ひろむしの知りたがり日記

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木村政彦と大山倍達 (10) ─ 木村政彦は力道山を殺したのか

2014年12月09日 | 日記
“プロレス巌流島の決闘”が終わったその夜、木村政彦と大山倍達は、木村の宿舎だった千代田ホテルの部屋で、夜が白々と明け始めるまで、手を取り合って泣きました(『大山倍達、世界制覇の道』)。
全力を尽くして闘った結果であるならまだしも、力道山の突然の裏切りで、わけもわからないまま血の海に沈められた無念さは、木村にとってとてつもなく大きなものでした。
木村は昭和15(1940)年6月に行われた皇紀2600年奉祝天覧武道大会に出場して優勝し、賞品として昭和天皇から短刀を下賜されています。彼はその短刀で、負けたらいつでも腹を切る覚悟で毎回試合に臨んでいました。しかも、みっともない死に方はしたくない、いかにしたらサムライらしく見事に死ねるかと、切腹の練習までしていたといいます。そんな誇り高き柔道王にとって、この恥辱は耐え難いものでした。


池上本門寺の墓前に立つ力道山のブロンズ像。腰にはチャンピオン・ベルトが(東京都大田区池上)

それにしても、なぜ、このような悲劇が起きてしまったのでしょうか?
最初に八百長を持ちかけたのは、木村の方でした。国際プロレス団の旗揚げに失敗し、病気の妻斗美子の薬代にも事欠いていた彼は、引き分けにして、賞金の分け前半分をいただこうと考えたのだといいます。
狡猾な力道山は、木村の申し出に応じるような態度を装いました。木村が書いた念書を「預かっておく」と受け取ったものの、翌日「ハンコをついたものをくれ」と求められると、「忘れた」というではありませんか。
本当なら、木村はこの時に力道山の策謀に気づくべきだったのでしょう。しかし木村は、プロレスに真剣勝負などありえないと舐めきっていました。取引が成立したと信じてリングに上がった木村は、まるで倒してくれといわんばかりに隙だらけでした。

こうして完膚なきまでに叩きのめされた木村は、力道山の背信行為を許すことができず、短刀を懐にして彼を殺すために付け狙います。しかし、結局は思い止まって、力道山からの申し出を受けて和解しました。
ところがそれすらも、世間の批判を免れるために力道山が仕組んだパフォーマンスだったのです。木村がそれに気づいた時には、もう後の祭りでした。
こうしてリベンジする機会もないまま、力道山は9年後の昭和38年12月8日、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」において、暴力団大日本興業の構成員村田勝志と口論になり、登山ナイフで腹部を刺されてしまいます。開腹手術を受けて、病状は快方に向かっていましたが、突然暗転し、腸閉塞を併発して15日に赤坂の山王病院で死亡しました。
自分の肉体を不死身と過信したのか、術後の常識を無視してリンゴを食べたことが原因でした。


池上本門寺の力道山墓地(上)。戒名「大光院力道日源居士」が刻まれた墓碑(左下)と顕彰碑(右下)


「あいつは卑怯な男ですよ」
平成元(1989)年の夏、木村は取材に訪れた作家で前東京都知事の猪瀬直樹に重い口を開きます。
「だから、殺したんだ」
それを聞いて猪瀬は戸惑いました。力道山は木村にではなく、暴力団員に刺されて死んだことは周知の事実です。なおも殺したと繰り返す木村に、猪瀬が「どうやって?」と訊ねると、木村は、
「ここですよ」
と自分の額を指さしました。
「ここに“殺”と書いたんです」
なんと木村は、イメージの中で前頭葉の辺りに字を書き、念力で殺したというのです。
そんなことをしても人は死なないと否定する猪瀬に、
「あんたについても“殺”を書こうか」
と厳しい口調で切り返した木村は、しばらくの沈黙の後、
「柔道の選手権の前夜、座禅を組んだ。何時間も、ずっとだ。すると額のところに“勝”という字が浮かんできて、黄金色に輝き始める」
と話し出しました。そして、浮かんでこない時には刀を腹にあて、切っ先を肌に食い込ませると“勝”が出てきたこともあったという体験を語ったのです(「枯れない『殺意』について」)。
木村はイメージ通り、全日本選士権などで連戦連勝を重ねます。その時と同じ力が、力道山に対しても働いたといいたかったのでしょう。

木村は自伝にも書いています。
「その夜、修行時代によくやった試合の前夜の暗示を試みたら、近いうちに『死』と出た。その死も、神々しく光り輝くものではなく、灰色で陰鬱な色だった」(『わが柔道』)
そして力道山は、実際に悲惨な最期を遂げたのです。
木村は、憎き力道山を殺したのは自分だと信じた、あるいは信じたかったのでしょう。猪瀬はいいます。
「木村は誇り高き勝負師だった。たった一度の過ちが彼の後半生を台無しにしたはずだが、世間が何をどういおうと、力道山を自分で始末したのである」(「枯れない『殺意』について」)

力道山のことを、殺したいほど憎んでいた男が、もう1人いました。
少年時代から憧れ続け、兄とも慕って崇拝していた偶像を、目の前で木っ端微塵に破壊された、大山倍達その人です。彼は力道山に怒りの制裁を加えようと、虎視眈々と機会をうかがっていたのです。


【参考文献】
猪瀬直樹著「ニュースの考古学86 枯れない『殺意』について」
       『週刊文春』5月6・13日号 文藝春秋社、1993年
木村政彦著『わが柔道 グレイシー柔術を倒した男』学習研究社、2001年
大山倍達著『大山倍達、世界制覇の道』角川書店、2002年

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1 コメント

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Unknown (浅草509)
2017-03-20 09:13:35
『木村が書いた念書を「預かっておく」と受け取ったものの』
→ 第一戦引き分けの念書は力道山によって木村政彦の目の前で真っ二つに引き裂かれています。
  力道山が同意したかどうかは何ともいえません。力道山が死んだ後の木村政彦の証言だけでは片手落ちです。

『結局は思い止まって、力道山からの申し出を受けて和解しました。ところがそれすらも、世間の批判を免れるために力道山が仕組んだパフォーマンスだったのです。』
→ 力道山側からの申し出、パフォーマンスと言うより、力道山側、木村政彦側のお互いのバック勢力の調整によってが正しいです。

『リベンジする機会もないまま』
→ ウエイト別日本選手権があったのでリベンジの機会はありましたが木村政彦はメキシコ遠征に出かけ参加しませんでした。

『自分の肉体を不死身と過信したのか、術後の常識を無視してリンゴを食べたことが原因でした』
→ 力道山の死は力道山の手術後の暴飲暴食説などがありますがこれらはでたらめ、医療ミスがあきらかになっています。
  麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことでありました。
  岐阜大学医学部教授である土肥修司氏の著書『麻酔と蘇生』(中央公論社)。
  この書に、力道山の死因について書かれています。
  土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について当時の医学生から事情を聞き、
  のちに専門医として調査した結果を発表しています。
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