[高野公彦選]
(行方市・鈴木節子)
〇 茹でたてのトウモロコシを横かじり戦後の夏を引き寄せながら
今もなお「戦後」でありましょう。
憲法第九条で以って武器を持って戦う事を放棄した我が日本国民には、「戦後」という意識が永遠に着いて回るのであり、それを片時も忘れてはいけません。
「集団的自衛権を行使できる普通の国」になるなんて胡乱な事を考えてはいけません。
〔返〕 末成りの皮西瓜を丸齧り糖度15度以下出荷不可能
(諫早市・麻生勝行)
〇 みちのくの風鈴くれし友もなしやさしき音をひとり聞くのみ
「みちのく」の来たら、それだけで月並みである。
「みちのく」を馬鹿にしてはいけませんよ!
〔返〕 不知火の諫早湾に萌ゆる藻のぬめりも知らに君を抱けり
(大阪市・安良田梨湖)
〇 この夏もきみも私のものじゃない 本の背表紙押し戻すゆび
就活に失敗して大阪の陋屋住まいであれば、海水浴にも行けず、恋人を持つこともままならず、図書館から借りて来た「本の背表紙」を細い「ゆび」で「押し戻す」だけの毎日でありましょうか?
安良田梨湖さんお得意の貧乏話の一巻終り。
〔返〕 この夏は君と私のものなると二色の浜に繰り出しにけり
『青砥稿花紅彩画』の二幕目第一場(雪の下・浜松屋の店先の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り口上の如き名調子でお読み下さい。
(宮崎市・南栄子)
〇 離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く
佐佐木幸綱選の五席として既出。
〔返〕 離任の日餞別に貰った金券で飛魚出汁買って饂飩の汁に
(八尾市・水野一也)
〇 戸袋の奥で雛鳥待ちおるか尾を振りながら鶺鴒出入りす
古民家の「戸袋の奥」に小さな鳥や獣などの生き物が営巣している、という事はよく聴く話である。
それが身の丈一丈もある青大将だったり、土蜂だったり古狐だったりするとその措置が甚だ厄介なものになるが、本作の場合は「鶺鴒」であるから可愛い話である。
そのまま放りっぱなしにしておいて、雨戸の開け閉てだけは少し慎重になさったら如何でありましょうか。
下の句に「尾を振りながら鶺鴒出入りす」とありますが、「鶺鴒」の親はこの家の店子として、家主の水野一也さんにお辞儀をしながら「出入り」しているのかも知れませんよ?
〔返〕 江戸期より我が家の梁を蛇が這ふ屋敷守りと雖も怖し
(霧島市・久野茂樹)
〇 カブトムシ肩に這はせて六歳が東京行きのゲートをまがる
九州民謡に「鹿児島おはら節」という名曲があり、その歌詞は「♪花は霧島、煙草は国分。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)燃えて上がるは、オハラハー、桜島。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)」で始まるのである。
私は、寡聞にしてこれ迄存じ上げなかったのでありますが、本作の作者がお住いの鹿児島県霧島市は、鹿児島おはら節の歌詞のにも出て来る「(旧)国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生した、鹿児島県で2番目の人口規模を有する市であり、市域内に鹿児島空港もあり、東京や大阪へ向かう飛行機が1日に幾便と無く飛び立つ」とか。
本作の作者のお孫さん(六歳)は、恐らくは、鹿児島県の県花にもなっている「ミヤマキリシマ」の花の蜜を吸って育った「カブトムシ」を「肩に這はせて」、鹿児島空港の「東京行きのゲート」を曲がったのでありましょう。
ところで、「まがった」とか「まげる」とか言う言葉は、通常「盗癖のある子供が何かを盗んだとか、彼に何かを盗まれた」という場合に使う言葉であるが、本作の末尾に置かれている「まがる」は、そうした意味で使われているのでは無くて、ただ単に「六歳」の子供が、空港の「ゲートをまがる」という意味で使われているのでありましょう、との説明は、読者受けする為の付け足しであるが、この動詞「まがる」の存在に拠って、本作の描写がよりリアルなものになっている事は、間違いない事実である。
〔返〕 桜島の灰を被った麦藁帽被って孫は東京さ行った
(下野市・若島安子)
〇 ウインドーの衣架の紬の脇役にディスプレーされし山蚕の孤独
これは亦、手が込んでいる割には田舎っぽくてセンスの良くない「ディスプレー」であることよ!
本作の叙述に拠ると、栃木県下野市のとある衣料品店では、「(ショー)ウインドー」に飾られた「衣架の紬」の着物の「脇役」として、「山蚕」が「ディスプレー」されている、とか?
「所変われば品変わる」とはよく言いますが、ついこないだ迄、集落の里山に行けば「山蚕」がうじゃうじゃと群がっていた下野市あたりで、選りも選って、何も「山蚕」を「(ショー)ウインドー」に「ディスプレー」する必要は無いだろうと思われるのであるが、読者の皆様方に於かれましては、その点に就いてのお考えは如何でありましょうか?
でも、本作に登場する「ディスプレーされし山蚕」は「孤独」ながらも、確実に一つの役割を果たしているのである!
その役割とは、何の変哲も無いこの短歌を、朝日歌壇の入選作にまで押し上げたという意味の役割である!
ところで、たった今、気が付いた事でありますが、作者の若島安子さんは、本作の五句目に「山蚕の孤独」という七音を置いているのでありますが、これは、斎藤茂吉の著名な連作「死に給ふ母」の中の「ひとり來て蠺のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」、「日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蠺は未だ小さかりけり」といった作品、或いは、同じ『赤光』所収の「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」といった作品を、多分に意識した上での表現かと思われるのである。
と、いうことになりますと、一見すると、「着眼点が宜しい」とか「田舎町の素朴な衣料品店のディスプレーに、夏特有の哀愁を感じさせる佳作」といったように褒めたくなったりもするこの作品は、「シヤッター通りの中で唯一灯りが点っている衣料品店の素朴なディスプレー風景に、斎藤茂吉を配しただけの凡作」になってしまうのであるが、その点に就いての、作者及び当ブログの読者の皆様方のご意見をお聴きしたいと思いますが、如何でありましょうか?
話が急転直下逆回転しますが、私・鳥羽省三は、根が正直と言うよりも偏屈なものですから、他人様の作品を評するに当たって、心にも無い悪口雑言を並べ立ててしまうような性癖を持っているのでありますが、本音では、この作品の出来栄えも「なかなかのもの」と思っているのである。
〔返〕 初夏の生田緑地を訪ぬれば出羽の山蚕の碧さ思ほゆ
(長野県・沓掛喜久男)
〇 ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち
本作の作者も亦、私と同様のなかなかの偏屈者のように思われるのである。
「ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち」などと仰いますが、余人の「顔」はともかくとして、かく申すご自身の「顔」だけは「人一倍の智恵者の顔だ!」と思っているのでありましょう!
ところで、私・鳥羽省三は人一倍のラーメン好きでありますから、かつての横浜市横浜市都筑区の「くじら軒」のラーメンや神田の「さぶちゃん」の半ちゃんラーメンを食べる為だったら、何時間でも並んだものでしたよ。
その「くじら軒」は東京駅構内に出店を開いたりして、観光客相手に碌でもないラーメンを食わせ、「さぶちゃん」は「さぶちゃん」で閉店してしまいましたが・・・・・・。
そう、そう、今思い出しましたが、私の故郷・湯沢の仲見世の中にあったラーメン屋「長寿軒」の、かつての「ぎとぎとラーメン」の味もなかなかのものでありましたよ!
是も今となっては、懐かしい昔話となり果ててしまいましたが!
〔返〕 ラーメン屋の前に並んだ人の中で訳知り顔した本屋のご隠居
(君津市・眞田花梨)
〇 リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日
佐佐木幸綱選の末席として既出である。
〔返〕 りすってさ、胡桃ばっか食べててさ、脂肪過多にならないかなあ!
(君津市・本間夏美)
〇 鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌作り
五句目の字足らずがとても惜しまれる!
或いは、・・・・・。
〔返〕 鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌創りは
或いは、・・・・・。
鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌詠むのは
(行方市・鈴木節子)
〇 茹でたてのトウモロコシを横かじり戦後の夏を引き寄せながら
今もなお「戦後」でありましょう。
憲法第九条で以って武器を持って戦う事を放棄した我が日本国民には、「戦後」という意識が永遠に着いて回るのであり、それを片時も忘れてはいけません。
「集団的自衛権を行使できる普通の国」になるなんて胡乱な事を考えてはいけません。
〔返〕 末成りの皮西瓜を丸齧り糖度15度以下出荷不可能
(諫早市・麻生勝行)
〇 みちのくの風鈴くれし友もなしやさしき音をひとり聞くのみ
「みちのく」の来たら、それだけで月並みである。
「みちのく」を馬鹿にしてはいけませんよ!
〔返〕 不知火の諫早湾に萌ゆる藻のぬめりも知らに君を抱けり
(大阪市・安良田梨湖)
〇 この夏もきみも私のものじゃない 本の背表紙押し戻すゆび
就活に失敗して大阪の陋屋住まいであれば、海水浴にも行けず、恋人を持つこともままならず、図書館から借りて来た「本の背表紙」を細い「ゆび」で「押し戻す」だけの毎日でありましょうか?
安良田梨湖さんお得意の貧乏話の一巻終り。
〔返〕 この夏は君と私のものなると二色の浜に繰り出しにけり
『青砥稿花紅彩画』の二幕目第一場(雪の下・浜松屋の店先の場)での女装の美男子・弁天小僧菊之助の名乗り口上の如き名調子でお読み下さい。
(宮崎市・南栄子)
〇 離任の日少年にもらいしハンカチをあご当てにしてバイオリンを弾く
佐佐木幸綱選の五席として既出。
〔返〕 離任の日餞別に貰った金券で飛魚出汁買って饂飩の汁に
(八尾市・水野一也)
〇 戸袋の奥で雛鳥待ちおるか尾を振りながら鶺鴒出入りす
古民家の「戸袋の奥」に小さな鳥や獣などの生き物が営巣している、という事はよく聴く話である。
それが身の丈一丈もある青大将だったり、土蜂だったり古狐だったりするとその措置が甚だ厄介なものになるが、本作の場合は「鶺鴒」であるから可愛い話である。
そのまま放りっぱなしにしておいて、雨戸の開け閉てだけは少し慎重になさったら如何でありましょうか。
下の句に「尾を振りながら鶺鴒出入りす」とありますが、「鶺鴒」の親はこの家の店子として、家主の水野一也さんにお辞儀をしながら「出入り」しているのかも知れませんよ?
〔返〕 江戸期より我が家の梁を蛇が這ふ屋敷守りと雖も怖し
(霧島市・久野茂樹)
〇 カブトムシ肩に這はせて六歳が東京行きのゲートをまがる
九州民謡に「鹿児島おはら節」という名曲があり、その歌詞は「♪花は霧島、煙草は国分。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)燃えて上がるは、オハラハー、桜島。(ハ、ヨイヨイ、ヨイヤサ)」で始まるのである。
私は、寡聞にしてこれ迄存じ上げなかったのでありますが、本作の作者がお住いの鹿児島県霧島市は、鹿児島おはら節の歌詞のにも出て来る「(旧)国分市と姶良郡溝辺町・横川町・牧園町・霧島町・隼人町・福山町の1市6町が合併して誕生した、鹿児島県で2番目の人口規模を有する市であり、市域内に鹿児島空港もあり、東京や大阪へ向かう飛行機が1日に幾便と無く飛び立つ」とか。
本作の作者のお孫さん(六歳)は、恐らくは、鹿児島県の県花にもなっている「ミヤマキリシマ」の花の蜜を吸って育った「カブトムシ」を「肩に這はせて」、鹿児島空港の「東京行きのゲート」を曲がったのでありましょう。
ところで、「まがった」とか「まげる」とか言う言葉は、通常「盗癖のある子供が何かを盗んだとか、彼に何かを盗まれた」という場合に使う言葉であるが、本作の末尾に置かれている「まがる」は、そうした意味で使われているのでは無くて、ただ単に「六歳」の子供が、空港の「ゲートをまがる」という意味で使われているのでありましょう、との説明は、読者受けする為の付け足しであるが、この動詞「まがる」の存在に拠って、本作の描写がよりリアルなものになっている事は、間違いない事実である。
〔返〕 桜島の灰を被った麦藁帽被って孫は東京さ行った
(下野市・若島安子)
〇 ウインドーの衣架の紬の脇役にディスプレーされし山蚕の孤独
これは亦、手が込んでいる割には田舎っぽくてセンスの良くない「ディスプレー」であることよ!
本作の叙述に拠ると、栃木県下野市のとある衣料品店では、「(ショー)ウインドー」に飾られた「衣架の紬」の着物の「脇役」として、「山蚕」が「ディスプレー」されている、とか?
「所変われば品変わる」とはよく言いますが、ついこないだ迄、集落の里山に行けば「山蚕」がうじゃうじゃと群がっていた下野市あたりで、選りも選って、何も「山蚕」を「(ショー)ウインドー」に「ディスプレー」する必要は無いだろうと思われるのであるが、読者の皆様方に於かれましては、その点に就いてのお考えは如何でありましょうか?
でも、本作に登場する「ディスプレーされし山蚕」は「孤独」ながらも、確実に一つの役割を果たしているのである!
その役割とは、何の変哲も無いこの短歌を、朝日歌壇の入選作にまで押し上げたという意味の役割である!
ところで、たった今、気が付いた事でありますが、作者の若島安子さんは、本作の五句目に「山蚕の孤独」という七音を置いているのでありますが、これは、斎藤茂吉の著名な連作「死に給ふ母」の中の「ひとり來て蠺のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり」、「日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蠺は未だ小さかりけり」といった作品、或いは、同じ『赤光』所収の「ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ」といった作品を、多分に意識した上での表現かと思われるのである。
と、いうことになりますと、一見すると、「着眼点が宜しい」とか「田舎町の素朴な衣料品店のディスプレーに、夏特有の哀愁を感じさせる佳作」といったように褒めたくなったりもするこの作品は、「シヤッター通りの中で唯一灯りが点っている衣料品店の素朴なディスプレー風景に、斎藤茂吉を配しただけの凡作」になってしまうのであるが、その点に就いての、作者及び当ブログの読者の皆様方のご意見をお聴きしたいと思いますが、如何でありましょうか?
話が急転直下逆回転しますが、私・鳥羽省三は、根が正直と言うよりも偏屈なものですから、他人様の作品を評するに当たって、心にも無い悪口雑言を並べ立ててしまうような性癖を持っているのでありますが、本音では、この作品の出来栄えも「なかなかのもの」と思っているのである。
〔返〕 初夏の生田緑地を訪ぬれば出羽の山蚕の碧さ思ほゆ
(長野県・沓掛喜久男)
〇 ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち
本作の作者も亦、私と同様のなかなかの偏屈者のように思われるのである。
「ラーメン屋の前に並びし人の顔智恵はあらざり吾もそのうち」などと仰いますが、余人の「顔」はともかくとして、かく申すご自身の「顔」だけは「人一倍の智恵者の顔だ!」と思っているのでありましょう!
ところで、私・鳥羽省三は人一倍のラーメン好きでありますから、かつての横浜市横浜市都筑区の「くじら軒」のラーメンや神田の「さぶちゃん」の半ちゃんラーメンを食べる為だったら、何時間でも並んだものでしたよ。
その「くじら軒」は東京駅構内に出店を開いたりして、観光客相手に碌でもないラーメンを食わせ、「さぶちゃん」は「さぶちゃん」で閉店してしまいましたが・・・・・・。
そう、そう、今思い出しましたが、私の故郷・湯沢の仲見世の中にあったラーメン屋「長寿軒」の、かつての「ぎとぎとラーメン」の味もなかなかのものでありましたよ!
是も今となっては、懐かしい昔話となり果ててしまいましたが!
〔返〕 ラーメン屋の前に並んだ人の中で訳知り顔した本屋のご隠居
(君津市・眞田花梨)
〇 リスってさ毎日毎日のんびりでいいなと思う宿題多い日
佐佐木幸綱選の末席として既出である。
〔返〕 りすってさ、胡桃ばっか食べててさ、脂肪過多にならないかなあ!
(君津市・本間夏美)
〇 鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌作り
五句目の字足らずがとても惜しまれる!
或いは、・・・・・。
〔返〕 鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌創りは
或いは、・・・・・。
鉛筆を握ってからの時間がねすごく長いよ短歌詠むのは