3月11日は武田勝頼の命日です

2020-03-11 17:06:32 | イベント
3月11日といえば
平成23年(2011年)の東日本大震災が起きた日。
死者、約1万6千人、重軽傷者、約6千人で
未だ多くの方々が行方不明になり、
また、避難生活を続ける方々も多数。
頭の片隅から未だ離れることのない出来事です。

この3月11日は
武田勝頼、最期の日でもあります。
韮崎の新府城に火をかけ
小山田信茂の岩殿城を目指すも
途中で小山田信茂の謀反にあい
勝頼は妻子とともに
天目山で最期を迎えました。

勝頼の最期には二説あることをご存知ですか?

①「甲陽軍鑑」・「武田三代記」の討ち死に説
最後まで敵と斬り合い、
槍(3本!?)に突かれて討ち死に。

②「甲乱記」(*)の切腹説では
先に自害した北条夫人の枕元に寄り、
夫人の血で染まった脇差を衣でぬぐい
自ら、腹十文字にかき切り
はらわたを四方に投げ捨て
北条夫人と同じ枕で伏して絶えた。

いずれにしても壮絶な最期😨

勝頼と言えば
信玄と諏訪御料人との間に生まれた
本来なら、
武田家を継ぐはずではなかった四男です。

嫡男・義信の死がなければ
諏訪家を継いで、諏訪大社の神事を司る、
武田家の軍神、でした。
人生180度以上!?変わってます。

そんな勝頼の兜
特徴は前立て。
山の形はご神体、
その下には雲の形の前立てもあったと伝えられています。
神が雲上に現れる情景✨
ここに込められた思いはなんだったのでしょう。

富士山本宮浅間大社で所蔵する「勝頼奉納兜」のミニチュア版です🎶

どんな気持ちで戦ったのか?
どんな気持ちで息絶えていったのか?
438年前のことを想像するのは難しいけれど
残された品々が、ヒントを与えてくれそうです。

甲斐の国では、まだお雛様を飾っています。

*「甲乱記」
武田家宗家の滅亡を描いた軍記物語
成立年代と著者不明
勝頼が自害した1582年8月に書かれたという説もある。
勝頼に対する義理の弟、木曽義昌による謀反から
信玄の菩提寺・恵林寺の焼失と
織田信長の甲府入りまでが書かれている。

コメント
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