1月7日、甲府では、松の内が明けました。
先日のブログでは、武田流門松をご紹介しましたが・・・
門松のことが改めて気になりまして・・・
門松は、お正月の来訪神、年神さまの目印となるように、
また、年神さまの宿、依代(よりしろ)となるようにしつらえられたものですが、
疫病などをもたらす悪い鬼を家に入れない、邪気払いの役割も果たしました。
そのため、松でなくとも、椎(しい)や榊(さかき)など、
年中枯れない、永遠の繁栄を象徴する常緑樹が選ばれました。
ただ、「門松」というネーミングが示すように、定番は松であり、
お正月飾りに松が好まれた理由も、ちゃんとあった・・ようなんです。
日本の文化、風習の大半がそうであるように、
門松のルーツも、中国の風習の影響を受けた、
平安の宮廷儀礼や年中行事にあると考えられています。
門松の場合は、「小松引き」または「子(ね)の日の遊び」が元となる行事。
これは、年が明けて最初の「子の日」に外出し、
小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊び。
この時に摘んだ若菜のお吸い物も食して邪気払いしました。
「子の日」は、12日に一度巡ってくる十二支の「子」=ねずみの日のこと。
ねずみは多産であることから、子孫繁栄、生命の繁栄が意識され、
この日を選んで、常緑の松を引き抜き、長寿を祈願しました。
古代の日本は、祭礼を司る者が政治を司る祭政一致の社会。
「祭りごと」は神をまつることであり、御霊が荒ぶらないように慰めること。
さらに、豊作などを祈り、感謝を伝えることでした。
そうした祈祷や占いなど「祭りごと」によって執り行う「政」の主な目的は、
土地に恵みをもたらすことにありました。
2つのマツリゴトは、国と民を統治するための両輪で、
政治がらみじゃ、ライバルなんかもいたよね〜と考えると、
「小松引き」も、単なる新年の雅な遊びというよりも、
自分たちの栄枯をも左右する、真剣勝負の場だった・・という指摘もあるようですが、
「そうなの!?」と驚きつつ、それなりに的を得たものなのかもしれないな〜と。
ストンと腑に落ちる説ではなくとも、
「有職故実(ゆうそくこじつ)」という、しきたりや作法の前例、それを研究する学問が、
なぜ、公家、後には武家の間でも重んじられたのか・・理解の助けにはなるかも知れません。
単なるしきたりを踏襲するための教科書以上のものだったということでしょうか。
武田氏館跡をはじめとする戦国大名の館跡の発掘調査では、
素焼きの器「かわらけ」が大量に出土しています。
基本的には素焼きの器ですから、茶色でざらざら。
でも、「かわらけ」は誰も使っていない清いものとして、
神前における儀式や、それに続く饗宴に不可欠だった器でした。
それが、出土品のおよそ9割を占めるとなれば、
戦国時代、いかに多くの儀式饗宴が行われたか想像できるワケで。
お正月も、もちろん例外ではありません。
日記や年中行事の記録によれば、一般の武家においても、
正月七日には、「子の日の遊び」を思わせる「初子の祝」では七草粥を食べ、
正月十七日は、流鏑馬を行う「弓始め」でその年を吉凶を占い、
正月中旬から下旬にかけて「連歌始め」が開かれ、
中国の春節を想起させる「爆竹の祝」では、
火薬の爆発音で穢れを祓い、すがすがしく一年をスタート!
どれもこれも楽しそう♪ですが、
戦国の世も、有職故実が重視された時代です。
武田家はじめ、戦国大名家の門松がどのようなものだったかはわかりませんが、
単なる新年のお飾りでなかったことは確か・・・かと。