ブログ的信玄公・考 信玄公、不動明王となる!?

2020-09-13 15:32:38 | 紹介
「武田二十四将図」は
信玄公をセンター✨に、武田氏の下で活躍した23将を描いた図像。
ある一定の型に従って描かれた、仏画的礼拝図です。


共に「武田二十四将図」(個人蔵)


注目は、信玄公のお顔。
なんと、不動明王のお顔と重ねたような表現になっています。

不動明王は、大日如来の怒りのお姿。
それは、仏教の教えの邪魔だてをしようとするものに対する威嚇であり、愛の鞭。
煩悩や迷いを焼き払う炎(!)を背負い、
目は天地眼。左右上下を睨み、天から地に至るまで決して悪を見逃さない。
口元は乱抗歯。バージョンは様々ですが、牙が上に下にと出ています。
信玄公のお顔が、こんなふうに不動明王の忿怒のお顔で描かれている作品は少なからずあるようで・・・。

驚いてしまうのは、このように信玄公を不動明王に重ねて表現したものは、
江戸時代に始まったことではなく、どうやらその前から。
服装など、肖像画の制約が緩み始めたころの作品とはいえ、
人を神として表現するというのは、中世のルールを越えたものだったのでしょう。
同じような例は、なかなか見当たりません。

信玄公と不動明王を重ねて表現した主な作品には、
例えば、弟である武田信廉(のぶかど)の筆によるものと伝えられる「鎧不動尊像」が。
不動明王のまとう鎧に、武田家家紋の花菱や、腹まきに信玄の使用した龍朱印と同様の円龍文が入っています。
こうした一連の表現は、「イコール信玄公」というサインだったのかもしれません。

その他、よく知られるところでは、恵林寺所蔵の「武田不動尊像」。
「甲斐国志」の恵林寺の項や、「甲陽軍鑑」によると、
不動尊像は京仏師・康清に彫らせたもので、
信玄自身の毛髪を漆に混ぜて、胸の部分に植え込ませた(!?)とか。
自らを、どこまで不動明王になぞらえたかどうか、知る由もありませんが・・・、
毎日が命がけ(!)だったに違いない戦国時代。
神仏など、見えない世界との関わり方が現代とは全く違ったはずで、
戦の場で、神仏の名号を染め抜いた旗指物を立て、そのご加護を得ることを願ったように、
不動明王に自らの一部を埋め込むことで、そのお力を得たいと祈念!?

・・・その後、甲州流軍学が徳川幕府に認められ、
そのエッセンスのつまった「甲陽軍鑑」も広く読まれるように。
ちょっと教訓的に、新しい時代(=江戸時代)の武士のあるべき姿を説く一方で、
「武田二十四将図」では絶対的な君主に、忠義をもって従う家臣たちを描き、
幕府にとっての、あるべき武士の姿を見える化。

不動明王のお力を何としてでも得たいと願った(!?)信玄公のエネルギーが、
幕府の求める新たな秩序を作り出すためのエネルギーに変換されようとした時、
「武田二十四将図」は、なくてはならないものになった・・・のかもしれません。

江戸後期、「武田二十四将図」はより多くの人々に親しまれるキャラクター満載の武者絵に。
その存在価値も微妙に変化。時代の波には逆らえない、ということでしょうか😉 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ的に信玄公・考 ~武田二十四将図~

2020-09-10 18:27:47 | 紹介
戦国武将・武田信玄の人気のひみつに、ブログ的に迫っております😉 

信玄公の息の長い人気に一役買ったかもしれない(!?)のが、
「武田二十四将図」。
武田の二十四将とは、信玄公と武田氏の下で活躍した23将。
23将の選抜は作品によって若干変わりますが、
当然のことながら、信玄公は永遠のセンター✨✨

ご覧いただくと一目瞭然なのですが、
一連の「武田二十四将図」には、一定程度の型があります。
 ☆縦型で、
 ☆床几に腰かけた信玄公を中央最上段に、
 ☆その下に23将が左右分かれ、それぞれの指定席に座し、
 ☆皆さま、軍議を終え次第、出陣せんばかりの「お決まりの」お姿。
中には、お顔が4分の3だけ、横向き、完全に後ろ向き(!)なんかもありますが、
基本的にはこんな感じ☟

「武田二十四将図」(個人蔵)

江戸時代前半には、ある程度の型をもって成立していたようですが、
描かれる人物が存命中に、寺社などに奉納するために描かれた「寿像」でもなく、
亡くなった後、個人の記憶を回想することを目的に描かれる「遺像」とも違う。
その存在意義や形式共に、モデルとなったのは、
すでに成立していた「徳川二十(または十六)将図」あたりではないかと推測されています。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90373
確かに、画面構成などが似ています😉 

江戸時代、盛んに制作された「武田二十四将図」ですが、
すでにない大名家の軍団絵が、その意味合いを変えながら、
最初は肉筆、後に木版画として出版される例は珍しかったようです。

身分と時代を越えて、多くの人が「武田二十四将図」を手にした訳は、
甲州流軍学が徳川幕府の軍学として認められ、
信玄公の戦術などをまとめた「甲陽軍鑑」が、まずは武士の間で、
そして、庶民にも広く読まれ、講談や歌舞伎にも盛り込まれて。
さらに、武田家に関わる軍記物や軍談物も流行。
「武田二十四将図」が浮世絵などの題材としても人気を博し、
現代のプロマイドの様相を呈していきます。

武田家を支えた、数多くの武将たちも「甲陽軍鑑」を飛び出して(!?)
個性豊かに描かれ、読者・鑑賞者を楽しませたのでしょう。
異形の軍師・山本勘助や、鬼美濃と恐れられた馬場信春、
信玄の弟・「武田の副大将」武田信繁、
親子で二十四将に数えられる真田ファミリーなどなど。

そんな魅力あるキャラクター総出演の「武田二十四将図」もまた、
お館さま・信玄公を盛り立てていったのかもしれません。
死してなお!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ的、信玄公・考 ~人気のひみつ!?~

2020-09-06 14:34:52 | 紹介
先週からNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が再開されました。
大河と言えば、1963年から続くテレビドラマシリーズ。
その長い歴史において、武田信玄が主役級の重要な役割を担うこと2回。
全国レベル✨の人気と知名度を誇る戦国武将ですが・・・
最近では、小学生向け教科書の信玄公に関する記載がカットされる事態※に😨
そんな逆境をものともせず、江戸時代から現代にいたるまで、一定の知名度をKEEP。
よくよく考えると、不思議じゃないですか。
※武田家では、唯一、武田勝頼が教科書の「長篠の戦い」を学ぶページに登場します。

・・・
1919年、信玄公が暮らした、まさにその場所に創建された武田神社。
信玄公はそのご祭神ですが、それは地元の方々の長年の悲願あってこそ。
山梨県では「信玄公」、「信玄さん」と敬意をもって呼ばれ、
呼び捨てでは怒られることも。
七五三や初宮参り、新年のごあいさつは武田神社で、という方も多いですが、
なんだかんだで山梨県内外、さまざまな場所から皆さまお越しいただいております。


けれども、さらにさかのぼることおよそ400年。
武田家滅亡後、遺臣が徳川家に仕え、多くの方々に甲州流軍学を指南。
信玄公の戦術や事績がまとめられた『甲陽軍鑑』の普及もあって
結果的に、幕府が認める軍学となったこともあり、
次第次第に、祀られずとも軍神のような存在へ。

このように考えると、信玄公の神さま歴はもうちょっと長いことになります。


「武田二十四将図」(個人蔵)

数多く制作された「武田二十四将図」も単なる軍団絵ではなく、
むしろ仏画的礼拝像の役割を果たしたのではないかとも。

そして、何よりも、徳川家康という東照大権現と神格化された権力者が
武将・武田信玄に一目置いていたことの影響力が大きかったと言えそうです。

また、戦国に名を馳せた武田家の栄枯盛衰もあり、
そんなこんなで、武田信玄という軍神とそのストーリーが、
大衆のカタルシス※を引き出したのでしょうか!?
※悲劇には、観客の心に怖れと憐れみの感情を引き起こし、精神を浄化する作用があるとする考え。

でも、人気の秘密は、それだけではないはずで。

今度は「武田二十四将図」をヒントに、信玄公にもう少し迫りたいと思います。
よろしければ、どうぞお付き合いください🙇
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田家を支えた武将たち、リモート軍議始めました💻

2020-09-05 17:11:08 | イベント
信玄ミュージアムの常設展示室、
山本勘助さま、真田昌幸さまなど、武田家にかかわった選りすぐりの武将たちにも
ソーシャルディスタンスをお取りいただこうと、ご予約席を設けていました。
なにぶん、お忙しい方々ですので。


ですが、一部の武将の間で、急ぎの軍議が開かれることになり、
急遽その方々のお席をご用意する運びとなりました。


その方々とは・・・

生涯で戦うこと36戦、武勇を称える感状も36通!
ニックネームは「鬼虎」👹の
小畠虎盛さま(1491-1561)

西上野でその名を轟かせ、赤揃えを率いた武将
小幡信真さま(1541-1592)

関東管領山内上杉軍を打ち破った勇将
横田高松さま(1487-1550)

戦陣の構え、道普請はお任せあれ。
原昌胤さま(?-1575)

信玄公の奥近習六人衆。
お館さま直々の教育を受けたエリート(!?)
曽根昌世さま(生没年未詳)

「昌」の字は、信玄公にかわいがられた証拠です。
曽根昌世さま同様、奥近習六人衆のお1人。
土屋昌続さま(1545-1575)

こんなご時世ですので、軍議もzoomを利用したリモートだそうで。
世代を超えて、これら6名さまの急ぎの議題とは?


どうやら、「あなたが選ぶ! 武田二十四将総選挙」の
「後半、いかに巻き返すか!?」作戦の軍議のようで・・・。

このままじゃ終われない💦💦
がんばれ!リモート軍議組!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする