臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(6月16日掲載・永田和宏選より)

2014年08月10日 | 今週の朝日歌壇から
 6月16日の「朝日歌壇」の「永田和宏選」の第一席として、「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」という、朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するが如き作品としてはやや趣向が変り、従来のその種の作品よりは少し手の込んだ佳作が掲載されていて、作者欄には「フランス・松浦のぶこ」とあった。 

 作品の出来、不出来は別として、昨今の朝日歌壇にはその種の作品が毎週のように束を為して掲載されているので、私は、件の作品の着想の良さにかなりの魅力を感じながらも、「これも亦どうせ選者諸氏の立場と気持ちを見通した上での入選狙いの作品では無いか?」などという気持ちにもなり、その場では、「いわゆる『戦う民主主義』に取材した一首であるが、ドイツ連邦共和国は『戦う民主主義』を標榜している国の代表的な例とされる」などと、どうでも宜しいと言った感じの評文を記し、返歌として「民主主義侵さるる今国民よ挙りて安倍を引き摺り落せ」と、是も亦どうでも宜しいといった感じの腰折れを記し添えて当ブログに掲載させて頂いた次第でありました。

 然るに、それから数日経った、去る6月28日の未明、遥々遠くの泰西は仏蘭西共和国から、掲歌の作者・松浦のぶこさんが、当ブログ宛てに次のようなコメントをお寄せになりましたので、先ずはそれをそのままに下記の通り転載させていただきます。

 即ち、「6月16日/拙歌/(松浦のぶこ)/2014-06-28 01:11:04/松浦のぶこです。/6月16日朝日歌壇に永田和宏選で掲載された拙歌は許諾なしに改変されています。/原作は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』ですが、『国に抗へ』を『何人にも抗へ』に改変してあります。/問い合わせたところ、『ドイツ憲法条文ではそうなっているから添削した』とのことでした。/短歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました。/詳しくはブログ『松浦のぶこの家』をご覧いただければ幸いです。」と。

 このコメントを一読して直ぐさま、私は、掲歌の作者・松浦のぶこさんのご指示通りに、ブログ「松浦のぶこの家」を拝読させていただきましたところ、次のような興味深い記事が掲載されておりましたので、それをもそのまま、当ブログに無断転載させていただきました上で、この件に関する、私・鳥羽省三の感想や見解なども後述させていただきます。

 曰く「2014-06-25/短歌が改作されてしまった/現『民主主義冒さるるとき民として何人(なんぴと)にも抗へとドイツ憲法』/元『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』/6月16日の朝日歌壇に拙歌が永田和宏の選で掲載された。あれっと思った。投稿した元の歌とちょっと違うのである。『国に抗へ』が『何人にも抗へ』に変えられている。歌の大意はお分かりと思う。どちらが歌として優れていると思いますか、皆さまのご意見をぜひ聞かせて下さい。/自分の作品を知らないうちに変えて公表され、ショックを受けた。10年以上朝日歌壇に投稿してこんなことは初めてだ。最近少しぼけてきたので、万が一推敲しているうちに自分の思わないことをうっかり書いてしまったのかとも疑い、念のため朝日歌壇の係に問い合わせてみた。すると次のような返事が来た。/もともとお送りいただいた歌は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』となっています。ただ、『国に抗へ』が事実かどうかドイツ大使館に憲法の条文を確認したところ、正確には『この秩序を排除することを企てる何人に対しても、すべてのドイツ人は、他の救済手段が可能でない場合には、抵抗する権利を有する』となっているとのこと。これを踏まえて、永田先生は『何人にも抗へ』と添削なさったわけです(後略)。/つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?/ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として(憲法20条に)明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう(実際は連合国の各々が草稿を書いて突合せ、ドイツの当時の首相アデナウアーもドイツの考えを反映するべく奮闘した。経緯そのものは日本憲法の場合と似ている)。抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう。/この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ。/新聞や雑誌はいわゆる編集権が著作権より強いと言われる。私も朝日の『声』に投稿した記事を修正されたことが何度かある。ただそれは、紙面の都合で最後の1行を削るとか、2行に分けてある文章を1行に合体するのに伴い助詞を取りかえる、というようなテクニカルな修正で、いずれも事前に電話で承諾を求められた。キーワードを改変されたことはない。/選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う。添削はテレビの短歌教室では本来の役目だが、歌壇にも適用されるのだろうか。/しろうとの投稿者が文句を言うのは生意気だ、今後は選ばれなくなくなるよ、と歌仲間に冷やかされた。朝日歌壇にかぎってそんなことはないと信じている。/補足・①ドイツでは公衆の面前でナチの歌を歌ったり、ハーゲンクロイツの旗を掲げたりすることは許されない。言論結社の自由は、憲法に背くことをする個人や団体には保証されない(アメリカやフランスはこれほど厳しくないが)。つまり『政府』だけではなく『個人』『団体』も抵抗権の対象になる。『何人にも抵抗する』と表記されているのはこういう場合にも対応しうるためだろう。/②『政府』と『国』とは同じとは言えない、『国』にまで抵抗権を認めれば革命肯定ではないか、という意見もある。難しい。だがそれは政治論、法律論であって、短歌という文学作品の表現にまで関わることかどうか。/③今まで考えたことのない問題を呈示され、ショックではあったが考えるきっかけにはなった。花の名が間違っていても修正されないだろう。社会詠は剣呑だ。」と。

 松浦のぶこさんがお寄せになられた、当ブログ宛てのコメント(以下、コメントと謂う)及び、ブログ「松浦のぶこの家」に掲載されている、件の記事を一読ならぬ二読、三読、熟読させていただきましたので、真に僭越ながら、それに対する、私・鳥羽省三の感想及び見解を述べさせていただきます。

 コメントの冒頭の「朝日歌壇に永田和宏選で掲載された拙歌は許諾なしに改変されています」という一文に接し、更に「歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました」という記事に接した瞬間、私は、これらの文の、かつて類例を見ない程の激烈なる文体に幽かなる危惧の念を抱くと共に、朝日歌壇に<添削>という極めて親切かつ有り難い(或いは、有り難くない)習慣が残っていた事を知り、八大集以来の伝統的慣習が残存していた事を知り、大いなる感動を覚えました。

 何故ならば、「事の是非はともかくとして、和歌(短歌)を肇とした我が国の伝統文芸の世界に於いては、斯道の権威者たる選者(=宗匠)に拠る<添削>という伝統的かつ独占的な作業が厳密に施された後、当該作品が原作者の作品として紙誌上に掲載され、世間一般に公表されて来た事は紛れも無い歴史的事実であり、永田和宏氏を肇とした朝日歌壇の選者諸氏とても、その道の専門家として仰ぎ奉られる権威者(昔風に言うならば<宗匠様>)でありましょうから、投稿作品に訂正するべき字句や文法的な間違い、或いは社会通念上非常識的と思われる表現などが認められた場合、それを訂正した上で紙面に掲載するのが、選者として為すべき当然の任務であり、義務でもある」と、私は認識していたからである。

 私が8年間に亘って田舎暮らしをしていた頃、私の歌詠み仲間の某氏(故人)は、父祖譲りの左官業に従事しながら、結社誌「アララギ」の「土屋文明選」に長年に亘って投稿して来た、という来歴を持つベテラン歌人であった。
 彼の作品が「土屋文明選」に初めて採られた時、件の掲載作品は、彼を作者としながらも原作の面影を止めないように無惨に改作されていた、との事である。
 彼と彼の歌友たちは、それでも尚且つ、彼の作品が初めて「土屋文明選」に採られた事を祝し、彼が居住する横手市内のとある縄暖簾で入選記念の宴会を開き、一晩中どんちゃん騒ぎを繰り広げ、飲めや歌えの大騒ぎを展開した、との事である。

 然るに、仏蘭西共和国にお住まいの松浦のぶこさんと仰る女性は、「畏れ多くも歌壇の権威者にして<歌会始の儀>の選者たる永田和宏宗匠の手に拠り、朝日歌壇に投稿した自作に添削の筆を加えられた」からと言って、「短歌が改作されてしまった。/短歌は作品であって報道記事ではなく、字句の指す精神を詠うものであること、作者の許諾なしに字句を改変するのは納得できないこと、歌壇の年鑑には原作どおりに載せてほしいことを要請しました」などと騒ぎ出し、あまつさえ、ご自身の管理するブログ上に「何だ神田」と、文句たらたら記してしまう始末なのである。

 「松浦のぶこの家」の記事に拠ると、永田和宏宗匠の斧鉞を得て朝日歌壇に掲載された短歌は、当初「民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法」として投稿したにも関わらず、掲載時は「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」と改作されていたという事であり、それに対して作者の松浦のぶこさんは、「あれっと思った。投稿した元の歌とちょっと違うのである。『国に抗へ』が『何人にも抗へ』に変えられている。歌の大意はお分かりと思う。どちらが歌として優れていると思いますか、皆さまのご意見をぜひ聞かせて下さい」と、自信たっぷりに仰り、更には「自分の作品を知らないうちに変えて公表され、ショックを受けた。10年以上朝日歌壇に投稿してこんなことは初めてだ。最近少しぼけてきたので、万が一推敲しているうちに自分の思わないことをうっかり書いてしまったのかとも疑い、念のため朝日歌壇の係に問い合わせてみた。すると次のような返事が来た。/もともとお送りいただいた歌は『民主主義冒さるるとき民として国に抗へとドイツ憲法』となっています。ただ、『国に抗へ』が事実かどうかドイツ大使館に憲法の条文を確認したところ、正確には『この秩序を排除することを企てる何人に対しても、すべてのドイツ人は、他の救済手段が可能でない場合には、抵抗する権利を有する』となっているとのこと。これを踏まえて、永田先生は『何人にも抗へ』と添削なさったわけです(後略)。/つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?/ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう」、「抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう。/この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ。/新聞や雑誌はいわゆる編集権が著作権より強いと言われる。私も朝日の『声』に投稿した記事を修正されたことが何度かある。ただそれは、紙面の都合で最後の1行を削るとか、2行に分けてある文章を1行に合体するのに伴い助詞を取りかえる、というようなテクニカルな修正で、いずれも事前に電話で承諾を求められた。キーワードを改変されたことはない。/選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う。添削はテレビの短歌教室では本来の役目だが、歌壇にも適用されるのだろうか。/しろうとの投稿者が文句を言うのは生意気だ、今後は選ばれなくなくなるよ、と歌仲間に冷やかされた。朝日歌壇にかぎってそんなことはないと信じている。/ドイツでは公衆の面前でナチの歌を歌ったり、ハーゲンクロイツの旗を掲げたりすることは許されない。言論結社の自由は、憲法に背くことをする個人や団体には保証されない(アメリカやフランスはこれほど厳しくないが)。つまり『政府』だけではなく『個人』『団体』も抵抗権の対象になる。『何人にも抵抗する』と表記されているのはこういう場合にも対応しうるためだろう。/『政府』と『国』とは同じとは言えない、『国』にまで抵抗権を認めれば革命肯定ではないか、という意見もある。難しい。だがそれは政治論、法律論であって、短歌という文学作品の表現にまで関わることかどうか。/今まで考えたことのない問題を呈示され、ショックではあったが考えるきっかけにはなった。花の名が間違っていても修正されないだろう。社会詠は剣呑だ」などと、事の次第をこと細やかにかつ具体的に説明され、それに対するご自身のご意見をも、極めて攻撃的な姿勢で書き加えて居られるのである。

 原作の「国に抗へ」を「何人にも抗へ」と、永田和宏氏が斧鉞を加えた事の是非に就いて言えば、「国に抗へ」よりも「何人にも抗へ」の方がドイツ憲法の実態に即した表現であるので、例え原作者と雖も、これを以って「え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?ドイツ憲法は、ナチス政権がドイツを破滅に追いやった過去を反省して、再び同じことが起こらないために、厳格に強固に作り上げられたものだという。市民的不服従権を憲法に明記しない国もある中で、ドイツ憲法がそれを抵抗権として明記したのは、憲法を冒すものを許さないという国民の断固とした精神のあらわれだろう」「抵抗権を発揮する主たる相手は――抽象的に『何人』と言い表したとしても――政府であることは誰が読んでもわかるだろう」などと即断して嘯き、大騒ぎをする必要はさらさらに認められません。

 何故ならば、記紀万葉や八代集以来の斯道の在り方もさる事ながら、こと他国の憲法の条文に取材した短歌作品である場合は、事に因ると国家間紛争を引き起こしかねませんから、選者の永田和宏氏が、この件に就いて「在日ドイツ連邦共和国大使館」に問い質した上で、原作の「国に抗へ」を「何人にも抗へ」と斧鉞を加えた事は、当然過ぎるくらい当然なご措置であり、作者の松浦のぶこさんに感謝されこそすれ、決して恨まれるような筋合いのものとは思われないからであり、加えて言えば、「松浦のぶこの家」の記述中の「つまり朝日歌壇は『国に』という言葉の『事実性』に疑問をもって憲法条文を調べ、その文言どおりに書き換えたのだ。え?憲法条文の文言をそのまま書き写さなければいけないの?短歌は報道記事ではないのに?」という件が、何よりも雄弁に永田和宏氏のこの度のご措置の適切さと、松浦のぶこさんご本人の<認識不足>及び<非常識さ>を物語っているからでもある。

 また、松浦のぶこさんは、投稿作と掲載作とを比較して、「この抵抗権の精神を短歌として短く表現しようとして、私は日本の『国と民』『お上と下々』という誰でも知っている対句を想起した。伝統的に上下関係で社会や政治を捉え、上には従うしかないと諦める国民的風潮への批判を、対句を使うことによって効果的に表現できると思った。字数の制約から『国と民』のほうを選んだ。これが『何人と民』じゃ全く対句の効果はない。/それに『国に抗へと』は8音だが、『何人にも抗へと』は11音だ。5・7・5・7・7の7が11になって、大幅な字余り。作品として落第だ」とまで、激烈な口調で述べて居られるのであるが、「短歌表現に対句を用いると効果的である」とする松浦のぶこさんのご認識は、もはや「迷信」とでもいうべき時代遅れのご認識であり、仮にそれを良しとしても、短歌のリズムというものには、「外在律(ことばのリズム)」と共に「内在律(こころのリズム)というものが在るのであるから、「民主主義冒さるるとき民として何人にも抗へとドイツ憲法」という掲載作は、音読するに際しても格別なる支障は生じません。

 更に言えば、松浦のぶこさんは、「選者の永田和宏氏は拙歌に対して『ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える』と異例に長い評を書いてくれた。こんなによく解説していただき感激している。だから言うのは憚られるが、この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う」と述べて居られるのであるが、掲歌の寸評として永田和宏氏が記された言葉、即ち「ナチズムの台頭による第二次世界大戦の苦い歴史的教訓から、自由と民主主義を防衛する義務を課したのがドイツ憲法の精神。政府が憲法と国民に背いた場合、抵抗権を発揮できる。松浦さんは今の日本にその精神をと訴える」は、永田和宏氏に与えられた寸評スペースの全てを用いての善意溢れる寸評であるので、松浦のぶこさんの仰る、「この評の中で『国に』は憲法原文では『何人にも』となっている、と短く付言することはできたと思う」という苦言は、「鹿を追って山を見ざる者」の駄弁、或いは「鯨を追って海を見ざる者」の駄弁、更に言えば「経済効果ばかり考えて働く者の心情を一顧だにしない政治家や経営者の姿勢」と同一である、と断じざるを得ません。

 ところで、掲歌の作者の松浦のぶこさんは、「我が国の出版界に於いては、短歌に限らず小説など文芸作品の全てに、選者乃至は編集者の斧鉞が加えられた上で誌面掲載されるという良き習慣が在る」という事実に就いてご存じでありましょうか?
 その事実に就いては、芥川賞受賞作家の南木佳士氏を肇とした多くの作家の方々が、ご自身の著になる随筆などで語って居られるので、松浦のぶこさんは、少しく勉強する必要があるのかも知れません。
 ましてや、事柄が千数百年の歴史と伝統を有する和歌(=短歌)に関する事に及ぶや、例え新聞歌壇に投稿した作品とは言え、時には選者の善意ある斧鉞が加えられた上で紙面掲載の運びになるという事は、常識中の常識であり、その常識を非常識として非難し、抗議せんとする者の常識が問われる場面でありましょう。

 話が本題から少しく逸れてしまうのであるが、「昨今の結社誌に於いては、掲載作品の全てが選者の斧鉞を得ないままに掲載されている事が多い」とのこと。
 それは、当該する結社誌が投稿作品に斧鉞を加えることが出来るような選者を得ないが為の、極めて無責任な措置であり、「短歌の垂れ流し」とは、そうした現象を指して謂うのでありましょう。
 新聞歌壇にしろ、結社誌にしろ、選出作品を掲載する場(誌紙面)は、投稿作品の単なる発表の場では無く、作者と選者及び読者が一帯となっての、八大集時代から今に変らぬ交遊交感の場として捉えなければならない側面もあるのであり、一に創造の場であり、そして何よりも短歌創作を志す者の学習研鑽の場であることを、私たち短歌を愛する者は強く認識しておくべきであり、掲歌の作者の松浦のぶこさんも亦、その例外ではありません。

 以上、長々と駄弁を弄するばかりで、本ブログの読者並びに掲歌の作者の松浦のぶこさんには、真に申し訳がありません。
 末筆ながら、未だ残暑厳しき折柄、皆様方には、何卒、健康専一にお過ごし下さるようにお願い申し上げます。                   平成二十四年八月八日夕刻   鳥羽省三拝
 〔返〕  故郷は残り七夕の宵ならむ思ふどち相寄り酒飲むならむ

 追記。
 上掲の文章は、ともすれば「昨今の歌壇の現状が、八大集以来の旧態依然とした状態、即ちヒエラルキー構造を成しているのであり、永田和宏氏などの結社誌の主宰諸氏が、茶の湯や生け花の世界と宗匠的存在の人物と同様に、結社の最上階に鎮座していて、下層に位置する会員や新聞歌壇への投稿者などに君臨し、統率していると私・鳥羽省三が解説し、主張しているものであり、筆者の鳥羽自身も歌壇のそうした在り方を肯定し、かつ、宗匠然として威張り散らしている主宰諸氏や新聞歌壇の選者諸氏を尊崇している事を表しているが如き内容」と解釈されがちであり、現に私が是を記してからの数時間の間にも、「通りすがり」と称する方からの「歌壇の現状及びそれを尊崇する鳥羽省三を糾弾し、その責任を問う」といった、恫喝的内容のコメントが立て続けに数通寄せられているのである。
 しかしながら、「それが全くの誤解であり、筆者の私の意図するところはその辺りには無い」という事は、上掲の文章を熟読玩味されれば、必ずやご理解なされる事と思われますので、何卒、宜しくお願い致します。(八月十日暁闇に是を記す。鳥羽)

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅣ)

2014年08月08日 | 今週の朝日歌壇から
[馬場あき子選]

(大阪市・安良田梨湖)
〇  雨というカーテンくぐり抜けて来たきみの睫毛にひかりをこぼす

 「きみの睫毛にひかりをこぼす」という四、五句目の表現は曖昧模糊としていて、どういう意味なのが、「ひかりをこぼす」という行為は、誰に拠る如何なる行為なのかが判りません。
 しかしながら、本作が「馬場あき子選」の首席に選出された由縁は、この四、五句目の存在に在るかと判断されるのである。
 〔返〕  薔薇というピンクのヴェールを手繰り寄せ今しも笑まむ我が孫娘


(春日井市・綿谷博昭)
〇  丘越えてまた丘越えて牧草地凸凹なれど美しモンゴル

 選者の馬場あき子先生が、またまた「いたずら心」を発揮して、「モンゴル」関係の作品を二首並べて採っているのである。
 本作に関して言えば、四句目の「凸凹なれど」の「凸凹」は、「おうとつ」とよむのでは無くて「でこぼこ」とよむである、としか言えません。
 〔返〕  丘越えてあの丘越えた草原に肥えた子が居る力士にしよう


(神奈川県・九螺ささら)
〇  昼寝する畳替えした和室にてモンゴルの草原の夢を見る

 「昼寝する/畳替えした/和室にて/モンゴルの草/原の夢を見る」なんて、神奈川県にお住いの九螺ささらさんも、特異なリズム感覚の持ち主である。
 「モンゴル」の子供たちの中には、未だにマーホールの中に住んでいる者も居るとか?
 「マンホール」の中で見る「夢」には、涼しい「草原」の風が吹くのでありましょうか?
 〔返〕  ふて寝する汗で汚れたベッドにてオケラ街道行く夢を見る


(富山市・松田わこ)
〇  理科室へ音楽室へグラウンドへ移動の時はいつも恋バナ

 「恋バナ」なんて、越中富山の可愛いだけが取り得の子供なのに知ってるんですか!
 〔返〕  わこちゃんも恋してるんだ生意気にそのうち短歌を詠まなくなるよ


(名古屋市・福田万里子)
〇  人生観が変わるねと初めての夜勤を終えし次男はポツリ

 「夜勤」と言ってもいろいろ在りまして、中でも「すき家」の「夜勤」はなかなか厳しいらしいですよ? 
 「すき屋」の経営者の小川賢太郎氏に就いては、「東京都立新宿高校を経て東京大学に進学するも、全共闘運動に関わり中退。 港湾労働者生活を経て、ベトナム戦争で資本主義に目覚め、通信教育で中小企業診断士の資格を取得する。1978年吉野家に入社。同社の倒産などをきっかけに独立し、1982年に『ゼンショー』を創業。社名は『全勝』『善意の商売』『禅の心で商売を行う』に由来と謂う。『ランチボックス(弁当店)』、『すき家』などを開業。その後、M&Aで外食チェーンを次々と傘下に収め、強力なリーダーシップを発揮。2011年3月期連結決算では、連結売上高が『日本マクドナルドホールディングス』を上回り、外食最大手までに成長させたが、2014年春には、ネットなどで『すき家』の過酷な労働実態が話題となり、社内に労働環境改善策を提言する第三者委員会が設置され、トップとして意識改革を求められることとなった」などと、ネット上ではいろいろ取沙汰されていますが、要するに儲け本位の冷酷な経営者の一人に過ぎないのでありましょう。
 でも、「夜勤」を一晩したぐらいで「人生観が変わるね」などと弱音を吐く輩には、これからの日本を任せておく訳にはいきません。
 安倍晋三氏や小川賢太郎氏のように「何が何でも!」という精神が大切なのかも知れません。
 それから、あの「平成のラスプーチン」こと菅義偉氏も官房長官の職務を留任するとのことですよ!
 彼なども「何が何でも!」組の一人なのかも知れません。
 〔返〕  安倍に菅そしてすき屋の賢太郎何が何でも遣らねばならぬ


(西海市・前田一揆)
〇  もの忘れひどくなったに今朝方は鮮やか過ぎる失敗の夢

 「老耄大国日本の、一方のリーダーの朝日歌壇」としては、時にはこうしたテーマの失敗作をも入選させなけれはならないのかも知れません?
 〔返〕  耄碌と物忘れとはちゃいまんねん歌詠めるうちはまだ熟年さ


(牛久市・茂木剛)
〇  お蚕さま母が仕切りしふるさとは兄と甥とでトマト栽培
 
 昔は「母」が「仕切り」て「お蚕さま」を育て、今は「兄と甥とでトマト栽培」に余念の無い「ふるさと」は、心の中に取って置くべき「故郷」であり、決して帰るべき「ふるさと」ではありません。
 私、鳥羽省三も、あれ以来「ふるさと」には帰ったことが無いし、これからも帰ろうとも思っていません。
 〔返〕  三階のお蚕部屋をリフォームし民宿稼業の哀しき故郷


(横浜市・田口二千陸)
〇  皁莢をがちゃがちゃ揉んで泡立ててぼろ服洗った戦後あの頃

 乾燥してすっからかんになってしまった「皁莢」を石鹸代わりにして「ぼろ服」を洗う為には、「がちゃがちゃ」と音を立てて「揉んで泡立て」るしか手がありませんからね。
 敗戦直後の物が不足していた時代には、私たち秋田の人間もよく遣らかした事でありました。
 私は本作に接して、敗戦の年の冬の記憶を蘇えらせて仕舞いました。
 即ち、乾涸びた「皁莢」の実が裸木の枝に残っていて、カラカラと音を立てて泣いていた頃の事を思い出してしまいました。
 〔返〕  吸殻を紙巻煙草に仕立て上げ小遣い銭を稼いだ戦後


(霧島市・久野茂樹)
〇  訪ひ来ればわが出生地横須賀の雨の港に軍艦ならぶ

 表現に就いて一言申せば、「わが出生地」だと思ってせっかく「横須賀」まで訪ねて来たのに、「雨の港に軍艦」が並んでいたのでは、「郷愁も形無し」という気持ちになったのではありませんか?
 それとも、「雨の港に軍艦ならぶ」光景は、郷愁を漫ろ刺激したのでありましょうか? 
 本作を単なる「郷愁短歌」のレベルで終わられてしまうか、「反戦短歌」乃至は「厭戦短歌」のレベルまで引き上げるかの接点は、「雨の港に軍艦ならぶ」という二句の解釈に拠るのである。
 〔返〕  これっきり、これっきり、もうこれっきりですか、街の灯りが映し出す、貴方は今は霧島の人


(君津市・前山こころ)
〇  夏の日にスイカを食べてのんびりともうすぐ八月カレンダー見る

 いかにも末席に相応しい詠風であるが、この幼稚な言葉の運びは、殊更なるものとは思われず、恐らくは、小学生の作品かと思われるのである。
 〔返〕  一昨日は西瓜を食べて腹下りもう直ぐ盆だ旧暦の盆

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅢ・痛み万策版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(福島市・稲村忠衛)
〇  線量を忘れかけてた三年目除染作業の通知が届く

 何を言いたいのでありましょうか?
 ①  行政の過剰サービス。
 ②  除染作業などというものはほんの形式だけの事であるからどうでも宜しい。
 ③  私たち福島市民は、あの原発事故のショックから完全に立ち直っている。
 ④  私は原発事故のショックから立ち直っている訳では無いが、それでもあの日の事を忘れ掛けていた。
 ⑤  その他。
 〔返〕  そう言えば原発事故もあったかな三年前の事は忘れた

 
(大船渡市・桃心地)
〇  瓦礫とは地球の欠片うれしくもかなしくもなくそこにあるだけ

 この作品も亦、何を言いたいのでありましょうか?
 そもそも「瓦礫とは地球の欠片」とする前提自体がつまらない。
 〔返〕  瓦礫とは地球の伊丹十三か戸籍の上では池内義弘
      本作は全く言葉の無駄遣い永田選に入選しただけ


(アメリカ・悦子ダンバー)
〇  窓ガラスの傷夕焼けに反射してバスは傷ごと日没に入る

 一見すると、感性に富んだ女性の詠んだヨーロッパの街の夕景色の描写のように感じられるのであるが、その実、我が国の近現代歌人の作品の中にも類想歌が山積しているのである。
 その一例を示すと、近藤芳美作の「降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり」、「水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中」、「まれにして架構のあひを落つる鋲人なき床に桃色に燃ゆ」などがそれであり、また、岡部桂一郎作の「まさびしきヨルダン河の遠方(おち)にして光のぼれとささやきの声」、「数条のレール光れる暁の薄明のなか紙ひとつとぶ」、「空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う」、「うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼け空にあがる遮断機」、「幽暗の一カットにて板ガラス背負いし人はふり返るかな」、「手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う」、また、田谷鋭作の「昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水」、「シャワーを浴む男のからだ窓よりの陽にきれぎれの虹まとふ見つ」、浜田到作の「桶水の眩しき反射はこぶべくは母に昧爽(よあけ)の坂はじまるや」、「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に架橋をわたりはじめぬ」、安永蕗子作の「街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる」、山中智恵子作の「めつむれば天山北路一枚の青き硝子に巫医はは入りゆく」等など、枚挙に暇が無い程に思い浮かべられるのである。
 総じて言えば、「硝子や金属や光」と「傷や痛みや悲しみ」との取り合わせは、それだけで抒情性に優れた短歌のように思われるのである。
 〔返〕  ガラス戸の罅の没り日に輝きて我が十字架を負ひて帰り来


(秦野市・福島健太郎)
〇  カフェオレのマグカップ置く傍らに空爆されてガザの街燃ゆ

 「カフェオレ」なんて格好付けちゃってるが、インスタントコーヒーに牛乳を入れただけの代物ではありませんか!
 「マグカップ」なんて、これも格好付けてるのであるが、これもどうせ、ハートのマークなんかを印刷した安物の磁器ではありませんか!
 「カフェオレのマグカップ置く傍ら」に「空爆されてガザの街燃ゆ」なんて聞いて呆れますよ!
 どうせ、テレビの画面で見ただけの代物ではありませんか?
 〔返〕  秦野市の煙草祭りは止めちゃった?水無川の水は枯れたか?


(東京都・十亀弘史)
〇  沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと

 「Speech is silver,silence is golden」という言葉は、十九世紀イギリスの思想家「トーマス・カーライル(1795/12/4~1881/2/5)」の著作『衣装哲学』に見られる金言であり、それを日本語訳すると、「雄弁は銀、沈黙は銀」となり、彼「トーマス・カーライル」の生前から我が国に在った庶民哲学(格言)と合致するから、「主張することを戒める」といった考え方は、大英帝国や我が日本国に限らず、世界中に在ったものと思われるのである。
 事の序でに、「トーマス・カーライル」の残した金言の数々を記すと「健康な人は自分の健康には気付かない。病人だけが健康を知っている」、「一度でも心から全身全霊をもって笑ったことのある人間は、救いがたいほどの悪人にはなれない」、「人の天性は、良草を生ずるか雑草を生ずるかいずれかである。したがって、折を見て良草に水をやり、雑草を除かなければならない」、「失敗の最たるものは、失敗を自覚していないことである」、「変化は苦痛を伴う。しかしそれは常に必要なものだ」、「理想は我々自身の中にある。同時にまた、理想の達成を阻む様々な障害も、我々自身の中にある」、「名声は人間の偶発的な出来事であって、財産ではない」、「人間とは何か。人間とは愚かな赤子だ。無為に努力し、戦い、いらだち、何でも欲しがりながら、何ものにも値せず、ちっぽけな一つの墓を得るだけだ」、「財産は火のようなものである。非常に有能な従僕であるかと思えば、一番恐ろしい主人でもある」、「現在というものは、過去のすべての生きた集大成である」、「沈黙は口論よりも雄弁である」、「お前が実行することによって獲得した以外の知識は、所有しているとは言えないだろう」、「大多数の人々は保守的であり、新しいものをなかなか信じようとしない。しかし、現実の多くの失敗には辛抱強い」、「この世に於ける最後の福音は、<お前の仕事を知り、そしてそれを成せ>である」、「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得し得るような有能な編集者はすべて、世界の支配者ではなかろうか」、「争いの場合、怒りを感じるや否や、我々は真理のためではなく怒りのために争う」、「人は、人間を着ているものを通して洞察せねばならない。そして、その人が着ているものを無視することを学ばなければならない」等など、それこそ枚挙に暇が無い程である。
 ところで、本作の作者・東京都にお住いの十亀弘史さんは「沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと」などと、「今更乍ら」とでも言うべき事を仰って居られるのであるが、是を鳥羽省三流に謂うならば、「遅かりし由良之助」ならぬ「遅かりし十亀さん」といったところである。
 脚の鈍いのが亀という爬虫類の特質であり、取り柄でもありましょうが、こと、自公連立政権を相手にしている場合は、脚が鈍かったり気付くのが遅かったりすることは、何の取り柄にもなりませんから、以後、十分に注意されたし!と言っても、今から注意したからとて、それこそ「遅かりし十亀さん」でありましょうか?
 〔返〕  寡黙なる評者を信じること勿れ彼は単なる追従者なり


(三郷市・岡崎正宏)
〇  銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき

 「<銭湯><に>於いて<ラムネ><が>何を<売ってゐた>のでありましょうか?」などと揶揄されると、「トサカに来た!」などと言って怒る方も居られましょうが、「銭湯でラムネを売っていた時代弾ける如く九条ありき」と言えば済むところを、殊更に「銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき」などと窮屈な言い方をする必要はありません。
 格助詞「に」の用法としては、「時を指定する用法」などと共に「場所や範囲を指定する用法」も在りますから、「銭湯にラムネ(が置かれていた)」という言い方をしても、格別に文法的な誤りとするべきはありません。
 しかしながら、この「に」が格助詞の「が」と共に用いられて「銭湯にラムネが売ってゐた時代」などと言われて仕舞うと首を傾げ、一言、二言苦言を呈さざるを得ません。
 と言うのは、格助詞「が」には、「体言及び体言に相当する語に付いて主格を表す用法」と共に「体言及び体言に相当する語に付いて希望や能力や好悪の対象になるものを表す用法」、即ち「林檎が食べたい」「あの女が好きだ」といった言い方もありますが、「ラムネが売ってゐた時代」という言い方は、明らかに是とは異なる言い方であり、格助詞「が」の用法の誤用である、と認定せざるを得ないからである。
 そもそも、「林檎が好きだ」とか「あの女が好きだ」とかという言い方自体、「林檎が何を好きなのか?」とか「あの女が何を好きなのか?もしかしたら、セックスかも?」などとからかいたくもなってしまうのである。
 〔返〕  銭湯でラムネを飲んでいた時代 憲法九条キラキラしてた


(舞鶴市・吉富憲治)
〇  この狭き町にも折に徘徊のうわさ流れて紫陽花盛る

 我が国は世界有数の老人大国であるとか?
 だとしたら、面積が狭かろうが広かろうが構わずに、高齢者の徘徊する姿が見られるはずである!
 それにも関わらず、かつてはアメリカ大陸を股に掛けて闊歩していた吉富憲治さんが、こんなクダラナイ歌を詠むなんて、一体全体、どうしたことでありましょうか?
 〔返〕  この狭き町にも折に俳諧師来たりて弟子と歌仙など巻く


(埼玉県・酒井忠正)
〇  遠泳の列に舟寄せ口あくる生徒はげまし飴放りやる

 水泳教室の先生方も「飴と鞭の使い分け」をしなければならなくなったのでありましょうか?
 埼玉県には海がありませんから、本作の題材となった光景は、九十九里浜か何処かで行われた水泳合宿での一風景でありましょう。
 〔返〕  ダ埼玉、海も無ければ金も無し最寄りの海と言ったら房総


(東京都・上田結香)
〇  「友達に戻ろうか」とは世界一むずかしいことをさらりと言うね

 今週の「永田和宏選」中の白眉とも言うべき傑作である。
 口語短歌は、さらりとした味わいが取り柄である。
 こんな傑作を東京都にお住いの上田結香さんは、よくも「さらり」と詠み上げたもんだ!
 おら魂消た!
 〔返〕  友達に戻れたならば苦労せぬ処女の私に帰してお呉れ


(アラブ首長国連邦・湯浅理乃)
〇  見えないぞ砂が舞っててビル群がそろそろ暑くなる季節かな

 砂漠のど真ん中の人工都市である、アラブ首長国連邦のドバイ下んだりまでのこのこと出掛けて行って、「見えないぞ砂が舞っててビル群が」などと言ったって、どばい無理な話ではございませんか?
 それに「そろそろ暑くなる季節かな」なんてことは、まるで無駄言である!
 この日本国だって、連日連夜の猛暑日なんですから!
 安倍ちゃんに暑さ防衛対策を講じて貰おうかしらん!
 〔返〕  見えないぞ我らの孫の将来が!徴兵制度の復活かしらん!

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅡ・木曜特大版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(行方市・鈴木節子)
〇  茹でたてのトウモロコシを横かじり戦後の夏を引き寄せながら

 今もなお「戦後」でありましょう。
 憲法第九条で以って武器を持って戦う事を放棄した我が日本国民には、「戦後」という意識が永遠に着いて回るのであり、それを片時も忘れてはいけません。
 「集団的自衛権を行使できる普通の国」になるなんて胡乱な事を考えてはいけません。
 〔返〕  末成りの皮西瓜を丸齧り糖度15度以下出荷不可能


(諫早市・麻生勝行)
〇  みちのくの風鈴くれし友もなしやさしき音をひとり聞くのみ

 「みちのく」の来たら、それだけで月並みである。
 「みちのく」を馬鹿にしてはいけませんよ!
 〔返〕  不知火の諫早湾に萌ゆる藻のぬめりも知らに君を抱けり


(大阪市・安良田梨湖)
〇  この夏もきみも私のものじゃない 本の背表紙押し戻すゆび

 就活に失敗して大阪の陋屋住まいであれば、海水浴にも行けず、恋人を持つこともままならず、図書館から借りて来た「本の背表紙」を細い「ゆび」で「押し戻す」だけの毎日でありましょうか?
 安良田梨湖さんお得意の貧乏話の一巻終り。
 〔返〕  この夏は君と私のものなると二色の浜に繰り出しにけり
 『青砥稿花紅彩画』の二幕目第一場(雪の下・浜松屋の店先の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り口上の如き名調子でお読み下さい。


(宮崎市・南栄子)
〇  離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く

 佐佐木幸綱選の五席として既出。
 〔返〕  離任の日餞別に貰った金券で飛魚出汁買って饂飩の汁に


(八尾市・水野一也)
〇  戸袋の奥で雛鳥待ちおるか尾を振りながら鶺鴒出入りす

 古民家の「戸袋の奥」に小さな鳥や獣などの生き物が営巣している、という事はよく聴く話である。
 それが身の丈一丈もある青大将だったり、土蜂だったり古狐だったりするとその措置が甚だ厄介なものになるが、本作の場合は「鶺鴒」であるから可愛い話である。
 そのまま放りっぱなしにしておいて、雨戸の開け閉てだけは少し慎重になさったら如何でありましょうか。
 下の句に「尾を振りながら鶺鴒出入りす」とありますが、「鶺鴒」の親はこの家の店子として、家主の水野一也さんにお辞儀をしながら「出入り」しているのかも知れませんよ?
 〔返〕  江戸期より我が家の梁を蛇が這ふ屋敷守りと雖も怖し


(霧島市・久野茂樹)
〇  カブトムシ肩に這はせて六歳が東京行きのゲートをまがる

 九州民謡に「鹿児島おはら節」という名曲があり、その歌詞は「♪花は霧島、煙草は国分。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)燃えて上がるは、オハラハー、桜島。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)」で始まるのである。 
 私は、寡聞にしてこれ迄存じ上げなかったのでありますが、本作の作者がお住いの鹿児島県霧島市は、鹿児島おはら節の歌詞のにも出て来る「(旧)国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生した、鹿児島県で2番目の人口規模を有する市であり、市域内に鹿児島空港もあり、東京や大阪へ向かう飛行機が1日に幾便と無く飛び立つ」とか。
 本作の作者のお孫さん(六歳)は、恐らくは、鹿児島県の県花にもなっている「ミヤマキリシマ」の花の蜜を吸って育った「カブトムシ」を「肩に這はせて」、鹿児島空港の「東京行きのゲート」を曲がったのでありましょう。 
 ところで、「まがった」とか「まげる」とか言う言葉は、通常「盗癖のある子供が何かを盗んだとか、彼に何かを盗まれた」という場合に使う言葉であるが、本作の末尾に置かれている「まがる」は、そうした意味で使われているのでは無くて、ただ単に「六歳」の子供が、空港の「ゲートをまがる」という意味で使われているのでありましょう、との説明は、読者受けする為の付け足しであるが、この動詞「まがる」の存在に拠って、本作の描写がよりリアルなものになっている事は、間違いない事実である。
 〔返〕  桜島の灰を被った麦藁帽被って孫は東京さ行った


(下野市・若島安子)
〇  ウインドーの衣架の紬の脇役にディスプレーされし山蚕の孤独

 これは亦、手が込んでいる割には田舎っぽくてセンスの良くない「ディスプレー」であることよ!
 本作の叙述に拠ると、栃木県下野市のとある衣料品店では、「(ショー)ウインドー」に飾られた「衣架の紬」の着物の「脇役」として、「山蚕」が「ディスプレー」されている、とか?
 「所変われば品変わる」とはよく言いますが、ついこないだ迄、集落の里山に行けば「山蚕」がうじゃうじゃと群がっていた下野市あたりで、選りも選って、何も「山蚕」を「(ショー)ウインドー」に「ディスプレー」する必要は無いだろうと思われるのであるが、読者の皆様方に於かれましては、その点に就いてのお考えは如何でありましょうか?
 でも、本作に登場する「ディスプレーされし山蚕」は「孤独」ながらも、確実に一つの役割を果たしているのである!
 その役割とは、何の変哲も無いこの短歌を、朝日歌壇の入選作にまで押し上げたという意味の役割である!
 ところで、たった今、気が付いた事でありますが、作者の若島安子さんは、本作の五句目に「山蚕の孤独」という七音を置いているのでありますが、これは、斎藤茂吉の著名な連作「死に給ふ母」の中の「ひとり來て蠺のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」、「日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蠺は未だ小さかりけり」といった作品、或いは、同じ『赤光』所収の「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」といった作品を、多分に意識した上での表現かと思われるのである。
 と、いうことになりますと、一見すると、「着眼点が宜しい」とか「田舎町の素朴な衣料品店のディスプレーに、夏特有の哀愁を感じさせる佳作」といったように褒めたくなったりもするこの作品は、「シヤッター通りの中で唯一灯りが点っている衣料品店の素朴なディスプレー風景に、斎藤茂吉を配しただけの凡作」になってしまうのであるが、その点に就いての、作者及び当ブログの読者の皆様方のご意見をお聴きしたいと思いますが、如何でありましょうか?
 話が急転直下逆回転しますが、私・鳥羽省三は、根が正直と言うよりも偏屈なものですから、他人様の作品を評するに当たって、心にも無い悪口雑言を並べ立ててしまうような性癖を持っているのでありますが、本音では、この作品の出来栄えも「なかなかのもの」と思っているのである。
 〔返〕  初夏の生田緑地を訪ぬれば出羽の山蚕の碧さ思ほゆ  


(長野県・沓掛喜久男)
〇  ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち

 本作の作者も亦、私と同様のなかなかの偏屈者のように思われるのである。
 「ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち」などと仰いますが、余人の「顔」はともかくとして、かく申すご自身の「顔」だけは「人一倍の智恵者の顔だ!」と思っているのでありましょう!
 ところで、私・鳥羽省三は人一倍のラーメン好きでありますから、かつての横浜市横浜市都筑区の「くじら軒」のラーメンや神田の「さぶちゃん」の半ちゃんラーメンを食べる為だったら、何時間でも並んだものでしたよ。
 その「くじら軒」は東京駅構内に出店を開いたりして、観光客相手に碌でもないラーメンを食わせ、「さぶちゃん」は「さぶちゃん」で閉店してしまいましたが・・・・・・。
 そう、そう、今思い出しましたが、私の故郷・湯沢の仲見世の中にあったラーメン屋「長寿軒」の、かつての「ぎとぎとラーメン」の味もなかなかのものでありましたよ!
 是も今となっては、懐かしい昔話となり果ててしまいましたが!
 〔返〕  ラーメン屋の前に並んだ人の中で訳知り顔した本屋のご隠居  


(君津市・眞田花梨)
〇  リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日

 佐佐木幸綱選の末席として既出である。
 〔返〕  りすってさ、胡桃ばっか食べててさ、脂肪過多にならないかなあ!


(君津市・本間夏美)
〇  鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌作り

 五句目の字足らずがとても惜しまれる!
 或いは、・・・・・。
 〔返〕  鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌創りは
 或いは、・・・・・。
      鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌詠むのは

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅠ・木曜朝刊再訂版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(奥州市・及川和雄)
〇  母見舞い大の字で見る雲の峰明日はタオルを持って行こうか

 今日のお見舞いで以って息子としての責任の一端は一応果たしたという安心感と充足感とが、奥州市にお住いの及川和雄氏をして、「大の字」に寝て「雲の峰」を眺めるという気持ちにせしめるでありましょう。
 その気持ちは「雲の峰」を眺めているうちに更に大きく柔らかなものになり、軈ては「明日はタオルを持って行こうか」という優しい気持ちを引き起こさしめるのでありましょう。
 〔返〕  母を訪ふ前に立ち寄る縄のれん五合くらいで酔ふはずは無し


(佐渡市・小林俊之)
〇  山深き島にして船の待合室登山届の用紙の置かる

 作中の「山深き島」とは、「高山植物の棲息地として有名な利尻島」或いは「縄文杉で名の知れた屋久島」かと思われる。
 まさか、「山形県は酒田沖の飛島」では無かろう。
 だとしたら、利尻岳への登山届の用紙は、稚内港から出るフェリーボート内で入手出来るのでありましょうか?
 また、宮之浦岳への登山届の用紙は、鹿児島港から出る高速船内で入手出来るのでありましょうか?
 〔返〕  山の無き孤島にあれば飛島に往くひと誰も登山はせずも

 
(渋川市・中村幸生)
〇  少なくも選者四人が読むからは送り続けん反戦の歌

 中村幸生さんのこの度の投稿作品は、ご立派に入選を果たしましたから、「選者四人」だけでは無く、約八百万人に及ぶ朝日新聞の読者の殆どの方が「読む」ことと思われます。
 という訳でありますから、これからも何卒、蛮勇を奮われて「反戦の歌」を沢山詠んで投稿して下さい。
 でも、テーマが「反戦」と固定されている場合は、知らず知らずのうちに「自己模倣」に陥りがちですから、その点に就いては十二分にご留意されたし!
 〔返〕  少なくとも鳥羽省三は読みました中村さんの追従短歌


(名古屋市・福田万里子)
〇  全盲の君はこっそり脇役の我の背中の釦を触る

 本作の題材となっている場面は、「特別支援学校の在校生と職員に拠る演劇舞台の一場面」でありましょうか?
 〔返〕  脇役と言えどセリフが二個もありそのうち一個を忘れてしまった


(宮崎市・南栄子)
〇  離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く

 「離任の日」に「少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く」くらいなら、南栄子さんという女性は、たいしたバイオリニストではありませんな?
 もしかしたら、「宮崎シティフィルハーモニー管弦楽団」に所属しているのかも知れませんが?
 間違っていたら勘弁して下さい。
 〔返〕  離任の日生徒が呉れしハンカチが皺苦茶になり棄てたくなりぬ


(東京都・上田国博)
〇  負け試合に相手の校歌長かりき起立して聴く「白雲なびく」

 「白雲なびく」と言ったら、相手校は明治系列の高校なのかしらん?
 〔返〕 罷めてより音信なきを案じゐし部員を早稲田の応援席に見つ


(高松市・桑内繭)
〇  対岸に蝉声響くお茶亭の池滑らかに蛇泳ぎ来る

 蛇は気持ちが悪くて苦手ですから、鑑賞はパスさせていただきます。
 〔返〕  対岸に蝉声響く栗林の池しゃあしゃあと蛇の泳げる


(小山市・泉洋一郎)
〇  ゲレンデに中学生が百合植えぬ七十五万株の花咲く

 本作の作者・泉洋一郎さんは栃木県小山市にお住いであるが、同じ栃木県の「那須塩原市湯本塩原のスキー場・ハンターマウンテン塩原の『ゆりパーク』では早咲きの百合が見ごろを迎え、訪れた人を楽しませている」とか。
 「国内最大級の規模を誇る同パークでは、約10万平方メートルのゲレンデに約50種、400万輪の百合が咲き、7月28日現在で早咲きの品種が八分咲き、パーク全体では二分咲き程度で、今月末から8月上旬にかけて最盛期を迎える」とか。
 また「全長約1キロのリフトの下に咲き誇る赤や黄色、ピンクなど色とりどりの大輪のユリは、濃緑のゲレンデを鮮やかに彩る花火のようであり、眼下に広がる美しい風景と高原の爽やかな風を感じながら、約10分間の空中散歩を楽しむ事が出来る」とか。
 本作の記述と、前掲の説明文との間には、百合の株数に就いての数字になかり大きな隔たりが見られるが、本作の題材となっている「ゲレンデ」とは、恐らくは「那須塩原市湯本塩原のスキー場・ハンターマウンテン塩原のゆりパーク」を指して言うのでありましょう。
 〔返〕  ゲレンデに4000000輪百合が咲く数えた訳ではありませんけど


(横浜市・江連夏帆)
〇  公園のむき出しの土をお気に入りのスニーカーで行く梅雨が晴れた日

 「スニーカーで行く」と言えば、なかなか格好がいいが、一昔前までは「ズック靴」と言っていたのである。
 〔返〕  雨上がりどろどろびっちょのズック履きジャガイモ畑の草取りに行く


(君津市・眞田花梨)
〇  リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日

 のんびりしているように見えて、あれでなかなか大変なんですから!
 狐や鼬や鷹などの外敵は多いし、それに餌を探すのもなかなか難儀なんですよ!
 〔返〕  栗鼠ってさ自由気儘に交尾する羨ましいね栗鼠になりたい  

今週の朝日俳壇から(8月4日掲載・其のⅠ・連日手抜き版)

2014年08月06日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(藤岡市・飯塚柚香)
〇  ハンサムな夏木にひとり雨宿り

 〔返〕  ハンサムな夏八木勲は慶応出
      ハンサムな夏木陽介明大出
      ハンサムな男殺しの夏木マリ


(岸和田市・小林凛)
〇  迷い来て野鳥も授業受ける夏

 〔返〕  迷い来てツバメ廊下を貫けり
      迷い気に残り西瓜に手を出せり    
      迷い無く授業プランを立てにけり


(仙台市・松岡三男)
〇  室生寺に夏の楓のありにけり

 〔返〕  室生寺の五重塔の修復成る
      カエルデの短縮形がカエデなり
      柿の木も今は無くなり法隆寺


(神戸市・涌羅由美)
〇  汗まみれ涙まみれの迷子かな

 〔返〕  汗まみれいばり塗れの捨て子かな
      汗まみれ川内優輝のゴールイン
      汗まみれ血まみれ相撲の大砂嵐


(鹿児島市・青野迦葉)
〇  鹿児島や涼しき夏を重ねつつ

 〔返〕  鹿児島や錦江湾に虹が立つ
      鹿児島の土産カルカン旨く無し
      鹿児島は桜島から灰が降る


(糸島市・白仁野火人)
〇  白地着て白き褌も思ひ立つ

 〔返〕  紺絣姿婀娜なる若女将
      白地着て白きふんどし黒き魔羅
      白地着て黒き日傘を差しにけり


(東京都・三浦民男)
〇  ステッキも同じ花柄夏帽子

 〔返〕  ステッキは仕込み杖とか伝右衛門
      花柄の夏帽子など在るもんか
      ステッキを突けば紳士の大正期


(朝霞市・小島雨花)
〇  まだ若き夏愛したり白い雲

 〔返〕  まだ若き芸者小夏の愛しけれ
      初夏を若き夏とは謂ひ得たり
      黒雲のむくむく湧いた晩夏かな



(城陽市・山仲勉)
〇  知らぬ間に紅付けらるる鬼百合に

 〔返〕  鬼百合と呼ばれし程のじゃじゃ馬さ
      鬼百合はユリ科ユリ属の植物だ
      鬼百合はユリ科ユリ属<葉は互生>


(霧島市・久野茂樹)
〇  蟻のごと草臥れはてし日本人

 〔返〕  この夏の暑さ厳しく氷水
      蟻ほどは働かないぞ日本人
      草臥れて句評止めたり鳥羽省三

今週の朝日俳壇から(8月4日掲載・其のⅡ・猛暑手抜き版)

2014年08月06日 | 今週の朝日俳壇から
[大串章選]

(高岡市・野尻徹治)
〇  荒梅雨や怒髪天衝くこと許り

 〔返〕  怒っても髪は天まで届かざる
      怒髪天衝く事もあり悔しくて


(みよし市・稲垣長)
〇  炎天に烈火のごとき意志ありて

 〔返〕  運転手烈火の如き表情に
      運転手煉瓦のビルに突っ込めり


(合志市・坂田美代子)
〇  今生の今を必死に蝉鳴けり

 〔返〕  根性を込めて鳴くのか蝉時雨
      今生の思ひ出にせよSTAP細胞


(越谷市・伊藤とし昭)
〇  太陽の写真一枚敗戦日

 〔返〕  終戦のあの日の天気良かったな
      敗戦の年の田圃の実りかな


(福山市・高橋波瑠美)
〇  死に近き父の正座や終戦日

 〔返〕  敗戦日とは言ひもせぬ頑固さよ
      負けたとは言ひもせずして笊碁かな


(東かがわ市・桑島正樹)
〇  初蝉の声にためらひ無かりけり

 〔返〕  鶯の躊躇いつつも谷渡り
      雷鳥の声にためらひ夏山行


(大牟田市・伊藤かもめ)
〇  流木は晩夏の海の忘れもの

 〔返〕  流れ藻も晩夏の海の忘れもの
      泣き砂を今年の夏の思い出に


(さいたま市・齋藤紀子)
〇  無言にて少年鮎をくれにけり

 〔返〕  無言にて鮎を呉れたる児は優し
      少年に無言の礼を言ひにけり


(泉南市・西知子)
〇  天牛を描けば放つと約束し

 〔返〕  天牛は髪切虫ぞ即放せ
      天牛は毛切り虫とも謂ふさうだ


(渋川市・山本素竹)
〇  一匹の蚊に一本の手の痒さ

 〔返〕  一匹に二箇所刺されて二度痒し
      一匹に二度も刺されりゃ痒かろう

今週の朝日俳壇から(8月4日掲載・其のⅢ・暑中手抜き版)

2014年08月05日 | 今週の朝日俳壇から
[稲畑汀子選]

(枚方市・石橋玲子)
〇  町衆のさらに湧き立つ後祭

 〔返〕  町衆の祭の後に乱れたり


(鹿児島市・青野迦葉)
〇  夏痩の友哀れとも羨しとも

 〔返〕  夏痩せの友を羨むメタボかな


(横浜市・込宮正一)
〇  生きてゐる実感として涼しくて

 〔返〕  生きてゐる実感として傷痛し


(枚方市・中嶋陽太)
〇  一声のありて全山蝉しぐれ

 〔返〕  一声のあと一斉の蝉時雨


(福知山市・松山ひとし)
〇  どこに置こ朝顔市の花の色

 〔返〕  土間に置け水を遣らねばならぬから


(尼崎市・橋本絹子)
〇  病む母へ菊水鉾の粽吊る

 〔返〕  病む母は祇園祭の鉾嫌ひ


(西宮市・近藤六健)
〇  スコールの去り訪れる黙のあり

 〔返〕  スコールの轟き亘り降りにけり 


(神戸市・池田雅一)
〇  夕凪や点滅遅き信号機

 〔返〕  朝凪や始動の遅きライトバン

(金沢市・今村征一)
〇  この虹の果てが故郷とも思ふ

 〔返〕  この虹に果て無く脚無く故郷無し


(平戸市・辻美禰子)
〇  竹林へ開け広げある夏座敷

 〔返〕  竹林ゆ藪蚊群れ来る夏座敷 

今週の朝日歌壇から(7月28日掲載・其のⅣ・猛暑御見舞い版)

2014年08月05日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(北広島市・樋口幸子)
〇  体験せずという体験も誇らしい体験である「戦争体験」

 自公連立内閣が「解釈改憲」をせざるを得ない要件の一つとして「東アジアの防衛環境の著しい変化」を挙げていたが、それとは逆に、私は「我が国の国土防衛及び国民生活の安全は、現行憲法の抑止力に頼る以外の良策は無い」と言いたい。
 何故ならば、東アジアの防衛環境が如何に変化しようとも、我が日本国民の体質や感情、特に若者のそれが、既に戦争など出来ないそれに変質しているからである。
 事の良し悪しは別として、本作の作者の樋口幸子さんは、さも誇らしげに「体験せずという体験も誇らしい体験である『戦争体験』」などと詠んでいらっしゃるが、斯かる主張こそは正しく「我が日本国民の体質や感情が既に戦争など出来ないそれに変化している」事の証明であり、敢えて言うならば、我が国の国民の大半は「反戦思想」を通り越した「厭戦思想」乃至は「非戦思想」状態に陥っているのである。
 こうした事態を称して「国民精神の堕落」という言い方をする者もいるのであるが、自衛隊員の殆どが自己の入隊動機として「自衛隊員として災害救助の為に働きたい事」を挙げている現実に着目しても、「国民精神の堕落」が現実のものとなっている事が証明されるのである。
 かくなる上は、我が国は如何なる場合でも武器を持って戦わない事を謳った現行憲法を以って、国際社会に確たる位置を占めて行かなけれはならないのである。
 私たち日本国民は、私たちが「厭戦思想(非戦思想)」の持ち主であることを、決して恥じてはいけません。
 それを以って、「国民精神の堕落」と言う者が居たとしたら、彼らには黙って言わせておこうではありませんか、と本作の作者か本作を通じて述べているのであったとするならば、本作は確たる主張を持った作品として評価されましょうが、私が思うに、本作の作者にはそうした意図が無いと思われる。
 〔返〕  体験せずという体験はありません<ことセックスに関して言うならば>


(ひたちなか市・篠原克彦)
〇  たえまなく湧きて圧しくる海霧に生あるものは声をつつしむ

 「生あるものは声をつつしむ」とあるが、例えばそれは「我が日本国民の体質や感情が既に戦争など出来ないそれに変質している」などと厭戦思想に通じるような言葉を口にしない、ということでありましょうか?
 ヤマセ(山背=北東の風)が吹き荒ぶ東北地方太平洋岸の荒涼とした風景に取材したように見せ掛けながら、実のところは、「原発再稼働問題」や「解釈改憲問題」などの解決不可能な諸問題に直面していて、ただ只管に唖然としているしか無い我が国の現状を闕腋した作品なのかも知れません?
 〔返〕  絶え間なく湧きて浮き來る発想をただ只管に歌に詠むのみ


(西条市・亀井克礼)
〇  萍をガードに泛ぶ蝌蚪の頬の菩薩のようなふくらみを見つ

 角川『短歌』6月号に於ける、穂村弘氏との連載対談の中で、馬場あき子氏がなかなか興味深い話をして呉れているので、其処の辺りの部分を同誌から抜粋してみましょう。

馬場 「私、虫が好きなのよ。チョウはこのごろ面白くなりました。」
穂村 「そうなんですか。」
馬場 「山本東次郎さんという人間国宝の狂言師からアポロウスバシロチョウを、ほしくて ほしくて、ついにもらいうけたことがあります。・・・・・」
穂村 「ゴキブリにさえ、心を寄せてますよね。・・・・・」
馬場 「だって、ゴキブリって可哀想じゃないの。」
穂村 「<半打ちのままに逃がししごきぶりのそののちを眠れぬ夜に思ひをり>という歌もあります。」
馬場 「この間も逃がしてやった。テレビの裏に入ったいったから、ま、いいや、来年まで生きておいでって。この辺からですね。変なものに魅力を感じ出す。一つは植物。一つは虫なんです。虫はもうちょっと前からかな。イナゴを歌った<もろ抱きに稲の葉茎に居るからに愚直の心みゆるぞいなご>がありますね。虫って虫眼鏡で見ると真面目な顔をしてるのよ。バッタなんて、見てごらんなさい。すごい真面目な顔をして生きているから。」
穂村 「真面目って、どういうんですか。」
馬場 「いやーあ、あれがいちばん真面目な顔をしてるのよね。イナゴもね。それを見ると痛々しいわけよ。一生懸命生きているんだって思うから。そりゃ、猫だって犬だって真面目な顔をするけど、虫くらい真面目な顔をしているのはいないんじゃないの。」

 「イナゴやバッタやゴキブリなどの虫がいちばん真面目な顔をして生きている」という意見こそは正しくノーベル生物学賞級の卓見である。
 言われてみればその通りであるが、なかなか其処までは見通せないものなのである。
 虫の顔を虫眼鏡で見るという遣り方もなかなか面白い遣り方である。
 私は、虫眼鏡というものは細かい辞書の字を見る為に発明されたものとばかり思っていたのであるが、言われてみれば、虫の観察に遣うからこその虫眼鏡であった訳である。
 それにしても、あの「蝌蚪」が「萍をガードに泛ぶ」とは驚きだ!
 「蝌蚪」という水棲生物の雛は産れながらにして防衛本能が備わっているものと思われ、私たち日本人も蝌蚪を見習わなくてはなりません。
 〔返〕  アメリカをガードと頼みものを言う総理大臣安倍晋三氏
 彼、安倍晋三氏の防衛本能は、父祖伝来のものであるとか?
 

(大和郡山市・四方護)
〇  ただ生きんと金魚犇きあぎといぬ生餌と書かれし袋の中で

 「生餌と書かれし袋の中で」が宜しい。
 私たち日本人が国際世論の水際で「あぎとふ」有り様も亦、「生餌と書かれし袋の中で」の狂態でありましょうか?
 〔返〕  ただ単に生きんともがくのみなれど虫の息なる半叩きのゴキブリ
 

(横浜市・大建雄志郎)
〇  失いて困るは妻が一番で二番はおそらくこの手帳だろう

 本作の作者にとって、「失いて困る」ものの筆頭に上げるべきは、交際中の女性の誕生日や携帯番号や銀行預金の暗証番号など、ありとあらゆる事を記録した「能率手帳」であろうと思われるが、それをそう言わずに「失いて困るは妻が一番で二番はおそらくこの手帳だろう」と言ってしまったのは、言わず知らずのうちに、件の「能率手帳」の大切さを曝露してしまった事になるのである。 
 ところで、今週の「永田和宏選」は、第三席から第七席まで身辺事情に取材した佳作揃いなのである。
 短歌とは所詮「短歌」なのであるから、「解釈改憲反対」などという大段平を振り回したりせずに、この程度の小テーマを詠むべきでありましょう。
 〔返〕  失いて困るは頭脳で顔で無しおぼちゃん生きてて笹井は自殺


(高槻市・河村由紀子)
〇  「ぬいぐるみみたい」と声をかけられて犬のかわりに笑顔を返す

 大阪府高槻市や埼玉県川口市などでは、プードル種などのいかにも愛玩犬然とした犬を散歩させている小母ちゃんの姿を目にすることが頗る多い。
 本作の作者・河村由紀子さんも亦、そうした人種の一人であり、その日、またまた愛玩犬のプードル君を散歩させていたところ、すれ違う小母ちゃん方の口から「まあ、可愛いこと!まるで縫いぐるみみたいね!」という声が掛かったのではあるが、褒められたプードル君が返事する訳はありませんから、プードル君に代わって、河村由紀子さんご自身が「笑顔を返す」という運びとなったのでありましょう。
 「犬のかわりに笑顔を返す」という下の句の表現が抜群に愉快であり、「短歌表現の極致は此処に在り」と云った感じの傑作である。
 〔返〕  縫いぐるみみたいな顔に眉を描き犬のお散歩高槻の小母ちゃん


(富士吉田市・田辺義樹)
〇  極小さい虫なら無下に擂り潰す「小さいこと」って何なんだろう

 私は昨夜ゴキブリを殺してしまいましたが、そのゴキブリは超巨大なゴキブリであったので、「擂り潰す」ことが出来ずに、手元に置かれていた角川「短歌」の六月号でひっ叩いて殺してしまったのでありました。
 でもね、私たち人間には、「極小さい虫なら無下に擂り潰す」という習性が生まれながらにして身に付いていますよね!
 私も思うのですが、「小さいこと」って、本当に何なんでしょうね?
 「一寸の虫にも五分の魂」という諺がありますから、彼ら「極小さき虫」どもが、本気になって逆襲して来たら、私たちだってそんなに大きくはありませんから、敵いっこありませんよね!
 〔返〕  ゴキブリは殺すけれどもカマキリは殺したりせず益虫だから?


(名古屋市・中村桃子)
〇  とりどりの力士ののぼりはためいて境内にぎわうもう名古屋場所

 その「名古屋場所」も、「もう」終わってしまいました。
 これから後の名古屋嬢たちは、あの「味も素っ気もない」外郎を食べてメタボになって行くばかりなのでありましょうか?
 〔返〕  とりどりの色した箱に納まって味も素っ気もない外郎よ
      とりどりの衣装で身をば包めども味も素っ気もない名古屋嬢


(東京都・十亀弘史)
〇  闘いはまだこれからと議事堂へ響く声あり七月一日

 「闘い」の場は、平成24(2012)年12月16日に投開票された衆議院議員総選挙であったはずである。
 何を血迷ったのか、その闘いの場に於いて、投票を棄権したり、自由民主党候補に投票したりした輩が、今年の7月1日になって「闘いはまだこれから!」などと「議事堂へ響く」奇声を上げたからとて、何の効果がありましょうか!
 私たち日本国民は、あの日、自らの手で我が国の平和と国民の命を悪魔の掌に売り渡してしまったのである!
 〔返〕  闘いはゲリラ戦に突入だ!地方選にて自民を落せ!
 今日付けの朝日新聞朝刊の第一面に「自民、仲井真氏支援へ・沖縄知事選、別候補の擁立断念」というタイトルの記事が掲載されていた。
 私たち日本国民にとっては、来たる11月16日に投開票される沖縄知事選こそは敗者復活戦の第一陣なのである。
 〔返〕  仲井真の三選阻止が命題だ!革新統一候補を立てよ!


(横浜市・飯島幹也)
〇  対馬丸沈みし子らの写真見て憲法九条いよよ思はる

 迎合精神もこれくらいになれば見上げたものである!
 あまりのことに選者の永田和宏先生も感激して、末席ながらもこの凡作を入選作としたではありませんか!
 〔返〕  「これからも大和魂貫く」と豪栄道は馬鹿曝け出す
 新大関・豪栄道の「これからも大和魂貫く」宣言なども自公連立政権の「解釈改憲」と密接な関わりがあるものと判断される。

今週の朝日歌壇から(7月28日掲載・其のⅢ・月曜特大版)

2014年08月04日 | 今週の朝日歌壇から
[高野公彦選]

(東京都・上田結香)
〇  時を隔てひめゆりの少女少女のまま対馬丸の子ら子どものままで

 [ひめゆり部隊の悲劇」、即ち「沖縄戦に傷付き倒れてしまった兵士の看護活動に当たっていた沖縄県立第一高等女学校の健気な女生徒たちの多くが自ら沖縄戦の犠牲となってしまった」のは、大戦末期の昭和45(1945)年6月の事であり、「対馬丸の悲劇」、即ち「沖縄から九州本土に疎開しようとした学童たちを乗せた学童疎開船の対馬丸が、長崎港を目前にして米国の潜水艦・ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて撃沈した」のは、その前年の昭和44(1944)年8月の事であるから、その時間差は約1年である。
 本作の詠い出しの5音は「時を隔て」となっているのであるが、その「時を隔て」た差、即ち「時間差」とは、二つの悲劇の間に横たわっている約一年間という時間差を表しているのでありましょうか?
 それとも、二つの悲劇が発生した第二次世界大戦時と現在との空白の時間差を表しているのでありましょうか?
 善意を以って解釈すれば、「時を隔て」ての「時間差」とは、前者に非ずして後者である事が何と無く理解されるのであるが、日本語表現としては極めて曖昧であると言わなければなりません。
 こうした曖昧な表現を伴った作品を、選者の高野公彦氏が、敢えて第一席入選作品として称揚しようとしたのは、本作の表現を佳しとしたからでは無くて、本作が朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」の趣旨に添った作品であるからでありましょう。
 今週の「高野公彦選」は、第一席から第五席まで、自公連立政権に拠る「解釈改憲」という暴挙に反対するという政治的なテーマに取材した作品であり、表現面に於いても発想的にも、格別に称揚するべき点は認められません。
 それにつけても思い出されてならないのは、斎藤茂吉を肇とした歌壇の大家たちが、その当時のマスコミの求めに応じて太平洋戦争開戦時の感慨を詠った短歌と終戦時のそれとが、殆ど同じような発想、同じような詠風の作品でしか無かったという事実である。
 朝日歌壇への投稿者の多くは、ご自身が被災者であると否とに関わらず、阪神淡路島大震災が発生すれば、それに即応した短歌を詠んで投稿し、米国で同時多発テロが発生すれば、それに即応した短歌を詠んで投稿し、今また、自公民連立政権に拠る「解釈改憲」なる暴挙があからさまになると、それに即応した短歌を詠んで投稿したりして、我が国に於いては、短歌という極めて安易な形式に拠る文芸作品は、日常茶飯事の如くに大量に生産され、そして消費されて行くのでありましょう。
 〔返〕  山百合もカサブランカも食はれたり長嶋米屋に巣くふ鼠に
 私が田舎暮らしをしていた当時、自宅の隣りには「長嶋〇〇商店」なる米穀販売業者の倉庫が在った。
 彼・長嶋〇〇氏は、地域の水道組合にも所属せずに、自宅の炊事や入浴や樹木の灌漑に供する水一切を秘密裏に賄う(盗水)など、地域では名の知れた強欲因業極まりなき人物であった。
 彼の倉庫では、毎年鼠が鼠算式に大量に発生し、その一部が我が家の狭庭にも侵入して跳梁跋扈して、我が家の狭庭に植えられているカサブランカなどの百合の球根・数百株を始めとして、チューリップの球根や葡萄や桃や無花果やプラムの木の根際の部分まで、凡そ口に入るものは何でも食い捲るのであった。

  
 (大分市・児玉直)
〇  原発も戦争も許すこの国を知らで園児ら七夕飾る

 昨今は七夕の時期になると、街のスーパーや銀行の店内にも、葉の萎びれた笹竹が立て掛けられていて、その傍らには、五色の短冊と水性筆記用具やボールペンなどの筆記用具が用意されていて、「ご来店の皆様にお願いします。特にお子様方にお願いします。この短冊に、ご自身が日頃から願っている言葉を書いて笹竹の枝に吊るして下さい。笹竹に吊るす時は、必ずきつく縛って下さい。そうで無ければ、あなた様の願い事が風のまにまに何処かに飛んで行って、空しくなってしまいますから」なんて書いてあったりし、立て掛けられている笹竹の枝に縛られている五色の短冊には、いかにも子供らしい丸文字で、「たなばたの神様、どうかお姉ちゃんを第一志望の〇〇学院中学に合格させて下さい」とか「神様にお願いしますが、お父さんとお母さんが夫婦けんかをしないように仲良くさせて下さい」などと書いてあったりするのである。
 そうした習慣が、何時頃から始まったのかは私としては関知しないのであるが、今から数えて四年前のある夏の日のこと、私は退屈しのぎに横浜市内のとあるスーパーに立ち寄ったところ、例に拠って例の如く、店内に件の笹竹が立て掛けられていて、件の五色の短冊と筆記用具が用意されていたから、私は思わず知らずのうちにその短冊を手に取り、持ち前の仮名釘流の文字で以って「田舎のお家が売れますように!出来るだけ高い値段で売れますように!」と書いて、笹竹の一番高い所にきつく縛ったところ、それから一週間もしない中に、私の言う「田舎の家」が売れてしまったのである。
 尤も、その値段たるや、私の予想していたものよりは遙かに低額で、思わず、目から涙を流してしまったのではあるが、とにもかくにも私の願い事の半分は叶って、私の「田舎の家」は、売れるには売れたのである。
 閑話休題。
 本作の歌い出しは「原発も戦争も許すこの国を」となっている。
 私の手元に置かれている辞書『大辞林』の記するところに拠ると、「許す」とは「罪や過失もとがめだてしないことにする」という事であり、この語の使い方を具体例を以って説明すると「愛娘を殺した犯人を許すのは忍びないけれど、判決が出てしまった以上は許すしか無い」とか「私だってまんざらでも無かったのだから、あの場合は、彼に体を許すしか無かったのである」といった事になる。
 と、言う事になれば、誰かの書いた文章の中に「許す」という言葉が使われている場合は、書き手の心の中に、必ず「不本意ながら」という気持ちがあり、「許す事に対しての罪の意識を伴った切なさ」をも伴われているという事になる。
 「この国」の何方様が「原発も戦争も許す」と決めてしまったのか、という点に就いては、今の私としてはあまり深く考えたくは無いのであるが、「許す」とは、とにもかくにもそういう意識を伴った言葉であるから、本作の作者が「原発も戦争も許すこの国を知らで」と詠んだ時の心の中には、必ずや「不本意ながら」という気持ちが在ったはずであり、それと共に、自公連立政権に拠る「原発の再稼働」方針や「解釈改憲に伴う自衛隊の海外派兵」に対しては「罪悪感」すら抱いていたはずである。
 折しも、七月七日の七夕の日である。
 そうした思いを抱きながら沈思黙考する作者の傍らには、いたいけな「園児」らが居て、今しも「七夕飾り」作りの真っ最中なのである。
 〔返〕  笹竹に平和の二字の隠れなし七月七日は七夕祭り
           <注>   七夕竹惜命の文字隠れなし  石田波郷(『惜命』昭24刊)
 


(加賀市・敷田千枝子)
〇  いざ出兵往くのは誰ぞ誰が往く、往きて帰れぬいくさに往くは

 「万葉集」(巻20)の4425番歌は「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」という「防人の妻」の作である。
 ところで、今の我が国には「往きて帰れぬいくさ」に、自ら進んで「往く」者は誰一人としていないと思われる。
 その理由の一つは、我が国では国民の全てに人権思想が行き渡ってしまった点にある。
 「人間誰しも健康に生きる権利がある」という素晴らしい思想が国民全般に行き渡ってしまった現在に於いては、誰一人として、「自分から進んで戦争に行って天皇陛下の為に死のう」などと思う人はいないのではなかろうか?
 で、人権思想という何よりも尊い思想の保持者たる彼ら国民をして、戦場に赴かしめる為に必要なのは、「法律という名の暴力」乃至は、「暴力団以上の無法の暴力」或いは「経済力」であり、「経済力」もまた暴力の別名なのである。
 安倍晋三氏を先頭にした自由民主党が「経済の立て直し」を旗印しにして総選挙に打って出ようとした際、私たち世界平和と自然環境の保護を実現を図ろうとする日本国民は、自由民主党が首尾良く政権の座に就いた暁には、憲法を改正して海外出兵を目論んでいる事に気が付かなけれはならなかったのであり、原発の再稼働や原発施設の輸出を目論んでいる事にも気が付かなければならなかったのである。
 マスコミの主たる役割は、「情報の正しい伝達」と共に「国民世論の誘導」にある。
 この二つは、ともすれば矛盾しがちであり、マスコミ人も亦、それに拠って衣食住に備える経済力を獲得し、自分の信じる正義の実現を果たさんとしている者である事には違いが無いから保証の限りではないが、マスコミの究極的な役割は、前述の二つの役割を巧みに使い分けて、人類の永遠なる福利厚生を実現し、宇宙環境の恒久的な保護を実現する事でなければなりません。
 この遠大なる役割を果たす為に、私たちの詠む短歌は、果たして如何程の貢献をすることが出来るのでありましょうか?
 〔返〕  いざ出兵させんとするも兵士居ず斯くなる上は徴兵制度
 自民党幹部の某議員が「徴兵された兵士よりも志願兵の方が格段に優秀であるから、我が国に徴兵制度が復活する事は絶対在り得ない」などと、心にも無い事を口にしているのではあるが。  
 

(高松市・菰渕昭)
〇  中東に戦乱あれば潮位増すごとくガソリン値上がりをする

 「潮位増すごとく」という直喩だけが取り得の報告的内容の作品である。
 〔返〕  アメリカが風邪を引いたら咳をして真の風邪かと思って寝込む
      燃料が値上がりすれば比例して電気料金即値上がりす


(島田市・水辺あお)
〇  ヨヤトウノギインショウヨハアガルノニショミンハサガルアベノマジック

 試みに、本作を「漢字交じりのひらがな」で書き表すと、「与野党の議員賞与は上がるのに庶民は下がる安倍のマジック」となり、是が何の変哲も無い凡作である、という事が明白になってしまうのである。
 毎週毎週、朝日新聞の「反政府キャンペン」に迎合するが如き作品が大挙して朝日歌壇に押し寄せる今日、テーマが何であろうと、発想や表現に選者のハートを射るような工夫が為されていなければ、到底、入選作品として紙面に掲載される事は無いはずである。
 三十一音の全てをカタカタ書きにした本作は、作者なりの工夫が凝らされているのでありましょうが、その「工夫」とやらがあまりにも貧弱過ぎるのである。
 なお、国会議員に支払われる歳費(給料)は、今年の5月分から月額26万円、年間421万円引き上げになったそうであるが、本作の作者は、是を何故か「ヨヤトウノギインショウヨハアガルノニ」と言っているのである。
 こうした点は事実に基づいて言わなければなりませんから、「ヨヤトウノギインサイヒハアガルノニ」と言わなければなりませんし、更に言えば、詠い出しの「ヨヤトウノ」という5音は、単なる音数合わせとして使われているに過ぎませんから、更なる推敲が望まれるのである。
 〔返〕  我が国の国民全てに見限られ安倍首相の辞任表明
      与野党の議員全てに見限られ安倍宰相の辞任表明


(三原市・岡田独甫)
〇  後先はわからないのに婆さんが葬式してねと僧の吾に言う

 「婆さん」とは、作者のお大黒様を指して言うのでは無くて、作者が住職をしているお寺さんの檀家総代の家の女性高齢者を指して言うのでありましょう。
 ところで、いつぞや岡田独甫さんは、「忘るるな不戦誓うは三百十万人の犠牲のすえぞ」といった、朝日新聞の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するが如き一首を投稿し、首尾良く「馬場あき子選」の入選を果たしていましたが、岡田独甫短歌の本領はそうした迎合精神の発露に在るのでは無くて、本作に見られるような諧謔性と飄逸味に在るのである。
 〔返〕  後先は判らないのにトイレでは前後諸出し不時に備える


(鎌倉市・小島陽子)
〇  どんぶりに薩摩芋置き陽に当てて発芽楽しむアパート暮らし

 「持たない者には、何一つとして悩みはありません」といったところでありましょうか?
 でも、この暑さ盛りの「アパート暮らし」も決して楽ではありません。
 少しでも油断をしていたら、窓際に置いている薩摩芋が干上がってしまい、忽ち焼き芋になったりしちゃってね!
 〔返〕  割烹着姿でラットに注射しておぼちゃん今頃なかなか難儀


(鹿嶋市・加津牟根夫)
〇  イチローは決してバットを投げ捨てず優しく置きて走り行くなり

 仮にそんな事があるとしたら、それはイチローが一年に一度くらい、打った瞬間にスタンド入りだと感じられるような一打を放った時だけの事でありましょう。
 足の速さが売り物で、三本間に転がした打球をヒットにしてしまうイチローが、「バットを投げ捨てず優しく置きて走り行くなり」なんて悠長な事をしていたら、「日米通算四千本安打」なんて狙える訳が無いでしょう!
 鹿嶋市にお住いの加津牟根夫さんよ、いくら田舎者だからとて、そんな出鱈目なことばっかり言ってたら、友達に嫌われますよ!
 「鹿嶋の天一坊」とは、鹿嶋市民が貴君に奉った渾名ではありませんか?
 〔返〕  イチローも打ったらバットを投げ捨てて一塁目掛けてひたすら走る


(松阪市・こやまはつみ)
〇  胡瓜もみに刻んで入れる青じそを庭下駄つっかけ摘みにゆく夏

 人間誰しも一生に一度ぐらいは、このような他愛ない夢を胸に抱いたりして、田舎暮らしに憧憬を抱いたりするものである。
 だか、夢はあくまでも夢であり、現実には「胡瓜もみ」よりも野菜サラダの方が美味しくて、仮に「胡瓜もみ」が食べたくなったとしても、それに入れる青紫蘇は、近所のスーパーに行けば夏冬構わずわずか百円足らず買える、という事にもなったりして、結局は都会暮らしのままで終わってしまうものである。
 〔返〕  胡瓜揉み好めるならむ未だ逢はぬ松阪住まいの女性なれども  
      胡瓜揉み食せぬ児らにこの国の未来託して死なねばならぬ


(富山市・松田わこ)
〇  水色のバジャマで眠る夜だから涼しい夢を予約しておく

 中一の少女のこの傑作に、「水色のパジャマで眠る夜ならば涼しい夢は予約されてる」という鸚鵡返しの返歌を付け、幼い彼女の遊び心を刺激したり、弄んで遣ったりする事は、七十過ぎの耄碌爺としては、いとも容易いことである。
 だが、七十過ぎの耄碌爺はあくまでも耄碌爺であるから、しばらくすると彼の妄想は益々膨らんで行き、やがては「おピンクの透け透けパジャマで眠る夜は夢路に彼が忍び寄らなむ」なんちゃったりしてしまうのである。
 このようになってしまうと、この真夜中に彼が遣っている試みは「短歌鑑賞」といった性質のものでは無くなり、むしろ「短歌玩弄」といった性質のものになってしまうのでは無かろうか?
 しかも、「玩弄」される対象が自作の短歌ならまだしも救いがあるが、他人の作品、それも中一の少女の作品であるから、彼の試みの何処にも救いが見い出せないのである。
 彼とは、私であって私で無い存在、あくまでも、本作の作者の松田わこさんが「水色のバジャマで眠る夜」に「予約して」おいた「夢」の中に登場する人物である。
 〔返〕  水色のパジャマを着て寝る中一の少女の見るゆめ他愛ない夢

今週の朝日俳壇から(8月4日掲載・其のⅣ・暑中手抜き版)

2014年08月04日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(高岡市・野尻徹治)
〇  大の字に夏の月見る共白髪

 〔返〕  大の字に寝るに狭きや三畳間
      大の字に寝ては見えない大文字


(松戸市・大谷昌弘)
〇  静けさや蛍が川に落ちる音
 
 〔返〕  手花火が馬穴の水にジュと消えつ
      川になど落ちるもんかい蛍なら


(松江市・三方元)
〇  白玉も母の襷も久し振り

 〔返〕  腰巻の紐を襷に母の蕎麦
      白玉の我が子が食べる白玉餅


(芦屋市・北井真有美)
〇  一瞬と言ふ時遠し原爆忌

 〔返〕  一瞬の隙に唇盗まれぬ
      一分間黙禱したり原爆忌


(ドイツ・ハルツォーク洋子)
〇  一面にひまはり笑ふ地平かな

 〔返〕  どう見てもイタリア映画のワンシーン
      いつか観た映画のシーンに似ているな


(松阪市・奥俊)
〇  滴れる岩ひとりごと何を恋ふ

 〔返〕  滴るは滝の水のみ岩黙然
      強かに巌から骨落滝壺に


(福岡市・加藤秀則)
〇  滝を背に我があつけなき尿かな
 
 〔返〕  滝壺に我が長々のゆまりかな
      滝を背に写真一枚撮りにけり


(伊賀市・福沢義男)
〇  炎昼やひとりぼつちの大東京

 〔返〕  炎昼の二人袴は熱かろう


(船橋市・川崎英彦)
〇  大声を残すに似たり梅雨の鳥

 〔返〕  今一つ釈然とせぬ一句かな
      どう見ても訳の判らぬ一句かな


(東大和市・板坂壽一)
〇  ひきがへる来世は捕手かキーパーか

 〔返〕  蝦蟇蛙来世は保守か革新か
      ひきがえる死者に口無し語る無し 

今週の朝日俳壇から(7月28日掲載・其のⅡ・土曜朝刊)

2014年08月02日 | 今週の朝日俳壇から
[長谷川櫂選]

(東京都・無京水彦)
〇  みちのくの青田を風の勇者かな

 選者の寸評に曰く「青田を風がわたっていく。そこに幻の巨人をみている」と。
 和して評者曰く「青田に一陣の風の起こるや、未だ穂孕みもせざる稲株、一斉に頭を垂れて、幻の将軍の閲兵を受けんとすなり」と。
 今年、古希に達したシンガーソングライターの小椋佳作曲、塚原将並びに小椋佳作詞の『渡良瀬を行けば』の歌詞は次の通りである。

  野を分けて風が行くと
  ひとすじの河に似た跡
  風を追い白々と続いている

  ああ、それは思い出たどる心の中の路に似て
  なんと密やかなものか

  野を分けて風が行くと
  かくれ咲く花に気付いた
  その色のいつまでも揺れて残る

  ああ、それは白いまま散った憧れ抱いたひとに似て
  なんと哀しいものか

     渡りもあえぬ 渡良瀬の
     河のほとりを 一人来て
     心細道 すべも無く
     心を告げる 人も無く

  野を分けた風が去ると
  ぼうぼうとあおい草原
  日盛りに静まって遠く拡がる

  ああ、それは思い出たどる心の中の路に似て
  なんと儚いものか

 〔返〕  青田分け将軍去るや一斉に稲株の列兵頭擡げんとす


(福島市・菅野仁)
〇  睡蓮のもう睡むたげな夕かな

 選者の寸評に曰く「スイレンは昼すぎにひらく花。まだ数時間しかたっていないのに眠そうな花の顔」と。
 〔返〕  向日葵のまだ焼けそうな顔で佇つ


(東京都・木村史子)
〇  退屈を愛する才や心太

 選者の寸評に曰く「退屈こそ東洋の心の神髄。勤勉な精神からすれば、とんでもないが」と。
 選者氏もまた東洋の人。
 いささか神髄を極め過ぎたような寸評ではあるが?
 〔返〕  退屈をさせない程の寸評を


(那須烏山市・川俣水雪)
〇  雲の峰国のかたちも崩れけり

 「三国山脈の山際に、しばしの間、ウクライナ共和国の形をした『雲の峰』が見えていたのであるが、やがてその『かたちも崩れ』、ウクライナ共和国の面影を失ってしまった」という意でありましょうか?
 〔返〕  クリミアをロシアに盗られ泣きっ面ウクライナ共和国哀れ極めて


(我孫子市・川上素舟)
〇  蚊に好かれ人にも好かれ早や傘寿

 不肖・鳥羽省三も、「蚊に好かれ」るという点に於いては、人後に落ちません。
 この七月初めに買った「金鳥渦巻かとりせんこう」三十巻入りがそろそろ無くなりそうですから、今日は溝の口駅下のドラッグストアで買って来るつもりです。
 〔返〕  世の中にかほど煩きものは無し熱中症に注意せよとふ



(長岡市・内藤孝)
〇  昼寝して三百年や富士の山

 富士山 様
 何卒、永久の眠りにお就き下さいませ。
 〔返〕  昼寝した後に出掛ける溝の口


(明石市・小田和子)
〇  扇ぐほど近づいてくる夏の月

 それを言うならば、
 〔返〕 仰ぐほど薄くなり行く祖師の恩


(市川市・井上三七)
〇  ちいさくてブリキの羽よ夏の蝶

 確かに「ブリキの羽」みたいな翅を持った「夏の蝶」も居ますよね!
 〔返〕  実生なる檸檬の双葉けさも亦ムラサキシジミに食せられつも


(玉野市・勝村博)
〇  陽炎の中に居ること誰も知らず

 私たち日本人の全ては、「陽炎の中」に居て、常にゆらゆらと揺れている存在なのかも知れません。
 〔返〕  吾はいま栄光に包まれているかも知れず彼らとは少し異なり


(東京都府中市・滝光雄)
〇  サングラス外して口をききなさい

 かなり前に人づてに聞いた話であるが、「某全国紙の選者を務める大家が主宰として君臨する短歌の某結社に於いては、歌会の出席者に対して、歌会での席順は勿論の事、その他、当日の服装、一例上げて説明すれば、着物の柄や羽織の紐の結び方まで懇切丁寧に説明して聞かせる為に新人が居つかない」との事であった。
 ところで、朝日俳壇の選者である長谷川櫂師がかつて主宰をお努めになって居られた「古志」に於いても、句会出席者に対して「サングラス外して口をききなさい」といったような懇切丁寧な生活指導をなさるのでありましょうか?
 〔返〕  月曜は朝日俳壇読む日にて長谷川櫂師の選句恨めし  
      長谷川に小舟浮かべて銀の櫂もて漕ぎ出だし冥界に消ゆ

今週の朝日歌壇から(7月28日掲載・其のⅡ・金曜夕刊)

2014年08月01日 | 今週の朝日歌壇から
[佐佐木幸綱選]

(久留米市・塩山雅之)
〇  水路沿いジャンボタニシの殖えゆきて早苗の水田にビンクあいなし

 「ジャンボタニシ」の皮膚はかなりエロティックなピンクで、しかも、胎内には毒々しいばかりに鮮明なピンクの卵を孕んでいるのである。
 その点に着目した本作の作者は、私が想像している以上に好色なのかも知れません。
 〔返〕  あいなしと仰いますがなかなかの艶福家かも塩山雅之氏


(三原市・岡田独甫)
〇  恣意的に憲法解釈する者の言う歯止めなど当てにはならぬ

 主題は言わずと知れた「解釈改憲反対」。
 憲法九条の改悪に反対するならば、ただ単に「閣議に拠る解釈変更」に反対するのみならず、現行憲法の改正を企てる輩に身体ごと突撃して行くぐらいの覚悟をしなければなりません。
 それにも関わらず、本作の作者がお住いの広島県選挙区から選出されている衆議院議員は、七名中の六名までが自民党所属議員ではありませんか。
 しかも残り一人は、元々からコチコチの改憲派議員である無所属の亀井静香議員(第六区選出)ではありませんか。
 彼ら改憲派議員を選出したのは、檀家制度に守られたお寺さんなどの地元の有力者とその取り巻きどもではありませんか。
 第二次世界大戦以前の日本人の大半は、人権思想などは爪の垢ほども持っていなかったので、一銭五厘の赤紙一枚で泣く泣く妻子と別れて出征して死んだのであったが、人権思想が世界中に行き亘った現在に於いては、「戦場に駆り出されてミサイルの的となって死んでも宜しい」などと気前のいい事を口にする国民は誰一人としていないと思われます。
 したがって、私たち日本人は、東アジアの防衛環境に如何なる変化があろうとも、憲法九条の抑止力に頼るしか手がありません。
 それが解っているならば、岡田独甫さんも力の及ぶ限りに於いて、布教活動と共に「憲法改悪反対運動」を檀家の方々と共に展開するべきではありませんか?
 〔返〕  改憲派の陰謀に絶対屈するな亀井小島は何する者ぞ!


(沼津市・石川義倫)
〇  入口に近きは上等兵ばかり村の軍人墓地に又夏

 「入口に近きは上等兵ばかり」という上の句が、それとなく作中の「村」の貧しさを物語っていて、忽せには出来ない作品ではあるが、又もや、朝日新聞社の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合している如き作品である。
 事の是非はともかくとして、「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するかの如き態度では、真の意味の歌詠みとは言えません。
 それにしても興味深いのは、「入口に近きは上等兵ばかり」という詠い出しである。
 作中の「村の軍人墓地」には、下士官や将校クラスの英霊は埋葬されていないのでありましょうか。
 それとも、件の「村」の出征兵士の全ては、いわゆる「兵卒」ばかりであったのでありましょうか?
 〔返〕  入口に近き墓地なら安価です清心苑墓地只今特売


(西海市・前田一揆)
〇  武器これを防衛装備と言い換えて儲け企む言霊の国

 本作も亦、朝日新聞社の「解釈改憲反対キャンペン」に迎合するが如き作品である。
 これ程までに並べ立てられますと「言霊の国」の住民の一人としては、文句の一つや二つぐらいは言いたくもなりますよ!
 〔返〕  屑肉を新鮮ですよと言い立てて儲け企む経済大国


(名古屋市・諏訪兼位)
〇  赤き鹿六頭描かれし弥生期の筒型土器が稲沢に出づ

 「稲沢市一色青海遺跡出土の絵画土器について」というタイトルの発掘報告書が愛知県埋蔵文化財センター発行の『研究紀要』(第11号)に掲載されている。
 その中から本作の記述に関連する箇所を抜粋して示すと次の通りである。
 即ち、「鹿の絵は体部外面に、縦方向に6頭、頭部を右にして描かれている。土器焼成前に、まず、浅く線刻で下書きをおこない、その上から、同じく焼成前に、ベンガラを用いて面的に塗っている。胴部より尻尾にかけては、器面の剥落が著しく、遺存状況は悪いが、上の 2 頭に関しては、線刻が比較的よく残っている。線刻は、通常の線刻土器よりもかなり浅いことから、当初からベンガラを塗ることを想定した、あくまでも下書きとして描かれていたようである。頭部は耳あるいは角をV字に描いたのち、鼻先を描いている。頸部は1本線、胴部は2本線で表現し、胴部を描いたのちに、足を描いている」と。
 本ブログの読者の皆様方よ、何卒、前掲の報告書の抜き書きをご参照のうえ、本作を鑑賞されたし。


(フランス・松浦のぶこ)
〇  ゆったりと往く男らの長衣(カフタン)の裾吹き上ぐるはつ夏の風

 「カフタン」とは、「トルコの民族衣装の一つであり、気温が高く砂地が多い地域に適応したもので、体を覆う部分は多いものの緩やかな仕立てで風通しを良くし強い日差しから皮膚を守るように作られている」とか。
 したがって、一句目の「ゆったりと」という五音は、直接的には「往く」に係って行くのであるが、それと共に「タフタン」なる民族衣装が、風通しを良くする為にゆったり目に作られているという事も示しているのでありましょう。
 ところで、本作の作者・松浦のぶこさんにお訊ね致しますが、本作は原作通りに掲載されているのでありましょうか?
 〔返〕  ゆったりとシャンゼリゼを往くTurksのカフタンの裾吹き上げる風よ 


(熱海市・山口智恵子)
〇  マニキュアも浴衣の布もシロップも色を選んで夏の始まり

 二句目の「浴衣の布も」の「の布」は、音数合わせみたいな感じである。
 〔返〕  グラサンも浴衣も肌もおビールも黒く染まって夏の真盛り


(館山市・中原千絵子)
〇  台風が明日は来るのに青葉木菟ホッホ、ホッホと上機嫌なり

 昨晩、我が家の裏庭で啼いていた「青葉木菟」の声は、私の気の所為か「ケイキノイイホウ、ケイキノイイホウ」と聴こえました。
 でも、今日は、この夏休みに北海道旅行に出掛ける二人の孫にお餞別を遣るなど、あまり景気が良くはありませんでした。
 〔返〕  先日は大きな花束今日は今日餞別二万遣るも遣ったり!


(八王子市・江藤幸代)
〇  雨後の森百合咲く小道穴だらけ百合根旨いか猪親子

 山百合の十株や二十株ぐらいは何のその!
 我が家ではカサブランカの球根を二百株も隣の米屋の倉庫から逃げて来た鼠どもに食べられましたよ!
 〔返〕  羽後秋田被災県でも無かろうに人口減少率我が国ナンバーワン


(船橋市・川上美栄子)
〇  梔子が香れば私十五歳白い色した初夏の恋

 十五歳とは「美栄子」さんというお名前に相応しからぬ御年でありますことよ!
 〔返〕  梔子が香らなくても十五歳結婚するのはまだまだ先だ

今週の朝日俳壇から(7月28日掲載・其のⅠ・金曜朝刊)

2014年08月01日 | 今週の朝日俳壇から
[金子兜太選]

(東京都・鈴木勇)
〇  弾痕の熱砂の島や糸満史

 金子氏の寸評に曰く「今次大戦末期の沖縄そして糸満の惨状を忘れる者はいない。二度とあるな」と。
 〔返〕  糸満の今次大戦末頃の惨状忘れて九条冒涜

 
(別府市・梅木兜士彌)
〇  蛇跨ぐことにも慣れし峡暮し

 金子氏の寸評に曰く「この峡暮しの実感は本物」と。
 「蛇跨ぐことにも慣れし」が金子兜太翁の好みに合ったのかしら?
 〔返〕  親跨ぐことにも慣れて嫁務めそれが嫌なら老人ホーム!


(東京都・たなべきよみ)
〇  盆栽を借りて巨大な蟻となり

 金子氏の寸評に曰く「作りものの印象に、かえって味あり」と。
 〔返〕  巨大なる蟻となったは誰かしら?吾輩如きにとんと解らん?


(廿日市市・頼経素風)
〇  曝す書を妻読み止めず智恵子抄

 金子氏の寸評は無し。
 作中の「智恵子抄」が、開戦時(1941年)に龍星閣から刊行された初版ならば、一冊数十万円の稀覯本ですから、曝したりしてはいけません。
 でも、恐らくは新潮社から刊行された文庫本などかも知れません。


     『報告(智恵子に)』

  日本はすつかり変りました。
  あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
  あの傍若無人のがさつな階級が
  とにかく存在しないことになりました。
  すつかり変つたといつても、
  それは他力による変革で
  (日本の再教育と人はいひます。)
  内からの爆発であなたのやうに、
  あんないきいきした新しい世界を
  命にかけてしんから望んだ
  さういふ自力で得たのでないことが
  あなたの前では恥しい。
  あなたこそまことの自由を求めました。
  求められない鉄の囲かこひの中にゐて、
  あなたがあんなに求めたものは、
  結局あなたを此世の意識の外に逐おひ、
  あなたの頭をこはしました。
  あなたの苦しみを今こそ思ふ。
  日本の形は変りましたが、
  あの苦しみを持たないわれわれの変革を
  あなたに報告するのはつらいことです。  (昭和二二・六)
 
 〔返〕  ≪あの傍若無人のがさつな階級が≫またぞろ頭を擡げて来ました(開戦時の商工相の孫です!)  


(原博己)
〇  青葉風土に練り込み土鈴作る

 広島県庄原市の社会福祉施設「東寿園福祉作業所」では、「色々な福祉事業を行っており、土鈴づくり作業もその一つです。日常作業の土鈴の『型どり』や作業工程の見学も併せて、最後の仕上げ作業「絵付け」をお楽しみください。選んでいただく土鈴の素焼き型は約15種類!その中からお好きな型を選び、自分の好きな色やデザインで仕上げましょう♪決まりごとはありません。自由な色とデザインで世界で一つだけの『土鈴』を完成させて、みんなに自慢しちゃいましょう」とか。
 また、「体験料金/お一人様700円☆絵付けした土鈴は、その日にすぐに持って帰れます」とか。
 本句の作者・原博己さんは、同作業場に於いて土鈴製作の指導員をなさって居られる方なのかも知れません。
 〔返〕 ひばの里・さとやま屋敷に集合し葉っぱの土笛作りに参加  


(西宮市・東谷節子)
〇  百四歳の母母の日を泣き笑う

 「母」が「母の日」を「泣き笑う」とするならば、我が国の社会福祉政策の欠陥を闕腋し嘲笑したという事にもなりかねませんが、その「母の日」を「泣き笑う」「母」の年齢が「百四歳」であったとしたならば、自ずから別次元の問題としなければなりません。
 何はともあれ、西宮市にお住いの東谷節子さんのご母堂様、この度のご慶事、真におめでとうございます。
 今年もますますお健やかでお暮し下さい!
 ところで、本句の作者・東谷節子(76歳)の第一歌集『明日の神話』が、去る2006年に短歌研究社から刊行されているとのこと。
 東谷節子さんは第一歌集『明日の神話』に於いて、我が国の社会福祉政策の貧しさを余すところ無く歌うと共に、ご家族の方々と支え合いながら生きる喜びをも歌い上げているのである。

 〇  嫁ぐ日の迫りて寡黙になりし娘は微笑むこと多し吾に対いて
 〇  「嫁からの義理チョコですが」と差出せば舅ははつかに笑み給うなり
 〇  父母と共に老いゆく明け暮れの夫の寡黙は病にも似る
 〇  面伏せて胎児を庇う娘には母なる仕草のすでに身につく
 〇  ローソクの芯の如くに病み細り舅は風熱き七月に果つ
 〇  舅という支柱失くせし姑の蔓宙に揺れいる如き危うさ
 〇  「しんどい」と言いつつ夫は足軽く二度目の勤めの朝を出でゆく
 〇  全身の骨の疼きに喘ぎつつ「もう死なして」と姉は言いにき(
 〔返〕  節子さん御年既に七十六ご母堂様の齢には足らず  


(枚方市・菅野強)
〇  手で叩く西瓜の音色の母優し

 手で叩かないで足で叩いたとしたら、「西瓜の音色の母憎し」とは相成るのでありましょうか?
 〔返〕  手で叩き糖度確かめ西瓜購ふ


(八王子市・額田浩文)
〇  フラダンス発表会に夕立来る

 婆さんたちが、肥り過ぎだったり痩せ過ぎだったりする身体に不似合なフラドレスで身をかため、腰蓑みたいなレイという人工装飾花を首の周りにぶら下げての「フラダンス」は、誰だって目にしたくないものである。
 だが、糟糠の妻がその「フラダンス発表会」に出演するとあらば自ずから別問題である、とばかりに八王子市民会館まで出掛けたのは良かったが、生憎、発表会の終了間際に夕立に見舞われてしまったのである。
 そういう次第で、帰り道は一本百八円也のビニール傘での相合傘という運びになってしまったのでありましょうか?
 〔返〕  フラダンス雨に降られてふらふらだんす


(三豊市・磯崎敬三)
〇  いちじくを乳房のごとくつまみけり

 この助平ったらしい爺さんは、一体全体、何を言いたいのかしらん?
 詠むも詠んだり!選ぶも選んだり!金子兜太選ならではの入選作である!
 〔返〕  無花果も絞ってみれば乳が出る
 我が家の狭庭の無花果もそろそろ色付いて来ました。
 昨日の夕方に見たところ食べ頃になったのが三顆ほどあったのですが、今朝、私が水遣りしようとして見たところ、その中の二顆が小鳥どもの餌食となってしまい、今朝の食卓に載ったのはただの一顆、一顆の無花果をハンブンコして連れ合いと仲良く食べました。
 ところで、本作の作者の磯崎敬三さんは香川県三豊市にお住いの方である。
 香川県の三豊市と言えば、私の友人の「北さん」も三豊市詫間町粟島の別荘に滞在中である。
 その北さんの話に拠ると、粟島には連れ合いに先立たれて寡婦暮らしをしているご婦人がジャガスカいらっしゃるとのこと。
 磯崎敬三さんもたまには粟島にお出掛けになったら如何ですか。
 〔返〕  無花果を鳥に喰われてハンブンコ


(東京都・大網健治)
〇  白石も僕も貧乏冷奴

 「僕」即ち本句の作者の大網健治さんが「貧乏」で「冷奴」好きなのは宜しいが、何も幕政改革を成し遂げんとした新井白石まで持ち出して来なくても宜しいでしょうが?
 新井白石に限らず、昔の偉人たちは誰だって、夏は冷奴、冬は湯豆腐を好んで食べたものである。
 疑う者在らば、司馬遼太郎作の『花神(上・下)』を読んでみなさい!
 新井白石だけが、格別な冷奴好きという訳ではありません。
 〔返〕  新井君は白石僕は黒石を持たされての笊碁なりけり
      冷奴噛み締め歯軋りするか?周防吉敷の村田蔵六