
伝説ではインドを訪れたモン族の商人兄弟が、紀元前588年に釈尊から8本の聖髪を賜りました。故郷へ戻った兄弟は、オッカラパ王の助力で聖髪をテインゴウッタヤの丘に祀るため仏塔を建立したのが始まりと伝えられています。
考古学的調査では下ビルマを支配していたモン族によって、6世紀から10世紀に建立されたようです。その後の国内の戦闘で荒廃しますが、14世紀にモン族のペグー王朝、第7代国王ビンニャ・ウー(在位:1353年~1385年)によって高さ18mの仏塔が再建されます。
碑文によれば、およそ1世紀後の第14代国王シンソーブ女王(在位:1453年~1472年)により高さ40mの仏塔に改築されました。
16世紀にはビルマで最も重要な巡礼地となっています。
1769年に起きた地震で塔上部が崩壊しますが、コンバウン王朝の第3代国王シンビューシン(在位:1763年~1776年)によって現在の高さ99mに改修されます。







主塔は煉瓦積みで金箔ではなく黄金の板が鋲止めされています。
歴代の国王はパヤーを維持するため黄金を喜捨しています。ペグー朝のシンソープ女王は自身の体重と同等の黄金を奉納したことが記録されています。












ミャンマーは八曜日あるそうです。水曜日が二日に分かれていて、午後6時までが水曜日で、午後6時以降は「ラーフーの日」です。ヒンドゥーの月と太陽を追いかけては食べるラーフーとは異なるようです。
自分の生まれた曜日の仏陀に花を供え、灌水して参拝します。
ちなみに、タイでは七曜日の仏陀像が安置されていて、それぞれポーズが異なります。





この大きな仏陀はガラスケースの中に入れられて触れることはできません。







1824年英緬戦争でシュエダゴン・パヤーを占拠し要塞にしたイギリス軍は釣鐘を接収しカルカッタへ搬送する途中でバゴー川で落します。しかし、後に釣鐘を引き上げたイギリス軍はビルマに返還します。








ペグー王朝の第15第国王ダンマゼーディー(在位:1472年~1492年)が1485年に喜捨した30トンの釣鐘は、1608年にシュエダゴン・パヤーを略奪したポルトガル人フィリップ・デ・ブリトーによって盗み去られましたが、バゴー川で川中に落としてしまいました。その後探索されましたが、現在に至るまで発見されていません。







■「シュエダゴン・パヤー」の「シュエ」は黄金、「ダゴン」はヤンゴンのモン族統治時代のモン語地名です。「パヤー」はパゴダ、仏塔を意味します。
コンパウン王朝の創始者、アラウンパヤー王(在位:1752年~1760年)はビルマ全土を掌握のため1754年に上ビルマからモン軍を一掃、1755年にダゴンを陥落させ、ビルマ語のヤンゴン「宿敵全滅」と改名します。その後、抗戦するモン軍を退け、1757年モン王国の首都ペグーを攻略します。
モン王国を征服したアラウンパヤーは、寺院や建造物を破壊、経典等の書物は焼き払い、学識ある僧侶を3000人以上を虐殺、モン語やモン族の習慣を厳禁にします。拠点を失ったモン人はアラウンパヤーの差し向けた軍によって次から次へと殺害されたそうです。
何十万というモン人がタイへ逃れます。
現在のミャンマーの人口5142万人ですが、民族比で見るとビルマ族68%、モン族2%と、かっては覇権を争った両民族の差が極端にひらいています。
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