ひろむしの知りたがり日記

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土方歳三ゆかりの高幡不動尊に初詣 ─ 高幡山明王院金剛寺

2013年01月03日 | 日記
京王線高幡不動駅の南口側に出て、すぐ右に見える参道を抜けると信号を渡った先に高幡不動尊(東京都日野市高幡733)があります。僕が訪れた元日の午前10時半頃には、参道の半ば過ぎまで初詣をする参拝者の行列ができていました。
高幡不動尊は真言宗智山派のお寺で、正しくは高幡山明王院金剛寺と号します。大宝年間(701~704)以前の開創とも伝えられる古刹で千葉成田山、神奈川大山とともに関東三不動の一つに数えられています。
境内入口の仁王門は室町時代に建てられたもので、そこをくぐると正面に見える鎌倉時代建造の不動堂とともに、国の重要文化財に指定されています。境内にはやきそばやたこ焼き、あんず飴、牛串、五平餅などの屋台が軒を連ね、長い行列に並んでようやくたどり着いた参詣者たちでごった返していました。

↓高幡不動尊仁王門(中)とその左右に配された仁王像(左・右)

          
          ↑南北朝時代に高幡山中から現在地に移建された不動堂

人ごみを縫って、弁天池入口そばの、新選組局長近藤勇<いさみ>と副長土方歳三<ひじかたとしぞう>の幕府への忠節を顕彰する殉節両雄之碑と、歳三の銅像が並び立つ場所にやって来ました。なぜここにこのようなものがあるかというと、歳三の生家が室町中期以前から高幡不動尊の有力檀那衆に名を連ねる旧家で、檀頭<だんとう>の格式を持つ由緒ある家柄だったからです。


↑平成7年11月に立てられた土方歳三の銅像

不動堂の背後にある奥殿には、古くは平安時代から伝わる文化財や寺宝が多数収蔵されています。中でもとりわけ立派なのは、本尊の重厚感溢れる木造不動明王像とその両脇に立つ童子像でしょう。いずれも平安時代の作で、重要文化財になっています。
ここはまた、新選組や幕末ファンにとっても胸躍る資料の宝庫でもあります。2通展示されていた歳三が郷里に送った書簡のうち、1つは将軍徳川家茂<いえもち>が元治元(1864)年1月に海路上洛した折に、大坂の安治川河口を警備した際のようすを書面と絵図で知らせた「天保山警固図」(筆跡から代筆とされています)で諸藩兵の配置が描かれている中に、誠の旗とともに「松平肥後守御預 新選組」と記されています。もう1つは鳥羽・伏見戦の前に書かれたもので、「遠からず都において一戦もこれあるべき事ニご坐候」とあり、「高幡山貴僧へよろしくご鶴声<かくせい>願い奉り候」と書かれていました。いずれの書簡からも、時勢が風雲急を告げる中、歳三が置かれた緊迫した状況を窺い知ることができます。そのほかにも、彼が日光山で揮毫してもらったという「東照大権現」の旗印もありました。
また、「新選組英名并日記」は甲州口を警衛した八王子千人同心の家系出身で、戊辰戦争に参戦した中島登が明治3(1870)年に土方家を訪れた時に彼の覚書を関係者が写したもので、鳥羽・伏見戦後に結成された甲陽鎮撫隊の出陣から恭順までの経過と、隊員178名の氏名・役職・出身・消息が記録されています。そこには「陸軍奉行 土方歳三」とあり、箱館一本木関門で5月11日に戦死したことが記されていました。
その他、新選組二番隊長だった永倉新八<ながくらしんぱち>が明治9年、勇が処刑された板橋刑場跡に勇と歳三の墓碑を建立するに当たり、資金提供者にお礼として贈った元医学所頭取松本良順(順)の書軸、井上源三郎<げんざぶろう>のものと伝えられる脇差、天然理心流の中極意目録や同流の木剣、柔術免許状などもあって興味が尽きません。
新選組関連以外にも、徳川慶喜・勝海舟・榎本武揚・大鳥圭介・山内容堂といった幕末史を彩るビッグネームの書も見ることができます。それぞれに個性的で、彼らの人柄を彷彿とさせます。とりわけ山岡鉄舟の書や屏風なんぞは力強く大胆な筆使いで、書のことなどまるでわからない僕の目から見ても、見事だと感じさせるものがありました。それからなんと、新選組にとっては敵役である坂本龍馬の肖像画まで飾られているのには、意外な感じがしました。

奥殿のさらに奥にあるのが大日堂です。高幡不動尊の総本堂で、平安時代に造られた大日如来像が安置されています。外陣の天井には「鳴り龍」と呼ばれる龍の絵が描かれていて、その下で手を叩くと妙音を発し、願い事がかなうそうです。ここにはまた、「歳進院殿誠山義豊大居士」という戒名が記された歳三の位牌や、近藤勇・沖田総司・井上源三郎の位牌、新選組隊士慰霊の大位牌も納められています。

板橋刑場跡の墓碑が立てられたのと同じ明治9年には、高幡不動尊の境内に近藤勇と土方歳三の顕彰碑を建立することが計画されていました。しかし、賊軍扱いされていた彼らを讃える碑などけしからんとなかなか許可がおりず、明治21年になってようやく、先に紹介した殉節両雄之碑を立てることができたのです。
時が移り、今では多くの新選組ファンがここを訪れて、歳三の銅像を憧れの眼差しで見上げたり、その位牌に手を合わせたりしているのでしょう。このような状況を、あの世の勇や歳三は、苦笑しながら眺めているのではないでしょうか。


↑明治9年銘、同21年建立の殉節両雄之碑(日野市指定史跡)


【参考文献】
山村竜也著『完全制覇 新選組』立風書房、1998年
中村彰彦著『新選組全史 幕末・京都編』角川書店、2001年
高幡山金剛寺編『歳三菩提寺 高幡不動尊の新選組関連資料』高幡山金剛寺

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