いけばな&日本古流・歴史探訪(その3)〜刀といけばな〜

2022-02-25 11:58:05 | 紹介
新型コロナウイルスの感染拡大、なかなか収まらず、当館の臨時休館も続いています。

旧堀田古城園で予定している、こちらの「いけばな展」も・・・

2022年3月20日(日)、21日(月)に延期となりました。

花を生ける皆さまにも、楽しみにされている皆さまにも、安心・安全にお越しいただきたいと思います。
ご理解とご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。


それでは、いけばなの歴史探訪(その3)です!

「花いくさ」(2011年)は、鬼塚忠による小説で、野村萬斎主演で映画化(2017年)もされました。
この小説は、千利休が池坊専好の弟子であったという説のもと、
戦国時代、武力や権力を持たない華道家が、どのように将軍家や戦国大名たちと関わり向き合ったのか。
また、どのように戦乱の世を生き抜き、自らの作品を創作したかを描いています。

戦国の混乱によって、花文化を担ってきた朝廷が衰退し、
その結果、室町末期から江戸前期までの華道文化は池坊を中心に展開します。
中でも、戦国後期に活躍したのが、池坊専栄(生年不詳−1579?または−1589?)と、
「花いくさ」の主人公、専好(初代)(1536−1621)でした。

専栄は関東から山陰にかけて、また一説では東北から九州にも足を延ばし、
在地の門弟を育てていたと言われています。
島津家老中の日記「上井覚兼日記」(1585)によれば、
池坊以外の道場からも華道家が訪れていたようで、
京の都の情勢が不安定な中、多くの公家、僧侶などが地方に招かれ、京文化を伝えたように、
華道家もまたそこに活路を求めたのでしょうか。日本各地を訪れていたことがわかります。

専栄は、約束事の多い立花にとどまらず、当意即妙に「生ける」花に対する考えも深めました。
この時期、やはり盛んになった茶の湯からもインスピレーションを受けたのかもしれません。
茶席に生けられる花を強く意識したと言われています。

専栄の後を継いだ専好。
その名を華道史に刻んだ作品が、「文禄三年前田邸御成記」に記された「大砂物」
(鉢に砂を入れて草木を挿したものから生まれた花の呼称。株立てとも。)

池坊 いけばなの根源

それは、秀吉が前田利家邸を訪れた時のこと。
織田信長の弟、織田有楽の差配で座敷飾りがなされ、大広間三の間には、
四間床に四幅対の猿の軸が飾られ、
その前に置かれたのが、横6尺(約180cm)、縦3尺(約90cm)の大鉢に立てた大砂物。
後ろに飾られた軸の猿が、あたかも松の枝の上で遊んでいるかのようだったとか。
「池之坊一代之出来物(傑作)」と評価されました。

映画「花戦さ」のクライマックスも、この大砂物を前にした秀吉と専好の花戦さ。
広間を飾る専好の傑作を前に、何かに気づく秀吉・・・

時の権力者の思い一つで、例えば千利休のように切腹させられることもあった時代。
武士達が茶道やいけばなに心を寄せた理由はなんだったのでしょうか。
どのような状況でも、手持ちのものを使って、適材適所で戦術を立てるかのように花を生ける。
そんな鍛錬に加え、もちろん精神の修練もあったのでしょうが、
映画の中の秀吉の姿に、いけばなの世界の懐の深さを感じます・・・。

残念ながら、信玄公といけばなの関わりを記した記録は残されていません。
ですが、武田氏もまた、御成や茶事などの催しで活躍した同朋衆(※)を抱えていました。
お客様をもてなす席のために、花を生けた同朋もいたはず。
そんな花の姿に、信玄公も何かを感じることがあったかも・・・しれません。

(※)同朋衆は唐物の鑑定と管理、芸能、茶事などをつとめ、
その経験の蓄積はいけばなを中心とした座敷飾りに関する伝書に残されました。
将軍家や大名家周辺には、同朋衆が役職としてあり、茶道や華道などの発展にも寄与しました。
コメント
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