臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

今週の朝日歌壇から(8月4日掲載・其のⅢ・痛み万策版)

2014年08月07日 | 今週の朝日歌壇から
[永田和宏選]

(福島市・稲村忠衛)
〇  線量を忘れかけてた三年目除染作業の通知が届く

 何を言いたいのでありましょうか?
 ①  行政の過剰サービス。
 ②  除染作業などというものはほんの形式だけの事であるからどうでも宜しい。
 ③  私たち福島市民は、あの原発事故のショックから完全に立ち直っている。
 ④  私は原発事故のショックから立ち直っている訳では無いが、それでもあの日の事を忘れ掛けていた。
 ⑤  その他。
 〔返〕  そう言えば原発事故もあったかな三年前の事は忘れた

 
(大船渡市・桃心地)
〇  瓦礫とは地球の欠片うれしくもかなしくもなくそこにあるだけ

 この作品も亦、何を言いたいのでありましょうか?
 そもそも「瓦礫とは地球の欠片」とする前提自体がつまらない。
 〔返〕  瓦礫とは地球の伊丹十三か戸籍の上では池内義弘
      本作は全く言葉の無駄遣い永田選に入選しただけ


(アメリカ・悦子ダンバー)
〇  窓ガラスの傷夕焼けに反射してバスは傷ごと日没に入る

 一見すると、感性に富んだ女性の詠んだヨーロッパの街の夕景色の描写のように感じられるのであるが、その実、我が国の近現代歌人の作品の中にも類想歌が山積しているのである。
 その一例を示すと、近藤芳美作の「降り過ぎて又くもる街透きとほる硝子の板を負ひて歩めり」、「水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中」、「まれにして架構のあひを落つる鋲人なき床に桃色に燃ゆ」などがそれであり、また、岡部桂一郎作の「まさびしきヨルダン河の遠方(おち)にして光のぼれとささやきの声」、「数条のレール光れる暁の薄明のなか紙ひとつとぶ」、「空気銃もてる少年があらわれて疲れて沈む夕日を狙う」、「うつし身はあらわとなりてまかがやく夕焼け空にあがる遮断機」、「幽暗の一カットにて板ガラス背負いし人はふり返るかな」、「手のひらを反せば没り陽 手のひらを覆えば野分 手のひら仕舞う」、また、田谷鋭作の「昏れ方の電車より見き橋脚にうちあたり海へ帰りゆく水」、「シャワーを浴む男のからだ窓よりの陽にきれぎれの虹まとふ見つ」、浜田到作の「桶水の眩しき反射はこぶべくは母に昧爽(よあけ)の坂はじまるや」、「ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に架橋をわたりはじめぬ」、安永蕗子作の「街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる」、山中智恵子作の「めつむれば天山北路一枚の青き硝子に巫医はは入りゆく」等など、枚挙に暇が無い程に思い浮かべられるのである。
 総じて言えば、「硝子や金属や光」と「傷や痛みや悲しみ」との取り合わせは、それだけで抒情性に優れた短歌のように思われるのである。
 〔返〕  ガラス戸の罅の没り日に輝きて我が十字架を負ひて帰り来


(秦野市・福島健太郎)
〇  カフェオレのマグカップ置く傍らに空爆されてガザの街燃ゆ

 「カフェオレ」なんて格好付けちゃってるが、インスタントコーヒーに牛乳を入れただけの代物ではありませんか!
 「マグカップ」なんて、これも格好付けてるのであるが、これもどうせ、ハートのマークなんかを印刷した安物の磁器ではありませんか!
 「カフェオレのマグカップ置く傍ら」に「空爆されてガザの街燃ゆ」なんて聞いて呆れますよ!
 どうせ、テレビの画面で見ただけの代物ではありませんか?
 〔返〕  秦野市の煙草祭りは止めちゃった?水無川の水は枯れたか?


(東京都・十亀弘史)
〇  沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと

 「Speech is silver,silence is golden」という言葉は、十九世紀イギリスの思想家「トーマス・カーライル(1795/12/4~1881/2/5)」の著作『衣装哲学』に見られる金言であり、それを日本語訳すると、「雄弁は銀、沈黙は銀」となり、彼「トーマス・カーライル」の生前から我が国に在った庶民哲学(格言)と合致するから、「主張することを戒める」といった考え方は、大英帝国や我が日本国に限らず、世界中に在ったものと思われるのである。
 事の序でに、「トーマス・カーライル」の残した金言の数々を記すと「健康な人は自分の健康には気付かない。病人だけが健康を知っている」、「一度でも心から全身全霊をもって笑ったことのある人間は、救いがたいほどの悪人にはなれない」、「人の天性は、良草を生ずるか雑草を生ずるかいずれかである。したがって、折を見て良草に水をやり、雑草を除かなければならない」、「失敗の最たるものは、失敗を自覚していないことである」、「変化は苦痛を伴う。しかしそれは常に必要なものだ」、「理想は我々自身の中にある。同時にまた、理想の達成を阻む様々な障害も、我々自身の中にある」、「名声は人間の偶発的な出来事であって、財産ではない」、「人間とは何か。人間とは愚かな赤子だ。無為に努力し、戦い、いらだち、何でも欲しがりながら、何ものにも値せず、ちっぽけな一つの墓を得るだけだ」、「財産は火のようなものである。非常に有能な従僕であるかと思えば、一番恐ろしい主人でもある」、「現在というものは、過去のすべての生きた集大成である」、「沈黙は口論よりも雄弁である」、「お前が実行することによって獲得した以外の知識は、所有しているとは言えないだろう」、「大多数の人々は保守的であり、新しいものをなかなか信じようとしない。しかし、現実の多くの失敗には辛抱強い」、「この世に於ける最後の福音は、<お前の仕事を知り、そしてそれを成せ>である」、「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得し得るような有能な編集者はすべて、世界の支配者ではなかろうか」、「争いの場合、怒りを感じるや否や、我々は真理のためではなく怒りのために争う」、「人は、人間を着ているものを通して洞察せねばならない。そして、その人が着ているものを無視することを学ばなければならない」等など、それこそ枚挙に暇が無い程である。
 ところで、本作の作者・東京都にお住いの十亀弘史さんは「沈黙を同意とみなす政権にもの言わざるは恐ろしきこと」などと、「今更乍ら」とでも言うべき事を仰って居られるのであるが、是を鳥羽省三流に謂うならば、「遅かりし由良之助」ならぬ「遅かりし十亀さん」といったところである。
 脚の鈍いのが亀という爬虫類の特質であり、取り柄でもありましょうが、こと、自公連立政権を相手にしている場合は、脚が鈍かったり気付くのが遅かったりすることは、何の取り柄にもなりませんから、以後、十分に注意されたし!と言っても、今から注意したからとて、それこそ「遅かりし十亀さん」でありましょうか?
 〔返〕  寡黙なる評者を信じること勿れ彼は単なる追従者なり


(三郷市・岡崎正宏)
〇  銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき

 「<銭湯><に>於いて<ラムネ><が>何を<売ってゐた>のでありましょうか?」などと揶揄されると、「トサカに来た!」などと言って怒る方も居られましょうが、「銭湯でラムネを売っていた時代弾ける如く九条ありき」と言えば済むところを、殊更に「銭湯にラムネが売ってゐた時代弾ける如く九条ありき」などと窮屈な言い方をする必要はありません。
 格助詞「に」の用法としては、「時を指定する用法」などと共に「場所や範囲を指定する用法」も在りますから、「銭湯にラムネ(が置かれていた)」という言い方をしても、格別に文法的な誤りとするべきはありません。
 しかしながら、この「に」が格助詞の「が」と共に用いられて「銭湯にラムネが売ってゐた時代」などと言われて仕舞うと首を傾げ、一言、二言苦言を呈さざるを得ません。
 と言うのは、格助詞「が」には、「体言及び体言に相当する語に付いて主格を表す用法」と共に「体言及び体言に相当する語に付いて希望や能力や好悪の対象になるものを表す用法」、即ち「林檎が食べたい」「あの女が好きだ」といった言い方もありますが、「ラムネが売ってゐた時代」という言い方は、明らかに是とは異なる言い方であり、格助詞「が」の用法の誤用である、と認定せざるを得ないからである。
 そもそも、「林檎が好きだ」とか「あの女が好きだ」とかという言い方自体、「林檎が何を好きなのか?」とか「あの女が何を好きなのか?もしかしたら、セックスかも?」などとからかいたくもなってしまうのである。
 〔返〕  銭湯でラムネを飲んでいた時代 憲法九条キラキラしてた


(舞鶴市・吉富憲治)
〇  この狭き町にも折に徘徊のうわさ流れて紫陽花盛る

 我が国は世界有数の老人大国であるとか?
 だとしたら、面積が狭かろうが広かろうが構わずに、高齢者の徘徊する姿が見られるはずである!
 それにも関わらず、かつてはアメリカ大陸を股に掛けて闊歩していた吉富憲治さんが、こんなクダラナイ歌を詠むなんて、一体全体、どうしたことでありましょうか?
 〔返〕  この狭き町にも折に俳諧師来たりて弟子と歌仙など巻く


(埼玉県・酒井忠正)
〇  遠泳の列に舟寄せ口あくる生徒はげまし飴放りやる

 水泳教室の先生方も「飴と鞭の使い分け」をしなければならなくなったのでありましょうか?
 埼玉県には海がありませんから、本作の題材となった光景は、九十九里浜か何処かで行われた水泳合宿での一風景でありましょう。
 〔返〕  ダ埼玉、海も無ければ金も無し最寄りの海と言ったら房総


(東京都・上田結香)
〇  「友達に戻ろうか」とは世界一むずかしいことをさらりと言うね

 今週の「永田和宏選」中の白眉とも言うべき傑作である。
 口語短歌は、さらりとした味わいが取り柄である。
 こんな傑作を東京都にお住いの上田結香さんは、よくも「さらり」と詠み上げたもんだ!
 おら魂消た!
 〔返〕  友達に戻れたならば苦労せぬ処女の私に帰してお呉れ


(アラブ首長国連邦・湯浅理乃)
〇  見えないぞ砂が舞っててビル群がそろそろ暑くなる季節かな

 砂漠のど真ん中の人工都市である、アラブ首長国連邦のドバイ下んだりまでのこのこと出掛けて行って、「見えないぞ砂が舞っててビル群が」などと言ったって、どばい無理な話ではございませんか?
 それに「そろそろ暑くなる季節かな」なんてことは、まるで無駄言である!
 この日本国だって、連日連夜の猛暑日なんですから!
 安倍ちゃんに暑さ防衛対策を講じて貰おうかしらん!
 〔返〕  見えないぞ我らの孫の将来が!徴兵制度の復活かしらん!


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