馬の生き方、考え方に大きく影響したことは想像に難くありません。
事実龍馬は、黒船に対抗するには剣ではダメだと考え、剣術修行の傍ら、木挽町にあった信州松代藩士の西洋兵学者、佐久間象山<しょうざん、または、ぞうざん>の砲術塾に入門しています。
残念なことに、この時の龍馬の西洋砲術修行はごく短期間で終わってしまいました。
師の象山が、安政元(1854)年1月16日にペリーが再来日した際、長州藩士吉田松陰が企てた密航計画に加担したために幕府に捕らえられ、国元で蟄居生活を送ることになってしまったからです。

こうしたきな臭い出来事があった一方で、龍馬と定吉の長女佐那との間に、ロマンスが生まれていました。
佐那は龍馬より3歳年下で、細面で鼻筋が通り、口元のキリッと締まった美人でした。剣術は兄の重太郎とともに門人たちに稽古をつけるほどの腕前で、馬術や長刀なども得意でした。その上、琴を上手に弾き、絵も描いたといいますから、才色兼備の素晴らしい女性だったようです。

美しいけれど男まさり──そんなイメージが浮かびそうですが、龍馬が姉の乙女に送った手紙によれば、静かで余計なことを言わない、おしとやかな面も持っており、なるほど、龍馬が惚れたのも無理はありません。一方の佐那も龍馬に好意を抱き、相思相愛となった2人はついに婚約しました。
しかし、安政5(1858)年に2度目の修行期間を終えて国へ戻った龍馬は、やがて幕末動乱の荒波に呑み込まれていきます。脱藩して再び江戸に舞い戻り、佐那とも再会したものの、東奔西走する龍馬の活動の舞台は江戸から遠く離れていき、愛の約束は、ついに果たされることはありませんでした。

その後、龍馬はお龍と出会って短い間とはいえ結ばれますが、佐那の方は誰とも結婚することなく独身を通し、明治29(1896)年に59歳で亡くなりました。
龍馬を生涯の伴侶と心に定め、彼への愛を貫いたのだといいます。その想いを表わすかのように、山梨県甲府市の清運寺にある佐那の墓には、「坂本龍馬室」と刻まれています。



【参考文献】
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
山村竜也著『天翔る龍 坂本龍馬伝』日本放送出版協会、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年

龍馬も出入りした? 北辰一刀流、玄武館

2012年08月20日 | 日記
千葉周作が創始した北辰一刀流の道場「玄武館」の跡地(東京都千代田区神田東松下町)へ行くには、都営新宿線岩本町駅のA1出口から靖国通りに出ます。それから首都高速方面に進むとすぐ右手に交番があるので、その前を高速を背に、右側にV状字にまわりこみ、一方通行の道を行くと、左手に廃校となった千桜小学校の校門があり、その中に玄武館跡の碑が立っています。その間、約1分。
見学者のために、右脇の小門は自分で閂<かんぬき>を外し、中に入ることができるようになっています。

岩本町駅A1出口前の、玄武館跡への案内図

玄武館は斎藤弥九郎の神道無念流「練兵館」、桃井春蔵<もものいしゅんぞう>の鏡新明智流<きょうしんめいちりゅう>「士学館」と並ぶ、幕末の江戸三大道場の1つに数えられています。「技は千葉、力は斎藤、位は桃井」といわれました(後世の講釈師による創作だとも)。

道場は最初、日本橋品川町にありましたが、教え方が柔軟でわかりやすい上に、幾段階も経る必要があった免許皆伝に至るまでの過程を簡略化するなど、優れた道場経営でたちまち人気を博し、門人が急増して手狭となったため、文政8(1825)年に神田お玉が池の儒者東條一堂の瑶池塾<ようちじゅく>に隣接する旗本屋敷の跡を買い取って移転しました。さらに一堂の没後は塾のあった土地も買収して道場を拡張し、その規模は江戸町道場随一といわれました。門弟の人数もたいへんなもので、嘉永4(1851)年、浅草観音に奉納した献額には、一族一門3,600人が名を連ねたといいます。


廃校となった千桜小学校の門内に立つ玄武館・瑶池塾跡の碑

周作には定吉<さだきち>という弟がいました。兄とともに玄武館の経営に当たっていましたが、独立して自分の道場を構えます。玄武館の「大千葉」に対し、こちらは「小千葉」と呼ばれました。
嘉永6年と安政3(1856)年の2度にわたって土佐から江戸に上り、合計3年以上もの剣術修行をした坂本龍馬も、小千葉道場で学びました。もっとも定吉が鳥取藩の剣術師範に就任していて不在だったため、龍馬が直接指導を受けたのは、長男の重太郎でした。龍馬と恋仲だったという佐那<さな>は、その妹です。
龍馬はまた、本家玄武館の方にも出入りしていたようです。それは、当時の玄武館の稽古人名簿に彼の名が記されていることから確かです。

龍馬が玄武館ではなく小千葉道場に入門した理由は、京橋桶町(中央区八重洲2丁目・京橋1~2丁目内)にあった小千葉道場が、鍛冶橋門(千代田区丸の内1丁目の東京駅八重洲口付近)内の土佐藩上屋敷に近く通い安かったからだとか、玄武館に入るには実力不足で門前払いされたという説があります。
龍馬はそれが悔しかったのか熱心に稽古に励み、その甲斐あって塾頭を任され、「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられるまでに上達しました。

龍馬が住んでいたのは土佐藩上屋敷ではなく、中屋敷(中央区築地1~2丁目内)だという説があります。また、定吉の道場は何度か移転しており、龍馬が通っていた当時は新材木町(中央区日本橋堀留町内)や、鍛冶橋から程近い加納新道沿いだった可能性があります。しかしどちらにしろ龍馬の住まいからは玄武館よりも小千葉道場の方が近く、ものを合理的に考える彼のこと、名声よりも利便性を選んだのかもしれません。

明治を迎えた時、小千葉道場があったのは桶町でした。今でも「桶町千葉道場」といった方が、通りがよいでしょう。ちなみに、龍馬が通ったかもしれない桶町以前の小千葉道場があった辺りに、平成22(2010)年、千葉定吉道場跡の標示板が立てられたそうです。

次回はそこを訪れつつ、剣術修行時代の龍馬について、もう少し見ていきたいと思います。



【参考文献】
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
木村幸比古監修『坂本龍馬』主婦の友社、2009年
木村幸比古監修『図説地図とあらすじで読み解く!坂本龍馬の足跡』青春出版社、2009年
伊東成郎著『江戸・幕末を切絵図で歩く』PHP研究所、2010年

千葉周作、青春の廻国修行

2012年08月05日 | 日記
文政元(1817)年、養父浅利又七郎と決別して浅井家を出た千葉周作は、江戸で小さな道場を開き、家伝の北辰夢想流と小野派一刀流を合わせた「北辰一刀流」という流名を掲げました。
しかし、恩師を裏切ってまで独立した彼は、それで満足するわけにはいきません。さらなる飛躍を求めて、自らの腕を試し、北辰一刀流を広めるために廻国修行の旅に出ました。文政3年、27歳の時のことです。関東一円はもとより、甲斐、信濃、駿河、遠江、三河にまで足を伸ばしています。

旅先での対戦相手はその多くが他流の者で、強さも、得意技も、癖も、ほとんどわかりません。敵の力量をあれこれ推し量って思い悩んでも、何の意味もないどころか、不安から萎縮してしまうのがオチです。そんな試合を重ねるうちに、周作は多くのことを学びました。

それはたとえば、高名な剣士であっても実際にはたいしたことがない場合も多く、噂だけで相手を判断してはいけないとか、雑念を捨ててそれまでの修行で培ってきたものを、一瞬の機に発することが肝要であるといった勝負に臨む心構えから、支度をする時には相手に合わせて少しだけ早い方がいい、早過ぎると、中にはわざと支度に手間をかけ、こちらを苛立たせようとする者がいるとか、会釈する時にはあまりに近間だと、いきなり打ちかかってくる者がいるといった実用的なことまでさまざまです。

また、会釈するだけで相手の強弱がわかるようになり、下野国(栃木県)佐野宿で無念流の名手といわれた木村定次郎と試合をした時には、会釈の場でたちまち相手の技量が自分に及ばないと悟り、心安らかに戦って勝利を収めることができました。

窮地に陥ったこともあります。
文政5年、周作は上州一の強豪といわれる馬庭念流の遣い手、小泉弥兵衛を打ち破りました。
すると、小泉をはじめ入門者が殺到し、たちまち100人を超える数に上りました。彼らは周作を尊敬するあまり、伊香保神社(群馬県北群馬郡伊香保町)に周作以下門弟たちの名を書き連ねた北辰一刀流の額を奉納しようと言い出しました。
彼らのほとんどは馬庭念流の元門人であり、伊香保神社があるのは同流のお膝元です。憤激した念流側は、掲額の撤回を求めて500人余の門人と、同じくらいの数のやくざ者が集まり、伊香保の宿屋11軒に分宿して気勢をあげるという騒ぎになりました。
いくら剣術の達人でも飛び道具にはかなうまいと、鉄砲を持った猟師も動員したといいますから穏やかではありません。事ここに至って周作側も後には引けず、命をかけても額を掲げてみせると息巻きました。
両者の間には一触即発の緊張が漲り、あわや血の雨が降るかと思われた時に代官所が仲裁に入り、ようやく双方納得して伊香保から引き上げ、事件は収束しました。

一応引き分けという形ですが、単身上州(上野国=群馬県)に乗り込んで馬庭念流一門を敵に回して一歩も退かなかった周作の勇名のみが上がったことは、想像に難くありません。
現代剣道にもつながる合理的な技術体系、稽古方法を確立した千葉周作のことですから、あるいはこのあたりも計算づくだったのかもしれません。

こうしてさまざまな経験を積み、剣の腕前、人間としての器量ともに一回り大きく成長した周作は、廻国修行を終えて江戸に戻り、文政5年、29歳で日本橋品川町に道場を開き、「玄武館」と名付けました。そして玄武館は3年後の文政8年、神田お玉ケ池に場所を移しました。その跡地には、現在も記念碑が立っています。

次回の日記は、その地を訪ねてレポートすることにしましょう。


千葉周作の墓(本妙寺。東京都豊島区巣鴨5-35-6)

【参考文献】
角川書店編『日本史探訪17 講談・歌舞伎のヒーローたち』角川書店、1990年
戸部新十郎著『日本剣豪譚<幕末編>』光文社、1993年
戸部新十郎著『剣は語る』青春出版社、1998年
早乙女貢他著『人物日本剣豪伝<4>』学陽書房、2001年
是本信義著『時代劇・剣術のことが語れる本』明日香出版社、2003年