企画展「甲斐国領主と善光寺」の中期展示が始まりました。

2022-05-11 17:31:08 | 紹介
ロナウイルス感染拡大とお天気も心配された、ゴールデンウィークが終わり、
信玄ミュージアムも少し落ち着いた平常に戻りました。
信玄公没後450年カウントダウン企画展も、本日11日から中期展示に入りました。
今回の小テーマは、「徳川・羽柴氏と善光寺」です。
甲斐国領主は、武田家滅亡後、1600年に至るまでめまぐるしく交替し、
善光寺に関わる展示も、ここから武田氏以外の大名たちの史料が登場します。
そこで、知らない方にもわかるように、今回のテーマに関わる歴史をご紹介します。

天正10年(1582)、武田家滅亡後、織田信長から甲斐国を与えられた河尻秀隆が
本能寺の変の混乱の中、一揆勢に討ち取られ、無主空白地と化した甲府盆地の
「国中」地域にはいち早く徳川家康が入りました。
また、東からは小田原北条氏が侵攻し、都留郡から富士北麓の「郡内」地域を
占拠しました。
同時に、北条氏直が率いる本軍が上野国で滝川一益を撃破して信濃国に入り、
そのまま南下して甲斐国への侵攻を図り、徳川勢を挟撃する体勢をとりました。
徳川軍は新府城、北条軍は若神子城で対陣し、数的不利の徳川軍が地理に明るい
旧武田家臣団を配下に加えて有利に進め、和睦により甲斐国は徳川氏の領有と
決まりました(天正壬午の乱)。

この頃に出された書状が今回の展示資料の一つ。
徳川家康が北条氏との和睦がまとまった翌月の11月に栗田永寿に宛てた善光寺や
門前町支配を武田家同様認める内容の「徳川家康判物」。
戦国時代には、各家で多少礼式は異なりますが、命令・許認可系の書状は、
徐々に印判を用いることが増えていきました。
そんな中、家康から栗田氏に出されたのは、「判物」と呼ばれる花押の書状。
花押という大名独自のサイン入の書状は、ステイタスが上昇したようですので、
栗田氏と善光寺の格を知る上では重要な史料です。

もうひとつは、羽柴秀勝の書状「羽柴秀勝判物」。
豊臣秀吉の小田原征伐後に徳川家康が関東に移ると、徳川氏との境界となった
甲斐国には秀吉の親族の羽柴秀勝が入りました。
同じ名前の秀勝が複数存在するので、間違われることもありますが、甲斐を治める
ことになったのは、秀吉の姉の子の秀勝です。
ところが、甲斐一国を与えられたものの、息子が京都から離れた遠国で寂しい、と
姉から訴えられた秀吉が願いを聞いて、美濃へ転封したのだとか。
いずれにせよ、在任期間は短く、その間に甲斐に残した足跡も限られる中、
栗田氏に与えた安堵状は大変貴重な史料なんです。
しかも、県内では印判を押した書状はありますが、花押入の判物はかなりのレア。
秀勝の堂々たるサインと花押は必見です😄 
 いずれも善光寺大本願所蔵(転用禁)

そして、最後に「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)。
徳川家康を支えた家臣団の中から精鋭揃いの16名が描かれた絵画も展示中。
家康統治下で甲斐を治めた平岩親吉、鳥居元忠をはじめ、本多忠勝や酒井忠次
ら重臣級も勢揃いです。
作者は狩野秀信(柳雪)。
一人ひとり繊細なタッチで描かれていますので、こちらも見応え充分。
来年のNHK大河は、「どうする家康」でしたでしょうか。
その頃にはもっと親しみを込めて見ることができるのでしょうけれど、
今回は、予習としてどうぞご覧ください。

なお、御城印は5月9日(月)まで春限定版でしたが、
本日より通常版信玄公龍朱印に戻りました。
春版は来年までお待ちくださいませ。

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