人気TV時代劇シリーズ「暴れん坊将軍」では、徳川吉宗の側近くに常に待機していて、身辺警護はもちろんのこと、その優れた情報収集能力で毎回登場する敵役が行う悪事の証拠を掴んだり、被害者の身を守ったりと、事件解決の裏で縦横無尽に働く御庭番が登場します。
もちろん、ストーリーの大部分はフィクションですが、吉宗の大胆な改革政治の背後で、御庭番が暗躍していたのは紛れもない事実です。
吉宗は享保元(1716)年に紀州藩主から8代将軍に就任するにあたり、205人もの藩士を連れていきましたが、その中には「薬込役<くすりごめやく>」と呼ばれる者たちがおりました。
表向きの役目は吉宗が使う鉄砲に火薬を込めるというものですが、時に密命を受けて、国の内外において諜報活動を行うこともありました。
彼らは甲賀忍者の子孫であるとも伝えられています。
村垣忠充ら元薬込役16人は、幕府の中にあった役職の1つ、「御広敷伊賀者<おひろしきいがもの>」に編入されました。
この役職は、家康の頃から仕えてきた伊賀者や甲賀者といった忍者の末裔で組織されていましたが、世の中が安泰になるにつれて隠密御用から遠ざかり、江戸城警備の任に就いていました。
でも平和な時代になったとはいえ、幕府は大名や庶民を取り締まるために出した数々の法度に対する違反や、政権を脅かす不穏な動きに目を光らせておかなければなりませんでした。
そこで伊賀者や甲賀者に代わり、大名などを監視する老中支配下の大目付や、旗本・御家人を見張る若年寄支配、目付配下の徒<かち>目付や小人<こびと>目付がその役割を果たしました。これが公儀隠密です。
吉宗の将軍就任にともなって新たに任命された御広敷伊賀者は、もともといた者たちと職名は同じでも、職務内容は大きく異なりました。給料も後者が30俵2人扶持だったのに対し、35俵3人扶持とより高額でした。
でも、その真の役割が諸藩や遠国奉行所・代官所などの実情を調査し、老中をはじめとする諸役人の行状や世間の風聞などの情報収集であることは、当初吉宗のほかには御側御用取次の有馬氏倫<うじのり>と加納久通<ひさみち>しか知りませんでした。
徳川の嫡流が絶えて、幕府創設以来はじめて御三家出身の将軍となった吉宗は、江戸城という巨大組織の中では、いわばよそ者でした。そんな彼が自分の思うように政治を行うためには、側近を信頼できる旧紀州藩士で固めるとともに、正確な情報を側用人や老中に邪魔されることなく入手するために、独自の諜報機関を持つ必要があったのです。
享保11(1726)年には「御庭番<おにわばん>」の名称が与えられ、幕府の正式な職名になりました。ここに至って、はじめて彼らが将軍専属の隠密組織であることが公となったのです。
同14年には、紀州藩時代に吉宗の愛馬、亘<わたり>の手綱取りである「馬口之者<うまくちのもの>」を務めていた川村脩常<なかつね>が加わり、旧薬込役16人と合わせた17人の家が「御庭番家筋」に定められ、役職を世襲しました。その後絶家したものや、二男、三男で分家に取り立てられたものなどがあり、最後は22家となって幕末を迎えます。
隠密御用がない時は、彼らは本丸天守台下の御庭御番所や、二の丸御休息、西の丸山里門の詰所に毎夕交替で宿直し、天守台近辺や吹上の御庭などの警備にあたることを日常の任務としていました。
彼らの職場である御庭御番所は現存していませんが、元江戸城である皇居東御苑(東京都千代田区千代田)には、鉄砲百人組と呼ばれた伊賀組、甲賀組、根来<ねごろ>組、二十五騎組が詰めていた百人番所(写真)のほか、同心番所、大番所という3つの番所(警備の詰所)が残っています。
御庭番はまた、江戸城の近辺で火事があって将軍が城から逃げ出さなければならなくなった場合には、避難の誘導をしたり、火消しや目付などを奥向きへ呼び込む際の取り次ぎや手配の伝令を行ったり、不法侵入者が紛れ込むのを防ぐといった役割も担っていました。
御庭番設置当初、彼らは全員が将軍に直接会うことができる身分である御目見<おめみえ>以下でした。
そこで、将軍の内密御用を受ける時、通常は有馬か加納が指示をしましたが、将軍から直に指令を受ける場合には、「御障子越し」に聞くという形式を取りました。
これは、将軍が遠出などをする際に、大奥と中奥の境近くにある御休息御駕籠台(御駕籠部屋)という場所で、障子越しに行ったのです。
それがまだるっこしかったからというわけではないでしょうが、やがて御目見以上に昇進する者が出てきて、5種類の格式に分けられました。
まず、御目見以上が「両番(小姓組番・書院番)格御庭番」と「小十人<こじゅうにん>格御庭番」、御目見以下が「添番<そえばん>御庭番」、「添番並御庭番」、「伊賀御庭番」です。
でも、11代将軍家治<いえはる>の時代までには、ほとんどの家筋が御目見以上に昇進しました。中には村垣淡路守定行、明楽飛騨守茂村、梶野土佐守良材のように、勘定奉行にまで昇進した者も現れました。
最初は御目見以下からスタートしたのですから、いやはや大した出世をしたものです。
そういえば、ロシアのウラジーミル・プーチン首相もKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイ出身だそうですが、いつの時代であれ、どこの国であれ、情報を制することは、やはり大きな力となるのでしょうか?
【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1990年
深井雅海著『江戸城御庭番』中央公論社、1992年
歴史群像シリーズ41『徳川吉宗 八代米将軍の豪胆と治政』学習研究社、1995年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年
もちろん、ストーリーの大部分はフィクションですが、吉宗の大胆な改革政治の背後で、御庭番が暗躍していたのは紛れもない事実です。
吉宗は享保元(1716)年に紀州藩主から8代将軍に就任するにあたり、205人もの藩士を連れていきましたが、その中には「薬込役<くすりごめやく>」と呼ばれる者たちがおりました。
表向きの役目は吉宗が使う鉄砲に火薬を込めるというものですが、時に密命を受けて、国の内外において諜報活動を行うこともありました。
彼らは甲賀忍者の子孫であるとも伝えられています。
村垣忠充ら元薬込役16人は、幕府の中にあった役職の1つ、「御広敷伊賀者<おひろしきいがもの>」に編入されました。
この役職は、家康の頃から仕えてきた伊賀者や甲賀者といった忍者の末裔で組織されていましたが、世の中が安泰になるにつれて隠密御用から遠ざかり、江戸城警備の任に就いていました。
でも平和な時代になったとはいえ、幕府は大名や庶民を取り締まるために出した数々の法度に対する違反や、政権を脅かす不穏な動きに目を光らせておかなければなりませんでした。
そこで伊賀者や甲賀者に代わり、大名などを監視する老中支配下の大目付や、旗本・御家人を見張る若年寄支配、目付配下の徒<かち>目付や小人<こびと>目付がその役割を果たしました。これが公儀隠密です。
吉宗の将軍就任にともなって新たに任命された御広敷伊賀者は、もともといた者たちと職名は同じでも、職務内容は大きく異なりました。給料も後者が30俵2人扶持だったのに対し、35俵3人扶持とより高額でした。
でも、その真の役割が諸藩や遠国奉行所・代官所などの実情を調査し、老中をはじめとする諸役人の行状や世間の風聞などの情報収集であることは、当初吉宗のほかには御側御用取次の有馬氏倫<うじのり>と加納久通<ひさみち>しか知りませんでした。
徳川の嫡流が絶えて、幕府創設以来はじめて御三家出身の将軍となった吉宗は、江戸城という巨大組織の中では、いわばよそ者でした。そんな彼が自分の思うように政治を行うためには、側近を信頼できる旧紀州藩士で固めるとともに、正確な情報を側用人や老中に邪魔されることなく入手するために、独自の諜報機関を持つ必要があったのです。
享保11(1726)年には「御庭番<おにわばん>」の名称が与えられ、幕府の正式な職名になりました。ここに至って、はじめて彼らが将軍専属の隠密組織であることが公となったのです。
同14年には、紀州藩時代に吉宗の愛馬、亘<わたり>の手綱取りである「馬口之者<うまくちのもの>」を務めていた川村脩常<なかつね>が加わり、旧薬込役16人と合わせた17人の家が「御庭番家筋」に定められ、役職を世襲しました。その後絶家したものや、二男、三男で分家に取り立てられたものなどがあり、最後は22家となって幕末を迎えます。
隠密御用がない時は、彼らは本丸天守台下の御庭御番所や、二の丸御休息、西の丸山里門の詰所に毎夕交替で宿直し、天守台近辺や吹上の御庭などの警備にあたることを日常の任務としていました。
彼らの職場である御庭御番所は現存していませんが、元江戸城である皇居東御苑(東京都千代田区千代田)には、鉄砲百人組と呼ばれた伊賀組、甲賀組、根来<ねごろ>組、二十五騎組が詰めていた百人番所(写真)のほか、同心番所、大番所という3つの番所(警備の詰所)が残っています。
御庭番はまた、江戸城の近辺で火事があって将軍が城から逃げ出さなければならなくなった場合には、避難の誘導をしたり、火消しや目付などを奥向きへ呼び込む際の取り次ぎや手配の伝令を行ったり、不法侵入者が紛れ込むのを防ぐといった役割も担っていました。
御庭番設置当初、彼らは全員が将軍に直接会うことができる身分である御目見<おめみえ>以下でした。
そこで、将軍の内密御用を受ける時、通常は有馬か加納が指示をしましたが、将軍から直に指令を受ける場合には、「御障子越し」に聞くという形式を取りました。
これは、将軍が遠出などをする際に、大奥と中奥の境近くにある御休息御駕籠台(御駕籠部屋)という場所で、障子越しに行ったのです。
それがまだるっこしかったからというわけではないでしょうが、やがて御目見以上に昇進する者が出てきて、5種類の格式に分けられました。
まず、御目見以上が「両番(小姓組番・書院番)格御庭番」と「小十人<こじゅうにん>格御庭番」、御目見以下が「添番<そえばん>御庭番」、「添番並御庭番」、「伊賀御庭番」です。
でも、11代将軍家治<いえはる>の時代までには、ほとんどの家筋が御目見以上に昇進しました。中には村垣淡路守定行、明楽飛騨守茂村、梶野土佐守良材のように、勘定奉行にまで昇進した者も現れました。
最初は御目見以下からスタートしたのですから、いやはや大した出世をしたものです。
そういえば、ロシアのウラジーミル・プーチン首相もKGB(ソ連国家保安委員会)のスパイ出身だそうですが、いつの時代であれ、どこの国であれ、情報を制することは、やはり大きな力となるのでしょうか?
【参考文献】
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、1990年
深井雅海著『江戸城御庭番』中央公論社、1992年
歴史群像シリーズ41『徳川吉宗 八代米将軍の豪胆と治政』学習研究社、1995年
戸部新十郎著『忍者と忍術』毎日新聞社、1996年
清水昇著『江戸の隠密・御庭番』河出書房新社、2009年
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