ひろむしの知りたがり日記

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勝海舟の父小吉のハチャメチャ人生─勝海舟生誕の地

2012年09月17日 | 日記
勝海舟(麟太郎義邦)は文政6(1823)年1月30日、江戸本所亀沢町にあった男谷<おだに>邸で生まれました。現在ではJR総武線両国駅の東口から歩いて5分、本所署真裏の両国公園(東京都墨田区両国4-25)になっているあたりです。公園の一角に、そのことを示す石碑が立っています。前面中央には「勝海舟生誕之地」と刻まれ、その横に「法務大臣 西郷吉之助書」とあります。吉之助は、海舟と江戸開城をめぐって渡り合った西郷隆盛の孫です。

西郷吉之助の筆になる「勝海舟生誕之地」碑

曽祖父の米山検校<けんぎょう>は、越後国(新潟県)刈羽郡長島村(北魚沼郡小千谷<おぢや>とも)の農家出身で、生まれながら目が見えませんでした。江戸へ出て来た時にはたった300文しか持っていませんでしたが、金貸しで儲けて莫大な富を得、3万両で御家人である男谷家の株を買い、男谷検校と名乗りました。検校というのは、幕府が定めた盲人の最高位です。彼は末っ子の平蔵を男谷家の当主としました。平蔵の3男が、文化5(1808)年に7歳で勝元良の養子となった小吉<こきち>(左衛門太郎惟寅)です。

勝家は近江国(滋賀県)勝村の出で、天正年間(1573-92)以来徳川家に仕えてきたといいますが、石高はわずか41石あまり、小普請<こぶしん>組所属の貧乏御家人でした。小吉も生涯無役で、本俸の41石以外に役料がもらえないので生活は苦しく、刀剣のブローカーや鑑定屋などをして生計を立てていました。
たいへんな暴れん坊で、市井無頼の徒と付き合い、喧嘩口論は日常茶飯事でした。何度も家を飛び出すなど荒れた暮らしをしていましたが、剣術は相当な腕前だったようです。
文政2(1819)年に元良の一人娘信<のぶ>を妻にし、男谷邸内に新居を構えました。結婚しても家庭をかえりみることなく、長男の海舟が生まれたのも、博打と喧嘩が元で21歳の秋から24歳の冬まで、3年以上も座敷牢に入れられていた間のことでした。
このように、決して幸福とはいえない人生のスタートを切った海舟は、7歳までここで暮らしましたが、その後は転居を重ねることになります。


「勝海舟生誕之地」碑は、両国公園の一角に立っています

お世辞にもよき家庭人とはいえない小吉ですが、それでも息子のことを深く愛していたことを伝えるエピソードがあります。海舟が9歳の時、犬に睾丸<こうがん>を噛まれて大怪我をしてしまいました。あまりにひどい傷に医者も怖気づき、治療をためらうほどでした。しかし、枕元に刀を突き立てた父の気迫に海舟が全く泣かなかったので、なんとか傷口を縫うことができたのです。
それから小吉は、日頃から信仰していた能勢妙見<のせみょうけん>堂(墨田区本所4-6-14)に毎晩通って水をかぶり、息子の回復を祈りました(ここには、昭和49<1974>年に立てられた海舟の胸像があります)。
さらに自ら息子を抱いて寝るというように、必死の看病を続けました。その甲斐あって、70日目には、海舟は床を離れることができたのです。

意外なことに、小吉にはちょっとした文才がありました。隠居後の天保14(1843)年、42歳の時に書いた自叙伝『夢酔独言』は、なかなかの傑作です。「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまりおるまい」と、悪さや喧嘩に明け暮れた幼少時代から、14歳で家を飛び出して乞食同然でさまよった旅の体験などを皮切りに、伝法な筆調で、実話にしてはあまりにおもしろ過ぎる波乱万丈の半生を、生き生きと描き出しています。
そんな小吉の墓は、青山霊園(港区南青山2-32-2)にあります。

蛙の子は蛙と言いますが、剣が得意だった父の血を受け継いだのか、若き日の海舟は熱心に剣術の稽古をしています。彼ははじめ、父の実家男谷家の養子に入った精一郎から直心影<じきしんかげ>流を習いました。精一郎は幕府が設けた講武所の頭取兼剣術師範役を務めた幕末随一の剣客で、海舟とは実の従兄弟でもあります。その後、精一郎の弟子で豊前中津藩出身の島田虎之助に就いてさらに修行を重ね、父小吉が『夢酔独言』を著したのと同じ天保14年には免許皆伝を受けています。その一方で、海舟は島田に勧められて牛島の広徳寺に通って禅の修行も行っていました。

そればかりでなく、弘化2(1845)年には、やはり島田の勧めで筑前藩のお抱え蘭学者である永井助吉(青崖)に師事し、蘭学の修得にも取り組んでいます。さらに、幕府の馬役だった都甲<つこう>市郎左衛門からも蘭学の指導を受けました。蘭学修業中の有名なエピソードとしては、赤城某という蘭方医に10両を払ってオランダ語の辞書『ヅーフハルマ』58巻を借り受け、1年がかりで2部書き写して1部を売り、苦しい家計の助けにしたという話が伝わっています。
こうした刻苦勉励の結果、小吉が49歳でその破天荒な生涯を閉じた嘉永3(1850)年には、海舟は赤坂坂田町のあばら家に「氷解塾」を開き、蘭書や西洋兵学を教授するまでになっていました。

父同様、幕臣としては芽の出る見込みのない暗澹たる日々を送りながらも、ひたすら未来を信じて自らの精神と肉体・知性を磨き上げ、着々と実力を蓄えてきた海舟に、とうとうその運命を劇的に変える出来事が起こります。幕末の日本を大きく揺さぶった、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖にやって来たのは、それから3年後、嘉永6年6月3日のことでした。



【参考文献】
勝部真長編『夢酔独言─勝小吉自伝』平凡社、1974年
石井孝著『勝海舟[新装版]』吉川弘文館、1986年
童門冬二著『勝海舟』かんき出版、1997年
一坂太郎著『幕末歴史散歩 東京篇』中央公論新社、2004年
安藤優一郎著『勝海舟と福沢諭吉』日本経済新聞出版社、2011年

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